喜多圭介のブログ

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悲愁の文学――太宰治論

2007-01-28 14:56:29 | 文藝評論
6-2 左翼との関係


■昭和十年(一九三五年)二十六歳、二月、『逆行』を「文芸」に発表、同人雑誌以外に発表した最初の作品である。三月、大学卒業が絶望とわかり(半年後に授業料未納で除籍)都新聞社の入社試験に落ち、同月十七日夜、鎌倉の山中で縊死(首吊り自殺)を企てるが失敗。(三回目の自殺未遂)四月、盲腸炎で入院。手術後腹膜炎を起し、鎮痛のため使用したパビナールのため、以後中毒に悩む。八月、『逆行』が第一回芥川賞候補となったが、次点。川端康成の選評に抗議して『川端康成へ』を発表。佐藤春夫を知り、以後師事する。

前途に絶望しての自殺未遂。過度の躁による自信過剰と借金などによる焦燥感と自己嫌悪に囚われた時期で、分裂症気味でもあった。

川端康成への手紙の書き出しは以下のようになっている。この手紙は太宰が川端に何を伝えたかったのか、支離滅裂な内容になっている。

あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭(いや}な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった。」

この時期の太宰は八方ふさがり、創作においても内容が支離滅裂。精神状態がそのようになっていた。自分の精神の動きが鋭敏に見えすぎて、それがために足を掬(すく)われてしまう状況に陥っていた。

『逆行』と『道化の華』を較べると、川端が述べたように『道化の華』のほうがまだリアリティーがある。『逆行』のほうはほとんど独白に近いもので、独白だからリアリティーがないのではなく、読者にほとんどイメージが浮かんでこない、神経症患者の深層心理を、書き殴っただけのものになっている。このことに価値をおけば次点だが、これもそのときまでの太宰の創作活動の履歴を加味したものでなかったか。まったくの無名であれば次点にもならなかった作品。太宰本人にはこれこそ新しい文学という思い込みがみられるが、独善の感は免れない。

『道化の華』は二回目の心中事件後の、入院四日間のことを題材にして創作したものだが、自意識過剰で一つの方向に焦点を絞ってのストーリー展開ができない、書かなくてもよいことまで頭脳の火花を炸裂するように書き込み、『逆行』よりは小説らしく読めるが完成度は低い。四年後に創作した『富嶽百景』、五年後に創作した『走れメロス』などの完成度が高いだけに、精神の不安定期というのは、ストレス発散のためにやたら饒舌、抑制が利かない状態にあることは明瞭。アルル地方に滞在していた頃の画家ゴッポもそうだったが、あの不気味な印象の『ひまわり』も後世に遺るのだから、『道化の華』や『逆行』が太宰全集に収録されるのも、作家としてのひと仕事。減らず口だけ叩いている文学青年よりは、太宰は苦労した。

自殺衝動の原因の一つに借財もある。この頃に創作した『ダス・ゲマイネ』に、

僕は、本でも出して借金を全部かえしてしまって、それから三日三晩くらいぶっつづけにこんこんと眠りたいのだ。借金とは宙ぶらりんな僕の肉体だ。僕の胸には借金の穴が黒くぽかんとあいている。

と書いてある。

同じ頃に創作した『玩具』(未完)には次のようなことが書かれている。当時の太宰の精神状況を語っている。

私はこの玩具という題目の小説に於いて、姿勢の完璧(かんぺき)を示そうか、情念の模範を示そうか。けれども私は抽象的なものの言いかたを能(あた)う限り、ぎりぎりにつつしまなければいけない。なんとも、果しがつかないからである。一こと理窟を言いだしたら最後、あとからあとから、まだまだと前言を追いかけていって、とうとう千万言の註釈。そうして跡にのこるものは、頭痛と発熱と、ああ莫迦(ばか)なことを言ったという自責。つづいて糞甕(くそがめ)に落ちて溺死したいという発作。

さらに『ダス・ゲマイネ』には、ご丁寧に自分の自意識過剰についても書いている。

自意識過剰というのは、たとえば、道の両側に何百人かの女学生が長い列をつくってならんでいて、そこへ自分が偶然にさしかかり、そのあいだをひとりで、のこのこ通って行くときの一挙手一投足、ことごとくぎこちなく視線のやりば首の位置すべてに困(こう)じ果てきりきり舞いをはじめるような、そんな工合いの気持ちのことだと思うのですが、もしそれだったら、自意識過剰というものは、実にもう、七転八倒の苦しみであって、〔後略〕

