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喜多圭介のブログ

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辻邦生著『永遠の狩人』

2008-04-12 17:53:24 | 文学随想
辻邦生は1963年『廻廊にて』で第4回近代文学賞、1968年『安土往還記』で芸術選奨新人賞、1972年『背教者ユリアヌス』で第14回毎日芸術賞、1995年『西行花伝』で第31回谷崎潤一郎賞。

おそらく作者が息子の役をして、アーネスト・ヘミングウェーの小説作法や文学精神を語ったのだと想像するのだが、あるいは息子の著書からの創作かも知れない。これも原稿40枚ほどの短編。

  そのくせ決して仕事をしていないというわけではない。海が白々と明けてくる頃、起き出して、冷たいシャワーを浴びると、すぐ書斎に入る。それから十時頃まで鉛筆で白い原稿用紙に、直立した、頭でっかちな書体で、なぐり書き風に書いてゆく。そんなとき、行が右下りになるのが普通だ。若い頃、新聞記者をしていたときから、原稿は、一度ハンドライティングで書き、それからタイプライターで打ち直す。もちろんそれがパパの推敲の方法だ。決してハンドライティングの初稿を渡すことはない。タイプ原稿も散々に手が入っている。まっ黒になって読めないとき、もう一度タイブライターで打ち直す。時には、それがまたまっ黒に訂正され、書き込みされる。
 パパの親しい編集者が無理に原稿を取ってゆかないと、結局いつまでも加筆訂正が繰り返される。パパは、それ以外に作品をよくする方法はない、と、ぼくにも語った。
「いいかい。君も作家になるんだったら、これ以外に、いい作品を書く方法がないことをよく知らなければ駄目だ。だからといって、いじけていてはいけない。多少乱暴でも滅茶苦茶でも構わないから、とにかく書きたいことを終りまで一息に書くのだ。一息に、だぜ。これが大事なんだ。長篇の場合には、一日二日というわけにはいかない。一年かかるか、二年かかるか、それはこちらの問題じゃなく、神さまの問題だ。こちらがやるべきことは、その期間、一息に、というあの呼吸を忘れないことだ。わたしが『武器よさらば』を書いたときは、毎朝起きると、原稿用紙にむかって、午前中、ひたすら書きつづけた。そして、ある塊りが吐き出されたところで、筆をとめた。が、その時は、明日書くことは胸の中にあるんだ。それを、その日のうちに書くなんてことはしない。エネルギーと書く素材を明日のために貯えておくんだ。そして明朝、新たな獲物に躍りかかるように、一息に、書いてゆく。こうして終りまで、毎日、一息に書く状態がつづいてゆく。そうすると、ある朝、終りが、むこうのほうから、勝手にやってくるんだな。そこで、こちらは、作品を書き終えたことに気がつく。だが、それはまず赤ん坊を産んだだけと同じだ。それからが、むしろ本当の創造かもしれない」
 パパが機嫌のいいときに喋ってくれたこの言葉は、ぼくには忘れられない。きっとパパは朝早くから書くのに没頭して、自分がどこにいるのかも忘れていたのだろう。ぼくはたしかパパが〈書く至福〉と言ったような気がするが聞き誤りだったろうか。とにかくそのときは、パパは書いていて至福を手に入れていたのだと思うり パパがハンドライティングで、一息に書くという書き方をその後もずっと守ってきたのは、この〈至福〉の思い出があったからではなかろうか。



  しかしパパが人なかを避けたのは、人嫌いからでもなく、傲慢さからでもなかった。パパの考えによれば、都会や人混みは詩をもたらすことがあまりにすくないのだ。パパはつねに詩を求めて生きていたといっていい。そしてその詩とは、パパにとっては〈至福の時〉を感じることだった。それは〈至福の時〉と言い直してもいいだろう。パパがぼくにそう言ったことがあるのだから。
「君はいきなり作品を書くべきではないね」あるときぼくが短篇を書きあぐねていると告白すると、パパはウイスキー・ソーダを飲みながら言った。「君は小説を書く前に、人生を生きなければいけない。だが、誤解して貰っては困る。わたしは世の小説家が言っているように、人生の雑多な経験を積めと言っているんじゃない。ホテルのドアマンをやったり、タクシー・ドライヴアを経験したり、女郎屋のマネージャーをしたりすることは、小説家にとってマイナスになることはない。だが、それが普通の人間たちがやるように、単に経験を積むだけだったら、そんなことはやらなくたって構わない。小説家にとって最も大事なことは、プルーストのように、生というものを深く生きることなのだ。わたしがアフリカで猛獣を追ったり、スペインで闘牛に酔いしれたり、ここで釣りに熱中したりするのは、生を垂直に深く生きるためなんだ。人は小説家の贅沢な道楽というだろう。だが、ここには、他人が入りこむ隙間がない。わたしは死と直面している。ここでは、死は孤独の別名だ。わたしがいう生の深みとは、そこでしか顔を現わさない。だから、わたしはあえてアフリカで狩猟に熱中した。ハバナでは釣りにのめり込んでいる」



