先日、お亡くなりになられました 田村高廣さんの追悼の意味で本作品を投稿致します。
生前、ご自分の代表作は、「泥の河」とおっしゃっておられた様なのですが、首記作品とよく似たメッセージの内容と思います。一見地味ではありますが、当時の世相を捉え「二十四の瞳」と同じく日本映画の名作と考えております。
1954年度松竹大船作品
製作 桑田良太郎 監督 木下 恵介
原作 壺井 栄 脚色 木下 恵介
撮影 楠田 浩之 音楽 木下 忠司
美術 中村 公彦
出演 高峰 秀子 田村 高廣
小林トシ子 夏川 静江
月岡 夢路 清川 虹子
笠 智衆 浦辺 粂子
浪花千栄子 天本 英世
昭和3年、瀬戸内海・小豆島岬の村の分校場に若い女教師が赴任した。8キロ離れた実家から洋服を着て、自転車に乗り通勤するのであるが、当時の地方では女性が洋服を着て通勤をする事は珍しく、どの時代でも同じなのだが、新しい文化に対し大人の目には奇異に映り、逆に子供は拘りが無く順応性が良いものである。しかし私はそれで良いと思う戦後の日本の様に、全ての日本をある意味否定してきた、或いは否定せざるおえない日本人には、解り易く言えば日本人の心、文化に何が残ったのでしょうか。「拘り」から始まる、協調こそが大事な基本を消さない変化へと導くのではないかと考えます。
お話は逸れましたが、この赴任した大石先生も、非難的な村社会に自分に合った新しいスタイルを持ち込んだ事への無意味な対立は避けている。それは教師として生徒の為に教える心のスタイルまで変えておらず、決してブレていない信念があるからでしょう。
子供達は、新しい先生が小さい事から名前の大石から、「小石先生じゃ」と言って笑う。そんな無邪気な小学1年生12人のクラスを受け持つ事になるその日点呼をとりながら、一人一人家の事情、性格も異なる可愛い生徒をシッカリ確認する。ソンキこと磯吉、キッチンこと吉次、竹一、正、ニクタこと仁太、マスノ、ミサ子、松江、小ツル、早苗、富士子、コトエ。
大石先生は子供達と歌を歌い、汽車ごっこ等で野原を駆けるそんな日々から子供達は先生にすっかりなつく様になる。先生と子供の世界を表現する唱歌として「おぼろ月夜」「ふるさと」「浜辺の歌」「七つの子」「里の秋」「せいくらべ」等が効果的に挿入され、ふと幼き時の自分とダブらされるのは私だけでしょうか。
村人との良い関係、悪い関係、色々な交流を経てたある日、上級生のいたずらから大石先生は落とし穴に足を取られ、大怪我をする。子供達は泣きながら男先生を呼びに行く。そして入院してしまうのです。
それから子供達は、変わりの男先生に授業をしてもらうのだが、面白くない。そんな学校からの帰り道、「大石先生のお見舞いに家まで行こう」から意見がまとまり、集合して行く事になる。2里の道のりは子供達には厳しく、空腹と疲れから泣き出す子もいるのだが励まし歩く、そこに偶然大石先生を乗せたバスが通り、子供達が気づき叫ぶ、大石先生も気づき松葉杖姿の大石先生が下りてきて「皆、どうしたん」とやさしく声を掛けるも安心したのか「先生の顔が見たくて、会いににきたんや」と言って先生を囲んで泣き出す、先生も驚きと嬉しさで泣いてしまうのである。そのころ各子供の家では、いなくなった子供の心配をしていた。
子供達は、大石先生の実家でもてなされ、記念写真等を撮って、船で帰してもらうのだった。その事から村人の目も変わっていったのだが、数日後大石先生が分校場に来て、やむ終えずの理由から本校に転任する事を、子供達に話すのだが子供達には悲しい現実であった。だが大石先生にも同じ事であり、「皆が上級生になって本校に来るまで待ってるわ」と言って泣く子等に送られ岬を去った。
5年の月日が経ち、世の中は不況、戦争へと向かう時代に入るのだが、子供達は明るく元気に本校にやって来る。そして再び大石先生がその子達の担任になり、その秋遊覧船の機関士、正吉と結婚したのだが、子供達には平等でない家庭の影響が押し寄せる。