こういう精神状況では冷静な創作はできないが、太宰は何を書いても太宰の言葉でしか表現していない。ありきたりの表現で書かないところが、太宰の非凡な文学精神。

年譜から、四度目の自殺(心中)から最後の妻石原美知子(作家津島佑子の母親)との結婚に至る経緯をみておく。

■昭和十二年(一九三七年)二十八歳、三月、小山初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチンによる自殺を図るが失敗。(四回目の自殺未遂)帰京後、初代と分かれる。この年から翌年にかけ、時折エッセイを書くほかは、ほとんど筆を絶つ。

■昭和十三年(一九三八年)二十九歳、七月、ようやく沈滞から脱し『姥捨』を書き始める。九月、山梨県御坂峠の天下茶屋に行き、長編『火の鳥』の執筆に専念したが、結局この小説は未完に終わる。十一月、井伏鱒二が親代わりになって、都留高等女学校の教師・石原美知子(二十六歳)と見合いし婚約。

■昭和十四年(一九三九年)三十歳、一月、井伏家で結婚式をあげ、甲府市御崎町の新居に移る。四月、『黄金風景』が「国民新聞」の短編小説コンクールに当選する。九月、東京府下三鷹村下連雀百十三に転居、終戦前後を除き死ぬまでここに住んだ。

小山初代との心中の経緯は『姥捨』の書き出しに次のように書かれている。

そのとき、
「いいの。あたしは、きちんと仕末(しまつ)いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう。」変った声で呟いたので、
「それはいけない。おまえの覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでゆくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにゆかない。」

などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるして呉れる。」

ふたり、厳粛に身支度をはじめた。

あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依(よ)ってつけようと思った。早春の一日である。そのつきの生活費が十四、五円あった。それを、そっくり携帯した。そのほか、ふたりの着換えの着物ありったけ、嘉七のどてらと、かず枝の袷(あわせ)いちまい、帯二本、それだけしか残ってなかった。それを風呂敷に包み、かず枝がかかえて、夫婦が珍らしく肩をならべての外出であった。夫にはマントがなかった。久留米絣(くるめがすり)の着物にハンチング、濃紺の絹の襟巻(えりまき)を首にむすんで、下駄だけは、白く新しかった。妻にもコオトがなかった。羽織も着物も同じ矢絣模様の銘仙(めいせん)で、うすあかい外国製の布切(ぬのきれ)のショオルが、不似合いに大きくその上半身を覆っていた。質屋の少し手前で夫婦はわかれた。

初代の不倫が原因の一つ。太宰が昭和十一年に精神病院に入院、初代は見舞いに来たとき太宰の義理の弟で、高校時代の後輩である小館善四郎と病院で巡り会う。善四郎も手首を切る自殺未遂で入院していた。その後に初代は善四郎と性関係を結んでしまった。この辺のことが檀一雄著『太宰と安吾』(沖積舎刊)に書いてあるので抜粋しておく。

私が芳賀家から離脱して、太宰治の碧雲荘に移ったのは、ある日彼のアパートをたずねてみると
「ちょっと話があるんだ」

太宰は私を誘い出して、荻窪の線路東の蕎麦屋にはいり込み、五、六本の酒を一気にあおりつづけたあげく
「初代が事を起こしたんだ。その相手をだれだと思う? Kだよ、K。ひどいもんだ。酸鼻だよ。これが、君だったらね。男らしく、決闘もなりたつ。Kではね。蛾の鱗粉がベットり、こっちの手にくっついてくる感じなんだ」

激昂して、太宰はそんなことを言いつづけた。
「それで、君はどうするの?」
「別れるさ。それ以外にないだろう」

初代さんは、もう碧雲荘にはいなかった。おそらく親戚の吉沢さんのところにでも身をかくしていたのだろう。私はそのまま、何となく太宰の碧雲荘に居すわってしまったのだが、太宰の中学時代の友人中村貞次郎氏が、時々、やってきた。中村氏は医局につとめており、ひどい喘息で、時折り、モヒの注射を自分でうっているのを私はそれとなく目撃した。だから、太宰のモヒは中村氏の影響があったかも知れぬと思い、先日、中村氏にあったついでに
「太宰にモヒの注射を教えたのは、あなたではなかったの?」