  パパの短いシンプルなフレーズはセザンヌの短い力強い筆触(タッチ)を思わせた。セザンヌの筆触(タッチ)も一つ一つは並べられているだけだが、それは物の決定的な面を表わし、相互に堅固に結びつけられている。林檎がごつごつした粗い筆触(タッチ)で描かれると、その林檎は、存在する物の壮麗な輝きに見える。林檎は単なる果実を超え、水晶のように硬くきらめく存在の歓喜の結晶に変ってゆく。セザンヌの静物画は結晶する歓喜の歌なのだ。パパの短いシンプルな文章も、同じように、フレーズの流れのなかに、パパが陶酔と呼んだ生の高揚感が脈縛っている。それがこちらに直接(じか)に伝わってくる。
 パパがずっと前に、これも機嫌がいいとき(しかしそのとき海はかならずしも機嫌がよくなくて、堤防にもの凄い波を打ち寄せていた)ぼくに話してくれたことは、この高揚感の直接の伝達と関連があるのだろう。
「いいかね。君が物を書くときには」とパパはテーブルに身を乗りだすようにして言った。対象を描写するようなことをしてはいけない。わたしたち小説家は何か物語を語る人間と考えられている。たしかにそういう面を持っている。だが、ストーリーテラーであるだけでは、小説家は十分ではない。ストーリーを書くのは、それが強い感動を伝えてくれるマシンだからなんだ。物だって人物だって、それが感動伝達体であるから、それを書くんだ。物をうまく描写したって、感動を盛りこんだ容器でなければ、何にもならない。小説家とは、感動をストーリーや物で表わす人間なんだ。わたしが永遠を生きるように言ったことがあるね。それは、永遠とは、陶酔の中に開いている青空のようなものだからだ」



無名でも企画出版にのりやすい原稿

2008-04-08 16:15:25 | 文学随想
こんなことがわかっていたら私もとっくに印税暮らししているのだが。

小説にかぎらず少し考察してみた。以下の5要素をぼちぼちと加筆。

■真剣味
お金持ちの手慰みで書いた物はどのジャンルであろうと、読者を魅了しない。むしろ自己顕示の嫌みが目立つ。

昨今、真剣味の親玉は車谷長吉だが、彼の真似の出来るひとは少ないし、する必要もない。彼は真剣味というよりは止めるに止まらない病的な異常執心。太宰治の躁鬱とも様子が異なる。「鹽壺の匙」で三島由紀夫賞、芸術選奨文部大臣新人賞受賞した2年後、50歳のときから幻聴、翌年「赤目四十八瀧心中未遂」で直木賞を受賞したころからは幻視、幻覚の強迫性障害。いまでも精神科医のアドバイスと薬を手放せない。だれもが異常になれるものでもない。彼の文学は彼の文学。奥さんによって自殺が抑止されている。

■斬新な題材
昨今は海外に常住している日本人も多く、この人たちの書き物はブログに多いのだが、こちらが興味惹くような内容は少ない。観光地のことはだれもが同じような内容を書いている。もっと視点を変えればと思うのだが。一貫性がないというかテーマがなく、つまみ食い。これでは本にならない。

小説も同様。似たり寄ったりの題材と似たり寄ったりのストーリー。個性が見られない。

世相は日々似たり寄ったりの現象が継続されているが、視点を変えると新奇な発見がある。

時を得た内容。いまならチベットの内情をえぐり出した物とか。ただし取材活動にいのちの保証がない。私が人物として書いてみたいのは、あの〈時のひと〉だったホリエモンの子ども時代から事業家になるまでのこと。書けば売れると思うが、こういうとき名刺代わりの本を一冊でも出していないと取材ができない。

小説にかぎらず、新聞の書評にピックアップされるレベル。

観光小説は売れやすい。なぜなら地元の読者が買うのと、地元の行政や観光協会の協力を得やすい。観光小説の先駆けは松本清張の社会派推理小説『ゼロの焦点』の能登金剛、これで能登半島ブームが興った。水上勉の『飢餓海峡』は下北半島ブームに。ただし陳腐な内容に地名を入れただけというのではブームにならないが。

読まれる本ということでは、出版社の編集担当の意見も参考になる。

■表現力
筆者の個性がどう表されているかにかかっている。平凡な表現では食いついて読もうという気にはならないが、こけおどかし的ではゲーム感覚、子どもには読めてもおとなは読まない。

■読ませる工夫
テクニックの要るところで、多読しているひとほどこのテクニックを修得できるかも。その眼で意識的に読書していれば。

■書店で手に取らせる工夫
出版社の仕事。製本としては表紙カバーのイラストと帯のキャッチコピー。強力な販売手法、コンタクト。

Hのこと

2008-04-06 10:45:36 | 文学随想

30年来の文学の知人Hが、昨年7月に刊行した『海の声』という単行本を送ってくれていたのを、体調の悪かったこの三日間に読んだ。届いた当座に読まなかったのは創作に明け暮れていて、他人の本を読む気持ちでなかったからである。 30数年前英国から帰国した私は、無性に小説を創作してみたくなったが、今ひとつ創作のことが呑み込めていなく、新聞に大阪文学学校の生徒募集があったので、一年間昼間部に通ってみることにした。週に一回のクラスだった。この文学学校の事務局にいたのがHだった。 あるとき、おそらく一年間の卒業式の帰路のことではなかったかと思うが、梅新の喫茶店に北川荘平、竹内和夫、奥野忠昭、沢田閏(同志社文学部教授)、Hと私がいた。前者四人は文学学校のチューターで、北川、竹内、奥野の三名は芥川賞候補作家だった。 その夜私は西宮近くのHのアパートに泊めて貰った。それまで特別昵懇でもなかったが、阪急電車内で少し話していると、Hは出雲出身、私は一時期松江で育ったので、同県人意識というのか、彼が泊まっていく? と誘ってくれたので、2DKに泊まることになった。アパートに着くと女性が居たので、彼は結婚か同棲かしていたことになるが、詳しくは訊かなかった。 翌日二人が三宮の近代美術館にメキシコの画家「シケイロス」展を観に行くというので、それにお供した。シケイロスは社会主義者であった。 シケイロスの油絵を鑑賞後、三宮の喫茶でコーヒーを飲んで別れた。ただこれだけの付き合いだったが、彼と私は同県人意識と同年、文学に志す人物として、なぜか私の記憶から消えなかった。文学活動の場も違っていて、その後の交流はなかった。 それから十五年後頃のある夜、大阪で催されたパーティーの二次会でHと再会した。長身、痩身、頬の落ち込んだ長い顔の青年が、恰幅の良い体格になっていたので、再会したときはわからないほどの変貌だった。 Hはいまは父親の跡を継いで東本願寺の僧侶兼大阪文学学校の講師? でないか。 そのHからの本である。再会後、彼からは属している同人誌が何回か郵送されてきたので、彼の文章は読んできたが、小説らしき物はこの『海の声』が初めてで彼がどんな小説を創作したのかと愉しみでもあった。が長編『海の声』一本かと思っていたが、「海の声」、「群声」、「黄土断片」、「祭りの夜」の中・短編4本の合本、256頁、定価2200円。 読後の印象は期待はずれ。このうち「海の声」がいちばん読ませる内容であったが、ストーリー展開としては尻切れトンボ、なぜこれ一本で256頁を物にしなかったのかと、Hの根気のなさに落胆した。根気のなさは他の三本も同様で、小説として見た場合、とれもこれも中途半端、これでは読者を欺瞞したと酷評されても仕方がないのではないか。 彼の30年間の結実がこの程度だったかと思うと、実に残念な気持ち。 まず「海の声」の書き出しから。Hの文体は野間宏の影響がある。

