三八式歩兵銃をめぐるふたつの出来事
樋口季一郎中将の場合
前項で述ペたごとくキスカ守備隊の撤収作戦はきわめて順調に行なわれ、これが「ケ二号作戦」の成功に繋がったのはいうまでもない。
アメリカ軍の空襲によって生じた二、三〇〇名の重傷者をふくめた六〇〇〇名の兵士を、ろくな港湾施設もない港で、スムーズに乗船させるのは容易ではなかったものと思われる。
港というより入江と呼ぷ方がふさわしい場所に、数隻の軍艦が身を寄せ合うようにして入港する。
桟橋はないので小舟を使って兵士を運び、縄梯子で乗船させるのである。負傷者、病人は担架に載せたままロープで引き揚げる。
これが第一水雷戦陣と守備隊の協力によってわずか三時間半で終了し、そして十数隻の艦隊はキスカを後にしたのであった。
この撤収/救出作業が迅速に進んだ第一の理由は、前述のごとく兵士の人命を第一に考え、兵器の破壊、投棄を認めたからと言われている。
北方軍司令官樋口季一郎中将は、大砲などの重火器はもちろん、歩兵の主要な兵器である三八式歩兵銑の投棄まで容認した。
現代から見れば当たり前とも思えるが、当時としては陸軍中将の職まで賭した決断であった。
日本陸軍は、小銃を含めたすべての官給品を信じられぬほど厳しく管理していた。
その管理状況は、まさに″病的″という形容詞が当てはまるのではないか、と思われるほどである。なかでも小銃には菊の紋章が入っており、「天皇陛下からお預かりしたもの」と教育していた。
平時はもちろん戦時においてさえ歩兵銃をなくしたりしたら、恐ろしい体罰と営倉(軍隊の仮の刑務所)入りが待っでいる。
明治以来の日本の陸軍で歩兵銑の投棄を許可する命令が出た例など、前代未聞であった。
キスカ守備隊(陸軍と海軍の陸戦隊)の兵士たちは、海岸を離れる間際に、それまで片ときも手放すことがなかった小銃を海に放り込んで身軽になったのであった。
この当時にあってはこの重大な決断を下した樋口季一郎の行為は、高く評価されるべきであろう。
彼は頑迷な陸軍の将軍たちの間では特異な人物で、永くヨーロッパ(主としてポーランド)で駐在武官をつとめ、イギリス、ロシアには多くの人脈を持っていた。
また昭和一二年(一九三七年)から二二年にかけての満州国(現・中国北東部)、ハルピン特務機関長時代には、人道的行為により国際的にも名を知られる。
少々横道にそれるが、彼の″決断″を裏づける意味からも、この行為を記しておく。
昭和一二年の秋、ソ逢、満州国の国境の町マンチュリ(満州里の字を当てる)で、一万人のユダヤ人が立ち往生していた。
彼らはナチス・ドイツの迫害を逃れたポーランド在住のユダヤ人であり、ドイツは彼らの本国への送還を強くソ連、満州国政府に要請していた。
しかし送還を認めれば、彼らがゲットー(強制収容所)へ送られることは眼に見えている。かといって、それを拒否してドイツとの関係が悪化するのは好ましくない。
このためソ連、満州国政府とも手を拱(こまね)くばかりであった。
着の身着のままのユダヤ人たちに間もなく寒風とみぞれが襲いかかる。彼らは無蓋の貨車のの上に乗せられて、すでに一ヵ月をすごしていた。
この窮状を知った樋口は、人道的な立場から満州国に通過査証(トランジット・ビザ)を発行するように指示を出した。
凍死寸前の一万人のユダヤ人はこれにより満州──中国(上海)経由でアメリカに脱出できたのである。
終戦後、ソ連政府が戦犯容疑者として樋ロを逮捕しようとしたとき、アメリカ・ユダヤ人協会はアメリカ政府を動かし、かつての恩人を救うのである。
このエピソード自体、日本国内よりもアメリカ、イスラエルで知られている。
樋口は昭和四五年一〇月一九日に死去しているが、その生涯で二度、自分の責任で重大な決断を下し、多くの人の生命を救った。