喜多圭介のブログ

著作権を保持していますので、記載内容の全文を他に転用しないでください。

樋口季一郎とアッツ、キスカ(5)

2006-10-31 19:11:01 | 歴史随想

 三八式歩兵銃をめぐるふたつの出来事
       樋口季一郎中将の場合



 前項で述ペたごとくキスカ守備隊の撤収作戦はきわめて順調に行なわれ、これが「ケ二号作戦」の成功に繋がったのはいうまでもない。
 アメリカ軍の空襲によって生じた二、三〇〇名の重傷者をふくめた六〇〇〇名の兵士を、ろくな港湾施設もない港で、スムーズに乗船させるのは容易ではなかったものと思われる。
 港というより入江と呼ぷ方がふさわしい場所に、数隻の軍艦が身を寄せ合うようにして入港する。
 桟橋はないので小舟を使って兵士を運び、縄梯子で乗船させるのである。負傷者、病人は担架に載せたままロープで引き揚げる。
 これが第一水雷戦陣と守備隊の協力によってわずか三時間半で終了し、そして十数隻の艦隊はキスカを後にしたのであった。
 この撤収/救出作業が迅速に進んだ第一の理由は、前述のごとく兵士の人命を第一に考え、兵器の破壊、投棄を認めたからと言われている。
 北方軍司令官樋口季一郎中将は、大砲などの重火器はもちろん、歩兵の主要な兵器である三八式歩兵銑の投棄まで容認した。
 現代から見れば当たり前とも思えるが、当時としては陸軍中将の職まで賭した決断であった。
 日本陸軍は、小銃を含めたすべての官給品を信じられぬほど厳しく管理していた。
 その管理状況は、まさに″病的″という形容詞が当てはまるのではないか、と思われるほどである。なかでも小銃には菊の紋章が入っており、「天皇陛下からお預かりしたもの」と教育していた。
 平時はもちろん戦時においてさえ歩兵銃をなくしたりしたら、恐ろしい体罰と営倉(軍隊の仮の刑務所)入りが待っでいる。
 明治以来の日本の陸軍で歩兵銑の投棄を許可する命令が出た例など、前代未聞であった。
 キスカ守備隊(陸軍と海軍の陸戦隊)の兵士たちは、海岸を離れる間際に、それまで片ときも手放すことがなかった小銃を海に放り込んで身軽になったのであった。
 この当時にあってはこの重大な決断を下した樋口季一郎の行為は、高く評価されるべきであろう。
 彼は頑迷な陸軍の将軍たちの間では特異な人物で、永くヨーロッパ(主としてポーランド)で駐在武官をつとめ、イギリス、ロシアには多くの人脈を持っていた。
 また昭和一二年(一九三七年)から二二年にかけての満州国(現・中国北東部)、ハルピン特務機関長時代には、人道的行為により国際的にも名を知られる。
 少々横道にそれるが、彼の″決断″を裏づける意味からも、この行為を記しておく。
 昭和一二年の秋、ソ逢、満州国の国境の町マンチュリ(満州里の字を当てる)で、一万人のユダヤ人が立ち往生していた。
 彼らはナチス・ドイツの迫害を逃れたポーランド在住のユダヤ人であり、ドイツは彼らの本国への送還を強くソ連、満州国政府に要請していた。
 しかし送還を認めれば、彼らがゲットー(強制収容所)へ送られることは眼に見えている。かといって、それを拒否してドイツとの関係が悪化するのは好ましくない。
 このためソ連、満州国政府とも手を拱(こまね)くばかりであった。
 着の身着のままのユダヤ人たちに間もなく寒風とみぞれが襲いかかる。彼らは無蓋の貨車のの上に乗せられて、すでに一ヵ月をすごしていた。
 この窮状を知った樋口は、人道的な立場から満州国に通過査証(トランジット・ビザ)を発行するように指示を出した。
 凍死寸前の一万人のユダヤ人はこれにより満州──中国(上海)経由でアメリカに脱出できたのである。
 終戦後、ソ連政府が戦犯容疑者として樋ロを逮捕しようとしたとき、アメリカ・ユダヤ人協会はアメリカ政府を動かし、かつての恩人を救うのである。
 このエピソード自体、日本国内よりもアメリカ、イスラエルで知られている。
 樋口は昭和四五年一〇月一九日に死去しているが、その生涯で二度、自分の責任で重大な決断を下し、多くの人の生命を救った。