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       1、峠

 

曲がりくねって長く、埃っぼい山道につづく峠を、いくつも越えた。あたりのまだ熱っぽい空気をふくむ山々から、カナカナ蝉の長く尾をひく、澄んだ鳴き声が湧きあがり、それは私の耳奥(みみおく)で幾重にも反響して、胸の奥へと落ちた。 敗戦後四年目、私が小学一年生のときであった。夏半ばすぎ、山陰・島根の父の郷里である、海辺の寺へ向かう最後の峠を越えたとき、空気のなかに急に潮の匂いが混じり、視界がいっべんに開け、そうして全身が解き放たれる感じが襲ってきた。私は大きく一息つくと、あたかも糸をたぐり寄せるように潮の匂いを鼻に引きよせ、坂道をいっさんに下った。すると後ろから「おーい…」と私の名を呼ぶ声がし、「そげん急がんでも、海は、もうそこだがね-」と、中学生になつて声変わりし始めた弘志(ひろし)おじの声が、風と風のあいだを縫うように聞こえてきた。

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中程

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意識しようとしまいと、日に数回、その空間のところから、海辺の駅を発つ機関車の、あのピイーツという音が聞こえた。叫び声に似たその音は、鐘のない空間から、いくつもの束となってこちらへ流れこんできた。しかし空間を見やりながら、あの音が聞きたい、そろそろ叫べ! と待っているとき、決して聞こえてきはしない。松の葉を通り抜ける風が、鐘楼の石段を吹き抜け、幾本もの松葉を落してゆくだけだった。 私は何を考えていたのだろう。自分の体が、あの鐘のない空間のように感じていたに過ぎない。なぜ鐘がないのか、ぶら下がっていないのかということさえ、そのとき考えてはいなかった。日ごろ千恵子おばから、そこにあった鐘は戦時中、祖父が軍に供出したまま戻ってこないということを聞かされていた。供出ということ――私がもう五つ六つ歳を喰っておれば、軍に供出した鐘が、鉄砲の弾に化けたことくらい分かっていたかも知れない。あるいは、もっと歳を喰っておれば、その弾が銃の先から火を噴いてまっすぐ人間に向かって飛んでゆき、瞬時に突き刺さって肉を割き、血を噴き出させ、その人を死に至らしめたことが分かっていたかも知れない。

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彼らしい文体ではあるが未整理な、思わせぶりな文体。主人公である小学一年の「私」と作者である私が同化し、かつある思想を読者に押し付けている。たとえその思想が真実であっても主人公と作者が同化して、それを表現するとなれば、私の創作態度から見ると下手な小説であるということになる。――あるいは、もっと歳を喰っておれば、その弾が銃の先から火を噴いてまっすぐ人間に向かって飛んでゆき、瞬時に突き刺さって肉を割き、血を噴き出させ、その人を死に至らしめたことが分かっていたかも知れない――などの表現は、長編の中で自然な描写として描くべきことで、観念を述べるのであれば、小説の創作は楽な仕事となってしまう。 Hにこのことがわかっていないのか、そのことが残念である。

以下は「群声」のワンシーン。この表現も小学一年の子どものシーンとすれば思わせぶり、作者が同化した表現、文体である。
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このときだ―四方全山じゅうの、どことも言えぬ、ずっと遠くの隅のほうから、音が湧き起こったのは。最初、濁った、ちいさな音だった。やがてそれは雲の群れのあいだから、丸っこく、太く、粘っこい響きに変わって近付いてきた。年に二、三度しか聞くことのない異国の飛行機がもたらす金属的な響きであるのは、すぐ分かった。近付いてくるにつれ、あたかも雲と雲とのあいだに大きな洞があって、そこをかいくぐり発されるような、持続的で重苦しい、ぶきみな高音へと変わっていった。私は、機影が真上にくるその姿を確かめたいと待って、あせった。

響きが、いままで聞いたどの音よりも大きく、そして一つではなく複数のものであるのが分かった。待たせるな…待たせるな。私は長い時を耐える。…と、神戸川を両側からせめぐ、ついたてのような山と山との上に乗っかる、雲と雲とのあいだの隙間にキラリと輝く、十字型の翳(かげ)を見た。機体の上方は西陽に染まり、下方は影をひきずった。私が目を奪われ、「源おっつあん、あれ…」と言おうとした瞬間、光る機影は重苦しい高音とともに、分厚い雲の中へ飛び込んでいった。
「おっつあん!」私は短く発した。

声が源さんに届いたのを確かめ、ふたたび空を見上げたとき、こんどは二機が現われていた。二横はキラッと鋭い翳をはなって雲の向こう、青みを残した隙間を飛び、二磯もたちまち雲と雲とのあいだへ滑り込んでいった。ふたたび締め付ける高音が落ちてきた。

