喜多圭介のブログ

著作権を保持していますので、記載内容の全文を他に転用しないでください。

書き出しと結末(1)

2007-02-27 09:19:59 | 小説作法
中編(80枚~200枚)・長編を創作していて苦労するのが、書き出しの数段落と結末の数段落の呼応。書き出しが順調でも結末で転ぶということがある。ぼくも何度か転んだ。そのたびに書き出しの箇所を熟考。そして結末を考え直しする作業が続いた。

創作動機(モチーフ)は案外書き出しに潜んでいることが多い。執筆しているうちにしだいにモチーフに添ったテーマが見えてくる。そのテーマの結末がラストに来ることもおおい。

純文学の私小説作家は書き出しを随筆風に初めて、次第に話を盛り上げていくことがある。が最近の作家は創作の目が肥えてきているし、出版社としてもよほどの文豪でなければ、こうした書き出しは受け付けなくなっているのではないか。娯楽小説はこういう書き出しは使えない。

辻井喬は作家であり、詩人。本名の堤清二は実業家。旧セゾングループ(西武流通グループ)の実質的オーナー。財団法人セゾン文化財団理事長。学生当時は左翼、日本共産党に近い人物。

辻井喬の『森のざわめき』を見てみることにする。濃密な文体であるが、彼の文体には資本家と左翼意識の狭間での苦渋、せめぎ合いが色濃く出ていることが多い。

ようやく眠りかけると、どこからともなく怪し気なものが現れて南を悩ませた。それは意思や感情を持っている生物ではなかった。彼が手に持っている矩形の箱が、みるみる増殖しはじめて、鼻や口に入って来そうになる。あわてて捨てると、空気のなかを焔の尾を曳き、水に落ちた薪のような音を立てて消え、空間いっぱいに濃密な粘液が渦を巻き、ふたたび南に迫ってくるのだ。そうした形は妖怪というには無機質であった。それでいて妙に南を脅かす。彼等は次々に現れ、変化して南を休ませない。

■(うな)され、いっぱい汗をかいて眼覚めると時計の夜光盤の針が十二時を少し廻ったところを指している。ヴェトナムから、このシェムリアップの診療所に働きに来ている看護婦が熱を計っていってから二時間ぐらいしか経っていない。今夜も長い夜になりそうだった。

闇のなかで、よく締らない洗面所の蛇口から水が垂れる音がしている。枕元で守宮(やもり)が啼いた。見たところは日本にいるのと変わらないのに、意外に大きな声で、はじめの頃南を驚かした。気温は四十度に近いだろう。それなのに汗が出たあとのからだは冷えて、自分が平べったくなってベッドの附着物になったような感じがある。苦しくて、同じ姿勢で寝ていられなかった二週間前に較べると、少しずつ楽になってきているのは確かだ。東京から一緒にここに来た“アンコール遺跡群調査団”のメンバーは、ずっと前に日本に帰っていて、それぞれの生活に戻っているはずである。南はそのことを自分との対比で考えられるようになっていた。

彼が、この調査団に加ってカンボヂアに来たのは、中学の同級生であった著名な大学教授に誘われたからであった。彼は団長として、ディベロパーも一人参加していた方がいいから、と言ったのであったが、南の方にも日本を離れたい事情があったのである。

【結末】

考えているうちに、それを自分が考えているのか甲斐が考えているのか南には分らなくなってきた。

彼の目の前をしきりに小さく光るものが飛びはじめた。その数はどんどん増えていって彼は吹雪のように光が降ってくる中の、畔道のような薄黒い帯の上を歩いていった。あっ、これは蛍だな、蛍がこんなにたくさん生れたのだと思った。畔道からも蛍は次々に翅を拡げて空中に浮ぶのである。これは、子供の頃、工場の隣にあった家に泊って、近くの川に蛍狩りに行った時の記憶と、満月のアンコールワットの光景が混じっているのだと南には分かった。あの晩、父は何を考えていたのだろう、と彼は思った。記憶のところどころに母との不和に悩んでいた父の表情が残っている。子供の南の手を曳いて黙りがちに川へ向う父の胸中に、遂に満たされない憧僚への想いがゆるやかに流れていたのではないだろうか。川筋に沿って生れ、川筋に沿って光の帯を作り流れる蛍を追って、父は自分の想いを流そうとしていたのだろうか。仕事で勇敢だったからといって、父の胸中が淋しくなかったという保証はない。むしろ逆だったかもしれない。淋しさが果敢な決断を生むことだってあるのだ。いつの問にか彼の手を曳いているのは父親なのか甲斐なのかも彼には区別がつかなくなっていた。蛍はみるみる数と光量を増して、やがて南の視野いっぱいに光の渦となって動きはじめた。すると南は、巨きな男と二人だけで、夜の広いテラスの上に立っているのだった。周囲から無言のざわめきが海囎のように湧き起るのを南は聴いた。それは熱帯樹林の一本一本が、かすかに身を揺っている音のようでもあった。また、森に潜む生き物が息を殺して南達の動静を窺っている気配のようでもあった。

誰かが何か言った。南は甲斐が後姿を見せて視野の中を遠離っていくのをチラッと見た。

目をあけると大臣がテレビのライトを浴びて、中央の席に近づいてくるところだった。


団塊の世代と文学・文藝(2)

2007-02-25 01:15:53 | 文学随想
ところがここに大きな問題点があります。何かといえばこれから団塊の世代によって読まれるべき本が、書店に出回っていないことです。よほどの作家でないと重版、再刊されていない事実です。このことは団塊の世代の読書好きはご承知かと思います。書店で探してもいまもてはやされている単行本、文庫本ばかりで、ぼくが読みたい本が見当たりません。

公共図書館は少しましですが、事情は同じです。つまり司書が若く、どうしても今風の書籍しか購入していない傾向が見られます。

団塊世代にとっては本があって本がないという、なんとも哀れな様相がいまの日本の出版界です。仕方ないのでどうしても入手したい本は、全国の古書店から直接入手しています。古書店は信用で持っていますので、トラブルはありませんでした。
スーパー源氏

