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喜多圭介のブログ

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蒜山別れ唄62――【完】

2008-10-27 06:47:30 | 蒜山別れ唄

亮輔は香里に紙コップを一個手渡した。それにスコッチを三分の一ほど満たし、ポットの湯を注(そそ)いだ。
「急いで飲まなくていい。歌を聴きながら、お喋りしながら一時間くらいかけて飲もう。どのみち香里とお喋りできなくなるから」
「今度は天国でお喋り」

二人は躯を温めるためにごくごくと飲み干した。また三分の一満たした。
「天国で家城さんに逢うね。きっと家城さんを探すね」
「ありがとう。天国では香里はきっと幸せな女に生まれ変わっているよ」
「今度逢うときは家城さんは作家で、私は秘書」
「ああ、他の女を選ばないで、香里を秘書にするよ」
「きっとね。私ね、あの作品を書き直す」
「そうしたらいい。きっと物になる」
「家城さん、ありがとう。嬉しかった、最後のときまで一緒にいてくれて」

香里の表情が急に崩れ、大きな瞳は涙に包まれ、溢れた涙は頬を伝った。

亮輔は香里をひしと抱いた。香里は亮輔の背に両腕を回してしがみついた。しばらく抱き合っていた。それから離れて、また飲み始めた。
「昨日ときょうも楽しかった。家城さんに逢っているときだけ、私、生き返っていたの」
「わかっている。ぼくもそうだ。香里といるのが楽しかった」
「なんだか夢のようなの。大阪で家城さんの横の席に座って八ヶ月後に……もうなくなった」

香里は紙コップを差し出した。亮輔はスコッチを注ぎ足し湯を入れた。自分の紙コップにも注ぎ足した。

睡眠薬の錠剤を一錠ずつ口に含み始めたのは、三十分ほど経ってからだった。
「写真も沢山写したから、思い残すことない」香里は亮輔の胸の中で囁いた。
「記念写真を沢山撮ったね。お姉さん、びっくりするな」
「うん、びっくりする。眠たくなってきたよぉ」
「まだ睡眠薬のせいでない。酔って眠たくなってきたのだよ。あと三十分はここにいよう」
「この車どうするの?」
「駅レンタカーだから、おそらく米子の駅レンタカーの係が取りに来る」
「便利ね」
「死ぬのも便利になった」
「おかしいね」

二人は喋りながらスコッチを飲み、錠剤をついでに喉に流した。
「長い人生だった。これでやっと休めるな」
「生きているのが嫌だったけど、あっという間」
「この道より、われを生かす道なし。この道を歩く」
「どっかで読んだ気がしますよ」香里の声は酔っていた。
「武者小路実篤」
「家城さん、眠たくなってきたよ。沼はまだぁ」

亮輔は腕時計を見た。四十分は経っていた。
「もう少し」
「眠ってしまったら起こしてね」
「そうする。寒くないだろ?」
「寒くないよ」

亮輔と香里がよろける足取りで沼に向かったのは、それからしばらく経ってからだった。酔いなのか睡眠薬のせいなのか、亮輔の意識は朦朧としていた。意識のあるうちに沼に辿り着く限界と判断し、香里を外に出した。

香里は外に出るとき四つん這いに転げた。亮輔は香里の側に廻ると、香里を助け起こした。香里を抱くようにして、車のライトの前を歩いた。辺りは闇とぼうと拡がった雪明かりの混濁した世界だった。雪に足を取られ、二人は何度も転んだ。亮輔は転んでは香里を抱き起こし、声をかけた。
「もう少しだ」
「もう少しなのぅ」
「そうだぁ……苦しくないかぁ」
「また蒜山に来たいよぅ」
「来よう」
「私ねぇ、幸せ」
「ぼくもだぁ」

亮輔は、幸福感に満たされていた。長年、生きてきたが、いまこのときほど嘘偽りのない真実はないと思えた。香里の躯をしっかりと抱いていた。香里の生命(いのち)が、どんどん自分の躯のほうに流入してくる感じがあった。
「家城さん……」
「うん……」
「作家になってねぇ」
「香里を秘書にしてやる」
「私も書くねぇ。あの作品……『腐草螢となる』」
「そうだよ」
「ここは何処……蒼白いねぇ」
「もうすぐ沼だ」
「トーテムポール……」
「そうだ」

良輔の意識が混濁してきた。
「香里は重たいなぁ」
「胸が気持ち悪いよぅ」
「吐くのかぁ」
「蛍が飛んでいるよぅ」
「何処に……見えるのかぁ、雪が降ってるのじゃないか」
「目の前にぃ……いっぱい……ふわふわ飛んでる、蒼白い」
「蛍かぁ」
「ダイヤモンドダスト……」
「違うだろぅ」

亮輔は重たい香里の躯を満身の力で抱きかかえ、引き摺り、分厚い雲を片手で掻き分けるように前方に振って、膝まで埋まる雪道を、革靴で一歩、一歩、沼を目指して進んだ。しかし目蓋が瞳にすぐに吸着してしまい、開けるのに一苦労だった。辺りがずっと暗くなり、ぼやけていた。沼に向かっているのかも判断できなかった。

香里の躯はずっしりと重くなり、何も喋らず、一個の物体を抱きかかえているようだった。
「香里、眠ったのかぁ」
「……」
                      【完】


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蒜山別れ唄61

2008-10-26 16:45:27 | 蒜山別れ唄

二十分ほど休憩すると、車のところに戻った。

あちこちで写真を撮り、大山のホテルに着いたのは十一時半だった。森林の中に埋もれたようなホテルだったので、雪景色のなかで眺めると、北欧の写真集にでも載っているような、白に融け込んだ佇まいであった。
「懐かしい」と、香里は喜んだ。

カウンターのところで昼食だけできるかと訊ねると、若い女が、ご案内します、と先に立ってレストランに向かった。
「また来たのね」

香里は瞳を潤ませていた。
「来てよかった?」
「だって、家城さんに初めて抱いてもらったところよ」
「大山口から迎えの車で一路、ここに向かったのだ」

時間が早かったので、レストランは二人きりだった。
「アルコールは飲めないから、和食の定食にしようか」
「それでいいよ。池が見える。雪景色の湖面って静かな感じ」
「食事のあとで行ってみようか」
「写真撮っておきたい」