とこっそりきいてみたところ
「お互い、弱い人間だからね」

と中村氏はさびしく笑って答えたものだ。

太宰はパビナール中毒が進行し、芝の済生会病院に入院するが、全治しないままに一ヶ月足らずで退院。このときの作品が『HUMAN LOST』、ほとんど狂人日記に等しい。

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-28 14:48:07 | 文藝評論
6-1 左翼との関係


ここで太宰と日本共産党との関係をみておく。年譜によると、

■昭和五年(一九三十)二十二歳、一月、同期生の上田重彦らが校内左翼分子として検挙され、放校処分になる。三月、弘前高校卒業、四月、東京帝国大学仏文科入学、三兄の「圭二」が住んでいた近くの戸塚町諏訪町二百五十番地「常磐館」に下宿。五月上旬、弘前高校先輩工藤永蔵の訪問・説得を受け、工藤の属する日本共産党に、毎月十円のカンパを約束した。

とある。

渡辺惣助の日記によると、昭和二十年十一月十四日、青森県共産党再建会議が津川武一家で開かれた。出席者は渡辺惣助、雨森卓三郎、津川武一、山中(沙和宗一)、内山、山鹿、唐牛、原、島口、田村文雄、杉浦、津島(太宰治)の十二名(小野正文『太宰治をどう読むか』弘文堂、昭三十七、二)でした。戦後の共産党をどうして再建してゆくかの相談会だったが、彼はあまり発言しなかった。日本共産党は、ロシアとも世界共産党とも手を切ってやるのだと結論が出たとき、太宰は全く口をつぐんでしまい、途中で退席した。この事に対し、小野正文は〈太宰には、共産党再建に対する興味も意欲もなかったことは明瞭である。彼は純粋に、故旧忘れ得べき、こういう人なつかしさで顔を出したのである〉と語っている。この指摘は鋭い。戦後の太宰がコミュニズムの運動と直接かかわったのは、この一回きり。

以後の太宰には、むしろ反共的な言動もあるが、太宰は共産党だけのことではなく、戦後のあらゆることに不信を募らせていった。この辺のことは昭和二十二年(一九四七年)三十八歳のときに創作した『トカトントン』に、事の是非はともかくとして、巧く描ききっている。

青森県共産党再建会議に加わっているのだから、戦前・戦中の関わりは深いものがあるが、紺野与次郎が〈党員であったことはありませんね。事実上ではね。そのころのアジト提供者というのは、むしろ非党員なんです〉(「太宰治とコミュニズム」、『太宰治の人と芸術』第二号、昭五十.四)と述べている。

紺野は明治四十三年三月九日生まれ。太宰より数ケ月年下の同学年であった。当時の共産党中央委員で、のちに国会議員となる。昭和五年七月十五日以来、共産党中枢は破壊されていたが、松村昇(スパイM・本名飯塚盈延(みちのぶ)が風間丈吉らと連絡をとりあい、岩田義道、紺野与次郎の四名で中央ビューローを結成、共産党の中央部を再建していた。(絲屋寿雄『日本社会主義運動思想史』法政大学出版局、昭五十五・十一)。

断片的ではあるが、『列車』、『猿面冠者』、『虚構の春』、『二十世紀旗手』、『東京八景』、『葉』、『狂言の神』、『懶惰の歌留多』、『花燭』、『おしやれ童子』などには、コミュニズムとの関わりが出てくるので、生涯太宰の胸の何処かに当時のことが消えないものとなっていた。しかしこのことが自殺に結び付く自己否定となったとは思えない。

太宰の実家は既述したように、長兄を初めとして男四人兄弟は芸術を愛好するタイプで仲も良かったが、末弟の太宰治一人が破天荒な所業を繰り返していた。亡父は貴族院議員、長兄は現役の政友会の有力県議の家だから、太宰の非合法活動を長兄は立場上黙視できない。

