6-2 左翼との関係
■昭和十年(一九三五年)二十六歳、二月、『逆行』を「文芸」に発表、同人雑誌以外に発表した最初の作品である。三月、大学卒業が絶望とわかり(半年後に授業料未納で除籍)都新聞社の入社試験に落ち、同月十七日夜、鎌倉の山中で縊死(首吊り自殺)を企てるが失敗。(三回目の自殺未遂)四月、盲腸炎で入院。手術後腹膜炎を起し、鎮痛のため使用したパビナールのため、以後中毒に悩む。八月、『逆行』が第一回芥川賞候補となったが、次点。川端康成の選評に抗議して『川端康成へ』を発表。佐藤春夫を知り、以後師事する。
前途に絶望しての自殺未遂。過度の躁による自信過剰と借金などによる焦燥感と自己嫌悪に囚われた時期で、分裂症気味でもあった。
川端康成への手紙の書き出しは以下のようになっている。この手紙は太宰が川端に何を伝えたかったのか、支離滅裂な内容になっている。
この時期の太宰は八方ふさがり、創作においても内容が支離滅裂。精神状態がそのようになっていた。自分の精神の動きが鋭敏に見えすぎて、それがために足を掬(すく)われてしまう状況に陥っていた。
『逆行』と『道化の華』を較べると、川端が述べたように『道化の華』のほうがまだリアリティーがある。『逆行』のほうはほとんど独白に近いもので、独白だからリアリティーがないのではなく、読者にほとんどイメージが浮かんでこない、神経症患者の深層心理を、書き殴っただけのものになっている。このことに価値をおけば次点だが、これもそのときまでの太宰の創作活動の履歴を加味したものでなかったか。まったくの無名であれば次点にもならなかった作品。太宰本人にはこれこそ新しい文学という思い込みがみられるが、独善の感は免れない。
『道化の華』は二回目の心中事件後の、入院四日間のことを題材にして創作したものだが、自意識過剰で一つの方向に焦点を絞ってのストーリー展開ができない、書かなくてもよいことまで頭脳の火花を炸裂するように書き込み、『逆行』よりは小説らしく読めるが完成度は低い。四年後に創作した『富嶽百景』、五年後に創作した『走れメロス』などの完成度が高いだけに、精神の不安定期というのは、ストレス発散のためにやたら饒舌、抑制が利かない状態にあることは明瞭。アルル地方に滞在していた頃の画家ゴッポもそうだったが、あの不気味な印象の『ひまわり』も後世に遺るのだから、『道化の華』や『逆行』が太宰全集に収録されるのも、作家としてのひと仕事。減らず口だけ叩いている文学青年よりは、太宰は苦労した。
自殺衝動の原因の一つに借財もある。この頃に創作した『ダス・ゲマイネ』に、
と書いてある。
同じ頃に創作した『玩具』(未完)には次のようなことが書かれている。当時の太宰の精神状況を語っている。
さらに『ダス・ゲマイネ』には、ご丁寧に自分の自意識過剰についても書いている。
こういう精神状況では冷静な創作はできないが、太宰は何を書いても太宰の言葉でしか表現していない。ありきたりの表現で書かないところが、太宰の非凡な文学精神。
年譜から、四度目の自殺(心中)から最後の妻石原美知子(作家津島佑子の母親)との結婚に至る経緯をみておく。
■昭和十二年(一九三七年)二十八歳、三月、小山初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチンによる自殺を図るが失敗。(四回目の自殺未遂)帰京後、初代と分かれる。この年から翌年にかけ、時折エッセイを書くほかは、ほとんど筆を絶つ。
■昭和十三年(一九三八年)二十九歳、七月、ようやく沈滞から脱し『姥捨』を書き始める。九月、山梨県御坂峠の天下茶屋に行き、長編『火の鳥』の執筆に専念したが、結局この小説は未完に終わる。十一月、井伏鱒二が親代わりになって、都留高等女学校の教師・石原美知子(二十六歳)と見合いし婚約。
■昭和十四年(一九三九年)三十歳、一月、井伏家で結婚式をあげ、甲府市御崎町の新居に移る。四月、『黄金風景』が「国民新聞」の短編小説コンクールに当選する。九月、東京府下三鷹村下連雀百十三に転居、終戦前後を除き死ぬまでここに住んだ。
小山初代との心中の経緯は『姥捨』の書き出しに次のように書かれている。
初代の不倫が原因の一つ。太宰が昭和十一年に精神病院に入院、初代は見舞いに来たとき太宰の義理の弟で、高校時代の後輩である小館善四郎と病院で巡り会う。善四郎も手首を切る自殺未遂で入院していた。その後に初代は善四郎と性関係を結んでしまった。この辺のことが檀一雄著『太宰と安吾』(沖積舎刊)に書いてあるので抜粋しておく。