     *


帰路の車の中で、亮輔は、「だいぶん写真撮ったね。アルバムに貼るの?」と、香里に冗談めかして訊ねた。
「お姉ちゃんの手紙に書いてあるの。アルバムにしてお墓に入れて欲しいと」
「墓に納めるの」
「だってお母さんに見せないと。私、こんなに幸せだったと」
「そうだったのか……お母さんにね」
「家城さんに逢うまでの写真で、本当に幸せだった写真は一枚もないもの」
「ぼくをお母さんに紹介してくれるのだ」
「そう」

蒜山高原ホテルに戻ったのは二時だった。館内の売店で蒜山の名産を買い、宅配便用の紙袋を貰った。それから部屋に戻ると、亮輔は服を脱いでベッドに横になった。死出の準備はできていたので、夕食前まで眠るつもりだった。快適なコンデションで死に臨むつもりだった。
香里はシャワーを浴びていた。亮輔がまどろみかけると、バスタオルを巻いた躯でベッドに飛び込んできた。亮輔が手枕を伸ばすと、しっとりとした髪の頭を載せて、顔を亮輔の胸に埋めた。
「昨夜はセックスしなかったね」
「香里を無垢(むく)な躯のまま、お母さんのところに送るつもり」
「無垢?」
「純白の雪のような……」
「そんなこと考えてたの」
「そう。して欲しいの」
「して欲しい気もするけど、家城さんがいいのならどっちでもいいよ」
「抱き合って寝よう」
「そうする。抱かれているだけでも家城さんの優しさが伝わってくる」
「夕食を食べたら、この部屋にメモを置いて車で沼まで行く。沼の近くまで車を寄せて、それからウィスキーを湯割りで飲みながら、睡眠薬をぼちぼちと胃に運ぶ。一時間もすれば眠たく、頭が朦朧としてくる。それから沼まで抱き合って歩いて行く。意識朦朧として、寒さは感じない。抱き合って飛び込もう。しばらくもがいても運動神経をやられているから二三分ほどで意識はなくなる」
「ちょっとの辛抱ね。苦しいと思ってもどうにもならないわね」
「うん。イメージトレーニングしておいて」
「家城さんの言ったとおりにするよ」
「少し寝ようか」
「天国に行っても離れ離れにならないように、きつく抱いてね」

亮輔と香里が車で沼に向かったのは、辺りが真っ暗になってからだった。気温がぐっと下がり、ライトの周辺にだけ蛍光色の雪が舞い落ちていた。ホテルの向こう側の牛舎が黒い塊に見えていた。その辺りの街灯が侘びしく灯っていた。

オートキャンプ場の看板がライトに映った。亮輔はハンドルを左に切った。そのままゆっくりと沼の方角に向かった。森林の中だけに積雪は少なかった。沼の手前、五十メートルほどの場所で停車した。そこから先は車で行けそうもないほど道が狭まっていた。
「とうとう着いた。香里に少しでも後悔があるのだったら引き返すが」
「していないよ」香里ははっきりとした口調であった。
「新幹線に乗ったときからこころを決めていたのよ。家城さんに逢ってからはもっとしてない」
「そうか……じゃあここでウィスキーを飲もうか。スコッチだから飲みやすい。湯割りで飲むと、すぐに躯は暖まってくる。後部座席に移動しようか」
「そうね、後部座席でないと抱き合えないもの」

一度雪の中に出ると、二人は後部座席に乗り込んだ。湯を詰めたポットと紙コップとスコッチウィスキーが置いてあった。睡眠薬は亮輔の胸ポケットに用意してあった。

亮輔はCDをオンにした。谷村新司の「群青」をかけた。エンドレスにした。
「この歌いいわね……空を染めていく、この雪が静かに……」香里は小さな声で口ずさんだ。
「練炭コンロで中毒死することもできるけど、沼にする」
「練炭コンロは嫌、集団自殺みたいだから。沼がいい」
「ほとんど知り合っていないのに、四人も五人も車で死ぬなんて安直すぎるね。それに貧乏たらしっくて嫌だな」
「一度しか死ねないのだから、もっと大切に、優雅に死なないとね」


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蒜山別れ唄60

2008-10-26 09:16:17 | 蒜山別れ唄

車に乗り込む前早速、宿舎の玄関と玄関の先の雪原を背景に、交互に写し、館内に立っていた客に、二人の写真も撮って貰った。
「それじゃ出発。まだ九時半だからゆっくり走ろう。雪道でも大山までは一時間かからない」

二人ともまったく心中する雰囲気でなかった。
「あちこちで停まって写真を撮る。朝日を受けてきらきら光ってる」

香里は純白の雪原を眺めていた。
「青空になった」

亮輔は車を走らせながら、前方の空に視線を向けていた。
「あれが大山!」
「そうそう。大山の頂上が見えることは滅多にないのだよ。あの辺りはガスで隠れていることが多い」
「祝福されているのだね」
「二人の死を祝福してくれているのかな。外は小春日和みたいな陽気だ」
「写真撮りたい」と、香里が叫んだので停車した。
「三脚で写すわ。大山を背景にしてそこに立って」

亮輔は指図されたところに立った。香里は三脚を地面に立て、自動シャッターの準備をすると、駆け寄ってきた。

ここで二枚写してから、亮輔はタバコを取り出して火を点けた。
「暖かいね。コートを脱いでいてもホカホカしてる」
「鏡ケ成に着いたらコーヒーを飲もうか」と、亮輔は声を掛けた。
「飲むよ」

車を走らせた。
「薬は服(の)んだ?」
「まだ。服むと眠った状態になる。昨日から気持ちがハイなの」
「躁状態?」
「軽いやつ。軽躁のときは、快適な気分なの」
「そうだったのか」
「でもハイが進行すると眠れなくなるし、ひどい状態になるよ」
「薬で調整」
「抗鬱剤を一錠増やしたり減らしたり、別な薬を混ぜたり」
「そう」

亮輔は前方に休暇村鏡ケ成の建物を見ていた。

駐車場に停めた。屋根にスキーやスノーボードを載せた車が、十数台停まっていた。ここの宿泊客の車だ。館内に入り、右手の喫茶コーナーに向かった。椅子に腰を下ろすと、亮輔はゆったりとした気分で前面の白い景色を眺めた。
「ホットコーヒーでいい?」

