喜多圭介のブログ

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60代とそれ以降の年代

2007-01-09 00:05:05 | 文学随想

独身生活を始めた頃「チキンラーメン」にお世話になった。夕刻、ちゃんとした食事を献立るのが億劫なときに、これに刻んだキャベツと卵で済ませる日が多かった。労働のあとは読書と書き物、これに時間を費やしたかったので、食事は簡単にという日々。

 

世界最初に「チキンラーメン」を創造されて日清食品株式会社創業者の安藤百福氏が、5日、急性心筋梗塞(こうそく)で死去された。96歳だった。この報道に青春当時のことを思い起こした。

 

天寿を全うされた賢い死に方。心がけのわるいヒトはなかなかこういう死に方はしない。余命ぎりぎりまで何かに打ち込んでいると、病床で寝付くことのない理想的な死に方になる。

 

五年ほど前になるのだが、ぼくが長年お付き合いした芥川賞候補作家鄭承博氏は、深夜にぼくを自宅まで車で送ってくれ、一週間後の早朝、急性心筋梗塞で布団の上に仰向けにバッタリ倒れ、「そんなら先に行くで。あんたもいい加減なときに粘っとらんでおいで。ご馳走作って待っとるから」とも言わず、あの世に旅立たれた。享年78歳。

 

そのときは悲嘆に暮れたが、あとになると「鄭さん、巧い死に方したな。鄭さんのことを逃げ方の巧い作家と評した評論家がおったけど、ほんまにそうやな」と呟くようになった。亡くなる間際まで布団の頭の前の座卓で執筆、いきなり襲われた様子であった。病院のベッドでおとなしくしているような気性でなかったので、幸福な死に方であった。

 

戦前に教育を受けた年代の人たちは、暮らしの中に創造力を発揮する人物が多い。またそうしないと暮らしていけない時代でもあった。敗戦で何もかも破壊された。ここから立ち上がるにはなりふり構わずに、一つ一つを工夫と創造で作り直し、とにかく貧しさの中で食っていかなければならなかった。このことが日本の再建の原動力であった。現在の75歳前後の人たちの青春はこんな姿であった。

 

少し長くなるが安藤百福氏の自著からの紹介である。

 

 安藤百福氏は幼い頃に両親を亡くし、繊維問屋を営む祖父母のもとで育った。昭和7年父親の遺産を元手に繊維会社「東洋莫大小」を設立。地味なメリヤスには大手商社も目をつけていなかったので飛ぶように売れ、翌8年大阪に「日東商会」を設立した。時代は満州事変から国際連盟脱退へと進み、経済統制が日増しに強まりつつあったが、安藤氏は光学機器や精密機械の製造に取り組むかたわら、立命館大学専門部経済学科に入学した。 昭和20年、終戦。事務所も工場も灰燼に帰したが、安藤氏は屈することなく事業を再開し、繊維から百貨店経営、そして「食」へと関心を広げていく。飢餓にあえぐ人々を見て、海岸に並べた鉄板に海水を流すという卓抜なアイデアで製塩を始め、病人用栄養剤にも手を染め「国民栄養科学研究所」を設立した。 梅田の駅裏で寒風にふるえながら屋台に並ぶ長い行列を見たのも、この頃である。「一杯のラーメンのために、人々はこんなにも努力するものか」という思いは、行列の印象とともに深く脳裏に刻まれた。  GHQの占領政策も「チキンラーメン」誕生の動機となった。米国から援助物資として小麦粉が大量に送られてきていた。厚生省はパン食を奨励するため、「キッチン付き宣伝カー」を仕立てて農村を巡回し、映画ニュースや新聞でも大々的に紹介された。このことは最近になって、小麦粉余りに悩んだ米国の新市場開拓キャンペーンだったことが明らかになっているが、当時の日本人の多くは米国の援助と食文化支援の活動をもろ手をあげて歓迎した。しかし安藤氏は不満だった。「東洋には、めん食の伝統がある。めん食をなぜ粉食奨励に加えないか」。厚生省の職員に問題提起すると、「製めん業は零細業者が多く、供給体制に難がある。それほど言うなら、ご自分でやったらいかがですか」。この時は、自分の事業に手一杯で、動くことはできなかった。  「チキンラーメン」への道は第二の挫折から始まった。事業家・安藤氏のもとには、いろんな人間が集まってくる。「名前だけでも」と懇願されて信用組合理事長に就任したが、「金融知識に乏しく、人任せにしていた」ために、次第に経営が悪化して遂に倒産してしまった。理事長には無限責任があり、事業の一切を失い、残ったのは池田市の自宅のみだった。昭和32年のことである。   安藤氏はめげなかった。「チキンラーメンの発想にたどりつくには、48年の人生が必要だったのである。過去の出来事の一つ一つが、現在の仕事に見えない糸でつながっている」。終戦直後に梅田で見た屋台に並ぶ行列と厚生省役人の言葉が蘇ってきた。自宅裏の掘っ立て小屋にこもり、“おいしく、保存がきき、簡便に食せて、安価・安全な”めん開発の試行錯誤の日々が始まった。  世界最初のインスタントラーメン「チキンラーメン」は、翌年の8月25日に発売された。値段は35円だった。