小山初代という太宰より四歳年下の芸者との結婚もさりながら、家族に非合法な共産党支持者がいるとあっては、津島家の一大事。

太宰二十二歳の十一月九日、上京した長兄・文二によって、太宰の分家(義絶)・除籍、学費、生活費の負担を前提に、初代との将来の結婚を承認することで決着。

十一月十九日、太宰の分家・除籍の手続きがとられた。十一月二十四日、長兄・文二は、太宰の名で小山家と結納を取り交わすが、突如、太宰の自殺未遂が起きる。長兄としては寛容に寛容を重ねた上でのこの事態、なにがなんだかわからなかった。

その後、昭和六年(一九三一)二十三歳、一月二十七日、太宰と長兄は、原籍の移転、小山初代との結婚、今後の生活費や学費などについて詳細な「覚」を取り交わした。「覚」は、長兄が一方的に示した。

内容は、昭和八年の大学卒業までの間、月額百二十円づつ長兄が負担すること。ただし、帝国大学からの処罰、検事の起訴、浪費等の場合はこの額を減ずる。というものであった。その減額規定の中に、「社会主義運動に参加し或いは社会主義者又は社会主義運動へ金銭或いはその他の物質的援助を為したるとき」という一項目があり、長兄としては最大限の譲歩案だった。それにもかかわらず昭和七年(一九三二)二十四歳の六月、青森の特高警察が、生家を訪れ、太宰の行動について照会したことから、長兄に非合法運動のことがわかり、仕送り停止。

長兄から自筆による送金中止の手紙が届けられた。内容は厳しかった。青森警察署に出頭し、左翼運動からの離脱を誓約しない限り、一切の縁を絶つ、とするものであった。

七月中旬、青森警察署に出頭、以後、非合法活動から離脱。生活費は、「覚」の定め通り、月額百二十円から九十円に減額。

津島家に経済的支援を受けながら、その顔に泥を塗るような所業、太宰としては弁解の余地がない。それも社会革命に本心から取り組んでいるのだったら、主義・主張の相違ということで、長兄としても太宰の見るべき点は尊重もしただろうが、太宰の共産党との関わりはそんなものではなかった。言ってみれば金持ちの坊ちゃんのシンパサイザー的支援の気持ちにすぎなかった。当時の関係者の弁をみてみる。

弘前高時代の太宰とコミュニズムとの関わりに関して、上田重彦(石上玄一郎)は、〈我々研究会(筆者注「政治研究会」)の者は彼を一種の精神的奇型児と見傲し、彼に対しては入会を誘ひもしなかったし寧ろ、好意あるいたはりの眼を以て臨んでいた〉〈私は数名の学生とともに弘前署の特高に検挙され、学校の方は放校になつた。津島は研究会のメンバーでもなかったから無事に卒業し東大の仏文にも行つたが、のちに津島が大学で左翼の運動をしてゐると聞いて意外に思つた〉と述べている。

大高勝次郎は、「津島修治の思い出」(『無名群』昭三十七・四)で、〈私の知る限りでは、彼は弘高在学中は左翼の思想にも組織にも無関係であった〉と述べている。

相馬正一は〈左翼的な作品を書いたり校内細胞と接触してストライキに積極的に参加したとしても、それはどこまでも太宰の文学的理由に基づくものであって、コミュニズムとの直接的な関係は考えられません〉(『菊池九郎。佐々木五三郎・太宰治(上)』弘前図書館、昭四十三・一、『太宰治』津軽書房、昭五十一。六所収)と述べている。

大学にはいってからはどうだったか。大高勝次郎は次のように述べている。

受験の為に東京に集ったときから、私達は既に、一つの会合を作った。私達といっても左翼的傾向のある者ばかりであった。会合の場所は、大抵津島の下宿であった。津島は喜んで室を提供した。会合はまだ正規のものでなかったから、気楽な空気が充満していた。
アジトとして、津島の室を度々利用させて貰った。色々なカンパにも、相応のことをしてくれた。併し、私は津島を左翼の組織に加入するようにすすめたことは一度もなかった。津島のような人間が、苦しみに満ちた地下運動に堪えられるとは思われなかったからである。

当時の活動家からみても、太宰が覚悟を決めて非合法活動に参加していたとは思えなかった。器に合わないことに太宰は、'''旧弊な世の中が変わればいいという関心だけで首を突っ込んでいた'''。あるいは女にほだされるように、非合法の正義感の面にほだされてアジトを提供したり、長兄からの仕送りの一部をカンパしていた。