そこで少し先を見通していた出版社、たとえば新潮社が電子本、CD-ROM版の「新潮文庫の100冊」を一巻、二巻と販売しました。ぼくは'''電子本については新しい試みと受け止めて否定はしません。が、普及するかとなると当初から疑問視していました'''。現に電車、バスの座席で電子本を読書しているヒトの姿は、これまで一人として見かけませんでした。ケイタイを指先で動かして何か読んでいるようですが、読書とは違うようです。

何よりも電子本は団塊の世代の読書センスとは異なるものです

ぼくは2002年の8月に「電子ブックの行方は?」というタイトルで書いています。少し長いが掲載しておきます。

私はパソコンのオペーレーションシステム(OS)がDOSの頃から文書を縦組で読める電子本(ブック)に関心を持ち、ネット上を探し回っていた。幸いなことにこういうソフトを見付けて,パソコンの画面上で縦に文章が読めたときは嬉しくなったものだ。

WINDOWS3.1になってからは電子本(Book Browser)は株式会社ボイジャーのEXPANDED Book Browserがほとんど独占状態になった。95年に新潮から『新潮文庫の100冊』というCD-ROMが定価15000円で売り出されたが、これにはEXPANDED Book Browserがセットされている。

ページ面を説明すると、16行×20字、ルビが打たれている。印刷機能はない。読みづらい文字ではないが、おとなの私としては画面に齧り付いて読むくらいなら、紙の本で読みたいと思ってしまった。なにより不便なのはパソコン画面でしか読めないことで、パソコンがないと用事のないシロモノである。

B5判ノートパソコンで読めるにしてもノートパソコンの重量を考えると、一冊の文庫本のほうが勝る気がした。

学生のうちは物珍しさもあってこれで本を読んでみようかということだろうが、私はとくに読んでみたいとは思わなかった。

それにこの程度の機能だと『新潮文庫の100冊』の用途が個人にかぎられていて、たとえば大学の文学部の教授が、これを使っての作品研究を学生とやろうとしても印刷機能がないからテキスト作成できない。あえてやろうとすれば20名の学生に一台ずつパソコンがなければどうにもならない。また印刷機能が付いても16行×20字では一頁ずつB5、A4用紙で印刷すればちょっとした作品では、紙消費量は大量なものになり、森林資源の破壊まで心配しなければならない。

EXPANDED Book Browserはその後ボイジャーから発売されたT-Time Ver.2.0に引き継がれていった。多少の機能アップはあっても基本的な文章読みでは変化はない。画像入りの本が読めるようになった分だけ、子供の玩具の趣にさえ堕落したのではないかと思ってしまう。

T-Timeの場合、必ずしもパソコンを必要とはしない。カシオからはl'agendaという携帯用の読書器が発売されている。画面は液晶である。電車で読書が一つの「売り」だがバッテリー切れの心配もあるし、私はこんな物で読むのなら一冊の薄い文庫本を携帯したほうが軽量ではないかと考えてしまう。やはり若者のいっときの玩具かなと思う。

T-Time形態で読ませようというのが文春の商魂、WEB文庫である。10代、20代の読者が少し飛びつく程度ではないだろうか。現に揃えてある電子ブックは平井和正著『月光魔術団』、『時空暴走 気まぐれバス』、半村良著『女神伝説』のような娯楽物が数冊揃っているだけだ。おとな向けの本が一冊もないところを見ると、文春自体がWEB文庫では読まないと踏んでいるのであろう。

T-Timeのソフト自体、まずいプログラミングソフトである。前身の『新潮文庫の100冊』は作品内容をテキストファイルとして抽出しようと思えばできる。著作権切れの作品ならばどうということもないが、大江健三郎などの現役作家の作品が抜き出され、無闇に流出するとなると、著作権侵害が発生する。

それに読書への見識ある作家だと、ぼくの作品をそんな物では読んで貰いたくない、と掲載を拒否するであろう。このことが現状の電子ブック普及にとっては最も大きな障害になる。

ほかに光文社電子書店がザウルスを電子本に変身させるTTVブックリーダ for ZAURUSやシャープ版TTVブックリーダ『ブンコビュア v2.11』で読める作品を販売しているが、いずれも画面が狭くて文字数が少ない。やはり子供の玩具レベル。買って使ってみようかという気にはならない。

ほかにテキストファイルとEXPANDED Book Browserで読めるファイルを販売しているパピレス電子書店がある。太宰治の『女生徒』が400円。
パピレス電子書店

見逃してはならないことは上記の携帯用 Book Browserでの本というのは、ペーパーブック通りの体裁ではないということ。底本通りの復刻は狭い画面に表示するのだからどだい無理な注文。一章、二章といった区分はあるだろうが、この程度のことで、つまりは文字内容だけを読むのである。

こうなると私のサイトのPDFによる書籍体裁のほうがずっと電子本らしい。こちらも三段組体裁であるから底本通りではないもののやれる範囲では底本の体裁に近似させてある。

Book Browserは世界中でフリーウェアソフトとして無料配布されている Acrobat Readerだから、T-TimeのBook Browserを2、3千円出して買う必要もない。体裁は雑誌『文藝春秋』の三段組を真似してある。一頁が400字詰原稿で6枚分、原稿用紙300枚の長篇でもA4縦刷りで50枚の紙消費ですむ。印刷印字は書籍並とくればおとなの読書人にはこちらのほうが適しているのではないか。小説はもとよりエッセーでも新聞社の連載記事でも、あるいは一年分の社説でもまとめて読める。太宰の作品だと『美少女』、『黄金風景』、『待つ』、『作家の手帖』、『富嶽百景』、『ヴィヨンの妻』、『姥捨』、『グッド・バイ』を収録してある。

ところで電子本でも趣の異なっているものとしては、平凡社の「世界大百科事典」のパソコン使用のCD-ROM版。小学館は8cmサイズのCD-ROM電子ブック版「日本大百科全書」を96年3月に発売している。

8cmサイズのCD-ROM版であればソニーが発売しているブックマンというBook Browserで読める。角川の8cmサイズのCD-ROM「広辞苑」といった辞典類などは、項目検索の迅速では書籍よりははるかに早い。書籍版はどれも重たくて書棚から抜き出すのさえ嫌になるし、家屋の床の加重負担もある。部屋のスペースも狭まるし、自分が死んだ後これはどう処分されるのかと余分なことまで思案しなければならない。