亮輔が頷くと、香里はカウンターに立っている女のところに向かった。

明日がないと、こんなにのんびりした気分になれるのが不思議だった。これまでは何かに対して、責任のようなものを背負って生きていた感じがしていたが、それが消失して躯が浮きそうな軽さになっていた。何もない気楽さを味わっていた。

生への執着とは何なのか。この世には不幸を背中に背負い、両手にぶら下げ、背を丸め、それでもなお生きるために歩いている人を見かけることがある。なんのために生きているのかと訊ねたら、応えられないひとも多いのではないか。明日に希望があるのか、それもなく生きているひとも多いだろう。生というのは人間の意志とは別なところで、生き続ける仕組みを持っているのだろうか。

亮輔はこんなことを考えていた。

香里は両手にコーヒーカップを握って運んできた。
「はい。砂糖もミルクも入っている」
「ありがとう」
「雪、雪、雪ね。樹も雪でお化粧」

椅子に腰を下ろすと、香里は前方を眺めて言った。
「コーヒーが旨い」

亮輔がコーヒーを飲んでいると、香里は少し離れてシャッターを押した。
「家城さんは鬱ないの?」
「芸術家は多少とも躁鬱とか分裂症、狂気を潜(ひそ)めているからな、重い軽いはそれぞれだけど。ゴッホ、モディリアーニ、日本だと芥川、太宰、坂口安吾は酒乱。三島由紀夫、川端だっておかしな死に方をしてる。数年前に文藝評論家の江藤淳が自殺だ。柳美里だって狂気を潜めていると想うな。みんな子どもの頃から何かを背負わされているのだよ」
「私や家城さんのように?」
「貧困の逆境とかいうものならハングリー精神で自分の意志を鍛えることは可能だが、そして世に偉くなったひとの多くはこういう境遇で育っているが、虐待は逆境と性格が異なる。抜きがたい、自己破滅志向の棘だ」
「私ね、子どもの頃を懐かしく思えるひととそうでないひとがいると思う。そしてね懐かしく思えるひとは不幸な生き方はしないけど、思えないひとは不幸な生き方を選びやすいと思うの」
「それはかなり当たっている。男同士でも男と女でも両者は交わりにくい。不幸を背負った男は不幸を背負った女と恋をする。だから小説にでも映画にでもなる。幸福な生まれの男と女が登場するものなんて、だいたいドラマにならないからね」
「幸福に生まれ、幸福に育ち、幸福な結婚したひとの話なんか、こころに何も残らなくて、全然面白くない」
「不幸を売り物にしてるのでないけど、不幸は芸術の源(みなもと)だな」
「モディリアーニの映画観たことある、『モディリアーニ 真実の愛』」
「そんな映画あったの?」
「恋人のジャンヌとの話なの。モディリアーニって顔と首が長く、眼がない女性の画をたくさん描いたでしょ。モデルはジャンヌなの。不慮の事故で死ぬのだけど最後に描いた画に眼が描かれていたのよ。そしてジャンヌも二日後に後追い自殺。お腹に九ヶ月の二人目の赤ちゃんが」
「知らなかったな……真実の愛……後追い自殺ならジャンヌには真実の愛があったことになるな」
「どうして?」
「モディリアーニが居なければ生きていけないのだろ。これは結び付きの強い絶対の愛だ。香里はどう?ぼくが先に死んだら後追い自殺できる?」
「ううーん……できないかも。一緒に居たいけど」
「一緒に居たい願望だけなら真実の愛とは違うかもな」
「家城さんとのあいだに恋はあったけど……真実の愛、わからない」
「難しいな」
「家城さんは何で死ぬの?私のため?」
「そんなことないな。ぼく個人の理由。だけど香里と一緒に死んでやれるのもぼくとしての幸福だけど……そうだな、これから先、生きていてどうしてもやらなければならないことがなくなったな」
「創作は?」
「ううーんどうかな。半分は充たされるだろうけどあと半分が充たされない」
香里とのあいだに恋があったのか、同情心に衝き動かされただけの気がしないでもなかったが、いまさらこんなことを詮索しても虚しいだけだ。まして真実の愛は、十年、二十年かけて答えの出るものであろう、と良輔は考えた。


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蒜山別れ唄59

2008-10-25 16:36:36 | 蒜山別れ唄

     *


寝起きの不機嫌な香里にしては珍しく、朝の六時にシャワーを浴び、ヘアドライアーの音で亮輔は目覚めた。クリーム色の天井を見ながら、死ぬ当日が来たのを確認していた。早くから起きて、香里は死ぬことに張り切っているのだな、と思った。

朝食を食べたら午前中は鏡ケ成休暇村辺りまで車で走って、あちこちで写真撮影をしよう。なんなら大山まで戻り、六月に宿泊したホテルのレストランで、湖畔を眺めながらランチを食べてもいい。それから引き返し、一度沼の辺りまで車で出掛けて下検分をしてから、ここに戻って来る。それから宅配の荷造りをしても間に合う。娘たちにもここの名産と別れの手紙を宅配便で送ることにしよう。別れの手紙は自宅で書いてきた。

死ぬのは夕食後のほうがいいのではないか。夕食前にいなくなると、フロントが怪しむのではないか。警察とか遭難救助隊のようなところに連絡されると、死ぬ前に見付かってしまうかもしれない。車の中で二、三時間は過ごし、睡眠薬をスコッチの湯割りでぼちぼちと飲んでいけば眠たくなる。眠気が差してきたら二人で沼に歩いていけばいい。その頃には意識は朦朧としていて、沼に飛び込むことしか念頭にない筈だ。飛び込めば沼の冷たさにショック死するのは数分間、長くて五分間。

発覚は明日の午前十時のチェックアウトで、フロントに不審がられる。係はすぐにこの部屋に駆け付ける。テーブルの上のメモを読む。


この先のオートキャンプ場奥の沼で死んでいます。お手数ですが、下記に電話連絡してください。両名の関係者が即刻駆け付けます。

人生最後の日を、貴ホテルでくつろがせていただいたことを嬉しく思います。

ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます。


メモに書く文面を考えていたら、荷物を宅配便で送ると行き違いになることに気付いた。宅配便の袋に梱包してフロントに預けておけば、娘たちや香里の姉たちは荷物を点検、手紙や同封の金を見付ける。これのほうがいい、と考えた。
「眼が覚めた?」