だからといって太宰を軽んじる気持ちは私にはない。これだけでも当時としては勇気の要ることだった。当時の関係者は語っている。

〈「裏切者」などと極めつけるのは、事情を知らない人達の考えることで、修治の、あの精一杯の党に対する寄与に対して気の毒だと恩う〉(工藤永蔵、既出)

〈あの厳しい情勢の中で、精一杯党活動のために尽してくれた太宰には、工藤も私も心から感謝するものである〉(渡辺惣助、既出)

〈アジトを提供するということは、その当時としては非常に勇気のいることだったですね〉(紺野与次郎、既出)

弘高在学中から帝国大学在学中の昭和七年までの左翼学生との関わりが、太宰にとっては唯一の青春ではなかったかと思う。

三回目の自殺の経緯は次のようなものである。

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-28 10:34:51 | 文藝評論
5 太宰の前期


以後年譜の太宰の自殺、心中前後を見ていくことにする。
第一回目の自殺未遂までの年譜は、

■明治四十二年(一九〇九年)六月十九日、青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山四百十四に、父津島源右衛門、母夕子(たね)の六男として生まれる。
十一人兄弟中十番目の子供であった。戸籍名は津島修治。当時の津島家は県下屈指の大地主で父親は地方名士として活躍。親族に住み込み使用人を加えると、三十人以上が同居していた。母親が病弱のため生後すぐから乳母に、離乳後は叔母キエに育てられる。

■明治四十四年(一九一一年)二歳、昼間は使用人である近村タケに守りをされ、夜はキエの部屋で寝るようになる。これが六歳まで続いた。

■大正五年(一九一六年)七歳、一月、叔母キエの一家が北津軽郡五所川原町に分家。四月、金木第一尋常小学校入学。

■大正六年(一九一七年)八歳、たけが、叔母キエの家の女中となって金木を去る。

■大正十一年(一九二二年)十三歳、三月、金木第一尋常小学校を全甲首席で卒業し、四月、学力補充のため四ヵ村(金木と隣接三ヵ村)組合明治立高等小学校に一年間通学する。父親は貴族院議員(多額納税)に選出される。

■大正十二年(一九二三年)十四歳、三月、父が東京で死去。四月青森県立青森中学校に入学。青森市内の遠縁の家より通学。

■大正十四年(一九二五年)十六歳、この頃より作家を志望し、級友との同人雑誌「蜃気楼」等に小説、戯曲、エッセイを発表。

■大正十五年・昭和元年(一九二六年)十七歳、「蜃気楼」に創作を積極的に発表。三兄圭治の提唱で、圭治、修治の兄弟が中心となって「青んぼ」を創刊。

■昭和二年(一九二七年)十八歳、四月、中学校を修了し、弘前高等学校文科甲類に入学。七月、心酔していた芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受け学業を放棄し、義太夫を習い、花柳界に出入りする。九月、芸妓の小山初代(おやまはつよ}と知り合う。

■昭和三年(一九二八年)十九歳、五月、同人雑誌「細胞文芸」を創刊し、辻島衆二の筆名で『無間奈落』(未完)を発表。九月、四号で廃刊するまで井伏鱒二、舟橋聖一、林房雄ら中央作家からの寄稿も得る。

■昭和四年(一九二九年)二十歳、弟の礼治が病気で死去。「弘高新聞」や同人誌に作品を発表。秋頃から急激に左翼思想に傾斜する。自己の出身階級に悩み、十二月十日深夜、下宿でカルモチン(睡眠薬の一種)による自殺を図るが失敗。(一回目の自殺未遂)

『兄たち』という作品に次のようなことが書かれている。

父がなくなったときは、長兄は大学を出たばかりの二十五歳、次兄は二十三歳、三男は二十歳、私が十四歳でありました。兄たちは、みんな優しく、そうして大人びていましたので、私は、父に死なれても、少しも心細く感じませんでした。長兄を、父と全く同じことに思い、次兄を苦労した伯父さんの様に思い、甘えてばかりいました。


長兄は二十五歳で町長、三十一歳で県会議員になった。また長兄が三十歳のとき、「青んぼ」という同人雑誌を発行。津島家は政治家一家というよりも、本来は芸術愛好一家だった。