瞬時に消えた、三機。翳と重苦しい金属音とを残して去った、三機。あれはどこまで行くのだろう。山の上、雲の上、上空はるか、あれはどこへ行くのか。濁音と高音とが入り混じった響きは、神戸川をもっとも底とする盆地で跳ねかえり、ふねんご淵の面で弾け、山々のひだに当たって渦巻いた。

すると、数日前の陰翳がよみがえった。……雲のまったくない空を短時間、山の端から端まで飛び去った、光り飛ぶ一つの機影。それは、海辺の村、父の里の寺の、南に植わっている曲がりくねった松と松のあいだから見える、はるか向こうの空を横切り、去ってゆく黒い翳だった。本堂で営まれている葬儀―照代おばの魂は空のどこへゆくのだろうと私は考えながら、いちょうの樹のわきで、光る機影を日で追った。旧「満洲」から引揚げ貨物船の重苦しい船底で、不安をえびのように抱えて眠る私の手を、決して放さなかった照代おばの、その分厚い手さえも小さな骨となって壷に入ってしまった。照代おばの陰翳、おばの表情、おばの声は、どこへ行くのだろう。

結核で横たわっていた照代おばの苦しげな表情が、胸奥からよみがえるのを抑えこんで私は、いま馬車の上で、山々の連なり、雲の群れに目を走らせる。だんだん弱まる響きは、三機が向かった山並みの上空で、なお長く尾を引いた。

三瓶山! そう、あの三機が飛んでゆく先は、山並みがつづく果て、いま雲の中にあつて姿は見せないが、他のどの山よりもずっと高い三瓶山の方角に違いなかった。
「おっつあん! あれ、三瓶にゆくんか。もっと飛ぶんか。おっつあん!」
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Hはこのような場面に感情移入しすぎて、結果としては根気が続かず、尻切れトンボの作品にしてしまう。

これだけのなかに米軍戦闘機三機の出現と照代叔母の葬儀と照代叔母に手を引かれながら満州から帰国したこと、三機の戦闘機が三瓶山に飛んでいったことが詰め込んで書かれており、主に三機の出現にイメージのウェイトが占められており、他の二つとの関連が読者に伝わらず、混乱を与えているだけである。

書くのであればそれぞれのことをもっと丁寧に書かなければ、読者にこのシーンの意味が伝わらない。

それと三機の出現をこれほど重厚に描く意味合いもわからない。私なら「三機の米軍戦闘機が飛来し、不気味な爆音をあげ、三瓶山に消えていった。その先には朝鮮半島がある」程度にしたかも。


なかにし礼の直木賞受賞

2008-04-05 22:01:43 | 文学随想

私が長編小説の創作に取り組んだのは、なかにし礼が『長崎ぶらぶら節』で第122回受賞したときからであった。この小説を『オール讀物』平成10年/1998年7月号で読んだ。このときなかにし礼は61歳であった。


作詞家なかにし礼はとみに有名であったが、作家デビューはこの作品の一年か二年前に執筆した『兄弟』で、この作品も第119回直木賞最終選考に残ったが、受賞にいたらなかった。なかにし礼には強烈な個性、破滅的生活の兄がいて、この兄との骨肉の争い、悲哀を描いた物だが、肉親をこういう形で描いた作品は作者自身が消化しきれなく受賞するには難しい面がある。この辺の事情を選者の黒岩重吾は「この作品も受賞圏内だったが、最終決で推しかねたのは、兄に対する主人公の愛憎が少し不鮮明だったからである。もっと裸になって欲しかった」と述べた。


受賞作『長崎ぶらぶら節』については、黒岩重吾は「人間に真っ向から取り組んだのが、なかにし礼氏の「長崎ぶらぶら節」である」と述べ、渡辺淳一は「正直いって、強い作品ではない。(中略)他の四作の、あまりにゲーム感覚的な小説に比べて、この小説はたしかに人間を見詰め、人間とは何かと考える姿勢があり、それが結果として他を大きく引き離す原因となった」と述べた。


私も『長崎ぶらぶら節』に特別な感銘はなかったが、長崎ぶらぶら節の歌詞を発掘する男と協力する芸者の人間関係や一人の芸者の姿がくっきりと浮き彫りされていたこと、芸者がお座敷で四股を踏む見せ場があったことなどが、受賞に繋がったのは確かだった。


なかにし礼が渾身を籠めて描きたかった世界は受賞後の満州での体験である『赤い月』であっただろう。この作品には私も感銘を受けた。


作詞家だけに読者への見せ場、酔わせ処を心得ているのはさすが。長編小説は一本調子では駄目で、二箇所くらいは見せ場を作り、それに向かって上り詰めるように描いていく、それが大きなポイント。


このときから私も純文学的な意味での表現とは何かではなく、大きな物語をそのときどきの私の心理をベースに描いてみたくなった。


本当の創作という物をやってみたくなった。そのために主人公を私に似た男ではなく女にした。女を描いた第一作が『断崖に立つ女』であったが、歌人馬場あき子さんの一首に巡り合ったことが、作者の私を超える予想外の展開になった。


なかにし礼の受賞は、新世紀に入ってからの私の生きる支えになったような気がする。


春先の風邪

2008-04-05 13:15:46 | 文学随想
若い頃は風邪を引かない、花粉症もないを自慢していたが、五十歳を超えてからは、春先にたまに風邪を引くようになった。昨年は肺炎気味でちっとしんどかった。今年は大阪の出版社に出掛け、土産に原稿のゲラの半分を頂戴したので、戻ってから毎日ゲラ校正をしているうちに首筋が凝り始め、そのうち風邪引き症状で、ここ二三日、頭がどんより、熱っぽい体である。