香里は白い躯にバスタオルを巻き、さっぱりとした顔を見せた。
「よく眠られた?」
「よく眠ったよ。眠ったらセックスしたくなった」
「天国に行く日だから」
「そうだったわね」香里はにこっと微笑んだ。
「ぼくは展望風呂に入ってくる」
「お風呂は昼から入る。沼に行くのはお昼?」
「夕食を食べてから。大山のあのホテルまで行く?」
「あの池見られるの?」
「あそこで昼食をしよう」
「うん、素敵」
「じゃあ、ちょっと行ってくる」

亮輔は思い切って躯を起こした。

廊下のガラス越しに外を眺めると宿舎の蔭の一面は、蛍光色の雪に覆われ静寂の空間を拡げていた。亮輔は眼に映る自然の姿は、二度と見ることのない光景だという感慨で、何を眺めても愛おしかった。

一人で漬かっている展望風呂の湯船の一時さえ愛おしかった。静かに眼を閉じていると、ドーム上の天井から落ちた一滴の水音が、湯面に清澄な響きを立てた。だれに向かって言っているのかわからなかったが、

――とうとう生涯を終える日が来ました。これまでいろいろと世話になり、ありがとうございました、と亮輔は胸裡で呟いた。

いい人生だった、と感謝の気持ちに充たされていた。亡妻の母親のことは、近辺に姉弟、甥、姪がいるのでなんとかなる。後ろ髪曳かれるものはなかった。

未熟な人生であったと考えれば、そうとも思えた。

若い頃から中断なく創作に専念していたら、早い内に文学賞を受賞していたかもしれない。しかし亮輔は二人の娘の教育とその学費稼ぎを優先させた。雑文は同人誌に掲載してきたが、亮輔が真剣に創作に立ち向かい始めたのは五十歳に載ってからだった。自分にどれほどの作品が創作できるのか、その力量を見極めてみたかった。

半年かけて三百枚を超える作品を二作完了した。その前には百枚ほどの作品を三作創作した。このうち三百枚を超える作品は文学賞に応募しておいた。結果は五月頃にわかるのだが、きょう死ぬのだから確認はできない。だがそれでもよかった。単行本にする価値があれば出版社が、読者の目に触れ形でそれをやってくれる。

仕事はここ七八年前に閉鎖していたので、食えない状況が一年後には確実にやってくる。応募の結果を確認してからということも考えたが、香里の状況を思うと、いまが死ぬのに一番いい時期と覚悟を決めた。今年に入って一月一杯かけて、捨ててよい物はすべて捨て、身辺整理は終わった。今更引き返しても、元の状況に戻れないように整理してしまった。

宿舎の予約は連泊になっていたので、荷物は部屋に置いておいた。外に出掛けるとき、香里が慌てたようにスポーツバッグの底を探った。
「三脚を持ってきたの」
「重たい物を持ってきたね」
「ううん、この頃のは軽いの」

三脚は亮輔が持ち、香里は柔らかなレザー・リックを、コートの上から肩に掛けて従(つ)いてきた。

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『花の下にて春死なん――大山心中』



蒜山別れ唄58

2008-10-25 13:47:01 | 蒜山別れ唄

     *


白ワインとドライシェリー、ブランデーをミックスし、レモンの皮を数枚沈めたホットワインをオーダーした。
「これだと風邪をひかない」と、亮輔は香里の顔を見つめて言った。
「玉子酒のような物?」
「そう。今夜はイタリアンのコースだから合うしね」

レストランはどのテーブルもスキヤーたちで活気に充ちていた。あちこちのテーブルで談笑の笑い声が起こっていた。二人だけでぼそぼそ喋っているのは、亮輔と香里のテーブルだけであった。元気なスキヤーの姿を眺めているだけで、亮輔の気分は楽しかった。
「イタリア料理を予約してあったの」
「前に来たときは、和風蒜山とか洋風蒜山といったわけのわからない料理だったので、コックさんのお得意料理をフロントで訊ねたら、イタリアで修行していたと言ったので、イタリアンにした。食べるだろ?」
「鬱ってね、食べることは意欲的になるの。食べて寝てだからすぐ太る」
「最後の晩餐、最後の贅沢」と亮輔が、笑顔で喋っていたら、それが二人の若いウエートレスによって運ばれてきた。金縁の白い皿にこんがりと揚がったものが、緑の草の上に載っていた。
「何なの?」
「食べてみて」

亮輔は笑っていた。
「香りがいいわね」と言ってから、香里はフォークとナイフを使って口に入れた。
「美味しい。何かのカツレツ?」
「そう。フォアグラのカツレツ」
「フォアグラなんて高級品、食べたことないよ」
「こんな風にも料理できるのだな」と、亮輔は口をもぐもぐ、感心した口振りだった。それからワインを一口飲んだ。

香里は美味そうに食べていた。
「また太りそう」
「この草は何だろうかね?」
「何かな香りがいい。沼でダイヤモンドダストが見られたらいいね」
「ダイヤモンドダストか、ちょっと無理じゃない。あれはカナディアン・ロッキーの麓の町でないと見られないだろ。幻想的な煌(きら)めきだろうけど」
「見えたら蛍だよ」
「そうか、蛍の代わりか」

二皿目はホタテの白ワイン蒸しと手長エビ。三皿目は細目のスパゲティの上に、黒いダイヤと呼ばれるキャビアが盛り付けられてあった。

亮輔はシャンパンを二人分、オーダーした。
「塩加減だけの素材の味」
「美味しい」と言ってから、香里は残っていたワインを飲み干した。

次に出てきたのは完熟トマトソースの上に、クレープグラタンが寄せ集められてあった。
「これも美味しいね。焼き加減がふわっとして」

香里は幸福そうな表情だった。
「家城さん、脳ってどんな風になってるの?」
「変なことを訊くね」
「だって脳にこころがあるのでしょう?」
「胸にこころはないだろう」
「脳に化学物質があるのだって。その化学物質の調整がおかしくなると、躁鬱症状になるのだって」
「そのことか。そうらしいね」
「脳内麻薬もあるのだって。これによって恋愛感情が左右されるって」
「セックスの快感もね」

最後に和牛フェレ肉を網焼きしたスライスを、赤や黄色のピーマンに巻いた物だった。
「イタリアで修行したコックだけあるね」

シャンパンを一口飲んでから香里は、「お腹が膨れた」と言った。

亮輔は網籠のパンを目で差して、「食べられない?」と訊ねた。
「もう一杯よ」
「まだデザートが出るよ」
「脳は宇宙みたいなもの?」
「そうだな。宇宙かもしれないな」
「死ぬってことは私が持っている宇宙が、もっと大きな宇宙に同化すること」
「香里はいいこと言うね、大きな発見だ」
「大きな宇宙の中で、家城さんに逢えたら嬉しい」
「まずお母さんたちに逢える」
「死は完結しないのね」
「うん、完結はしない」
「新しいドラマがきっとある」