太宰はパビナール中毒が進行し、芝の済生会病院に入院するが、全治しないままに一ヶ月足らずで退院。このときの作品が『HUMAN LOST』、ほとんど狂人日記に等しい。
■昭和十年(一九三五年)二十六歳、二月、『逆行』を「文芸」に発表、同人雑誌以外に発表した最初の作品である。三月、大学卒業が絶望とわかり(半年後に授業料未納で除籍)都新聞社の入社試験に落ち、同月十七日夜、鎌倉の山中で縊死(首吊り自殺)を企てるが失敗。(三回目の自殺未遂)四月、盲腸炎で入院。手術後腹膜炎を起し、鎮痛のため使用したパビナールのため、以後中毒に悩む。八月、『逆行』が第一回芥川賞候補となったが、次点。川端康成の選評に抗議して『川端康成へ』を発表。佐藤春夫を知り、以後師事する。
前途に絶望しての自殺未遂。過度の躁による自信過剰と借金などによる焦燥感と自己嫌悪に囚われた時期で、分裂症気味でもあった。
川端康成への手紙の書き出しは以下のようになっている。この手紙は太宰が川端に何を伝えたかったのか、支離滅裂な内容になっている。
あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭(いや}な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった。」
この時期の太宰は八方ふさがり、創作においても内容が支離滅裂。精神状態がそのようになっていた。自分の精神の動きが鋭敏に見えすぎて、それがために足を掬(すく)われてしまう状況に陥っていた。
『逆行』と『道化の華』を較べると、川端が述べたように『道化の華』のほうがまだリアリティーがある。『逆行』のほうはほとんど独白に近いもので、独白だからリアリティーがないのではなく、読者にほとんどイメージが浮かんでこない、神経症患者の深層心理を、書き殴っただけのものになっている。このことに価値をおけば次点だが、これもそのときまでの太宰の創作活動の履歴を加味したものでなかったか。まったくの無名であれば次点にもならなかった作品。太宰本人にはこれこそ新しい文学という思い込みがみられるが、独善の感は免れない。
『道化の華』は二回目の心中事件後の、入院四日間のことを題材にして創作したものだが、自意識過剰で一つの方向に焦点を絞ってのストーリー展開ができない、書かなくてもよいことまで頭脳の火花を炸裂するように書き込み、『逆行』よりは小説らしく読めるが完成度は低い。四年後に創作した『富嶽百景』、五年後に創作した『走れメロス』などの完成度が高いだけに、精神の不安定期というのは、ストレス発散のためにやたら饒舌、抑制が利かない状態にあることは明瞭。アルル地方に滞在していた頃の画家ゴッポもそうだったが、あの不気味な印象の『ひまわり』も後世に遺るのだから、『道化の華』や『逆行』が太宰全集に収録されるのも、作家としてのひと仕事。減らず口だけ叩いている文学青年よりは、太宰は苦労した。
自殺衝動の原因の一つに借財もある。この頃に創作した『ダス・ゲマイネ』に、
僕は、本でも出して借金を全部かえしてしまって、それから三日三晩くらいぶっつづけにこんこんと眠りたいのだ。借金とは宙ぶらりんな僕の肉体だ。僕の胸には借金の穴が黒くぽかんとあいている。
と書いてある。
同じ頃に創作した『玩具』(未完)には次のようなことが書かれている。当時の太宰の精神状況を語っている。
私はこの玩具という題目の小説に於いて、姿勢の完璧(かんぺき)を示そうか、情念の模範を示そうか。けれども私は抽象的なものの言いかたを能(あた)う限り、ぎりぎりにつつしまなければいけない。なんとも、果しがつかないからである。一こと理窟を言いだしたら最後、あとからあとから、まだまだと前言を追いかけていって、とうとう千万言の註釈。そうして跡にのこるものは、頭痛と発熱と、ああ莫迦(ばか)なことを言ったという自責。つづいて糞甕(くそがめ)に落ちて溺死したいという発作。
さらに『ダス・ゲマイネ』には、ご丁寧に自分の自意識過剰についても書いている。
自意識過剰というのは、たとえば、道の両側に何百人かの女学生が長い列をつくってならんでいて、そこへ自分が偶然にさしかかり、そのあいだをひとりで、のこのこ通って行くときの一挙手一投足、ことごとくぎこちなく視線のやりば首の位置すべてに困(こう)じ果てきりきり舞いをはじめるような、そんな工合いの気持ちのことだと思うのですが、もしそれだったら、自意識過剰というものは、実にもう、七転八倒の苦しみであって、〔後略〕
こういう精神状況では冷静な創作はできないが、太宰は何を書いても太宰の言葉でしか表現していない。ありきたりの表現で書かないところが、太宰の非凡な文学精神。