この点での利便性はCD-ROM版が勝っているが、ただブックマンの文字画面は狭くて見づらい。勉学途上の学生なら活用するかもしれないが、50代、60代ともなるとパソコン画面での検索ならしてもブックマン形式の読書器は使わないのでないか。

しかしながらパソコンで使える辞典・事典のCD-ROM版は、印刷機能やテキスト文抽出機能が付いていれば今後も伸び続けるだろう。全何巻という「世界大百科事典」、「日本大百科全書」を買うことを思えばこちらに手が出る。

いずれにしてもそれなりのお値段、誰もがおいそれとは購入できそうもない。

このように調査・分析してくると、電子本といっても娯楽ぽい短篇小説を読むためだけの携帯用電子本と、印刷して読むための電子本(パソコン画面でも読めるので一応電子本と呼ぶ)とに方向性が分かれるのではないか。

年配の人に訊くと、とてもブックマンなどで読む気がしないと言う声が多い。こうした人たちには、私がやっているPDFファイル形式が向いているかもしれない。印刷できれば活用範囲が広がる。紙であれば重要箇所に赤線を引けるしポスト・イットだって貼り付けられる。印刷したものをコピーすれば大勢が読める。背景、文字のカラー化も可能だがこれをするとモノクロプリンターだと逆に汚く印刷される。

本のように綴じられていないことも利点である。たとえば太宰治の作品について評論を書く場合、作品の一頁からすべての頁が必要なわけではなく、筆者が注目し引用したい箇所だけあればいい。こういった要求のときは本のその頁を引きちぎるということはやりずらいが、私の体裁のPDFは綴じられていないからその部分だけを机に置いて草稿を練ることができる。携帯の電子ブックではとてもこの芸当は無理だ。

現状のところ電子本の行方は見当たらないし、見当たるとしたら私のサイトのPDFに軍配が上がりそうな気がしている。


掌篇――吉野山

2007-02-23 08:14:39 | 自作小説(電子文庫本)
ホワイトボードを背にしての毎日の子供達との付き合いから逃れるような気持ちで、祐吉は五月の第二日曜日、一人で空中ケーブルに乗り花吹雪の舞う吉野に登った。普段は日曜日も休みなしに学習指導している神戸の有名進学塾に臨時勤めしていた。大学を出て五年になる。

連休明けの日曜日であったが、ケーブルの中は定員オーバではないかと思えるほどの人数、路上に吐き出されての中千本に上がる坂道も中年のご婦人達で賑わっていた。若いカップルもいることはいたが、花の吉野は中年婦人に占領された感があった。
「あら、おひとりですか」

中千本の行きつけの食堂のおかみは、たて込んだ客の応接の合間をぬって、祐吉に声を掛けた。丸顔の目のきりっとした女である。
「相変わらずこんでますね」
「この時期だけですよ。あいにく風が強いでしょう。お泊まりですか」
「ええ、都合よくキャンセルがあってね」
「どうぞ、奥があいてますから」

祐吉は座卓の並ぶ座敷の賑わう客の肩を分けて、八畳ほどのベランダに出た。花むしろが敷かれ、四脚の座卓のうち二脚は花見客に囲まれていた。空いていた座卓の上に花びらが数片散っていた。

すぐに別の女がビールと小皿につまみを盛って小走りにやって来た。
「おかみさんからです」
「あ、ありがとう」

祐吉は中のレジの方を見て、こちらを向いていたおかみに視線を合わせて言った。うなずく様子が目に映った。

一昨年から夏の合宿学習に子供を引率して吉野に登っている。しかし丸六日間を日に八時間という強化学習を消化するために、ゆっくりと自分の時間をとって吉野を味わうゆとりはなかった。その不満を解消しようとして、昨年この時期に無理に友人二人を誘って上がり、この食堂で半日を過ごした。合宿の宿舎に近いこともあり、祐吉は初めての吉野からここを利用していた。

吉野の谷間は意外と険しい。その緑の谷間を花吹雪が散り急ぐように風に舞っていた。祐吉はその風情をビールをゆっくりとのみながら眺めた。ほんのしばらくであるが、この世の身すぎ世すぎが、何もかも花の世界のうたかたのように思えてくる。それにここに来ると華子とのことが思い浮かぶ。
「花子なんて平凡な名前だな」

初対面の華子に言うと、「花の花じゃないのよ。はなやかの華、あれよ」と華子は涼しい笑顔で言った。自分の名前を気に入っている顔であった。

華子は不思議な女であった。何を考えているのかさえ分からない女だった。物事を割り切って考えるようなところもあれば、妙に古くさいところもあった。三つ歳上のせいで、そう思えたのかも知れない、と今の祐吉は考えている。

華子との結び付きそのものが出し抜けの感じであった。大学の先輩に連れられて初めて行ったバーで水割りを飲んでいると、そこのホステスである華子が、祐吉のとなりに強引に座った。卒業を目前にしての大学のコンパの後の二次会で、ビールに強くない祐吉はすでに目の奥が酔っていた。
「あなた学生さんね」と華子は言った。

祐吉はうなずいた。
「東京の人と違う。大阪でしょう」
「そうだよ。大阪は淀川の生まれ」
「寅さんのようね。私は奈良。奈良の吉野」

祐吉は華子に急に親しみを感じた。
「西行庵のある吉野?」
「さいぎょうあんって知らないわ。私の家は大和上市にあるの。吉野山の少し手前の所。吉野川の流れる木材の町、知らない?」

祐吉は華子に不安定な自分の心をぶつけてみたくなった。なかなか決まらない就職にいらいらしていた。元はといえば自分が何に自分の人生を掛けてよいのか、それの分からないところにもやもやとしたものがあった。

「おれのところに来いよ。その場その場で自分の心につじつまを合わせていくのが人生てものだよ」
二年前に中小クラスの証券会社に入社した先輩は、電話口で哀れむように言った。

「何か心配ごとがあるようね。よかったら今夜私とデートして見ない。気分転換よ」
華子はそう言い残すと、新しくきた客の席に移って行った。

「学生さん」
酔眼を開くと華子の笑顔が目の前にあった。祐吉はベットに寝ていた。
「どうしてこんな所に?」
「あんなこといって。貴方が行こうと誘ったのよ。あなたたと私はもう出来てしまったの。でもよかった。あなた初めてなのね」