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『花の下にて春死なん――大山心中』



蒜山別れ唄57

2008-10-25 09:17:58 | 蒜山別れ唄

     *


香里は部屋の窓に佇んで、じっと外を眺めていた。
「まるで変わっちゃった。若草色の草原が鼠色になっている」
「これでも今年は降雪が少ないとフロントの係が言っていた。雪の多いときは、大山から廻ってくる道路が通行禁止になるそうだよ。明日は晴れ、朝眺めると眩(まばゆ)いほどの白銀世界になる」
「夢を見続けているよう。明日は早く起きて写真を一杯写そうね」
「それがいい。沼に行く前にお姉さんに手紙を書いて、フィルムを郵送しておけばいい。フロントに頼んでおくと、送ってくれる」
「そうする。ここの名産と一緒に送ってもらう。余ったお金も返しておく」
「ついでにぼくが持参しいる四十万ほど、姉さんのほうに送金して貰おうか」
「そんなことしていいの?」
「死ぬとき持っていると盗まれてしまうかもしれない。ぼくたちが死んだあと、姉さんたちはお金が要る。駆け付けて来る費用、香里の遺体をお墓に納める費用」
「死ぬのにもお金が要るのね」

香里はソファに腰掛けている亮輔をまじまじと見つめた。
「迷惑かけない程度のことはぼくがしておく」
「ありがとう」と、香里は消え入りそうな声で言った。
「恐縮しなくていいよ。恐縮すると鬱をぶり返すぞ。薬は?」
「夕食後にのむ」
「お墓は紀州?」
「そう、田辺にお爺ちゃんやお婆ちゃんやお母さんのお墓がある」
「香里はお母さんのところに行く」
「うん。お母さんのところに行く」
「それがいい」
「お母さん優しかった」
「姉さんと別れるの、淋しくない?」
「淋しいけどいつまでも厄介者でいたくない。家城さんがいるから淋しくない」
「風呂に行かないか。それから食事」
「そうする」

ホテルはスキー客で混んでいた。人の混まないうちに展望風呂に入りたかった。香里の気持ちが感染したのか、亮輔も人の姿を見たくない気持ちになっていた。

幸い展望風呂は洗い場で一人、頭を泡立てて洗髪しているだけだった。亮輔は湯船に長々と脚を伸ばした。

思考が停止している状態であったが、人生の長旅の果てにやっと辿り着いた安楽の桃源郷にいる気がした。死への不安は微塵もなかった。若い香里のことがこころ残りだったが、香里も三十二歳まで生きてきたのだ。本人に悔いがないのなら、一緒に死ぬのが香里の幸せかとも考えた。

ひとの幸せとは何なのか。これまで生きてみて結局、亮輔にはわからなかった。いまが幸せと思えば、そうとも思えた。

ニューヨークの世界貿易センターへの旅客機衝突による爆破と、その後の米軍によるアフガン空爆を考えると、人類はこれからますます不幸な運命を辿っていくのではないかと想った。平和だ、正義だと主張しながら戦争の道を突き進んでいく愚行。亮輔はこういう地球に飽き飽きしていた。

二人の娘のことも考えたが、それぞれの人生を生きてくれたらいい、と思っていた。

夕食を食べにレストランに行かなければならないので、下着だけ替えてもう一度服を着た。

キーを持っている亮輔が先に部屋に戻った。

一度窓際に立ったが、外はすっかりと暮れていたので、ソファに腰を下ろした。

明日死ぬのだと思うと、何もすることがなかった。昨年六月に来たときは香里の原稿に目を通してやっていたが、香里の長編「腐草螢となる」は、表現力のなさから一次通過しなかった。

内容にはいいものがあったが、小説ではなく作文表現であった。香里が小説と作文の区別を認識するにはあと五、六年の修行が欠かせないが、薬物療法に頼っている躁鬱では創作で成功する道は険しい。このことは香里には言ってなかった。遠藤周作や北杜夫もひどい躁鬱であったが、若い頃の文学修行は豊富だった。可哀想だがいまの香里が作家になる道は、絶たれているに近い。

いまが香里にとって幸せな状況であるのなら、香里と死ぬのが亮輔にとっても、安楽な選択であった。

香里との愛はつくれなかった。そうも思った。愛は、好きだという言葉やセックスではない。男と女が一緒に居る、存在の形だ。形の継続、保持こそ愛なのだ。

形を保持するにはお互いの知性と理性が欠かせない。しかし香里は出逢ったときから肝腎な知性と理性を機能させるこころが毀(こわ)れかかっていたのだ。そんな女にあの出版記念パーティで巡り合ってしまった。これもぼくの運命かもしれない。

良輔はそう納得していた。

生のつらさはこれから先も果てしなく長いが、死の苦しみは一瞬だ。

ドアが開いた。子供のような天真爛漫な笑顔だった。亮輔の好きな顔だった。
「ゆっくりと入ったよ。内風呂と違って気持ちいい。こころが拡がった」
「嬉しそうな顔だな」
「ここに来ると、にこにこ気分になるの」
「にこにこ気分か、そりゃいい。じゃあその気分で、ご馳走を食べて今夜は早く寝るか」
「うん。それでもいいよ」

亮輔は今夜はセックスをしないつもりであった。香里を純白の少女のままの躯で、母親の元に送ってやりたかった。

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『花の下にて春死なん――大山心中』



蒜山別れ唄56

2008-10-24 17:02:27 | 蒜山別れ唄

毀(こわ)れた精神ながら、香里は香里なりに自分との愛を保とうと努めていたことに、亮輔は両目が涙で濡れそうになる気持ちを隠した。

車をスタートさせた。
「さてどうしょうか。ここから蒜山インターチェンジまでは一時間。いま一時か……大山から前のように休暇村鏡ケ成を通り過ぎて蒜山に入る?」
「どっちで死ぬの?」
「最初の計画では大山だったが、あそこの池はホテルの内庭でホテルに近すぎない?蒜山のトーテムポールのある沼のほうが心中向きでないかな」
「沼のほうがいい。だって思い出深いし、幻想的な感じの場所だったでしょ」
「蛍をシンボリックするものがないのが残念だけど」
「蛍外飛ばなくってもいいよ。冬山だもん」
「まあね」
「蒜山インターチェンジからホテルまで遠い?」
「五、六分ぐらいかな」
「チェックインに早すぎるわね。きょう死ぬの?」
「死ぬのは明日。せっかくの蒜山だからきょうはゆっくりしよう。展望風呂も入りたい」
「家城さんとゆっくりいたい。死ぬのは明日」香里はオウム返しに楽しそうな声を出した。
「それじゃ大山から蒜山までの環状道路を走ろう。ホテルに着くのは四時頃」
「空が明るくなってきた」