樋口季一郎とアッツ、キスカ(4)

2006-10-29 15:46:57 | 歴史随想

 一方、艦隊の到着を待つキスカでも守備隊にあせりの色が広がっていた。
 兵器、とくに重火器はすでに破壊し、食料も残り少ない。救出艦隊より先に米軍が来襲してきたら、闘う手投もなくなろうとしていた。
 七月八日を第一日として、一一日、一二日、一三日、一四日、一五日、二三日、二六日とキスカの部隊は、島の中央部にある宿舎と乗船する海岸(約八キロ)を往複する日々がつづく。
 この間にもアメリカ軍の爆撃はつづき、死傷者は百数十名に達していた。
 このような状況下、木村昌福少将は突入のタイミングを慎重にはかっていた。
 決断を誤れば、
 第一水雷戦隊の乗組員 五〇〇〇名
 キスカ守備隊の兵員  六〇〇〇名
 のほとんどが命を失う。
 また、北海道から三〇〇〇キロ近く離れたアリューシャン列島での闘いとあって、味方の軍隊、航空機の支援はまったく望むことが出来ない。
 無線の交信さえ最小限に制限されていて、天候も自分の判断で見極めるしかなかった。
 七月二九日、午前一〇時三〇分、一瞬の濃霧の切れ目をついて、一水船がキスカに入港、四時間以内に六〇〇〇名の守備隊を収容した。
 計画どおり、歩兵銃さえ海中に投棄させ、″身ひとつ″の脱出である。
 残った者がいないかどうかの確認作業が行われたあと、艦隊はつぎつぎと島を離れていく。
 ふたたび霧がキスカ全島を覆い隠したのは、それから間もなくであった。
 レーダー、哨戒艦、航空機を駆使してキスカを封鎖していたアメリカ軍にどのような手抜かり、ミスがあったのかははっきりしないが、この白本軍の大撤収作戦にまったく気づかなかった。
 日本兵が立ち去った二週間後、アメリカ軍は戦艦まで出動させ、同島を徹底的に砲撃、その後一万人の部隊を上陸させる。
 日本軍の猛烈な反撃を予想したが、すでに一人の敵兵を発見することもできなかったばかりか、かえって疑心暗鬼から同士討ちにより五〇名を越す死傷者を出している。


 


 七月三一日、艦隊はようやく幌筵島の柏原に帰港し、在泊の艦船の乗組員から熱烈な歓迎を受けた。
 また陸軍は三〇機以上の戦闘機を艦隊の上空に送り、一水戦の労苦をねぎらったのである。
 アッツ島守備隊の玉砕という衝撃が、日本の陸海軍首脳を打ちのめし、それがキスカの救出につながった。
 そしてこの作戦遂行に当たっては、陸軍の北方軍、海軍の第五艦隊司令部の間の協調がきわめてムーズに進んだ。
 また作戦全体にも──現代ならば当たり前の──常識が生かされたようである。
 陸軍も海軍も、この「ケ二号」に関するかぎり、人命の尊重を第一の目的としていた。
 これが可能となったのは、
 北方軍司令官   樋口季一郎
 第五艦隊司令長官  河瀬四郎
 の二人が、日本の軍人には珍しい″常識派″であったためである。
 また実行面での木村昌福は、彼ら二人の意をよく理解し、沈着冷静、しかも果敢に行動した。
 強行突入を進言する者、またアメリカの大艦隊との交戦を危惧する者のどちらにも耳をかさず、人命の救出のみに専念したのであった。
 そこでこれだけ鮮やかな撤収/救出作戦を成功させた木村少将について、紹介しておきたい。
 彼は海軍兵学校を大正二年に卒業しているが、そのさいの成績は二八人中、後から七番目であった。
 したがって海軍の中央で華々しく活躍する機会など一度もなく、地方の部隊、小艦隊の指揮官などを務めていただけである。
 昇格、出世も決して早いとは言えず、また外見もきわめて地味な人物であった。
 第一水雷戦隊司令官職も前任者が病魔に襲われたため、急に発令された地位ともいわれていた。
 しかし「ケ二号作戦」が決定し、その実施部隊の指揮官に任命されると、水際立った手腕を発揮するのである。
 気象状況を緻密に調査し、麾下(きか)の艦艇を整備し、陸軍兵士の収容訓練を重ねさせた。
 また直属の上司である河瀬中将を強引に引っ張り出して、北の海の海況を説明したことも一度や一度ではない。
 これは作戦遂行に必要な物資を入手するための手段のひとつであった。そして部下には、