祐吉は夢の中で何かに夢中になっている自分を感じてはいたが、それは華子の言葉の世界のものとはなにか違う感じのものであった。
「どうして僕と?」
「好きになったの。ひと目惚れってあるじゃない」

華子は祐吉の上に乗ってほほえんだ。華子の豊かな乳房が祐吉の胸の上にあった。祐吉は意識の戻った体であらためて華子を下にして抱き締めた。

五か月余り華子と関係が続いた。華子は嫌なそぶりも感情も見せなかった。そしてある夜祐吉は華子に結婚を申し込んだ。大学を卒業していたが、就職はしていなかった。先輩が探してくれた証券会社のアルバイトでなんとか過ごしていた。
「ばか言わないで。私は若いひととは結婚しないわ」

それ以後祐吉は華子に結婚の話をしなかった。華子との関係の雰囲気は初体験の頃と同じであった。祐吉の就職が大阪の親父の縁故で強引に決定した。華子との事もなんとなく両親に感づかれていた。大阪に戻る日が近付いた頃、祐吉はもう一度華子に結婚を迫った。しかし華子の拒絶は以前に増して激しかった。
「私、ある会社の社長と結婚することになってるの。もうこれでお別れにしましょ。あなたは大阪に帰らないと駄目」

ベットから抜け出た白い体の華子はいつものように器用な身のこなしで服を着けた。
「大阪で早くちゃんとした恋人を作りなさいね。そうだわ、桜の時期に恋人と吉野に上がったら。ロマンチックでいいとこよ」

その言葉が華子に会う最後の言葉になった。バーに行っても華子の姿はなく、ママも居所を言わなかった。

祐吉は近付いてきた女の子に、「きょうは少し寒いね。お酒を二本と田楽を適当にもってきてくれる」と呼び止めて言った。

吉野の谷底に向かって、白い花吹雪の帯が、落下する滝の流れように果てしもなく散っていた。

団塊の世代と文学・文藝(1)

2007-02-22 09:35:45 | 文学随想
団塊の世代とはご承知のように1947年から50年生まれ、戦後第一次ベビーブームに生まれた人たちを指します。この人たちがこの一月から順次企業退職します。そして団塊の世代によって世相が変貌していくことが分析されており、これらの人たちに応じた企業戦略も練られているところです。

とはいえ、今年から急に社会変化するものでもなく、すでに五六年まえから社会は変貌しつつあると観るべきであり、事柄によっては五年ほど先を観ないことには方向が観えてこないものもあるでしょう。

これからの余生、60代以降をどう生きるか、過ごすかが、団塊の世代の人たちに問われてきます。オーストラリア辺りにマンション借りて暮らすヒトもいるでしょうが、これらのヒトは少数で、ほとんどの人たちはこれまでの暮らし方を大幅には変化させないでしょう。

こうしたなかでいろいろな角度からの分析があるのですが、ここでは団塊の世代に出版界がどう対応するのか、しなければならないのか、この辺のところを観てみたい。

その前に団塊の世代の退職が始まると、夫婦で過ごす時間が飽きるほど多くなる、といってもすでにこの世代の四割は、「顔つき合わせている」ことに憂鬱な気分でいるというアンケート結果が出ています。結婚二度説のぼくとしては、大いに頷(うなず)くべきき現象であります。畳と妻は新しいほどよいという言葉があるが、今日の世相では車と夫は新しいほどよい、と言えるかもしれない。この場合の新しいはとくに若いを指しているのではなく、新鮮であるという意味です。

やはり30年もするとお互いに新鮮とは思えなくなるだけでなく、マンネリによって逆に嫌な面が拡大鏡で見ているように目立ってきます。

リタイヤした無能な夫は、ダンゴムシのなって何もしない。そのくせ食事だけは手料理を三度も要求する厚かましさ。もうこのぐうたら夫の妻をやってはおれないと考えるのは無理からぬこと。

熟年離婚。傾向としては妻のがわからというのが傾向的に増加しています。結婚二度説のぼくとしては大いに慶賀すべきことではないかと歓迎しています。挙式の神仏の前で「共白髪まで一緒に暮らしましょう」と誓うことが、そもそも神仏への冒涜(ぼうとく)ではないか。むしろ30年経ったら「別れましょうね」と誓うほうが、お互いに30年間を計画的に、一粒一粒ご飯をかみつぶすように大切に暮らすことになるのではありませんか。とにかく気の遠くなる30年間でありますが、30年先には別れられるというのは、保険の満期が来る喜びよりも大きいことです。

大体どんな物事でも一気、一発で至福に到達することはありません。火星に到達するロケットにしても、最初のロケット部分を離脱、二段階、三段階を用意して到達していることは、皆様もご承知でしょう。ぼくの結婚二度説は控え目な構想で、結婚三度説があってもおかしくはないのです。

まあこのことはここでは置くとして、これからの出版界の分析、とくに文学・文藝に視点を当てて考えてみることとします。

70年代頃からの社会現象を見ますと、学校教育は義務教育の基礎学力が〈ゆとり〉と産学協同の〈コンピューター学習〉のかけ声の元に、しだいに骨抜きにされ、一方オカルト、オウム真理教、幸福の科学、統一教会系、その他の新興宗教が、この世代に浸透していった現象と重なります。

結果として基礎学力の骨抜きで低下したのは、思考力(国語と数学を基礎とする)です。ですから客観的、科学的に物事を認識する思考が低下、オカルト、新興宗教のはびこる大きな一因にもなったのです。集団催眠の掛かりやすい人間を、政財界一体で育て上げたのです。今日の若者の右傾化もこのことに符合しているのです。自民党にとっては思うつぼの人間作りをしたと言えるのです。

このことを阻止し得なかったいまの60代の責任は大きなものがあります。

文学・文藝関係の出版社は、思考力の落ちた人口比率の高い10代から30代をターゲットとした販売戦略を実施しました。それは何か、なんでもかも漫画・劇画化、アニメ化する方向でした。もう一つ付加すると少年・少女、とくに少女の性を解放するエロ化です。そして今日ではインターネットのアダルトサイトがこのことに拍車を掛けています。