前方の雲が薄くなっていた。

蒜山サービスエリアを走り抜け、大山パーキングエリアの手前の、溝口インターチェンジから桝水高原へ向かう道を走った。
「大山が真正面に見えるね、白銀の世界」と、香里は先ほどから感嘆の声を上げ、浮き浮きしていた。
「間近に大山を見るのは初めてだ」
「ウェデングドレスを着たお嫁さんのような山ね」
「ああ、そうだなぁ」
「二度もこの山を見るなんて幸せ」
「また来たいと言ったのが実現した」
「そうなるとは思っていなかった」

亮輔にしてもこんなに早く、香里と大山を眺めるとは思わなかった。それも死を覚悟して。

スキーやスノーボードを屋根に積んだ車が、対面から何台も擦れ違った。
「スキーしたことはある?」
「ないない。生まれ紀州だもの」
「雪は降らないか」
「カメラ持ってきたから、一度車を停めてね」
「カメラを持ってきたの」
「生きている姿を沢山写して、姉ちゃんに送る。家城さんの写真も」
「カメラマン香里の最後の写真か。大山はブナの樹氷が綺麗だ」
「樹氷、初めて見る」
「幻想的だよ」
「じゃあの沼の辺りも」
「あっそうか、そうだね」
「わぁー、人生の卒業写真に樹氷に囲まれた沼を写せるなんて。クリスタルな世界を想像する」
「香里が卒業するにはちょっと早いけど」
「ううん、幸せなときに死ぬのが一番いいの。もう幸せなんて来ないもの」

香里に死への怖れは見えなかった。香里なりに死への覚悟はとっくにできているのかもしれない。あるいはこれも鬱の症状なのかもしれない、と亮輔は考えた。
「ごめんね、家城さんは作家になれるのに……」
「なれるかどうかはわからない」
「だって作品応募したんでしょ?」
「したけど、甘い世界ではない。まぁいまの力量で勝負しておいたから、悔いはない」
「結果がわからないね」
「どうでもいいよ。創作しているときの充実感があるかないか、問題はここだから」
「充実感、あった?」
「香里がぼくに若さをプレゼントしてくれたじゃないか」

喋りながら走っているうちに桝水高原に辿り着いた。大山をバックにゲレンデが展がっていた。あちこちで滑降しているスキヤーの姿があった。香里はスポーツバッグからカメラを取り出した。今度はデジカメでなかった。

車を降りた。冷気に充ちていたが、思ったほどの風はなかった。大山を背景に交互に写した。通りかかったスキヤーに頼んでシャッターを押して貰った。しばらく大山に視線をやって佇んだ。亮輔はタバコに火を点けた。一秒、一秒の時の流れを納得いくように胸に納めた。

こんな風な贅沢な状況で人生の幕を下ろせるなど、若い頃の亮輔には想像もできないことだった。人生の面白さを充分に味わった。もう何も要らない、と心(しん)から思った。

この世にはいまのいま、生命(いのち)の延長を求め、闘病生活を送っている人も多い。それを看護している人も多い。アフガンの人々は戦火に荒廃した国土で、明日を索めて困窮生活に耐えている。どれもこれもが人間模様。

亮輔はそう考えていた。
「六月にここを通ったね。鏡ケ成は左?」と、香里は辺りを眺めて言った。
「右だからこれから通る」
「その次が蒜山高原ホテル」
「そう。何処かに入ってコーヒーでも飲む?」
「まだいい。蒜山でゆっくりする」

一面、広々とした明るい雪景色、こんな場所で車の運転をするのは初めてであった。青空が拡がる天候に回復していたので、亮輔はほっとした。

二人は車に戻った。

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蒜山別れ唄55

2008-10-24 07:16:18 | 蒜山別れ唄

     *


香里は眠っていた。香里の寝顔に死にに行く悲愴感はなかった。死を間近に自覚できていないのかもしれない。亮輔にしても平生と変わらない心境でハンドルを握っていた。中国自動車道の佐用町を通り過ぎて、これからは岡山県に入って行く。路面は雨降りのように濡れていた。左右の山肌や遠望できる山並みに白く雪が積もっていた。昨日レンタル会社に予約したとき、中国自動車道でしたら冬用タイヤに替えておきます、と係が言った。蒜山までの米子自動車道は厳しい上り下りはないので、冬用タイヤで充分走れる。

亮輔はそろそろ空腹を覚えてきた。次のサービスエリアのレストランに休憩しようかと思案していた。寝起きの悪い香里だから、早めから声をかけることにした。

――そうだ、あれを渡すのを忘れていたな。

昨日三宮街を歩いていたとき、香里にネックレスを買うことを思い付き、宝飾店に入った。店のオーナーらしい初老の女性が近付いてきた。用向きを述べると奥に案内してくれた。
「サファイアのネックレス……その方は普段リングは何を付けておられます?」
「サファイア」
「色白なかたですか?」
「そうだね」
「私のセンスで申し訳ないのですが、サファイアにサファイアより、ブルートーンのトルコ石かシルバーで胸元を飾ると爽やかですよ」
「そうなの。両方を見せてください」

結局、奨(すす)めてくれたデンマーク製の、スターリングシルバーのペンダントとイヤークリップを買った。
「お喜びになられますよ」と、女性はひとに幸せを分け与えたような、上品な笑みを浮かべた。