年譜から、四度目の自殺(心中)から最後の妻石原美知子(作家津島佑子の母親)との結婚に至る経緯をみておく。
■昭和十二年(一九三七年)二十八歳、三月、小山初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチンによる自殺を図るが失敗。(四回目の自殺未遂)帰京後、初代と分かれる。この年から翌年にかけ、時折エッセイを書くほかは、ほとんど筆を絶つ。
■昭和十三年(一九三八年)二十九歳、七月、ようやく沈滞から脱し『姥捨』を書き始める。九月、山梨県御坂峠の天下茶屋に行き、長編『火の鳥』の執筆に専念したが、結局この小説は未完に終わる。十一月、井伏鱒二が親代わりになって、都留高等女学校の教師・石原美知子(二十六歳)と見合いし婚約。
■昭和十四年(一九三九年)三十歳、一月、井伏家で結婚式をあげ、甲府市御崎町の新居に移る。四月、『黄金風景』が「国民新聞」の短編小説コンクールに当選する。九月、東京府下三鷹村下連雀百十三に転居、終戦前後を除き死ぬまでここに住んだ。
小山初代との心中の経緯は『姥捨』の書き出しに次のように書かれている。
そのとき、
「いいの。あたしは、きちんと仕末(しまつ)いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう。」変った声で呟いたので、
「それはいけない。おまえの覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでゆくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにゆかない。」
などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるして呉れる。」
ふたり、厳粛に身支度をはじめた。
あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依(よ)ってつけようと思った。早春の一日である。そのつきの生活費が十四、五円あった。それを、そっくり携帯した。そのほか、ふたりの着換えの着物ありったけ、嘉七のどてらと、かず枝の袷(あわせ)いちまい、帯二本、それだけしか残ってなかった。それを風呂敷に包み、かず枝がかかえて、夫婦が珍らしく肩をならべての外出であった。夫にはマントがなかった。久留米絣(くるめがすり)の着物にハンチング、濃紺の絹の襟巻(えりまき)を首にむすんで、下駄だけは、白く新しかった。妻にもコオトがなかった。羽織も着物も同じ矢絣模様の銘仙(めいせん)で、うすあかい外国製の布切(ぬのきれ)のショオルが、不似合いに大きくその上半身を覆っていた。質屋の少し手前で夫婦はわかれた。
初代の不倫が原因の一つ。太宰が昭和十一年に精神病院に入院、初代は見舞いに来たとき太宰の義理の弟で、高校時代の後輩である小館善四郎と病院で巡り会う。善四郎も手首を切る自殺未遂で入院していた。その後に初代は善四郎と性関係を結んでしまった。この辺のことが檀一雄著『太宰と安吾』(沖積舎刊)に書いてあるので抜粋しておく。
私が芳賀家から離脱して、太宰治の碧雲荘に移ったのは、ある日彼のアパートをたずねてみると
「ちょっと話があるんだ」
太宰は私を誘い出して、荻窪の線路東の蕎麦屋にはいり込み、五、六本の酒を一気にあおりつづけたあげく
「初代が事を起こしたんだ。その相手をだれだと思う? Kだよ、K。ひどいもんだ。酸鼻だよ。これが、君だったらね。男らしく、決闘もなりたつ。Kではね。蛾の鱗粉がベットり、こっちの手にくっついてくる感じなんだ」
激昂して、太宰はそんなことを言いつづけた。
「それで、君はどうするの?」
「別れるさ。それ以外にないだろう」
初代さんは、もう碧雲荘にはいなかった。おそらく親戚の吉沢さんのところにでも身をかくしていたのだろう。私はそのまま、何となく太宰の碧雲荘に居すわってしまったのだが、太宰の中学時代の友人中村貞次郎氏が、時々、やってきた。中村氏は医局につとめており、ひどい喘息で、時折り、モヒの注射を自分でうっているのを私はそれとなく目撃した。だから、太宰のモヒは中村氏の影響があったかも知れぬと思い、先日、中村氏にあったついでに
「太宰にモヒの注射を教えたのは、あなたではなかったの?」
とこっそりきいてみたところ
「お互い、弱い人間だからね」
と中村氏はさびしく笑って答えたものだ。
太宰はパビナール中毒が進行し、芝の済生会病院に入院するが、全治しないままに一ヶ月足らずで退院。このときの作品が『HUMAN LOST』、ほとんど狂人日記に等しい。