喜多圭介のブログ

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小説――空蝉

2007-01-15 22:06:10 | 自作小説(電子文庫本)

男は公園の片隅のブランコに腰を下ろし、堅く目蓋を閉じ蹲るような姿勢で動かなかった。公園の左側に幹線道路が走り、道路の向こう側には町役場、公民館、商工会議所の建物が並んでいた。右側は保健所の大きな倉庫のような白い建物が、公園の一方を行き止まりにしていた。保健所の建物が異様に巨大なのは、保健所職員が狩ってきた野犬、野良猫をここで処分するために、それ用の施設が付帯していたからだった。といっても確かめたのでないから、犬猫を(とさつ)する施設があるのかは、いつまで経っても不明確なままであったが、男は自分が背負った運命に似つかわしいと考えていた。

 

夕暮れ時、仕事からの帰りに公園の傍を通り過ぎると、キャン、キャンと、この世の終わりのようなけたたましい犬の啼き声に出くわすことがあった。此処(ここ)が自分たちにとってのアウシュビッツ収容所のようなところだと覚るのか、犬も、猫も尋常な状態でなかった。

 

油断していたところを、素早く針金の輪が飛んできて、首を締め上げられ、いきなり小型トラックの荷台に引っ張り上げられて連れて来られたのが、白い建物の小暗い、がらんとした場所。野良犬たちにしてみれば、そこにいる数人の胡散(うさん)臭い風体(ふうてい)の男たちが、自分たちの命運を握っていることを、恨めしそうな眼差しの奥にいやがうえにも刻んでいるのかもしれない。

 

夏の暑い日盛りであった。砂場以外目立った遊具のない、近所の母親、子供たちにも見捨てられた寂しい公園に男は来ていた。男は公園の一角、保健所の建物に近い辺りにあるブランコの一つに腰を下ろし、力のない虚(うつ)ろな目付きで揺らしていた。

 

五、六メートルの高さで、妊婦のような胴体を持て余し気味の棕櫚(しゅろ)、枝を水平に張った水木、桃色の花を着けた夾竹桃、緑の濃い楊桃(やまもも)、若い明るさの樹葉の樟(くす)などの樹木が、十数本、ところ狭しと繁茂し、鬱蒼とした森の風情になっている。ブランコの辺りだけはひんやりとした木下闇(このしたやみ)になっていて、子連れの若い母親の眼には物騒な場所に映るのか、あるいは野犬処理施設に隣接しているせいか、たまに母親と子供の姿が見えても、保健所近くには寄らなかった。

 

折角の公園らしい遊具、向かい合って四つのブランコがあったが、その一つに静かに腰を下ろしているのは男だけであった。絶えず涼風が吹き抜け、梢の繁みが騒ぎ、蝉が鳴いていた。

 

ブランコの真上の十メートル近くある榎(えのき)の大樹で、一斉に鳴いているのは熊蝉だ。根張りの逞しさで周りの地面を盛り上げ、ひび割れた太い幹には、乾いた緑の苔の斑点が附いていた。四方八方に黒い枝を伸ばし、繁った樹葉は巨大な天蓋(てんがい)となって、日射を遮(さえぎ)っていた。公園の樹の中でもいちばん堂々とした存在感で他を圧していた。

 

存在感が存在感以上の生命を感じさせるのは、一日のこのいっときに、熊蝉が一斉(いっせい)に鳴き出すからだ。男は大抵この時間帯に人のいない公園に来て、ブランコに腰を下ろしている。あまりの鳴き声に時折、訝(いぶか)しい眼差しを、樹の上に向けた。どこかに由理子が隠れているのではないかと探す目になったが、暫くすると気落ちした目を地面にやった。

 

一匹一匹の熊蝉がシャーシャーと鳴いているという感じではなかった。一万ほどの飴色の空蝉(うつせみ)が、目に見えない丸い竹かごの中に放り込まれ、風に揺さぶられ乾いた音を立てているのではないかと想った。空蝉の巨大な魂に包み込まれているようで不愉快ではなかった。男は自然と堅く目蓋を閉じた。

 