こういうときは無理をしないで布団に横になり、本を開くようにしているが、十五分もすると眠っている。体に疲れが溜まっているのだろう。眠ると少し体が軽くなるが本調子ではない。

ゲラ校正に根を詰めすぎたこともあるが、ゲラ校正は一字一句のミスも許されない、製本作業一歩手前の段階であるから、根を詰めて当然でもあるが。

本になりさえすればよい、という気分ではなかった。初めて本にする以上、せめて直木賞の候補作くらいには行って欲しい、そのためには細心の努力を惜しんでは悔いを残す。余分な字句の削除、改行、ちょっとした加筆。

さらに出版社の編集長から二箇所ほどの指摘があったので、そこの補強を思案した。

ゲラ原稿に赤字を入れながらの作業だったが悪筆なものだから、これでは出版社の担当が困惑するだろうと考え、アウトラインプロセッサーで校正したものをWORD原稿にもして電送しておいた。

目下出版社のほうの書籍スタイルに流し込んでいる作業。

万全を期したつもりでも一人の人間のやること、おそらく数ヵ所はミスが残っているかもしれない。

本は唯我独尊、一人で完成する物ではない。

風邪は薬を服用しながらの日にち薬と気長に構えている。数年前に若い作家の鷺沢萌が突然トイレで首吊りして死んでしまったが、ちょうどあの頃、鷺沢は風邪を引いており、ドリンク剤や錠剤を濫用気味に服用していた。薬のチャンポン、頭脳が錯乱気味になり、衝動的自殺かもしれない。マンションで犬一匹との共同生活、犬は彼女の危機を救えなかった。

これからいい作品を創作するだろうと思っていただけに、惜しい死に方だった。

企画・共同・自費出版

2008-04-03 11:09:53 | 文学随想
新風舎が原稿を持ち込んだ筆者等によって訴訟を起こされて倒産した。いずれそんなことになるだろうと予想はしていた。自費出版する考えのない私は、一度ここが開催していた文学賞に原稿を送ったら、最終選考に残り、社長名の入った出版化推薦作という賞状まがいのものが届いた。出版化推薦作というのだから出版社全額負担の企画出版かと思ったが、出版社と作者折半の共同出版であった。アホらしくて返事も出さなかった。

たとえば1000部発刊する経費を140万とすると70万、70万の折半であるが、一時期製本業をやっていた私は、製本費がどれくらいの経費かはわかっているので、新風舎の共同出版は作者が支払った70万丸儲けのシステムであることはすぐに見当が着いた。

この点は自費出版大手の文芸社も似たものであると考えたほうがよい。

文芸社は時折新聞三段抜き程度で自費出版本と想像しうる本をPRしているが、おそらく最初から5千部、1万部ねらいで、作者にも新聞PR経費が被せられていると思われる。売れなかったら作者の負担は大きい。売れない本を作者が手元に引き取ったときの自宅を想像したら、かなり滑稽であろう。

共同出版を持ちかけてきたときは、向こうの編集が美辞麗句を並べて、作者の原稿を誉めあげる。つまりこれが彼女らのセールス仕事なのである。どういうわけか自費出版の編集は教養のありそうな若い美女が担当しているから、男性諸氏は釣り上げられないようにご用心を。

企画出版は出版社がこれは社が全額負担してもひと儲けできると判断した原稿に対してで売り込まなくても、出版社が着眼してくれる。が、現実にはネットに作品を公開していても声を掛けられることは滅多にない。大手の出版社の編集ほど多忙で、作品探しのネットサーフィンはしていない。

発刊部数も出版社が利益を出すには最低3千部から5千部。発刊して売れ行き好調なら勢いの度合いに応じて、さらに3千、5千、1万部と増刷り発刊。増刷りすればするほど出版社は儲かり、作者にも印税が振り込まれる。

ただ企画出版でも小零細になると発刊部数の一割、5千部発刊なら5百部は定価の8割程度で作者に買い取って貰う条件を付けているところもあるが、これは良識の範囲内、出版社としては作者にも販売協力して欲しいという意向と、好意的判断が下せる範囲であろう。

しかしいずれにしても売れそうもない下手な小説に、企画出版の話は来ない。文学賞でも受賞して、顔を洗って出直せである。この辺のことは大手より小零細ほど判断が厳しいのは当然。社運を傾けての企画出版。

小出版社のワニブックスのように『ホームレス中学生』(これは小説ではないが)で一発当てれば出版社もほくほく顔。無名の詩人、金子みすヾブームを巻き起こしたJULA出版局も同様。ここは金子みすヾ詩集に対しての商売が実に巧かった。仕掛けに仕掛けた印象がある。

自費出版、本来自費出版は作者が全額負担しての非売本が建前。非売だから定価は付けない。故人の遺稿を遺族が製本して、葬儀に参列してくれた人たちに後日寄贈するとかのものであり、自費出版本が書店に置かれること自体おかしいのであるが、昨今の飽食文化のなかでこれがビジネス化された。下手な小説でも本人が発刊したいというのだから、出版社の編集は恥ずかしくない程度に〈てにをは〉指摘して直させた原稿を発刊するが、売れないとわかっているので1000部お勧めが多い。部数が増えるほど作者の負担は大きく、出版社の利益も大きい。

とにかく出版社にとって自費出版ほどありがたい客はないのである。

文學界新人賞レベルのことなど

2008-03-31 11:15:33 | 文学随想
このレベルの話題は昨日少し書いたが、鼻持ちならない高邁な文学精神もあるが、これと違って創作姿勢が確立していないまま、たまたま受賞してしまって、その後創作技倆の未熟から創作できなくなった例も数多いと推察できる。この現象は最終選考に残った5作が凡作ばかりで、そのなかからあえて受賞作を選んでしまったときに起こりやすい。