(一) 詳細な計画
(二) 綿密な進丁備
(三) 沈着な行動
 を常に言いつづけてきた。
 そして最後に必ず、
「最終的な責任は自分がとる」
 と付け加えている。
 男ましい言葉に酔い、その割に実行力が伴なわなかった陸海軍の将官たちとはまったく異なった、貴重な存在であった。
 日本の陸、海軍士官の昇格は、常に士官学校の成績によって左右された。その誤りを木村は身を持って証明しているようである。
 のちにこのキスカ放出作戦について、アメリカの戦史研究家はつぎのように記している。
『天候を利用し、アメリカ軍の虚を突いたキスカ島からの撤退作戦は見事な成功をおさめた。
 しかしこれは太平洋戦争における、日本軍の最後のヒューマニズムの記録となつた』


樋口季一郎とアッツ、キスカ(3)

2006-10-20 07:09:02 | 歴史随想

 


 キスカ島へはつぎつぎと呼号文が送られ、撤退の準備と訓練が開始された。いつ敵の上陸が始まるかわからない状況下での撤収である。
 ここに少なからぬ問題が生じた。
 敵前での撤収であるから、完全に秘密のうちに準備を進める必要がある。
 また収容能力の少ない軍艦が使われるので、大型の火器、それに付随する砲弾の類は全部破壊あるいは使用不能にしなくてはならない。さもないと上陸してきた敵が、容易にこれらの兵器を押収するはずである。
 しかし、主要な兵器を破壊した直後にアメリカ軍が来襲したら、反撃の手段がない。
 それでなくとも上陸が間近いと見えて、連日アメリカ軍航空機からの爆撃を受けているのである。
 河瀬と木村は作戦発動のさい、
「撤収は身体ひとつで」
 との命令を強調していた。
 ともかく六〇〇〇名の将兵を短時間で巡洋艦、駆逐艦に乗艦させなくてはならない。
 この作業中、敵に発見されたらすべて終わりである。
 アメリカの艦艇、航空機は絶好の機会とばかりに攻撃してくるのは火を見るより明らかで、港内に停泊している日本軍の軍艦は回避運動もできないのである。
 そして来艦の訓練も何度となく繰り返されたが、これはキスカには設備の整った港がなく、船舶への上、下船は小船と縄梯子(はしご)に頼らなくてはならないからであった。


 七月七日、霧につつまれた幌筵島の柏原港を第一水雷戦隊が出発した。
 旗艦〈阿武隈〉〈木曽〉の軽巡二隻
 海防艦〈国後(くなしり)〉、油槽船一隻
 いずれもこの海に慣れた艦艇と来月からなる艦隊である。
 夏の北太平洋にはふたつの海況しかないといわれている。低気圧による暴風と大時化の海、あるいはミルクのような濃い海霧とベタ凪の海面である。
 まだ台風の少ない六、七月には後者の場合が多かった。そしてこの海霧が日本海軍の隠れ蓑になってくれるはずであり、またこれだけが頼りでもある。
 アメリカ海軍はアリューシャンに少なくとも巡洋艦六、駆逐艦二〇隻をそろえているので、これに見つかったら、六〇〇〇名の陸兵の収容などできるはずはない。いや、収容どころか第一水雷戦隊の運命さえ定かではなかった。
 したがって成功の鍵は霧を味方につけ、アメリカ軍のレーダーの網の目をくぐつてキスカに到着することにあった。
 木村少将は海軍兵学校(海軍の士官学枚)卒業後、ずっと軽艦艇に乗り組んできた男であり、この任務には最適であった。
 もっとも、彼は立派な髭で有名となっていて、艦隊の指揮については未知数ともいわれていた。
 撤収にあたる一水戦(第一水雷戦隊)は、最初の出動でキスカから五〇〇海里(九三〇キロ) の地点まで接近しながら、幌筵に引き返さざるを得なかった。
 あまりに濃い霧が艦隊の行動を妨げたのである。
 若手の士官たちは強行突入を進言したが、木村はこれを退け、次の機会を待った。
 次の出動は七月二二日であったが、これまた四五〇海里(八三〇キロ)まで近づいたところで濃霧に捕まってしまう。
 いかに霧を味方に、といっても濃いすぎては困るのである。
 このときの港は、視界数十メートルといった状態が数日にわたつてつづき、太陽は一度も顔を見せないほとひどいものであった。
 それでも何人かの士官は、″天佑を信じて強行突入″を再度木村に迫った。神がかり的な言葉を弄する者たちは陸軍ばかりではなく、海軍にも多かったのである。
 しかし、この海域に発生する霧は″天佑神助″などという空虚な言葉を嘲笑(あざわら)うほピ恐ろしい。
 一水戦の各艦は見張貝の数を増し、微速で航行していたにもかかわらず、二度の衝突事故を起こしたほどである。
 旗檻へ〈阿武隈〉と海防艦〈国後〉、駆逐艦〈若葉〉と油槽船が接触し、四隻が大なり小なり損傷を負ってしまった。〈若葉〉〈国後〉はこの修理のため、艦隊を離れざるを得なくなった。
 この事故のあと、強硬派は態度を一変させ、突入に消極的となる。