男の生存の根拠は、熊蝉の鳴き声の中に融け込み、吸引され、存在がこの世から不確かになり、その思いが濃くなるのにつれて、男の背骨はしだいに湾曲になり、寿命間近な老人のような姿勢で蹲(うずく)ってしまう。ここが由理子のいる世界なら、もう一度由理子の手を引いてやりたい、抱いてやりたい。目蓋の裏でうっすらと涙の被膜が、眼球を濡らす。

 

このまま心地よい涼風の中で死んでもいいのだ、と男は呟いた。量りきれない空蝉の触れ合う音の中で、人知れず息をひきとることができれば、なんと贅沢なことか。もう何も要らない、働くだけ働いた、と男は呟いた。

 

男の頭は疲れた色の銀髪だった。

 

父親の代からこの町で小さな鉄工所をやってきた男は、昨年六十歳を超えた。父親が四十二歳の厄年に急死していたので、まさかこの歳まで自分が生きるとは思わなかった。母親の口癖であった。
「お父さんはあんたと違って前しか見なかった人だね。あんたは覇気(はき)がない」

 

前しか見ない親父にしては、見てきた前が短すぎた、と男は蹲っていた姿勢を少し伸ばし、地面に着けていた右脚の爪先に力を蓄え、地面を軽く蹴った。ブランコが揺れた。

 

ブランコは三十年前に、若い頃の男が鉄工所で一人組み立て、青ペンキ塗装して町に寄贈したものだった。子供が二人ずつ向かい合って遊べるように、二組のブランコ施設を寄贈した。早速町役場は夏でも陽射しの差さない、榎の大樹の下に遊具として備え付けてくれた。

 

しかし備え付けられた当初から、このブランコに乗りに来る子供達は少なかった。町の中心に開かれた公園だったので、以前はもっと母親と子供達が遊びに来ていたが、ブランコを設置した頃から、この公園は町のだれからも見向きされなくなった。それでも男は青ペンキが落ちて錆が着くと、徒歩五分先の鉄工所から錆止めとペンキ缶や刷毛を運び込み、一人で補修した。

 

公園の敷地は幹線道路、江戸時代の街道筋に面した庄屋の土地であったが、町制が敷かれた頃に、零落(れいらく)した子孫が町に寄付したとのことだった。公園全体の景観に不釣り合いな樹木群が、一角に集まっているのはその頃のものを、そのままにしておいたからだ。

 

――生きておれば由理子は三十六歳……。

 

幹線道路を夏日をギラギラと浴びた車が、ひっきりなしに走っていた。男はブランコを所在なげに揺らし、走り去る車をぼんやりと眺めていた。視線をずっと右手にやると起伏した黒い家並みの向こうに、白い教会の十字架が丘陵の緑を背景に浮かんでいた。

 

男の最初の子供、由理子の通っていたカトリック系の幼稚園は、教会の棟続きにあった。男は由理子の小さな手を掌に包み、妻に代わって幼稚園に送り届けた。男の妻は車で一時間はかかる僻地の中学校教師をしていたので、毎朝自宅を早く出た。

 

由理子はおとなのような仕草で姿見の前で園児服を着て帽子を被ると、それが二人だけの秘密の儀式でもあるかのように、にっこりと微笑み、男に小さな片手を差し出した。そのたびに男は胸の裡にくすぐったい喜びを覚えた。

 

男と妻との間には女、女、男と三人の子供が生まれたが、長女の由理子は六歳の時に不慮の事故死を遂げた。あとの二人が無事に育ってくれ次女は嫁ぎ、長男は工業高校の機械科を卒業すると男の跡を継いで鉄工所を引き継いでくれ、三年前に結婚をした。妻は長男の結婚式を見届けた一年後に脳溢血で急死した。

 

男はこの頃公園に来るたびに、俺はあのときに死んだのだ、と思うことが多くなった。

 

あのとき……六歳の由理子が夏の夕暮れ、公園のこの場所で、三十歳の土木労働者に強姦された挙げ句に、頭部を石に叩き付けられた死んだ日……俺は空蝉となってここに取り残されたのだ。

 

――それにしてもよくこれまで頑張った。

 

男は無気力な声にもならない声で、また呟いた。