産後のひだちが悪かった母親が急死した松江は高松のうどん屋に奉公にだされる。修学旅行に行った所で偶然に松江に会い、許された少しの時間色々気づかい話をした後、奉公先の店主に松江の事を頼みやがて別れのシーン、島に帰る船が出港しようとするその時、大石先生子供達は松江に届けとばかり昔みんなでよく歌った唱歌を歌う。それを聞く松江は泣き崩れるのであった。不幸で悲しい時代ではあるが、心の通えた何とも素晴らしい描写であり、こみ上げる悲しみは怒りの反面懐かしさに似たものが感じられずにはいられなかった。
大石先生は、子供達の卒業と同じく教壇を去り、世の中はますます変動期に移り8年後、肺病の為小屋に一人隔離され死んで逝くコトエを見舞う大石先生が「幸せになれる人なんて誰もいないのよ」と言う言葉しか言ってあげられない時代を製作時には強調したかったのであろうと思われるが、確かにそうではあるが、現在の孤独死の状況下でそんな言葉さえも掛けてもらえず亡くなる人が多い中、真に今が良い時代なのか問える場面でもある。
そして4年の大東亜戦争に入り、自身の子供の男の子や女の子も成長したのだが、教え子達や正吉が戦争に駆り出されて行く、やがて母、民が死に、下に娘の死、夫の戦死、帰ってきた夫の遺骨とすれ違う様に出兵し送る人々、何と不愉快な状況なのか見ていても情けないその理由は大石先生が言ってくれた。父の死に泣く下の子供、それを諌める上の男の子、悲しみを堪えていた母、妻、であった大石先生が子供、いや世間に言う「死んで悲しい時に泣くのは当たり前、思いっきり泣けばいいのよ」この時代の唯一理解しがたい無理な精神論である。国民の戦争への意識高揚の為とは言え同時代の人でさえ理解出来る人は少ないものであったであろう。
続く物語では、教え子達からも3人の戦死者が出るのであった。
やがて終戦後のある日、大石先生は島の分校場に戻って来る、そこにはかっての教え子達の子供等がいた。面影があり懐かしくも悲しくもあり涙ぐむのである。
そんな、ある日教え子達が歓迎会をしてくれる。
すっかり成長した松江、マスノの実家わ料亭だった。そこでは皆からのプレゼントである自転車が床の間に置いてあった。涙ぐむ大石先生・すっかり泣き虫先生の姿になっていた。
そこへ岡田磯吉(田村高廣)ことソンキが来た。
戦争で失明していたのであるが、飾ってあった皆の写真を取り指でたどってゆく「この写真はみえるんじゃ、ほら真ん中のこれが先生じゃろ、その前にわしと竹一と仁太が並んどる・・・」皆が心を打たれ涙ぐむ。
この先生と子供達の絆の強さには感動する。それは、共に居ても、離れていても皆で運命を一緒に乗り越えた思いの為であろう。
数日後、岬に通う以前と変わりない大石先生があった。明るいであろう未来に思うすがすがしい先生の姿である。
しかし、今の状況を戦後のこの大石先生、磯吉達が見た場合、本当に良くなったと思えるでしょうか。
戦後の屈辱的な占領ではなかった事がむしろアメリカ歓迎の意味合いになり、その影響なのか、私の時代、幼い私達がアメリカのホームドラマ等を見てカッコ良く思い、憧れました。そして真似をし続けてきた過程でアメリカの国家としてのスピリッツは解る訳もなく、当然アメリカ人の家族の在り方への考え、思いの伝統を学ぶ事もなく、おまけに日本の心まで、古きものとして片付けてしまったのではないでしょうか。
しかし、私達の子供の頃はせめてもの救いとしまして、大人の世界、子供の世界の区切りは、つけられており、そこには、親・子との立場の違いから完全に解り合うのは不可能で、それはそれで良く、合判する意見がある事が自己のスタンスも考えも見えてくるのではないだろうか。よって当時の大人のへの壁は嫌ではあったが少しづつ大人へ歩む楽しみもあり、少しづつの情報なので処理し易く、現代の様に大人(親)が子供へのけじめを見せず、「嫌われたくない」の考えからオールパス状態では、子供自身も結局、情報が多すぎて、処理しきれないでいる又は理解出来ないでいる事から自己の立場・考えが見えず、先のビジョンも構成出来ない事が多くなっているのではないかとも、思えます。