樋口季一郎とアッツ、キカス(2)

2006-10-19 18:12:34 | 歴史随想

忍耐、また忍耐
     ──木村昌福海軍少将の場合


 昭和一六年(一九四一年)一二月の開戦以来、破竹の快進撃をつづけマレー半島、シンガポール、香港の占領をはじめ、南太平洋、遠くインド洋にも手を広げた日本軍ではあるが、勝利の女神は少しずつ遠ざかる気配を見せていた。
 翌一七年六月、海軍はミッドウェー海戦で四隻の航空母艦を失った。
 また八月に入ると、アメリカ軍はソロモン諸島のガダルカナル島に反撃の第一歩を築く。
 この後の戦況は少しずつアメリカに有利となって、日本軍の損害は急増していった。
 それまで静かだった北太平洋も昭和一八年春には次第に騒がしくなっていき、ついに五月一二日、一万名を越すアメリカ軍が強力な航空部隊、艦隊の支援を受けつつアッツ島に上陸する。
 同島の日本軍守備隊二六四〇名は孤立無援のまま四倍の敵軍と闘いつづけたが、ついに一七日後全滅する。生き残った者はわずか二七名のみという激戦であった。
 山崎保代大佐を長とする日本軍は食料、弾薬とも不足したまま勇敢に闘い、アメリカ軍に死傷一八六〇名の損害をあたえたものの、アッツ島は元の持ち主の手に返ったのである。
 当時の日本の新聞は、全滅を″玉砕″と言いかえて報じたが、のちにこの単語は太平洋の島々で繰り返されることになる。
 まだ日本軍には多少の余力もあったので、当然アッツ島へ増援部隊を送ることも考えられた。
 しかし同島はあまりに速く、また島の周蝕にはアメリカ海軍による包囲線が敷かれでいたので、結局、見殺しにせぎるを得なかったのである。
 こうなれば次はどう考えてもキスカ島の番であり、勝ち誇った米軍が同島に上陸してくるのはたんに時間の問題であった。
 キスカには陸軍部隊二四三〇名、海軍一l一二一〇名、計五六四〇名の兵士がいて、兵力的にはアッツの二倍である。
 しかし、アメリカはアラスカ州罪を中心に三、四万名の兵員、一〇〇隻の艦艇を用意して進攻を準備していた。
 このような状況下、日本陛軍の北方軍司令部と海軍の第五艦隊司令部は、キスカ島からの守備隊の撤収を決定する。
 当時の頑迷な日本軍のなかにあっては、きわめて合理的、かつ理性的な決定といえた。
 いかに増援部隊を送ろうとしたところで、キスカは日本よりもアメリカに近い。そしてもともとアメリカの領土であり、戦略的価値は高いとは言えぬ地域にある。
 このまま守備隊を張りつけていても、早晩、圧倒的なアメリカ軍によりアッツ同様に全滅はまぬがれない。したがって一刻も早い撤収を決定したのである。
 この決断は、北方軍司令官樋口季一郎中将と第五艦隊司令長官河瀬四郎中将の話し合いによって行なわれた。
 話し合いが順調にまとまった理由のひとつは、キスカの守備隊が陸海軍双方の部隊から構成されていたからである。
 さて撤収(撤退)は決まったが、それを実施するとなると問題は山積していた。
 六月初旬、すでにアメリカ軍は同島への封鎖を強め、周辺の海域の制海権を確立していた。
 日本海軍はまず大型潜水艦を使ってキスカとの連絡を確保しようと試みたが、アメリカの包囲網は厳重をきわめていた。
 その証拠として六月十三日に二隻、二一日に一隻潜水艦がアメリカ海軍によって撃沈されている。
 同島の周辺には航空機、水上艇が常時哨戒し、日本軍艦艇の接近を許さなかった。とくにアメリカの軍艦に装備されはじめていたレーダは、霧の多いこの海域で威力を発揮したのである。
 潜水艦による救出が無理となれば、高速の軽艦艇(軽巡洋艦、駆逐艦など)を投入するしかない。
 本来なら大型輸送船を使って行なうべきであるが、航海速力に大きな差がある。
 海が穏やかな場合、
 軽巡、駆逐艦 三二ノット(六〇キロ/時)
 輸送飴 一五ノット(二八キロ/時)
 とその差は二倍以上であった。
 第五艦隊の河瀬司令長官は、部下の木村昌福少将へ(第一水雷戦隊司令官)にこの撤収/救出作戦の実行を命じた。
 この作戦は『ケ二号』と名づけられ、六月末から少しずつ動きはじめる。