以下は太宰が二十六歳のときに「文藝」に掲載した『逆行』の書き出しだが、すでに死に病に取り憑かれ、老成している。

老人ではなかった。二十五歳を越しただけであった。けれどもやはり老人であった。ふつうの人の一年一年を、この老人はたっぷり三倍三倍にして暮したのである。二度、自殺をし損った。そのうちの一度は情死であった。三度、留置場にぶちこまれた。思想の罪人としてであった。ついに一篇も売れなかったけれど、百篇にあまる小説を書いた。しかし、それはいずれもこの老人の本気でした仕業ではなかった。謂わば道草であった。いまだにこの老人のひしがれた胸をとくとく打ち鳴らし、そのこけた頬をあからめさせるのは、酔いどれることと、ちがった女を眺めながらあくなき空想をめぐらすことと、二つであった。いや、その二つの思い出である。ひしがれた胸、こけた頬、それは嘘でなかった。老人は、この日に死んだのである。老人の永い生涯に於いて、嘘でなかったのは、生れたことと、死んだことと、二つであった。死ぬる間際まで嘘を吐いていた。


太宰の二度目の自殺(心中)は年譜によると、

■昭和五年(一九三十年)二十一歳、三月、弘前高等学校を卒業。四月、東京帝国大学仏文科に入学。六月、井伏鱒二に初めて会い以後師事する。七月、『学生群』を青森地方の同人誌「座標」に発表(十一月まで連載して中断)。この頃より非合法運動に関係。秋、小山初代が上京して来たが、長兄文治が上京し、生家からの分家を条件に初代との結婚を承諾。初代はひとまず帰郷する。十一月、銀座のカフェの女給である、田部あつみ(本名シメ子、十九歳の人妻)を知り、三日間共に過ごしたのち、神奈川県腰越町小動崎の畳岩の上でカルモチン心中を図ったが、田部シメ子のみ絶命。自殺幇助罪に問われたが、起訴猶予となる。(二回目の自殺未遂)

この心中については『道化の華』に次のように書いてある。小山初代との結婚を長兄に承諾して貰ってから、さほど日にちの経っていないときの心中だから、太宰にも明確な自殺の理由の思い当たらない、死病としか言いようのない心中事件。しかし相手の人妻は死亡したので、太宰はこの十字架を背負うことになる。

その前夜、袂ケ浦で心中があつた。一緒に身を投げたのに、男は、歸帆の漁船に引きあげられ、命をとりとめた。けれども女のからだは、見つからぬのであつた。その女のひとを搜しに半鐘をながいこと烈しく鳴らして村の消防手どものいく艘もいく艘もつぎつぎと漁船を沖へ乘り出して行く掛聲を、三人は、胸とどろかせて聞いてゐた。漁船のともす赤い火影が、終夜、江の島の岸を彷徨うた。大學生も、ふたりのわかい女も、その夜は眠れなかつた。あけがたになつて、女の死體が袂ケ浦の浪打際で發見された。短く刈りあげた髮がつやつや光つて、顏は白くむくんでゐた。

葉藏は園の死んだのを知つてゐた。漁船でゆらゆら運ばれてゐたとき、すでに知つたのである。星空のしたでわれにかへり、女は死にましたか、とまづ尋ねた。漁夫のひとりは、死なねえ、死なねえ、心配しねえがええずら、と答へた。なにやら慈悲ぶかい口調であつた。死んだのだな、とうつつに考へて、また意識を失つた。ふたたび眼ざめたときには、療養院のなかにゐた。狹くるしい白い板壁の部屋に、ひとがいつぱいつまつてゐた。そのなかの誰かが葉藏の身元をあれこれと尋ねた。葉藏は、いちいちはつきり答へた。夜が明けてから、葉藏は別のもつとひろい病室に移された。變を知らされた葉藏の國元で、彼の處置につき、取りあへず青松園へ長距離電話を寄こしたからである。葉藏のふるさとは、ここから二百里もはなれてゐた。


動機について、同書で次のようなことを書いている。

葉藏は長い睫を伏せた。虚傲。懶惰。阿諛。狡猾。惡徳の巣。疲勞。忿怒。殺意。我利我利。脆弱。欺瞞。病毒。ごたごたと彼の胸をゆすぶつた。言つてしまはうかと思つた。わざとしよげかへつて呟いた。
「ほんたうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のやうな氣がして。」
「判る。判る。」小菅は葉藏の言葉の終らぬさきから首肯いた。「そんなこともあるな。君、看護婦がゐないよ。氣をきかせたのかしら。」


