ぼくは私小説を書こうと思ったことはないが、以下の文章は代表的私小説作家、川崎長太郎が六十一歳のとき、「新潮」五月号に執筆した『彼』という作品のなかのもの。1962年(昭和37年)のときで、この歳の七月に川崎は、三十後家の東千代子と初所帯を持つ。以下の文章は結婚前の暮らしぶりの一端である。
月、五千円近く払う、ちらし代は、このところ彼の生活費の、約三分の一を占めている。が、これは俺にとり、唯一の〈ついえ〉だ、と妙な理窟をつけて自ら納得し、今後共、足腰の達者な間は、毎朝食堂の昔風な暖簾くぐり、同じ丼もの註文することであろう。まだ四人の女中達が、掃除中、のっそり現れ、雑巾がけが済んだらしいテーブルを物色して、そこの椅子に腰降ろさず、下駄をぬぎ、ズボンの裾をたくし上げ、脚を二つに折り、ちゃんと膝頭揃えて坐り込むのが、五十歳以後やり始めた彼の仕方である。たたきの上へ、両脚のばしたなり、かけていては、寒い間はてき面、冷え込みが腰のあたりまで伝わってきて、体にこたえるし、夏場でも何等かの障りがあろうと警戒して、彼は年中、椅子へ坐り込む痔をつけてしまっていた。
女中が茶を運んでくる。少したつと、酢をまぜためしの上へ、赤、黄、白、色さまざまなものがのっている、くだんの丼ものが、Kの目の前に差出される。彼は割り箸をさいて、おもむろに口を動かし始めるが、牛が噴い物反芻する如く、ごくゆっくりと口を動かしていた。平げ終るのに、ざっと三十分近くかかるのが常である。若い時は、持ち前のせっかちで、早飯の方だった彼も、上下の奥歯のみならず、三年この方、上歯のあらまし抜けてしまってからというもの、老人らしく気を使い、余分な負担を胃腸にかけてはなるまいと、甚だ爺むさい、ロの動かし方余儀なくしているが、箸もつ最中、好きなものを喰う時が一番の極楽、という、内心の呟きふッと聞いたりして、侍しげな思い入れまじり、落ちくばんだ両眼、細める場合もないではなかった。
毎朝の食事は、大体百五十円也でかたづくが、あとの二度分が、毎度Kには苦の種である。大通りの食堂の外は、格別行きつけの店というものがなかった。彼にしてみれば、一日に一度は、野菜類の惣菜が喰いたいのである。ところが、洋食につきものの前菜は、洋食嫌いな彼に恰好な喰いものでなく、ニンジン、ゴボウ等の煮つけ喰わせる店は、土地のどんな裏通りを探してみても、殆ど無駄脚に近く、つい漬物店で、煮豆を少しはかり包んで貰い、それをポケットに忍ばせ、柱を朱に塗った支那料理屋へ、三日に一遍は出かける段取りともなっていた。ここには、ネギの刻みこまれたギョーザなるものがある。それと、ライスを註文し、二品現れたところで、そっと竹の皮に包んだものをテーブルヘ出し、箸をとって、例の如く牛のように、ゆっくり口動かし始めるが、ここでもちらし丼同様、店には百種に近い支那料理の名を、大きく記した紙が、貼りつけてあるのに関らず、一、二年来そんなものは一切、Kの目に這入らぬといったふうに、いつ現れてもギョーザ、ギョーザの一つ覚えである。K以外の客も亦、三人に一人はきまって、ラーメン党であった。
この作品は1991年刊行の吉行淳之介編『川崎長太郎選集』上下に納められた作品。 川崎長太郎は東京での文学活動に食いあぐね、37歳のときに郷里の小田原に引き揚げ、以後20年間以上物置小屋での一人住まい。三度の食事は外食。外の明るいうちは散策、夜は読書と執筆という生活ぶり。 文学に取り憑かれるとこんなふうになるのかという見本のような有様。 ぼくも覚悟しましたが、ぼく自身は50歳前までは二人の娘の大学進学の金稼ぎを覚悟しましたので、30過ぎから50前までは文学の執筆活動を停止しました。 この点、川崎長太郎の文学への執念、なかなか人の真似のできないものがあります。47歳頃からは「新潮」、「小説新潮」、「文学界」、「群像」などに小説を掲載したりしていましたが、私小説作家というのは作品その物が地味で、流行作家のようにぼんぼん原稿料収入があるわけでもなく、貧しい暮らしを覚悟しなければやっていけない仕事です。