勝央サービスエリアが近付いていた。
「香里、起きる」

目覚めなかった。

片手を伸ばして額を軽く叩いた。
「起きる」

うーん、と伸びをするように唸った。
「起きてみないか。山が綺麗だ」

そおー、と寝惚け声で反応した。それから、「ここ何処?」と訊ねた。
「岡山。よく眠っていた」
「夢見ないでぐっすりと眠っていた」
「夢見るの?」
「悪夢ばかり。ホント、雪山が綺麗」
「うん。どうする、サービスエリアで食事する?」
「しゃぶしゃぶでいい。ひとの顔を見ると疲れるから」
「そうか。それじゃ熱いお茶だけ買って、ここで食べるか」
「私、買ってくる。トイレに行くから」

白い建物が細長く伸びた勝央サービスエリアに、亮輔は車を乗り入れて停車した。
「行ってくる」

香里はラメ糸が微妙な光沢を放つモヘアセーターの上に、虹色のウールのマフラーを巻くと、外に飛び出した。セーターとマフラーは銀座で買った物だ。香里のパンツに浮き出たハート型のヒップを、亮輔はウインドウから眺めた。

標高千メートルを超える灰色の雪山が、近くに聳(そび)えていた。亮輔はタバコに火を点けると、ゆったりとした気分で紫煙を吐き、白い山を眺めていた。香里の機嫌が良さそうであったので、亮輔はほっとしていた。

さむーい、と白い顔に白い息を吐き、香里は助手席に飛び込んできた。
「冷たーい!はい、お茶」

香里は嬉しそうな表情で亮輔を見た。

二人はしゃぶしゃぶ弁当を膝に広げた。
「美味しそうね」
「新神戸駅のこの弁当はなかなかいい」
「楽しい」
「そんなに楽しい?」
「とっても楽しいよ。だって六月気分に戻っているもん」
「六月気分か。『リバーサイドホテル』を聴こうか」
「聴きたい」
「ぼくはずっと聴いていたけど、香里は眠っていたからなぁ」
「蒜山までまだ遠い?」
「あと六十キロちょっと。少し先で米子自動車道に入ると、一路蒜山だ」
「懐かしい」
「うん」
「あんなに楽しかったことなかった」
「そうだ、香里にプレゼントがあるよ」

亮輔は後部席に置いたコートの内ポケットを探った。
「何?」
「開けてご覧」

香里は桃色のリボンの付いた包装紙を丁寧に開けた。
「わー、すてきぃ」
「サファイアでないけど、こちらも似合いそうだから。着けてみる」
「嬉しい」香里はにこやかな顔で、大仰にはしゃいだ。

香里はサファイアのリングを挿した手で、ペンダントとイヤークリップを身に着けた。
「よく似合っているよ」
「とっても嬉しい。ルンルン気分」
「そうか、香里はルンルン気分か」

良輔はいまとなってはこのようなことで、いっときの時間、香里を喜ばせることしかできなくなったことに、涙で胸を濡らしていた。
「ひどい鬱のときはこのリングを見つめていたの」
「そうだったのか……」

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蒜山別れ唄54

2008-10-23 16:27:37 | 蒜山別れ唄

心配なことは香里のこころの病のほうだった。予定の到着時間に姿を見せなくても、一、二時間は待っているつもりだった。それでも来ないときは香里は死ぬ気持ちをひるがえしたことで、それはそれで香里のためにはいいことだ。

躁鬱病というのは死にたいと口走っていても、一時間後にはテレビのコメディ番組に笑い転げていることもある。死にたいも笑い転げることも、香里の意志ですることではない。それでもいま香里が死にたいのであれば、一緒に死ぬのもいいのではないか、死ぬことで永久に安らぐこともある、と亮輔は考えた。

予定の時刻に香里は改札口に、秋に銀座で買ったホワイトの色調のコートにベージュのブーツで現れた。来るか来ないかと半信半疑であった亮輔は、スポーツバッグ一つを提げた香里の姿を認めると、やはり来たのかと、やや落胆気味に呟いた。

香里が来た以上は、これから先は死出の旅になる。もう引き返すことはできないと、亮輔は腹を括(くく)った。

香里の顔色は亮輔が心配していたほどの暗さはなく、薄白いい笑みを浮かべて近付いてきた。
「待った?」
「レンタカーを借りる段取りがあったので一時間前かな」

亮輔は香里のスポーツバッグを提げると、車を停めていた一階コンコースに下りる階段に向かって歩き始めた。
「やっと逢えた」と、香里は小さな声で言った。
「そうだね。お腹は空いてない?」
「空いてないよ」
「お昼にと神戸肉のしゃぶしゃぶ弁当を二つ買ってある。途中のサービスエリアで温かいものを食べてもいい。コーヒーは要らない?」
「いまは要らない」
「それじゃ早めに明石まで走ろうか。天気が悪そうだから」
「東京も寒かったよ」

駅前広場の駐車場に歩いた。
「真珠の色ね」
「この色しかなかった」
「いい色。なんて車」
「スカイラインクーペ」

香里は助手席に乗り込んだ。
「乗り心地抜群ね」

亮輔は運転席に座る前にコートと背広の上着を脱ぎ、後部座席にスポーツバッグと一緒に置いた。それからスタートさせた。
「昨日から神戸に来てたの?」
「徳島から出て来ると朝が早くなるので、途中で居眠りしてしまう」
「私はすぐに眠ると思う。抗鬱剤で」
「調子悪い?」
「それほどでもないけど」
「眠っていたらいいよ」
「うん、そうする」

香里の顔は、米子駅前のホテルで逢ったときの輝きは失われていたが、不機嫌な表情でもなく、目を瞑らずに前方を見つめていた。
「お姉さんに何か言ってきた」
「気分転換に旅行してくると昨夜言ったら、五万円くれた。嬉しかったぁ」
「いい姉さんじゃないか」
「でもよく叱る。抗鬱剤のせいかな、頭が悪くなって、動きがとろくなるの。朝は起きられない」
「眠れない?」
「ううん、夜は二時か三時には眠っているけど、叩き起こされないと夕方まで寝ていることがある」
「ふぅーん。寝過ぎて疲れないか?」
「外が明るくなると憂鬱になる。暗いと安心」
「昼と夜が逆なこころになるのかな」
「そう」

亮輔はオーデオシステムのCDをオンにした。
「井上陽水ね。『リバーサイドホテル』。蒜山のことを思い出す」
「布施明の『霧の摩周湖』や谷村新司の『群青』もある」
「どっちもいいよね」
「この天候だから、あのときとはまるで違う蒜山にお目にかかれるな」
「雪山」
「白い山。辺り一面、白の世界だろうね」
「綺麗だね」
「そこで死ぬ。わかってる?」
「家城さんと死ぬ」