凡作ばかりのときは選考委員の推す作品もまとまらず、そのなかで2名ほどの委員の一致した作品を強く推したときに選ばれやすい。

受賞して有頂天になったものの、自分なりの創作姿勢や技倆が固まっていなかったので、ほかの作品を書き溜めていない、それでもと編集部に原稿を送ると、編集委員は仕事柄読み手であるから、おかしい箇所があればその指摘をする。しかし技倆未熟なためにその指摘に作者が応えられない。

こういうことで創作姿勢や技倆が未熟な受賞者は、以後何とか二、三作は編集部のお情けで掲載して貰えるものの、その後は沈んでしまう。

それに受賞者のなかには給与生活の中でたまたま受賞、作家生活一本で暮らしていく自信が着いていない場合、以後の創作が出来なければ給与生活を継続すればいいので、最初から高邁な文学精神など持ち合わせてもいない。考えようによっては鼻持ちならない高邁な文学精神の持ち主より、嫌みな面は少ない。

二、三十代の新人賞受賞者が以後も作家生活一本で暮らすのは、なかなか困難なことである。

本当に作家生活に憧れるのであれば、「オール讀物」、「小説現代」の新人賞をめざすか推理小説や時代小説をめざすほうがメシは食いやすい。メシが食えなければさらに高みの創作に向かえないのであるから。

三、四十代以降は組織の中や人中での人生経験を積み重ねながら、直木賞めざして気長に、忍耐力強く臥薪嘗胆したほうが賢明。

鼻持ちならない高邁な文学精神

2008-03-30 11:07:30 | 文学随想
私は若い頃から他人の意見には耳を傾けるほうだった。

というより6歳のときに父が病死してから叔父の家に預けられたりして育ったものだから、叔父叔母たちの意見に耳を傾けざるを得なかったのであるが、この後天的性向といえるものが、今日までの私を支えてくれたのではないかと思うことがある。

もちろん意見にはその時々の自分の気持ちに噛み合わない、そぐわない、ムカッときて反撥したいものもあったが、聞く態度が先に育っていたので、聞いた途端に瞬間湯沸かし器のように反撥した態度とか殴りかかるといった激情が沸騰することも少なかった。

また私の気持ちにそぐわない意見でも、このひとは私のことを考えて好意的な態度を表してくれているのだと受け止めるこころ、このことも中学生あたりからは育っていったように思う。

こう回想すると打たれ強いほうかもしれない。

小説を本として刊行するまでには、大勢の好意的な人間関係の協力を得ている。若い頃は自分の高邁な(?)文学精神で文学に立ち向かっていると思いがちで、他人の意見などに耳を貸さない新人賞作家もいるらしいが、結局編集者と喧嘩別れして、原稿依頼の来なくなった新人が何人もいる。

鼻を高くしていることに気付いておらず、今日の出版社は編集者は、といった悪罵を叩くことが、その新人の高邁なる文学精神である。私のように他人の中で育ってきた者にはその新人こそ〈お坊ちゃん〉、〈お嬢ちゃん〉である。

そういうひとは一度自分の胸に手を当てて考えてみたらいい。自分は子どもの頃から親の世話にならず、一人でメシの糧を得て成人したのかと。親がかりで育ったのではないか。これが若いうちなら若気の至りですむが、三四十代でこれでは、人間成長がないと批判されてもしかたがない。

小説を本として刊行する過程で、まず始まるのは自分の原稿を刊行してくれる出版社の編集長、編集担当との遣り取りである。

このとき作者としてどういう態度を採るか、これはその作品への作者の思い、考えが何処にあるかで多様であるが、『断崖に立つ女』にかぎっては私の思いはわりと単純で、大勢の読者を獲得する、そして読後、読者のこころになんらかの余韻を残せたらそれで成功と考えている。換言すると売れる小説の完成を目指しているのであって、この点では出版社の意向と合致する。

売れそうもない小説は滅多に企画出版にはのせない。出版社が売れると判断したから声が掛かるのである。売り込んでみても売れない内容に出版社が赤字覚悟で頷くことはない。これが資本主義社会の出版社の態度である。大出版社はコミック雑誌で利益を上げてその一部を赤字部門の純文学にまわすが、小零細はそんなゆとりはないから、審査の眼は営業サイドからひじょうに厳しい。

出版社のアドバイスというのは、ほとんど売れるための本にしていくことに尽きるのであるが、そのためにはストーリー展開で、この主人公の行為を裏付ける状況や心理描写が欲しいといった注文が付く。先に挙げた自負心の強い新人はこれに反撥、ムカッとくるのである。

しかし私は大勢の読者に読んで貰いたいために『断崖に立つ女』は創作したのであるから、ムカッとくるどころかまったく逆で、なるほど、なるほど、確かにこの面はもう少し加筆や伏線がないと読者への説得が希薄だな、と納得することが多い。