もちろんどんな考察にも例外はありますが、いまの10代から30代は漫画とアニメで育った世代です。

ところが団塊の世代以降はこうしたことに毒されず、大きな影響を受けずにおとなになっています。この世代の人たちはご自分の胸に手を当てて考えると、そうだと納得されるでしょう。

このことを見逃す出版社は、よほどのぼんくらです。もし出版社勤務の読者がおられましたら、先を見通せないぼんくら出版社であれば即刻退職、将来を見通している社に鞍替えしたほうが得策です。

つまり出版社は今後方向転換します。従来の10代から30代への販売路線を、60代以降路線に変えていきます。

それなら企業勤めをリタイアした団塊世代が漫画・劇画、アニメを趣向するでしょうか。それは無理です。この世代は教養・知識を持っていますし、人生経験も学習塾から大学までエスカレート式に上ってきた世代よりは、起伏に富んだ人生経験もあります。漫画・劇画、アニメではとてもこの世代を満足させることはできません。

団塊世代がこれからの人生の余暇に探す文学・文藝は、第一次戦後派作家と第二次戦後派作家、そして第三の新人、それ以降の作家の作品が対象となるでしょうが、現在の40代以下の作家は対象外。

第一次戦後派作家としては、は野間宏、椎名麟三、梅崎春生、中村真一郎、福永武彦、第二次戦後派作家としては、大岡昇平、三島由紀夫、安部公房、島尾敏雄、堀田善衛、井上光晴らがいます。第三の新人としては、安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三、遠藤周作、三浦朱門、曽野綾子、阿川弘之、幸田文、円地文子、有吉佐和子。この世代以降の石原慎太郎、大江健三郎、北杜夫、三浦哲郎、河野多恵子、田辺聖子、津村節子、高井有一、丸山健二、中上健次、宮本輝、津島佑子ら。

一応純文学作家(芥川賞)と呼ばれる作家を挙げましたが、大衆小説作家(直木賞)のほうでも、こうした純文学作家と同年代の作品が、団塊世代によって読み直されるはずです。

鋭角的表現(18)

2007-02-21 15:04:33 | 表現・描写・形象
私の下手な創作をサンプルにするよりもやはりプロの作品を眺めてみましょう。昨日「鋭角的表現」で引用しました高樹のぶ子の『洞窟』を見てみましょう。 この作品は掌篇なんですが、あれ、会話体が一つもない。お見事。

純文学での会話体多用は慎重の上にも慎重を期したほうが、作品が緻密で、緊張感を伴い、読者を内容に引き込んでいきます。

とはいえ会話体の全くない作品が珍しいことは珍しい。そこで短編の名手、三浦哲郎の短編『マヤ』から引用します。書き出しのところです。短編の名手とは無駄語が一切なく、的確な語彙(ごい)で表現しているということです。

誘ったのは、マヤの方であった。
「ねえ、一緒にどこか遠くへいこうよ、お兄ちゃん。」

葉桜の下のベンチで、両足をぶらぶらさせながらそういった。赤いズック靴の片方が脱げて飛んだ。

お兄ちゃん、と甘く呼ばれて、耕二は悪い気がしなかった。つい、本当の心優しい兄のように、前の花壇の方まで転げていった靴を拾ってきてやると、どこへいきたいのか、動物園か遊園地か、と笑って尋ねた。

相手は五つ六つの女の子だから、遠くへといってもせいぜいそんなところだろうと思ったのだが、違っていた。
「遊園地だなんて。」とマヤは軽くせせら笑った。「もっと、ずっと遠くへよ。誰も知らないような、ずっとずっと遠いところへ。」

耕二は呆れてマヤを見詰めた。都会の子はませているとは聞いていたが、これほどだとは思わなかった。この齢で、ゆきずりにも等しい男を平気で誘惑しようとする。騙されまいぞ、と彼は思った。

二人は、もともと互いに顔も知らない赤の他人同士だったのだが、ほんの小半日前 に、ふとしたことから口を利き合う仲になったのであった。昼前、耕二が駅の自動両替機の前に立っていたとき、マヤが彼の太腿を指で突っついたのがきっかけであった 。
「悪いけど、あたしのも崩して。手が届かないの。」

マヤの紙幣は、真新しくて、きちんと四つに畳んであった。耕二は、替えた硬貨を手のひらに並べて見せてから、電車の切符を買うつもりかと訊いてみた。どうせ自動販売機にも手が届かないのだ。
「そうなの。ついでに買ってくれる?」
「どこまで?」
「どこでもいいの。」
 耕二は面食らって、困るな、そんなの、といった。
「じゃ、一緒でいいわ。どこまでいくの?」
「俺な。俺は新宿。」
「そんなら、マヤも新宿。新宿まで買って。」

おかしな子だと思ったが、頼まれた通りにするほかはなかった。マヤは、おつりを、肩から斜めに下げている小熊の顔を象ったポシェットに入れた。

二人は、一緒に改札口を通って、おなじ電車に乗った。車内は空いていたが、耕二はいつものようにドアの脇に立って外を眺めた。二年暮らした東京の街とも明日の朝にはおさらばしなければならない。雇われていた工事が終って、出稼ぎ仲間がひとまず解散するのである。耕二は北の郷里へ帰ることになる。東京の街もおそらくこれが見納めになるだろう。マヤはおとなしく耕二のそばにいて、電車が揺れると両手で彼の脚に抱きついた。そのたびに、彼は我に返ってマヤのおかっぱ頭を見下ろした。じゃれかかってくる小犬にも似た幼い躯の感触が、彼には新鮮で、悪くなかった。

新宿という街の雑踏には、きてみるたびに驚かされる。駅ビルを出るとき、耕二ははらはらして、これからひとりでどこへいくつもりなのかとマヤに尋ねないではいられなかった。マヤは小首をかしげていたが、逆に耕二の行先を尋ねた。彼は、とりあえ ず昼飯に好きなラーメンを食おうと思っていた。
「じゃ、マヤもそうする。おなか空いちゃったの。」

