喜多圭介のブログ

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2007-01-08 00:08:15 | 俳句・短歌と現代詩

日本の風土には桜が似合う。梅林で梅の花を愛(め)でるヒトもいるが、梅見は鑑賞であって、花見ほどの花と人間との一体感は見られない。


 


桜と梅との大きな違いは匂いである。梅は芳香があるが、桜にはほとんど感じられない。それゆえ梅はどことなく押しつけがましさがあり、梅の木の下で酒を呑んで興じることをしないのは、このためではないか。次に桜は一輪ごとの美しさもあるが、むしろ数え切れないほど重なり合って咲き誇る姿の美しさを愛でるが、梅の花は桜ほど密には咲かないので、一輪、一輪を全体と捉えて鑑賞する。したがってこのことからも桜の木の下は、一つの夢幻の世界ともなり酒を助けにその世界に彷徨うことができるが、梅の木にはこの雰囲気はない。押しつけがましさがないにもかかわらず、人々は桜の花に誘われる。梅よりも人間との関係の深いのは当然でないだろうか。


 


先年福井県武生(たけふ)市味真野に薄墨桜の大樹を観に行ったことがある。花筐(はながたみ)公園内の奥深い山の谷を隔てた斜面に、樹齢600年の大樹が天空に向かって孤独に聳えていた。背広に革靴という恰好では近くに寄れないので、花の姿をよく観察できなかった。辺りをぼやっと霞がかかったように、薄墨色に染めていた。能芸の世阿弥作「花筐(はながたみ)」の題材になっている。筐は竹で編んだ籠のこと。



「花筐」のあらすじは、味真野の豪族男大迹(おおど)王(後の第26代継体天皇)の元に都(京)より使者が到着する。武烈天皇の後を継ぐべく都へ向かった皇子は、味真野に最愛の女性照日ノ前を残したまま出掛ける。その後恋慕のあまりに照日ノ前は京に向かう。逢うことは叶わず、家来から男大迹皇子から預かった手紙と愛用の花筐(花籠)を渡される。手紙に涙した照日ノ前は花筐を抱いて、一人寂しく郷里へと帰って行くという悲恋物語。



男大迹王が味真野に自らの手で形見として植えたのが薄墨桜。



悲恋物語と説明したが、能の演目はほとんどが物狂い(幻想)であるから、「花筐」もドラマチックな展開を見せる。



能を完成させた世阿弥は、ぼくが渡来人秦河勝をモデルにして創作した『魔多羅人』の子孫でもあるらしい。夢幻の境地を舞う能の精神は、異国からのものでないかと想えるところがある。



自作長編小説『断崖に立つ女』は武生で修行した女能面師がヒロインなので、薄墨桜を一度は見ておきたいと、知人の車に同乗して出掛けた。



桜といえばやはり西行法師の歌を外すわけにはいかない。西行ほど数多く桜を詠った歌人はいない。よく知られているのが死期迫ってきた頃に詠ったとされるこの和歌。



願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃


 


西行は佐藤義晴(のりきよ)という名で鳥羽院守護の北面の武士(平清盛も北面の武士)であった頃、鳥羽院中宮待賢門院璋子(たまこ)を思慕した。西行はその忘れじの面影を〈薄紅の桜〉として詠った節がある。二人にとって禁断の恋であった。この辺のところは辻邦生の小説『西行花伝』に詳しい。ほかにも名歌があるが、ぼくの好みで選んでおく。吉野山に何度上ったことか。


 


吉野山雲をはかりに尋ね入りて心にかけし花を見るかな


思ひやる心や花にゆかざらん霞こめたるみ吉野の山


いかでわれこの世のほかの思ひ出でに風をいとはで花をながめん


散る花を惜しむ心やとどまりてまた來ん春のたねになるべき


この春は君に別れの惜しきかな花のゆくへを思ひ忘れて


花を見る心はよそに隔たりて身につきたるは君がおもかげ


花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける


花に染む心のいかで殘りけん捨て果ててきと思ふわが身に


佛には櫻の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば



多情多感な作家であった岡本かの子(画家岡本太郎の母)も桜の歌を多く詠んでいる。一時期夫(漫画家岡本一平)と若い愛人を同居させるといった、破天荒なことをやってのけている。



桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)}をかけてわが眺(なが)めたり


淋しげに今年(ことし)の春も咲くものか一樹(ひとき)は枯(か)れしその傍(そば)の桜


ひえびえと咲きたわみたる桜花(はな)のしたひえびえとせまる肉体の感じ


しんしんと桜花(はな)ふかき奥にいつぽんの道とほりたりわれひとり行(ゆ)く


咲きこもる桜花(はな)ふところゆ一(ひと)ひらの白刃(しろは)こぼれて夢さめにけり


ひんがしの家(や)の白かべに八重(やへ)ざくら淋漓(りんり)と花のかげうつしたり


ミケロアンゼロの憂鬱(いううつ)はわれを去らずけり桜花(さくら)の陰影(かげ)は疲れてぞ見ゆれ


桜花(はな)あかりさす弥生(やよひ)こそわが部屋にそこはかとなく淀(よど)む憂鬱
かなしみがやがて黒める憂鬱となりて術(すべ)なし桜花(はな)のしたみち



薄紅の桜の下に立つとなぜかしら夢幻の境地に誘(いざな)われる。暮らしのなかで自然と強いられている緊張感を解き、総身をゆだねてみたい妖しい気持ちになる。幽玄なフェロモンを漂わせているのでないか。


 


桜には様々なポジティブアクション(積極的な働きかけ)の相乗効果が隠されている。桜を詠った歌人は現代の歌人を含めて多数いる。桜だけを詠った歌集を編めば、こうしたことの一端をうかがい知ることができるだろう。



万葉の時代は桜より中国から渡来した梅のほうに人気があった。『万葉集』に梅の出てくるのは118首あるが、桜はその三分の一しか出ていない。桜が人気を得たのは9世紀前半の嵯峨天皇の頃で、以後桃山時代に、豊臣秀吉が吉野と醍醐(京都)で盛大な花見を催した。また3代将軍家光が上野の寛永寺に吉野の桜を移植、隅田川河畔にも植えた。8代将軍吉宗は飛鳥山を桜の名所にした。こうしたことから日本各地に桜の名所が広がっていった。


 


花より団子、お酒を愛でる人たちもいるが、総じて桜は年が明けると日本人はいつ咲くかと待ち望む花になっていった。そして桜のあとに田植えが始まる。軍国主義の時代は武士道精神を持ち出し散る潔さを強調されたが、本来は田植えを迎える平和な生産の花ではなかったか。


 


一方、坂口安吾の『桜の森の満開の下』は、次のような書き出しで始まり、桜の妖しさを記している。これも一つの見方である。




 桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子(だんご)をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩(けんか)して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足(だそく))という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。



人気のない夜桜の下に一人で立っているのは、気分のいいものではない。首を吊った女の死体が垂れているのではと想うことがある。



ぼくは吉野山の眠りを誘うような山桜が好みだが、女人高野の境内で眺めた八重桜も美しかった。ほかに嵯峨野の広沢池近くの枝垂れ桜、見事な咲きっぷり、妖艶であった。



西行法師でないが、桜の苑(その)をさまよっている最中に事切れるのが、ぼくの夢であるがそう巧く行くものかどうか まだ判然としない。もう少し片付けなければならないことがある。



前に女能面師をヒロインにした長編小説を創作したと書いたが、能に素人のぼくが能を題材に載せるのはなかなか危険なことで、『薪能』、『剣ヶ崎』で芥川賞を受賞した立原正秋すら「面をかぶる」と書いて叩かれている。面はかぶるものでないらしい。一言亡き立原を弁護すると、作家は小説で能の専門書を書いているわけでないから、「面をかぶる」と書いたからといって批判するには当たらない。小説は一般庶民が使う言葉を駆使する。批判者は逆に小説とは何かがわかっていない。なまじその分野の専門家は、他の分野に対して言わずもがななお節介を焼いてしまうところがある。


 


それはそれとして『断崖に立つ女』は、そろそろ読み直して改稿しないと締めが足りない気がする。