それをどう加筆するか描写するかは作者の創作への考えもあり、出版社が望んだとおりになっていないこともあるだろうが、耳を傾けたという表明は作品の中に入っている。

こういうことで一冊の小説を本として刊行するには編集者の協力、尽力も必要である。

そしてこのこと以外に隠れた友情とか温情、善意といったものに包まれた中で、一冊の小説が世に出て行くのである。

けっして鼻持ちならない高邁な文学精神でその作家が世に出ているのではない。たまたま幸運にも世の中に出ても鼻持ちならない文学精神は、すぐに見捨てられる。

これもいまだから書けることで、私も若い頃は高邁な文学精神で流行作家や出版社を罵倒してきた時期はある。

しかしいまの私の年齢でこうなら年輪を重ねたことにはならないのでないか。

◆このうち何人が現役で活躍しているか。読者のご存じの作家は?
第72回(1991年) - みどりゆうこ「海を渡る植物群」
第73回(1991年) - 市村薫「名前のない表札」
第74回(1992年) - 安斎あざみ「樹木内侵入臨床士」、大島真寿美「春の手品師」
第75回(1992年) - 伏本和代「ちょっとムカつくけれど、居心地のいい場所」
第76回(1993年) - 高林杳子「無人車」
第77回(1993年) - 篠原一「壊音 KAI-ON」(史上最年少)、中村邦生「冗談関係のメモリアル」
第78回(1994年) - 松尾光治「フアースト・ブルース」
第79回(1994年) - 木崎巴「マイナス因子」
第80回(1995年) - 青来有一「ジェロニモの十字架」
第81回(1995年) - 塩崎豪士「目印はコンビニエンス」、清野栄一「デッドエンド・スカイ」
第82回(1996年) - 該当作なし
第83回(1996年) - 大村麻梨子「ギルド」、最上陽介「物語が殺されたあとで」
第84回(1997年) - 吉田修一「最後の息子」
第85回(1997年) - 橘川有弥「くろい、こうえんの」
第86回(1998年) - 若合春侑「脳病院へまゐります。」
第87回(1999年) - 該当作なし
第88回(1999年) - 松崎美保「DAY LABOUR」、羽根田康美「LA心中」
第89回(1999年) - 該当作なし
第90回(2000年) - 該当作なし
第91回(2000年) - 都築隆広「看板屋の恋」
第92回(2001年) - 長嶋有「サイドカーに犬」、吉村萬壱「クチュクチュバーン」
第93回(2001年) - 該当作なし
第94回(2002年) - 北岡耕二「わたしの好きなハンバーガー」、蒔岡雪子「飴玉が三つ」第95回(2002年) - 該当作なし
第96回(2003年) - 絲山秋子「イッツ・オンリー・トーク」
第97回(2003年) - 由真直人「ハンゴンタン」
第98回(2004年) - モブ・ノリオ「介護入門」
第99回(2004年) - 赤染晶子「初子さん」
第100回(2005年) - 該当作なし
第101回(2005年) - 中山智幸「さりぎわの歩き方」
第102回(2006年) - 木村紅美「風化する女」
第103回(2006年) - 田山朔美「裏庭の穴」、藤野可織「いやしい鳥」
第104回(2007年) - 円城塔「オブ・ザ・ベースボール」、谷崎由依「舞い落ちる村」
第105回(2007年) - 楊逸「ワンちゃん」

ケータイ小説の運命は

2007-05-20 05:50:08 | 文学随想
ケータイ小説というのはケータイ画面でなるべく読みやすいようにと、一文ずつ空行を挿入して書くひとが多い。また段落文頭の一字落ちしないひとも多い。ぼくも一字落ちはしないが。以下ははたして文章として読めるか。読者にまとまったイメージを与えているか。

【一例】
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昭和三十七年三月の末である。

一年を終えると、あたかも冬こそすべてであったように思われる。

春があっても、夏があっても、そこには絶えず冬の胞子がひそんでいて、この裏日本特有の香気を年中重く澱ませていた。

夏には殆どの釣人が昭和橋に集まった。

西の空がかすかに赤かったが、それは街並に落ちるまでには至らなかった。光は、暗澹と横たわる人気を射抜く力も失せ、逆にすべての光沢を覆うかのように忍び降りては死んでいく。
}}}
【二例】
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昭和僑には大きなアーチ状の欄干が施されていて、それが橋の上に頃合の日陰を落とすからであった。

よく晴れた暑い日など、釣り人や、通りすがりに竿の先を覗き込んでいつまでも立ち去らぬ人や、さらには川面にたちこめた虚ろな金色の陽炎を裂いて、ポンポン船が咳込むように進んでいくのをただぼんやり見つめている人が、騒然たる昭和橋の一角の、濃い日陰の中で佇んでいた。

土が残雪であり、水が残雪であり、草が残雪であり、さらには光までが残雪の霧だった。

時折、狂ったような閃光が錯綜することはあっても、それはただ甍(いらか)の雪や市電のレールをぎらつかせるだけで終ってしまう。

その昭和橋から土佐堀川を臨んでちょうど対岸にあたる端建蔵橋のたもとに、やなぎ食堂はあった。
}}}

一例、二例とも文章と呼べないものである。

一文、一文が羅列されているだけで、内容になんのまとまりもない。が、人様のケータイ小説を拝見すると、こんな印象の物がけっこう目立ち、びっくりする。本人は小説を書いているつもりなのである。ご丁寧に、読んで感想が欲しい、と書いてあったりする。

段落は'''一文、一文が、一つの主旨の元にまとまった文のグループ'''のことである。たとえば最初の一段落は生姜アメのことについて、第二段落はザラアメについてという風に。

段落は二種類あり、上の説明は'''意味段落'''のことである。

一段落の文章が200字以上になると、読者が読みやすいようにと、適当なところで段落分けすることもある。これを'''形式段落'''と呼ぶ。明治・大正・昭和前半の作家は、400字詰め原稿用紙三枚ほどで一段落という作家もいた。谷崎潤一郎はそうであった。

文章は'''あるテーマ(主題)について、一段落、一段落が累積した物'''のことである。上の例では、筆者は〈アメの種類〉について執筆したのかもしれない。またこの文章は段落についての説明がテーマである。

ブログ小説、ケータイ小説はパソコン、携帯電話があれば、文章が書けていないのにもかかわらず、小学生から、作家になったつもりが多い。あまりにひどい現状なので、ぼくのケータイサイトで《文章講座》中である。