子供が嫌いではない耕二には、マヤを拒む理由はなにもなかった。彼は人込みのなかを歩き出したが、いつの間にか、はぐれないように手を繋ぎ合っていた。

多くはないですね。むしろ絶妙な箇所に短く会話を挟んでいる、会話と地の文の融合に絶妙の味を醸(かも)し出しているといってもいい。

プロの作品に引き比べてHP、ブログの「読んで! 読んで!」サイトの小説なるものは、やたら会話体が多い。会話体だけというのもあります。とても小説として読めたものではありません。私はこれらを漫才台本と呼んでいます。

作者が一人で漫才をしているのです。これはやってみると案外に気分のいいものです。受け答えを自分一人でするのは。気持ちがいいものだから延々と会話体になりやすいのです。

私も昔は会話体にそんなに神経は使いませんでした。無自覚に会話体を多用していたのですが、最近は会話体でやらなければならないシーンにくると、神経が鋭くなります。まず会話体でなく地の文で処理できないかと思案します。地の文で処理できればそれにこしたことはないのです。

皆さんもご自分の作品を点検して、ここは地の文で処理できないかな、と思案してみましょう。

会話体は読者に読みやすい反面、読書の感銘を水で薄めたようにしてしまいます。文学賞応募作品などは要注意です。下読みの担当者が水で薄めた作品は外しますので、一次通過も難しくなります。

鋭角的表現(17)

2007-02-20 13:47:15 | 表現・描写・形象
宮本百合子の『二つの庭』から一箇所。無駄のない状況描写。百合子の神経が細部まで働いている。これだけのなかに越智、純子、多計代の人物が浮き彫りになっている。

保が東京高校へ入学したのは前年の春であった。その夏、若い越智夫婦が田舎にある佐々の家に暮し、伸子はあとからそのときの写真をみせられたことがあった。大柄の浴衣をきて、なめらかな髪を真中からわけて結び、やせがたで憂鬱な情熱っぽい純子という夫人が、白服できちんと立っている越智と並んでうつっていた。夫人のからだにあらわれている、しめっぽくて、はげしそうな表情も、越智の白い夏服の立襟をきちんとしめて、とりすましたような工合も伸子の気質の肌に合わなかった。普通にいえばよく似合っている縁無し眼鏡も、寸法どおりにきまって、ゆとりと味わいのない越智の顔の上にかかっていると、伸子は本能的に自分が感じている彼の人がらの、しんの冷たさや流動性の乏しさを照りかえしているように思うのだった。

そのスナップ写真を伸子と顔をよせあうようにしてしげしげ眺めながら、多計代が、
「伸ちゃん、お前、純子さんてひとを、どう思うかい?」
ときいた。伸子は、そのとき、母の唐突な質問に困った。
「だって、わたし、このかたにまだ一遍も会っていもしないのに・・・・・・」
「そりゃそうだけれども、この写真をみてさ。伸ちゃんは、どう感じるかって、いうのさ」

伸子は、そういう多計代の詮索を、苦しく感じた。伸子は、恋愛の思いを知っていた。結婚した夫婦生活の明暗もある程度はわかっている。いまは女友達とひとり暮しをしているけれども、伸子は母のききかたに、女としての感情の底流れを感じ、それは成長した娘としての伸子の心に苦しいのであった。
「旦那さまが好きらしいし、ある意味で美人だし・・・・・・問題はないじゃないの」
「問題になんかしているんじゃないけれど・・・・・・」


鋭角的表現(16)

2007-02-19 13:10:29 | 表現・描写・形象
安部公房著『砂の女』であるが、これも面白い。ノーベル文学賞は安部公房か川端康成かと騒がれたのであるが、川端康成が受賞した。このとき私は政治的な匂いを嗅いだ気がした。書き出しから読者に謎かけを振ってくる。これも読ませる手法の一つである。



八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出掛けたきり、消息をたってしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄におわった。

むろん、人間の失踪は、それほど珍しいことではない。統計のうえでも、年間数百件からの失踪届が出されているという。しかも、発見される率は、意外にすくないのだ。殺人や事故であれば、はっきりとした証拠が残ってくれるし、誘拐のような場合でも、関係者には、一応その動機が明示されるものである。しかし、そのどちらにも属さないとなると、失踪は、ひどく手掛りのつかみにくいものになってしまうのだ。仮に、それを純粋な逃亡と呼ぶとすれば、多くの失踪が、どうやらその純粋な逃亡のケースに該当しているらしいのである。

彼の場合も、手掛りのなさという点では、例外でなかった。行先の見当だけは、一応ついていたものの、その方面からそれらしい変死体が発見されたという報告はまるでなかったし、仕事の性質上、誘拐されるような秘密にタッチしていたとは、ちょっと考えられない。また日頃、逃亡をほのめかす言動など、すこしもなかったと言う。

当然のことだが、はじめは誰もが、いずれ秘密の男女関係だろうくらいに想像していた。しかし、男の妻から、彼の旅行の目的が昆虫採集だったと聞かされて、係官も、勤め先の同僚たちも、いささかはぐらかされたような気持がしたものだ。たしかに、殺虫瓶も、捕虫網も、恋の逃避行の隠れ蓑としては少々とぼけすぎている。それに、絵具箱のような木箱と、水筒を、十文字にかけた、一見登山家風の男がS駅で下車したことを記憶していた駅員の証言によって、彼に同行者がなく、まったく一人だったことが確かめられ、その臆測も、根拠薄弱ということになってしまったのである。

厭世自殺説もあらわれた。それを言い出したのは、精神分析にこっていた彼の同僚である。


鋭角的表現(15)

2007-02-18 10:51:55 | 表現・描写・形象
三島由紀夫の『金閣寺』。せめてこれくらいの重厚な文体の作品を読みたいものだと若い頃は思っていた。三島は金閣寺を燃やした犯人の地元に何度か立ったことがあるのを、この書き出しでわかる描写。水上勉もこの犯人を題材にした作品があるが、三島とは異なる視点から追及してある。

第一章

幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。

私の生れたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、辺鄙な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。

成生岬の寺の近くには、適当な中学校がなかった。やがて私は父母の膝下を離れ、父の故郷の叔父の家に預けられ、そこから東舞鶴中学校へ徒歩で通った。

父の故郷は、光りのおびただしい土地であった。しかし一年のうち、十一月十二月のころには、たとえ雲一つないように見える快晴の日にも、一日に四五へんも時雨が渡った。私の変りやすい心情は、この土地で養われたものではないかと思われる。