香里は前方に視線を向けたまま、反復した。
「死ぬまでは楽しくしていよう」
「楽しく過ごしたい」

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蒜山別れ唄53

2008-10-23 14:08:37 | 蒜山別れ唄

     *


亮輔は新神戸駅の一階コンコースで、駅レンタカーのスカイラインを三日間借りることにした。香里が新神戸駅に到着すると、蒜山に向かう段取りだった。明石から中国自動車道に抜けて落合まで走り、そこから米子自動車道に乗れば蒜山までは早い。

二月初めの寒い日だった。香里の到着を待つ間、構内から外を眺めると、神戸の街の上に拡がっている、寒天色の空がぶるぶる震えているように思えた。これまでに何度も神戸の街を眺めてきたが、これで見納めになるのだと感慨に浸っていた。

――遅かれ早かれ、こういう日が来るのだ、と胸裡で呟いた。

脳軟化症の症状が重くなり、鬱状態に入ってからの江馬修との暮らしは天児直美にとっては、江馬の狂乱で修羅場に近いものだった。『炎の燃えつきる時――江馬 修の生涯』にはこのことが克明に記されていた。だが天児は江馬が八十五歳で死去するまで看取った。このとき天児は三十三歳であった。亮輔は、江馬と天児にも自分と香里が大山、蒜山高原で味わっているような、幸福な刻(とき)があったに違いない。

いや江馬修にとっての豊田正子、天児直美は精神健全な女だった。天児は江馬が亡くなってのちに墓まで建立した女だ。香里とは異なる女だ。

冬空を見上げて、ぼんやりこんなことを考えていた。

人生の舞台はいずれ幕を下ろさなければならない。亮輔は自力のあるうちに自分で幕を下ろしたいと、常々考えていた。死ぬにも気力がいる。日頃、死にたい、死にたいと他人に愚痴りながら生きているひとは多い。死にたければそれを人前で口にするな、と亮輔は日頃から思っていた。

背広にコートを羽織っていたが、太股にまで寒さの食い込んでくる天候だった。中国自動車道を走る頃には、霙が降っているだろうと、空を見上げて思案していた。

一月の無言電話の鳴り続けた日に、亮輔は香里の病めるこころの深さを知った。重い鬱状態であった。医者の言うとおりに抗鬱剤を服用しないと駄目だよ、と念を押すと、香里は、うん、と応えて携帯電話は切れた。

その後、三度香里から姉に隠れるようにして電話があった。

香里のこころが重傷でありながら、何もしてやれない自分を口惜しく思ったが、躁鬱は病気だ。病気であれば専門医でもない自分は無力だ。亮輔はそう考えていた。鬱が自殺衝動に囚われることは知っていた。香里が、死にたい、といったのはそれだ。亮輔は医者の指示どおりに抗鬱剤を用いることだけを、何度も念を押して言った。

叱咤激励は逆効果になる。鬱患者が自殺すればそれは自殺ではなく、病死だ。

癌や脳溢血などで亡くなると病死、突然死と扱われるが、鬱患者の場合は自殺と扱われる。しかし自分の意志で生死をコントロールできないのであれば、それは病死だ。

――幸いぼくは鬱ではない。ぼくの死こそ自殺であり、自裁、自決だ。それでも外見は香里と死んでいるのであるから心中だ。

心中に見えても同じ思いで死ぬとはかぎらない。一人で死ぬのは淋しい。道連れがいるのならいるほうが死ぬ寸前まで不安はない。これまで生きてきた人生や関わったすべてのひとに感謝しつつ死ねる。香里との心中はこういうものだ。亮輔の死は覚悟の死だ。

亮輔は、本当は一人死ぬのであれば英国の湖水地方、ウィンダミアまで出掛け、あの美しい景色の自然で静かに死ぬのが夢であったが、重い鬱の香里をそこまで連れて行くのは不安であった。二人の思い出の地、蒜山に行き、あの沼で死ぬのがいい、と考えた。

遺書は昨年末に娘二人と嫁ぎ先の父親宛に、それぞれ自筆でしたためてある。あとは投函日に日付を記入するだけだ。香里の姉宛にも一応の断り書きは書いておいた。遺体の処理についてはそれぞれの関係者に処理して貰う。幸輔は自分の分は心中した大山の火葬場で焼いて貰い、遺骨は高野山の墓地に納めてくれと、長女宛に書いてある。

警察署にも遺体捜索の依頼文を書いておいた。

睡眠薬の用意もした。亮輔の愛飲しているスコッチウィスキーも用意した。沼に飛び込んでもいいが、飛び込む以外の死に方として、車中での一酸化炭素中毒による死がある。そのために簡易練炭コンロと、隙間を目張するガムテープを、レンタルした車に積み込んだ。

あるいは積雪で沼にまでたどり着けないかもしれない。そのときは雪原で凍死することになるだろう。このための準備もしてある。

死んだ後、高野山の檀家寺に家城家を永代供養して貰うための百万円は、昨日神戸の銀行から長女の口座に振り込んだ。二人の亡骸(なきがら)の処理費用や何やかやの出費を想定して、百万円を加えておいた。さらに長女と次女に五十万円ずつを、父親としての最後の贈り物として加えた。手元に残っているのは六十万ほどだった。

香里と巡り合うことがなかったら、これらの金で二年間働かずに創作に打ち込むつもりであった。死ぬとなればもうこうした金は必要でなくなった。なんとか娘たちに金銭の迷惑はかけずにすむ。

二人の娘にも大学卒業まで親としてするだけのことはしてやった。親子はいずれは別れることになる。それが少し早くなっただけだ。アフガンの国民の境遇を想像すると、日本人は幸せすぎるほど幸せなのだ。

きょう香里が新神戸駅に降り立ち、改札口を出て来るかは賭であった。この賭のために亮輔は昨日から神戸に出て来た。昨夜は何度も利用したポートアイランドのホテルに宿泊した。

これも見納めになると、三十一階のスカイラウンジから、色とりどりに輝いた宝石をちりばめた神戸の夜景を、スコッチの水割りを飲みながら愉しんだ。子供の頃の惨めであった一日一日を回想すると、スコッチの酔い心地の中で綺麗な神戸の夜景を眺めている、自分の状況を幸せだと、しみじみと思った。

空は寒々としていたが、亮輔のこころは凍ってはいなかった。

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