ケータイ小説は小学生から2、30代がメインであるから、文章の書けないひとが目立つ。

先ほどの二例の原文はこのようになっている。
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夏には殆どの釣人が昭和橋に集まった。昭和僑には大きなアーチ状の欄干が施されていて、それが橋の上に頃合の日陰を落とすからであった。よく晴れた暑い日など、釣り人や、通りすがりに竿の先を覗き込んでいつまでも立ち去らぬ人や、さらには川面にたちこめた虚ろな金色の陽炎を裂いて、ポンポン船が咳込むように進んでいくのをただぼんやり見つめている人が、騒然たる昭和橋の一角の、濃い日陰の中で佇んでいた。その昭和橋から土佐堀川を臨んでちょうど対岸にあたる端建蔵橋のたもとに、やなぎ食堂はあった。
}}}
{{{
昭和三十七年三月の末である。

西の空がかすかに赤かったが、それは街並に落ちるまでには至らなかった。光は、暗澹と横たわる人気を射抜く力も失せ、逆にすべての光沢を覆うかのように忍び降りては死んでいく。時折、狂ったような閃光が錯綜することはあっても、それはただ甍(いらか)の雪や市電のレールをぎらつかせるだけで終ってしまう。

一年を終えると、あたかも冬こそすべてであったように思われる。土が残雪であり、水が残雪であり、草が残雪であり、さらには光までが残雪の霧だった。春があっても、夏があっても、そこには絶えず冬の胞子がひそんでいて、この裏日本特有の香気を年中重く澱ませていた。
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上下は宮本輝の『泥の河』、『螢川』の書き出し一段落である。

この程度の段落ならケータイ小説でも一文のあいだに空行をおかないほうがいい。多少の読みづらさは仕方のないことである。

ところで発刊されている雑誌「魔法のiらんど」は横組体裁。
魔法のiらんど

コメント

ぼくは日本の文学・文藝作品は縦組体裁で味読すべきものという考えであるから、自作、他作を横組体裁では鑑賞しない。ただしワープロ時代であるから推敲・改稿は横書きのママでやっているが、プロ作家の中ではこれも拒否する人が多いらしい。原稿用紙に自筆という作家も多い。

そうか、そうなるとぼくの作品が受賞したときは、懸賞金100万と映画化を了解し、書籍出版は縦組体裁、文庫本でないと駄目と条件を出すことにする。「魔法のiらんど」のなんとけばけばしいこと! まるで元禄吉原の遊女でないか! これだから日本人の品性がどんどん低下する!

安部晋三! 〈美しい日本〉は口だけのことですか。本当はこの連中が財界と結託して日本の風俗を堕落させているのでは?
右寄り文化人

おそらく「魔法のiらんど」は一、二年で売れ行きが落ち、発刊停止。

そうなるとケータイ小説ブームは去る。

今回ぼくが応募したところは「魔法のiらんど」と異なるのでどうか。

賢い道を見出すかも。書籍にするときは縦組文庫本とかにして。これを期待したい。

団塊の世代と文学・文藝(5)

2007-03-15 08:28:02 | 文学随想
団塊の世代と文学・文藝(3)で電子本について触れたので、最近の電子本はどこまで進化したのか調べてみた。

その結果ebookjapanの体裁が、ぼくの電子本に類似していた。立ち読みした結果報告。1ページが17行×43字。文字フォントが美麗でない。拡大できるが拡大するとますます美麗でなくなる。印刷は不能。印刷可能にするといくらでも複製できるので、可能でもその機能は付けないであろう。読書システムとして文字フォントが美麗でないのは、致命的。ぼくのシステムに軍配が上がると思う。

ぼくの電子本でも印刷は不可能にできるし、パスワード設定するとパスワードを通知された人しか読めなくなる。ブログ読者には読んで貰いたいので、パスワードは設定していない。

ebookjapanの体裁なら電子本として売れる可能性は大になるのではないか。少なくとも文藝物を電子本で読む読者は増えるかもしれない。販売価格も書籍に比べると低価なので、書棚に置いておきたいレベルの内容でなければ、電子本で読んでしまうヒトもいるだろう。ただ文字フォントの難で、今ひとつ売れ行きが伸びないかも。

電子本の利点は復刻本を発刊しやすい点である。出版社は復刻本を書籍で発刊したくとも、やはり販売部数が心配になる。紙の本を一万部再刊して二、三千部しか売れなかったら赤字を抱え込むことになる。この点電子本はファイル形態である。ぼくの電子本はAcrobat Readerで読めるpdfファイルであるから、このファイル一つ作れば、多くの読者に販売できる。紙材料を使わないから低額経費で再刊できる。

団塊の世代と文学・文藝(3)で、既存の電子本に否定的見解を述べたが、ebookjapanの体裁を眺めて、少しは安心した。

編集作業の難易と時間の点で、おそらくぼくの電子本のほうが優れている気はする。大きな相違はebookjapanは企業として電子本を刊行しているが、ぼくのほうはぼく一人の趣味的作業である。

さらに付け加えて書くならばebookjapanが団塊の世代以上の年齢を対象とした、'''団塊の世代電子文学賞'''を設けて、半年おきに応募者の中から5名ずつの授賞を選んではどうか。同人誌などでキャリアを積んだ書き手は多い。こうした誘い水を団塊の世代に注ぐことで、この世代が電子本に眼を向け、電子本販売の興隆にも繋がる筈である。このことが一点目の注文。

二点目の注文は、すでに記述したが、ここ20年間あまり出版社は若者・子どもをターゲットに雑誌や本を発刊してきた。しかしいまや少子化で廃刊する少年雑誌が出て来た。雑誌が廃刊するということは、若者・子ども向きの単行本のニーズが減少する兆しである。だいたいにおいて子どもたちはケイタイに金を使いすぎて、本を買う金を持っていない。逆に金のある団塊の世代は読んでみたい作家の古い作品が、古書店でプレミアム附き価格販売、どこか矛盾していないか。表紙などはなくてもよい、中身が読みたい。

こういった団塊の世代を電子本に向ける努力がebookjapanに必要ではないか。
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