樋口季一郎とアッツ、キスカ(1)

2006-10-19 16:26:36 | 歴史随想

樋口季一郎の自著である回想録を読んでも、アッツ島の日本兵全滅(玉砕)とキスカからの撤退の内容は、断片的なメモ書き程度の記述しかなく、全容がほとんど掴めない。理由の一つに高齢の樋口に回想録後半を記述をするだけの体力が残されていなかったこと。二つに部下を全滅させてしまったという悲痛な思いが胸にこみ上げ、記述に至らなかったのではないかと想像する。


アッツ島全滅とキスカ撤退の全容を知る資料はないかと思っていたのだが、幸いなことに光人社発刊の三野正洋著『指揮官の判断』中に、以下の項目を見付けたのでここに転載しておくことにした。


────────────────


キスカという小島と二人の日本軍人
      ──木村昌福と樋口季一郎



 太平洋戦争の歴史をひもとくとき、アッツ、キスカというふたつの小島の名が何度となく現われる。
 この島々を一般の家庭におかれている地図帳で探し出すのは難しい。かなり厚い地図帳でも載っていない辺境の小島なのである。
 いずれも太平洋の北端に連なっているアリューシャン列島のアジア寄りにあって、面積はほぼ佐渡ヶ島(南北五〇キロ、東西三〇キロ)程度である。
 アリューシャン列島はアラスカとカムチャッカを鎖状に結んでいるが、ここを支配しているのはといっても″寒さ″そのものであろう。
、八月であっても平均気温はわずかに一○度、そして六、九月に雪の降ることも珍しくない。
 当然、作物、大きな樹木は育たず、住民としてはごく少数が漁業に従事しているにすぎない。
 太平洋戦争が始まってから半年後の昭和一七年(一九四二年)六月七日、日本軍はこのふたつの島──ともにアメリカ領であった──を占領した。
 アリューシャン列島の西の端に位置し、一年中を通して雪、氷、霧、そして烈風が吹きすさぶ北海の孤島。
 兵員、物資を運ぶにしても、海路で、北海道(椎内)──千島列島(幌筵)──アッツ/キスカ
 を行かねばならない。その距離は、
 稚内あるいは根室──幌筵島約一八〇〇キロ
 幌筵──キスカ/アッツ一一〇〇キロ
 となっている。
 北海道の港から直接アッツ/キスカに向かえば二五〇〇キロであるが、幌筵(バラムシル)を経由すれば三〇〇〇キロ近い。
 そして荒れる北の海は、二万から翌年の二月にかけて船の航行を徹底的に妨害する。充分に補給もできない氷と岩の小島を、日本軍はなぜ占領したのであろうか。
 一言で言えば、アラスカ、アリューシャン、千島列島経由で、アメリカ軍が北海道に攻め寄せてくるのを監視、阻止するためである。
 しかし、早くもこの年の八月からアメリカ軍の空からの反撃が開始され、両軍の激闘が展開される。
 そして北の小島にも占領から妄とたたぬうちに、アメリカの大軍が来襲するのであった。
 この項では、アッツとキスカ南島をめぐる闘いにおいて、指揮をとった二人の日本軍人にスポットを当ててみたい。
 彼ら二人は、ときには″悪の象徴″的な存在として伝えられてきた我が国の軍人とは異質な人格の持ち主であり、その決断は共に特筆に値するものであったからである。
【『指揮官の決断』三野正洋著 光人社】引用。