結果、国家としても良く似た事で、見た目のみで空洞化した法・考えから、今の西洋でもなく東洋でもない日本文明。だからこそどんな国にでも自国の考え姿勢を示すものがなく、小手先の世渡りだけがうまくなり中途半端な理解で終わる事になりつつある。当然全世界の国々から理解を得る事は無理な話で、ハッキリした意見を出せる事が、他の国々から見易い国になる事にもなり、先の道筋も読めてくるのではないでしょうか。
少し話しが大きくなりましたので、元に戻しますが、極端に申せば、勘違いの戦後それに気づかず根幹の修正もしないまま長く来た。長くき過ぎた為、現代の若者は肌でせっかくの歴史ある日本の良い心を感じないままでいる気の毒な時代の申し子なのではないだろうか。
その警鐘を鳴らすと同時に日本の心をこの作品で、情感溢れる名演技をされた高峰秀子さん、田村高廣さん、それに当時の子役の人達には感謝をしたいものです。
そして、田村高廣さんのご冥福をお祈り申し上げます。
生前、ご自分の代表作は、「泥の河」とおっしゃっておられた様なのですが、首記作品とよく似たメッセージの内容と思います。一見地味ではありますが、当時の世相を捉え「二十四の瞳」と同じく日本映画の名作と考えております。
1954年度松竹大船作品
製作 桑田良太郎 監督 木下 恵介
原作 壺井 栄 脚色 木下 恵介
撮影 楠田 浩之 音楽 木下 忠司
美術 中村 公彦
出演 高峰 秀子 田村 高廣
小林トシ子 夏川 静江
月岡 夢路 清川 虹子
笠 智衆 浦辺 粂子
浪花千栄子 天本 英世
昭和3年、瀬戸内海・小豆島岬の村の分校場に若い女教師が赴任した。8キロ離れた実家から洋服を着て、自転車に乗り通勤するのであるが、当時の地方では女性が洋服を着て通勤をする事は珍しく、どの時代でも同じなのだが、新しい文化に対し大人の目には奇異に映り、逆に子供は拘りが無く順応性が良いものである。しかし私はそれで良いと思う戦後の日本の様に、全ての日本をある意味否定してきた、或いは否定せざるおえない日本人には、解り易く言えば日本人の心、文化に何が残ったのでしょうか。「拘り」から始まる、協調こそが大事な基本を消さない変化へと導くのではないかと考えます。
お話は逸れましたが、この赴任した大石先生も、非難的な村社会に自分に合った新しいスタイルを持ち込んだ事への無意味な対立は避けている。それは教師として生徒の為に教える心のスタイルまで変えておらず、決してブレていない信念があるからでしょう。
子供達は、新しい先生が小さい事から名前の大石から、「小石先生じゃ」と言って笑う。そんな無邪気な小学1年生12人のクラスを受け持つ事になるその日点呼をとりながら、一人一人家の事情、性格も異なる可愛い生徒をシッカリ確認する。ソンキこと磯吉、キッチンこと吉次、竹一、正、ニクタこと仁太、マスノ、ミサ子、松江、小ツル、早苗、富士子、コトエ。
大石先生は子供達と歌を歌い、汽車ごっこ等で野原を駆けるそんな日々から子供達は先生にすっかりなつく様になる。先生と子供の世界を表現する唱歌として「おぼろ月夜」「ふるさと」「浜辺の歌」「七つの子」「里の秋」「せいくらべ」等が効果的に挿入され、ふと幼き時の自分とダブらされるのは私だけでしょうか。
村人との良い関係、悪い関係、色々な交流を経てたある日、上級生のいたずらから大石先生は落とし穴に足を取られ、大怪我をする。子供達は泣きながら男先生を呼びに行く。そして入院してしまうのです。
それから子供達は、変わりの男先生に授業をしてもらうのだが、面白くない。そんな学校からの帰り道、「大石先生のお見舞いに家まで行こう」から意見がまとまり、集合して行く事になる。2里の道のりは子供達には厳しく、空腹と疲れから泣き出す子もいるのだが励まし歩く、そこに偶然大石先生を乗せたバスが通り、子供達が気づき叫ぶ、大石先生も気づき松葉杖姿の大石先生が下りてきて「皆、どうしたん」とやさしく声を掛けるも安心したのか「先生の顔が見たくて、会いににきたんや」と言って先生を囲んで泣き出す、先生も驚きと嬉しさで泣いてしまうのである。そのころ各子供の家では、いなくなった子供の心配をしていた。
