喜多圭介のブログ

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小説――吉野山

2007-01-16 08:02:09 | 自作小説(電子文庫本)

ホワイトボードを背にしての毎日の子供達との付き合いから逃れるような気持ちで、祐吉は五月の第二日曜日、一人で空中ケーブルに乗り花吹雪の舞う吉野に登った。普段は日曜日も休みなしに学習指導している神戸の有名進学塾に祐吉は臨時勤めしていた。大学を出て五年になる。


連休明けの日曜日であったが、ケーブルの中は定員オーバではないかと思えるほどの人数、路上に吐き出されての中千本に上がる坂道も中年のご婦人達で賑わっていた。若いカップルもいることはいたが、花の吉野は中年婦人に占領された感があった。
「あら、おひとりですか」

中千本の行きつけの食堂のおかみは、たて込んだ客の応接の合間をぬって、祐吉に声を掛けた。丸顔の目のきりっとした女である。
「相変わらずこんでますね」
「この時期だけですよ。あいにく風が強いでしょう。お泊まりですか」
「ええ、都合よくキャンセルがあってね」
「どうぞ、奥があいてますから」


祐吉は座卓の並ぶ座敷の賑わう客の肩を分けて、八畳ほどのベランダに出た。花むしろが敷かれ、四脚の座卓のうち二脚は花見客に囲まれていた。空いていた座卓の上に花びらが数片散っていた。


すぐに別の若い娘がビールと小皿につまみを盛って小走りにやって来た。
「おかみさんからです」
「あ、ありがとう」


祐吉は中のレジの方を見て、こちらを向いていたおかみに視線を合わせて言った。うなずく様子が目に映った。


一昨年から夏の合宿学習に子供を引率して吉野に登っている。しかし丸六日間を日に八時間という強化学習を消化するために、ゆっくりと自分の時間をとって吉野を味わうゆとりはなかった。その不満を解消しようとして、昨年この時期に無理に友人二人を誘って上がり、この食堂で半日を過ごした。合宿の宿舎に近いこともあり、祐吉は初めての吉野からここを利用していた。


吉野の谷間は意外と険しい。その緑の谷間を花吹雪が散り急ぐように風に舞っていた。祐吉はその風情をビールをゆっくりとのみながら眺めた。ほんのしばらくであるが、この世の身すぎ世すぎが、何もかも花の世界のうたかたのように思えてくる。それにここに来ると華子とのことが思い浮かぶ。
「花子なんて平凡な名前だな」


初対面の華子に言った。
「花の花じゃないのよ。はなやかの華、あれよ」

華子は涼しい笑顔で応えた。自分の名前を気に入っている顔であった。


それにしても華子は不思議な女であった。何を考えているのかさえ分からない女だった。物事を割り切って考えるようなところもあれば、妙に古くさいところもあった。三つ歳上のせいで、そう思えたのかも知れない、と今の祐吉は考えていた。


華子との結び付きそのものが出し抜けのような感じのものであった。大学の先輩に連れられて初めて行ったバーで水割りを飲んでいると、そこのホステスである華子が、祐吉のとなりに強引に座った。卒業を目前にしての大学のコンパの後の二次会で、ビールに強くない祐吉はすでに目の奥が酔っていた。
「あなた学生さんね」


祐吉はうなずいた。
「東京の人と違う。大阪でしょう」
「そうだよ。大阪は淀川の生まれ」
「寅さんのようね。私は奈良。奈良の吉野」


祐吉は華子に急に親しみを感じた。
「西行庵のある吉野?」
「さいぎょうあんって知らないわ。私の家は大和上市にあるの。吉野山の少し手前の所。吉野川の流れる木材の町、知らない?」


祐吉は華子に不安定な自分の心をぶつけてみたくなった。なかなか決まらない就職にいらいらしていた。元はといえば自分が何に自分の人生を掛けてよいのか、それの分からないところにもやもやとしたものがあった。
「おれのところに来いよ。その場その場で、自分の心につじつまを合わせていくのが人生だよ」

二年前に中小クラスの証券会社に入社した先輩は哀れむような口調で言った。
「何か心配ごとがあるようね。よかったら今夜私とデートして見ない。気分転換よ」


華子はそう言い残すと新しくきた客の席に移って行った。
「学生さん」


酔眼を開くと華子の笑顔が目の前にあった。祐吉はベットに寝ていた。
「どうしてこんな所に?」
「あんなこといって。貴方が行こうと誘ったのよ。あなたたと私はもう出来てしまったの。でもよかった。あなた初めてなのね」


祐吉は夢の中で何かに夢中になっている自分を感じてはいたが、それは華子の言葉の世界のものとはなにか違う感じのものであった。
「どうして僕と?」
「好きになったの。ひと目惚れってあるじゃない」


華子は祐吉の上に乗ってほほえんだ。華子の豊かな乳房が祐吉の胸の上にあった。祐吉は意識の戻った体で、あらためて華子を下にして抱き締めた。


五か月余り華子と関係が続いた。華子は嫌なそぶりも感情も見せなかった。そしてある夜祐吉は華子に結婚を申し込んだ。大学を卒業していたが、就職はしていなかった。先輩が探してくれた証券会社のアルバイトでなんとか過ごしていた。
「ばか言わないで。私は若いひととは結婚しないわ」


それ以後祐吉は華子に結婚の話をしなかった。華子との関係の雰囲気は初体験の頃と同じであった。祐吉の就職が大阪の親父の縁故で強引に決定した。華子との事もなんとなく両親に感づかれていた。大阪に戻る日が近付いた頃、祐吉はもう一度華子に結婚を迫った。しかし華子の拒絶は以前に増して激しかった。
「私、ある会社の社長と結婚することになってるの。もうこれでお別れにしましょう。あなたは大阪に帰らないと駄目」


ベットから抜け出た白い体の華子はいつものように器用な身のこなしで服を着けた。
「大阪で早くちゃんとした恋人を作りなさいね。そうだわ、桜の時期に恋人と吉野に上がったら。ロマンチックでいいとこよ」


その言葉が華子との最後になった。バーに行っても華子の姿はなく、ママも居所を言わなかった。

 

          ◇

 

祐吉は近付いてきた娘を呼び止めた。
「きょうは少し寒いね。お酒を二本と田楽を適当にもってきてくれる」


吉野の谷底に向かって、白い花吹雪の帯が、落下する滝の流れように果てしもなく散っていた。