『火の鳥』では次のように書いた。執筆は石原美知子と婚約する直前の昭和十三年九月、山梨県御坂峠の天下茶屋であったから、八年間、後ろめたい十字架を背負っていたことになる。双方に刹那的な厭世観が読みとれる。のちの山崎富栄との心中の動機も、究極ではこのパターンである。

ふたり切りになると、
「あなた、死ぬのね。」
「わかるか。」乙彦は、幽かに笑つた。
「ええ。あたしは、不幸ね。」やつと見つけたと思つたら、もうこの人は、この世のものでは、なかつた。
「あたし、くだらないこと言つてもいい?」
「なんだ。」
「生きてゐて呉れない?あたし、なんでもするわ。どんな苦しいことでも、こらへる。」
「だめなんだ。」
「さう。」このひとと一緒に死なう。あたしは、一夜、幸福を見たのだ。「あたし、つまらないこと言つたわね。軽蔑する?」
「尊敬する。」ゆつくり答へて、乙彦の眼に、涙が光つた。

その夜、二人は、帝国ホテルの部屋で、薬品をのんだ。二人、きちんとソフアに並んで坐つたまま、冷くなつてゐた。深夜、中年の給仕人が、それを見つけた。察してゐたのである。落ちついて、その部屋から忍び出て、そつと支配人をゆり起した。すべて、静粛に行はれた。ホテル全体は、朝までひつそり眠つてゐた。須々木乙彦は、完全に、こと切れてゐた。

女は、生きた。


自殺の動機は、消費者金融の取り立てに追い回されているといった経済的理由を除けば、だいたい本人にもわからない気分のものである。衝動的、発作的なものもある。神経衰弱の芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」という言葉を遺した。最近では注目の若手作家であった鷺沢萌が、風邪で不調な体を持て余すかのように、トイレで縊死(いし)した。自殺するのに動機は要らない。

津島家の番頭、中畑慶吉氏の語った面白い記録がある。

昭和五年の十一月でしたか、私は文治さんに呼ばれました。「修治の奴が、鎌倉で情死事件を起こした。中畑君、すまんがすぐに行って、君の好きなように処理をつけちゃくれないか」私は文治さんから三千円を預かると夜行に飛び乗り、鎌倉に急ぎました。……鎌倉に着いてからすぐに、私はシメ子の内縁の夫田部某に会いました。……この人と鎌倉警察の人と私と三人で、仮埋葬してあったシメ子の死体を確認いたしました。警察では最初、田部某が本当にシメ子の身内かどうか疑いをもっておったようですが、死体が鼻血を出したので、はじめて信用したようです。昔から、変死体は近親者と会うと鼻血を流す、といいますから。それはおびただしい量の血でした。大変な美人で、私は美人とはこういう女性のことをいうのかと思い蓋した。……次の日の朝でしたか、私は警察署の宿直室で、偶然にも金木生れの刑事さんに立会人になってもらい、田部君に「今後は一切、無関係」という意味のことがらを認めた念書を入れてもらいました。その代償として、預ってきた金から百円をやりました。その日は、恵風園病院に入院している太宰を見舞いに行きましたが、自殺封助の罪に問われている男にしては明るい彼を見てびっくりしたことを憶えています。私が太宰の後始末をつけるため、東京へ向う車中にあったとき、この北さんから電報がきました。当時共産党の活動を太宰がやっていて、その秘密書類が下宿、戸塚の常盤館だったと思います、に置いてあって、見つかるとまずいから処分してきてくれ、というのです。私は上野から円タクを飛ばして下宿へ立ち寄り、小さな柳行李一杯くらいあった書類を焼いてくれるように女中頭さんにチップを渡して頼んでから鎌倉に向ったのです。太宰の年譜のはとんど全部が、私自身で秘密書類を焼き捨てたという記述をしているそうですがそれは誤りです。次の日、太宰の部屋に思想犯刑事が踏み込んだそうです。


ここに浮かび上がってきたものは、津軽家の当主(文治)にとっては、太宰の心中も一大事ではあったが、このこと以上に神経を尖らせたことは、太宰と左翼の関係であった。