子供達は、大石先生の実家でもてなされ、記念写真等を撮って、船で帰してもらうのだった。その事から村人の目も変わっていったのだが、数日後大石先生が分校場に来て、やむ終えずの理由から本校に転任する事を、子供達に話すのだが子供達には悲しい現実であった。だが大石先生にも同じ事であり、「皆が上級生になって本校に来るまで待ってるわ」と言って泣く子等に送られ岬を去った。
5年の月日が経ち、世の中は不況、戦争へと向かう時代に入るのだが、子供達は明るく元気に本校にやって来る。そして再び大石先生がその子達の担任になり、その秋遊覧船の機関士、正吉と結婚したのだが、子供達には平等でない家庭の影響が押し寄せる。
産後のひだちが悪かった母親が急死した松江は高松のうどん屋に奉公にだされる。修学旅行に行った所で偶然に松江に会い、許された少しの時間色々気づかい話をした後、奉公先の店主に松江の事を頼みやがて別れのシーン、島に帰る船が出港しようとするその時、大石先生子供達は松江に届けとばかり昔みんなでよく歌った唱歌を歌う。それを聞く松江は泣き崩れるのであった。不幸で悲しい時代ではあるが、心の通えた何とも素晴らしい描写であり、こみ上げる悲しみは怒りの反面懐かしさに似たものが感じられずにはいられなかった。
大石先生は、子供達の卒業と同じく教壇を去り、世の中はますます変動期に移り8年後、肺病の為小屋に一人隔離され死んで逝くコトエを見舞う大石先生が「幸せになれる人なんて誰もいないのよ」と言う言葉しか言ってあげられない時代を製作時には強調したかったのであろうと思われるが、確かにそうではあるが、現在の孤独死の状況下でそんな言葉さえも掛けてもらえず亡くなる人が多い中、真に今が良い時代なのか問える場面でもある。
そして4年の大東亜戦争に入り、自身の子供の男の子や女の子も成長したのだが、教え子達や正吉が戦争に駆り出されて行く、やがて母、民が死に、下に娘の死、夫の戦死、帰ってきた夫の遺骨とすれ違う様に出兵し送る人々、何と不愉快な状況なのか見ていても情けないその理由は大石先生が言ってくれた。父の死に泣く下の子供、それを諌める上の男の子、悲しみを堪えていた母、妻、であった大石先生が子供、いや世間に言う「死んで悲しい時に泣くのは当たり前、思いっきり泣けばいいのよ」この時代の唯一理解しがたい無理な精神論である。国民の戦争への意識高揚の為とは言え同時代の人でさえ理解出来る人は少ないものであったであろう。
続く物語では、教え子達からも3人の戦死者が出るのであった。
やがて終戦後のある日、大石先生は島の分校場に戻って来る、そこにはかっての教え子達の子供等がいた。面影があり懐かしくも悲しくもあり涙ぐむのである。
そんな、ある日教え子達が歓迎会をしてくれる。
すっかり成長した松江、マスノの実家わ料亭だった。そこでは皆からのプレゼントである自転車が床の間に置いてあった。涙ぐむ大石先生・すっかり泣き虫先生の姿になっていた。
そこへ岡田磯吉(田村高廣)ことソンキが来た。
戦争で失明していたのであるが、飾ってあった皆の写真を取り指でたどってゆく「この写真はみえるんじゃ、ほら真ん中のこれが先生じゃろ、その前にわしと竹一と仁太が並んどる・・・」皆が心を打たれ涙ぐむ。
この先生と子供達の絆の強さには感動する。それは、共に居ても、離れていても皆で運命を一緒に乗り越えた思いの為であろう。
数日後、岬に通う以前と変わりない大石先生があった。明るいであろう未来に思うすがすがしい先生の姿である。
しかし、今の状況を戦後のこの大石先生、磯吉達が見た場合、本当に良くなったと思えるでしょうか。
戦後の屈辱的な占領ではなかった事がむしろアメリカ歓迎の意味合いになり、その影響なのか、私の時代、幼い私達がアメリカのホームドラマ等を見てカッコ良く思い、憧れました。そして真似をし続けてきた過程でアメリカの国家としてのスピリッツは解る訳もなく、当然アメリカ人の家族の在り方への考え、思いの伝統を学ぶ事もなく、おまけに日本の心まで、古きものとして片付けてしまったのではないでしょうか。