 

困難な中での創意工夫、創造力の発揮は安藤百福氏にかぎらない。松下電工の創業者松下幸之助、ソニーの井深大、ホンダの本田宗一郎、佐川宅急便の佐川清、京セラの稲森和夫、ダイエーの中内巧、やや若手であるがリクルートの江副浩正ら、今日の大企業の創業者は強い個性の創造力を発揮、自らの手で事業の基(もとい)を築いた。

 

そして次の世代になると企業は安定軌道に乗り、組織が拡充していく。創業者は会長となり名誉会長となる。現在の60歳代世代はレールの敷かれてしまった企業の発展を担っているわけだが、社会が高度経済成長を経て安定成長、あるいは後退期に差し掛かっているなかでの企業経営、創業者の物作りの創意工夫という創造性よりも労使関係とかユーザーとの関係といった人間関係重視、悪い表現で書くとヒトの心の懐柔(かいじゅう)テクニックに傾注するようになる。しだいに創造力は喪失していく。

 

もちろん現在でも発展企業のトップの姿勢は創造性重視にあるが、これも創業者のように自らの手でひたすら開発に打ち込むというものではなく、この辺のことは技術、専門の知識を持った大学、大学院卒の若手に委任していくシステムになり、経営トップは金融と労使関係に目配りした経営と変貌していった。

 

物作りは完成品を産み出すまでの精神に妥協はないが、ヒトの心の懐柔はむしろ相手との突き詰めた衝突は避ける妥協精神、悪く表現すると〈なあなあ主義〉に陥りやすい。こうした安易な精神に染まっているのが、現在の60歳から65歳であるが、この年齢層にこだわっているのでもない。現在の55歳以上75歳未満と表してもよい。

 

ぼくが書いていることは一つのシンボルであって、つまり現在の60歳年代は経営者であろうと労働者であろうと、極端な表現では創造力喪失と〈なあなあ主義〉の世代である。だから社会的責任感とか倫理観も口で言うほどには強くない。政治家の世界も同様。

 

その証拠に人文科学、哲学、文学、史学に西田幾太郎、三木清、戸坂潤、和辻哲郎、阿部次郎、亀井勝一郎といった学者が出てこなくなった。要領よく金儲けする経営哲学なる物を語ったり本にする人物はいても、これも米国流経営のコピーであって、ご本人の独創ではない。そして読者もまたこうした皮相なノウハウ物、新書版物で右往左往、右顧左眄(うこさべん)しているだけの印象が強い。

 

この年齢層は75歳以上と55歳未満の板挟み世代とも表現できる。いちばん明らかな現象は、政権のトップの座を安部晋三に奪われていることに見ることができる。60代政治家はこれまでの政治家に比べて、保守革新ともに小者の印象が強く、信念のある強いリーダーシップが見られない。経済界は村上ファンドの村上世彰、ライブドアの堀江貴文らに、宗教界は麻原彰晃らに翻弄(ほんろう)された。とにかく信頼感に欠ける〈なあなあ主義〉、中途半場世代である。

 

若手はIT(Information Technology)やら語学力で欧米の新しい知識を吸収して、75歳以上年代とは異なる創造力、それを英語表現を駆使した国際化した創造力と表現してもよいが、こうしたものを身につけ、60代年齢層を駆逐(くちく)する勢いである。ただしこの年代層が本物かどうかとなると、安部晋三をはじめとして村上世彰、堀江貴文、麻原彰晃の例も見られるので、留保しなければならない。

 

視点を変えてみると60年代層に育てられたのが、村上世彰、堀江貴文、麻原彰晃らと言えなくもない。画期的なことをやった反面、社会的な責任観念、倫理観といったものが欠けている。この三人ですらそうなのだから、たとえ東大卒であろうと社会的試練が足りないというか、どこか信頼できない。先日55年以降のバラバラ殺人事件は40件以上と書いたが、このうち犯人が50代未満は29名、うち女性13名が犯人または共犯である。すべての50代未満がそうではないが、この年代層の精神の殺伐さと潤いのなさは目を覆いたくなる。深刻である。

 

しかし一方では世間体を気にする親のエゴイズム、あるいは親との葛藤で傷ついたこころを自ら癒し、優しさを恢復していく若い男女も多い。ここに未来への希望がある。そして賢明な男女はシンボル的未来を悟る。それが自然の摂理、宇宙の命令である。

 

この年代にたいして60代年齢層は何を告げることができるのか。

 

安藤百福氏は昭和63年こんな言葉を遺している。昭和57年、勲二等瑞宝章を受章、昭和60年にご子息安藤宏基氏が社長に就任、自らは会長に就いた。すべては順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の時期だった。年頭の定是で『初心再出』を掲げたのである。

 

「日常に慣れ、安易に日々を送っていないか、ゼロから出発した原点に立つこと、創造的破壊なくして再出発はありえない」と、峻烈な言葉である。

 

慢心、奢(おごり)りを戒め、育てていただいた消費者に報いよ、世界の食文化に貢献せよ、と主張しているかのようだ。元旦早々前日の〈紅白〉での不始末の謝罪をしたNHK会長に聴かせたいくらいの心構えである。