五月の夕方など、学校からかえって、叔父の家の二階の勉強部屋から、むこうの小山を見る。若葉の山腹が西日を受けて、野の只中に、金屏風を建てたように見える。それを見ると私は、金閣を想像した。

写真や教科書で、現実の金閣をたびたび見ながら、私の心の中では、父の語った金閣の幻のほうが勝を制した。父は決して現実の金閣が、金色にかがやいているなどと語らなかった筈だが、父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字面、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。

遠い田の面が日にきらめいているのを見たりすれば、それを見えざる金閣の投影だと思った。福井県とこちら京都府の国堺をなす吉坂峠は、丁度真東に当っている。その峠のあたりから日が昇る。現実の京都とは反対の方角であるのに、私は山あいの朝陽の中から、金閣が朝空へ聳えているのを見た。

こういう風に、金閣はいたるところに現われ、しかもそれが現実に見えない点では、この土地における海とよく似ていた。舞鶴湾は志楽村の西方一里半に位置していたが、海は山に遮ぎられて見えなかった。しかしこの土地には、いつも海の予感のようなものが漂っていた。


瀬戸内晴美の文学(二)

2007-02-17 09:10:07 | 文藝評論
『比叡』は文庫本で三百十頁で、それほどの長編ではないが、熟読しておきたいので四、五頁読むと眠ることにしている(文庫本は布団の中で読むにかぎる)。

合わせて藤沢周平著『義民は駆ける』文庫本三百七十四頁と松本清張著『点と線』、文庫本二百二十七頁を読んでいたが、この二冊は一晩で読んだ。『点と線』は若い頃から何度も再読してきた。

それにしてもと思う。『義民は駆ける』を一晩で読めても『比叡』は一晩では読めない。また性急な読み方はこの作品にふさわしくない。二作品の文体を比較してみよう。

俊瑛の全身に熱いものが駈けめぐった。欲情ではなく、叫びだしたいような切羽つまった激情であった。昨日から今日へかけての、自分の行動のすべてが、頭の中をフィルムを捲きもどすように猛烈な勢いで走る。なぜあれほど終始冷静でいられたのか信じられない。俊瑛は自分が今、全身に熱いシャワーを叩きつけられているように感じた。熱いしぶきは、俊瑛の躯の内部からもふきあふれ、躯の内側も目の前も、濠々と煙る湯気が渦巻きわきかえっているように見える。その湯気が静まった後に冷え冷えとした真空が、体内にも自分の周囲にも生れるのを、俊瑛は数えきれない経験で覚えていた。かつて、この湧きたつ熱情に打ち勝てたためしはなかった。道を踏み誤った時も、道を掻き開いた時も、過去の俊子を動かしてきたものは、この躯の震える得体の知れない熱情であった。

今、俊瑛をゆさぶっている熱情は、男への一途な憐欄であった。俊瑛はむっくりと寝床に起き上り正坐していた。獲物に飛びかかる瞬前の獣のように全身が緊張しきっていた。奥の部屋から、幸江の軒が、高くなったり低くなったりしながらまだつづいていた。立って襖ぎわにゆき、息を殺しその寝息をたしかめた。俊瑛はす早く寝巻の上に枕元のみだれ箱に畳んであった白衣を重ねた。白い男帯の結び方がまだのみこめず、法衣屋がしてくれたように前で折り畳む方法がわからない。あせった俊瑛は、男帯の要領で、背に小ぢんまりと三角に結びあげた。足袋を穿き、撫でるような速さで小はぜをはめ、道服を着け、輪袈裟を掛けた。頼りないほど軽い梅の数珠を左手に通した。無意識のうちにみだれ箱の中にあったものを片端から身につけた。どれを身につける時も不馴れでぎこちなかったが、俊瑛はそのどれひとつ残さなかった。最後に掛け蒲団の下にあったオレンジと紺のチェックの毛布をひきずりだし、頭からすっぽりとかぶった。腕を伸して灯を消すと、すっと闇の渓底に全身が沈んだような気がした。上った火の色に一瞬吸いこまれそうな目まいを覚えた。


清水は歎願の事情を根掘り葉掘り聞きただし、聞き終るとひどく感心した様子だった。
「しかし上野では、いくら願っても歎願書は受け取らんぞ」
と清水は言った。清水は、それを老中に歎願するしかないのだ、と諭し、それには公事宿というものもあるが、自分の親がそういうことにくわしいから、明日にでも訪ねて来たらどうか、と親切に猷曝げ住まいを教えたのである。

だが清水の親切も、奉行所与力という彼の身分を考えると、そのままには受け取れない節もあって、みんなは後で気味悪い思いをしたのであった。

江戸は翌日雲ひとつなく晴れた。彼らはやはり明け六ツに宿を出ると、上野の功徳院、本間光風、佐藤藤佐を訪ねるため、三組に分れて江戸の町に散った。清水主計の家には、結局誰も行かないことにした。用心するに越したことはないと考えたのである。

しかし佐藤藤佐の屋敷を訪ねた八日町村の四郎吉と升川村の与兵衛は、もっとも頼りにする藤佐に、いきなり眼から火が出るほど叱られたのであった。

座敷に通されると、四郎吉は、出府の目的を話し、また昨日上野山内の清涼院、護国院を訪ねた模様も言い、ゆうべの相談では結局御老中に訴えるしかないかということになったが、その方法もわからない。内々に指図を頂ければと思って相談に上がったと丁寧に言った。

いずれが『比叡』であるかは一読でわかるだろう。

藤沢周平は場面をくっきりと描くことに定評のある作家である。名文家である。もちろん瀬戸内晴美も名文家であるが、文体の相違は一読でわかる。藤沢の文章は「情報」としてすらすらと読めるのだが、瀬戸内の文章は一文、一文をゆっくりと咀嚼しないと、主人公の心理の綾が掴めない。

『比叡』の文章は会話体を含めて一文、一文に含蓄があるので、「情報」として読んでいては、瀬戸内文学を読む読者にふさわしくない。

瀬戸内寂聴が晴美を名乗って創作した最後の作品かとも思うが、経歴をチェックしていないので確かではない。

『比叡』は瀬戸内晴美が瀬戸内寂聴に再生する前後を描いた作品で、瀬戸内文学のなかで大きな節目を迎える作品である。それだけに作者のこの作品にかける精神は渾身のものであったろう。