しかし、私達の子供の頃はせめてもの救いとしまして、大人の世界、子供の世界の区切りは、つけられており、そこには、親・子との立場の違いから完全に解り合うのは不可能で、それはそれで良く、合判する意見がある事が自己のスタンスも考えも見えてくるのではないだろうか。よって当時の大人のへの壁は嫌ではあったが少しづつ大人へ歩む楽しみもあり、少しづつの情報なので処理し易く、現代の様に大人(親)が子供へのけじめを見せず、「嫌われたくない」の考えからオールパス状態では、子供自身も結局、情報が多すぎて、処理しきれないでいる又は理解出来ないでいる事から自己の立場・考えが見えず、先のビジョンも構成出来ない事が多くなっているのではないかとも、思えます。
結果、国家としても良く似た事で、見た目のみで空洞化した法・考えから、今の西洋でもなく東洋でもない日本文明。だからこそどんな国にでも自国の考え姿勢を示すものがなく、小手先の世渡りだけがうまくなり中途半端な理解で終わる事になりつつある。当然全世界の国々から理解を得る事は無理な話で、ハッキリした意見を出せる事が、他の国々から見易い国になる事にもなり、先の道筋も読めてくるのではないでしょうか。
少し話しが大きくなりましたので、元に戻しますが、極端に申せば、勘違いの戦後それに気づかず根幹の修正もしないまま長く来た。長くき過ぎた為、現代の若者は肌でせっかくの歴史ある日本の良い心を感じないままでいる気の毒な時代の申し子なのではないだろうか。
その警鐘を鳴らすと同時に日本の心をこの作品で、情感溢れる名演技をされた高峰秀子さん、田村高廣さん、それに当時の子役の人達には感謝をしたいものです。
そして、田村高廣さんのご冥福をお祈り申し上げます。
アスカパパさんがこの投稿を読まれた時、まちがって記事作成途中で投稿してしまった時だったと思います。
申し訳ございませんでした。
最後の部分が、総括を書いたつもりなのですが、出来ればお読み下さい。
学校の授業で使って頂きたい作品に思います。
あの様な子供社会の経験のない現代の子供に、理解してもらえるかは、少し不安なのですが。
「二十四の瞳」懐かしい作品ですが、私はデコちゃんこと秀子さんのフアンでした。始めてみたのは{銀座カンカン娘}」ラストは「喜びも悲しみも幾年月」でした.私の少年時代から、青春後期にかけて心の中を駆け抜けていった女優でした。
デコのことばかりですみません。
私もリアルタイムではありませんでしたが、高峰秀子さんのファンです。
若き若尾文子さんも好きなのですが、正直この時代でこんな現在進行形の様なタイプの美人女優さんがいたので、ビックリしました。
役柄にも依ると思いますが、何かどの時代にでも通用する様な雰囲気が、感じられました。
ご意見に全面的に同感します。
これは教育映画であり、反戦映画であり、ヒューマン映画ですね。
小学唱歌がこれほど効果的に使われた映画は、他に類を見ないでしょう。
終戦後、自分の幼い女の子が青い柿の実を食べて死ぬ場面。あの必死の母の姿。高峰秀子は不世出の名女優だと思います。
この作品を制作された時には、現代の世相は予期出来なかったかもしれません。
しかし、人としての思いはどの時代でも理解はされるものと、考えます。
その事にもこの作品は、丁寧に描かれております。ゆえに、あえて今見る事でなおさら色々な事がよく見えてくるのでは、ないでしょうか。
日本を代表する監督の一人だと思います。
この映画は、アメリカなどでも
上映して欲しいですね。
何回見ても感動します。
田村高広さんも残念です。
また名優がいなくなりましたね。
この作品は、現在見た方が、色々な思いがこみ上げてきます。仮に今リメイクを製作したとしましてもオリジナルを、超える事は難しい事と思います。
当時の時代背景を見る点におきましても、懐かしく、思い出されます。