こういう意味合いの作品だけに、一段落、一段落に籠められた文章は玩味に値する。したがって四、五頁も読むと私の頭脳が疲れ、心地よい眠気を催してくるので、一夜一夜と日を重ねてしまう。

十八歳で徳島の生家を飛び出し、在学中に結婚、その後中国に渡り、帰国後は夫と娘を捨てて家庭を放り投げ、そのときどきの男性遍歴、そして辿り着いたのが『比叡』であるが剃髪する間際まで最後の男がいた。剃髪前にはすでに作家瀬戸内晴美として活躍、テレビ番組にもレギュラー出演していたほどだ。

凄まじい人生行路だったと思うが、こうでなければ男性も女性も本来は大成しない。小心翼々では何も得られない。

瀬戸内晴美の文学(一)

2007-02-17 09:07:02 | 文藝評論
この作品は現在は尼僧であり作家としても反戦運動家としても活躍している瀬戸内寂聴さんが、瀬戸内晴美という一女性作家から尼僧に脱皮した当座を描いた自伝的作品である。もちろんフィクションを交えての内容だろうが。

尼僧になった俊瑛(しゅんえい)が眠られなくなったある夜、寝間にかつて身につけた着物を取り出して着装する場面である。私も着物を着る女性を扱うことがあるので、こういう場面は丁寧に目を通す。瀬戸内寂聴さんはたんに尼僧作家であるばかりか『源氏物語』の現代語訳にも取り組まれるほど古典に精通している。着物には詳しい。■はWINDOWSにない文字。

畳紙の山の中から、その一つを選びだすのはたやすかった。幾度も出し入れされた名残りで、畳紙がけばだったり萎えたりしている中で、その一つだけは、見るからに真新しく、折りたての熨斗(のし)のようにきっぱりした表情とゆたかな嵩(かさ)を保っていた。紙にとりつけられた白い木綿の紐も切りたてのように爽やかなまま、丁寧に結びあわされている。

蒲団を部屋の隅に片寄せ、俊瑛(しゅんえい)は灯の真下にそれを持ち運んできた。ひとつずつ紐を丁寧にほどき、折り合せた紙を壊れやすい硝子を扱うような手付で、四方に開いていくと、虫除けの匂い袋の香が甘く顔を打ってくる。昨日、この着物の山をつき崩した時、久しぶりで思いだしたなつかしい昔の香の匂いだった。出離を境に、匂い袋の香も、■衣(しい)にふさわしい淡泊なものに彼女はとりかえていた。

灯の真下に、濡れた獣の背のように、いきなり着物が盛りあがったように俊瑛の目には映った。

手織紬の布地の重さと光沢のせいばかりではなく、褄下(つま)から二つ折りにされた裾を横ぎって染めている七彩の弧線の重量感が、そう見せたのか。俊瑛は衿元(えりもと)に両掌をかけ、腕を撓(しな)わせて力いっぱい着物を振りさばいた。着物は彼女の膝前(ひざまえ)から畳にかけ、翅をひろげた孔雀(くじゃく)のように開ききった。七彩の虹は、薄縹(うすはなだ)色の地色を、冬の朝の空にでも見立てているのか、融けいるようなはかなさでいながら、それぞれの色は現実の虹よりもっと匂やかな色彩を互いに照り輝かして見える。ひとつの色から他の色に移るきわの微妙な色と色との■合(こうごう)のとけまじり方は、官能的でさえあった。

さすが瀬戸内文学と感心させられるほど精緻な描写だ。着物の着付けに長年親しんだ女性でないと書けない文章である。〈濡れた獣の背のように、いきなり着物が盛りあがったように〉、〈俊瑛は衿元に両掌をかけ、腕を撓わせて力いっぱい着物を振りさばいた。〉の表現は見事なものだ。

『比叡』の解説者は芥川賞作家の河野多恵子。実にいいことを書いているので、少し引用してみる。

芸術作品というものは、理窟で理解するべきものではない。理窟で理解しようとすれば、芸術作品に対していても、それに少しも触れたことにはならない。芸術作品を理解するには、理窟を手がかりにするのは禁物である。芸術作品は理窟を抜きにした時に、はじめて理解することができるのである。専ら感じることで、理窟を超えた理解が得られる。専ら感じるためには、理窟を事前に捨てておくことである。

音楽や美術を享受する場合でも、理窟を手がかりにする人がしばしばある。そういう人たちでさえ、音楽や美術の場合では、理窟を離れて対象と交わる歓びを随分多く味わっているものである。

ところが、対象が小説となると、もう理窟で読む以外の読み方などまるであるとも思っていないような人が少なくないのだ。なぜそうなるのかといえば、小説のなかには事柄で読ませる、つまり理窟で読むことで事足りる小説があるからである。そして、そうではない小説、つまり文学作品としての小説もまた事柄を用いないで書けるはずはないからである。で、小説を読むとは、事柄を事柄とし辿って、そこに理屈を見出すものと信じられがちになるのである。

ところが、文学作品で用いられている事柄、いずれも事柄としての目的のみをもって提出されているのではない。有機的な作用を妊んでいるのである。それぞれに、どのように、有機的な作用を妊んでいるか、その大半は理屈では説明できないことなのである。それを知るには、まず感じることであり、終始感じるしかないことになってくる。

これを読めば私が説明することは不要。前にあげた着物の場面は着物の事柄を説明しているのではない。その場面での俊瑛のこころ、心理を着物にこと寄せて描いている。

事柄のみを羅列し、あいだに会話体を挿入しておれば小説と考えているのなら、小説は主人公の、また人と人のこころ模様を描くものであることを再確認したほうがよい。

未熟な創作者は自らの体験、経験や見聞を「事柄」として読者に提供しようとするが、本当に文学を味読しようとする読者は事柄理解ではなく、「感じたい」のである。事柄理解は新聞、時事事典、百科事典で間に合う。これは私だけの経験、体験だから新聞には掲載されていないことだ、と主張されても、それは小説を愉しみたい読者のこころからはかけ離れている。読者との齟齬を埋める努力をしなければ、誰にも読まれない長編になってしまう。