西洋と東洋の狭間

何かにつけ軌道修正の遅い国で有るが一端方向転換すると、凄い勢いで走り出し今までの良き所まで修正してしまう日本文明

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「ドクトル・ジバゴ」リメイク版

2007-07-05 17:43:27 | 映画
ドクトル・ジバゴ・2002年イギリス作品
20世紀初頭 戦争と革命の嵐が吹き荒れるロシア数奇な運命と闘い続けた男ドクトル・ジバゴ 愛に生き愛に殉じた女ラーラ壮大なスペクタクルと 胸をうつ感動で贈る映画史上不滅の名作 注目のリメイク版。
       
スタッフ
原作:ボリス・パステルナーク / Boris Pasternak
脚本:アンドリュー・ディヴィス / Andrew Davies
撮影:ブラスコ・ジュラート / Blasco Giurat
音楽:ルドヴィコ・エイナウディ / Ludovico Einaudi
演出:ジャコモ・コンピオッティ / Giacomo Compiotti
制作:アン・ピヴチェヴィク / Anne Pivcevic、ヒュー・ウォーレン / Hugh Warren
キャスト
ユーリ・ジバゴ:ハンス・マシソン / Hans MathesonTVM「悲しみの暴君ネロ」「アヴァロンの霧」映画「レ・ミゼラブル」
ラーラ:キーラ・ナイトレイ / Keira Knightley「パイレーツ・オブ・カリビアン」「プライドと偏見」「ベッカムに恋して」
コマロフスキー:サム・ニール / Sam Neill「ジュラシック・パーク」「ピアノ・レッスン」「オーメン / 最後の闘争」
トーニャ:アレクサンドラ・マリア・ラーラ / Alexandra Maria Lara「ヒトラー~最期の12日間~」「クレイジー」
パーシャ/ストレリニコフ:クリス・マーシャル / Kris Marshall「ヴェニスの商人」「ラブ・アクチュアリー」「デッド・ベイビーズ」
ミーシャ:ダニエレ・リオッティ / Daniele Liotti「靴に恋して」「女王フアナ」
アレクサンダー・グロメーコ:ビル・パターソン / Bill Paterson「太陽の雫」「キリング・フィールド」
アンナ・グロメコ:セリア・イムリー / Celia Imrie「カレンダー・ガールズ」「ブリジット・ジョーンズの日記」
オーリャ:アンヌ=マリー・ダフ / Anne-Marie Duff「マグダレンの祈り」
アンドレー・ジバゴ:ヒュー・ボネヴィル / Hugh Bonneville「12日の木曜日」「ノッティングヒルの恋人」
アメリア:マリアム・ダボ / Maryam D’Abo「007 / リビング・デイライツ」「ホワイトナイツ / 白夜」TVM「ゲームの達人」
解  説
20世紀初頭、ロシア革命前後の動乱期を舞台に、医師として、詩人として、ひたすら誠実に生きる主人公ユーリ・ジバゴ(ドクトル・ジバゴ)の愛と波瀾に満ちた人生を描いた一大叙事詩の文芸篇。
原作はロシアの文豪ボリス・パステルナークの同名小説(1957年)。
『ドクトル・ジバゴ事件』
【】内は、We didn`t start the fireより参照の資料とします。
【スターリンの時代のソ連は、厳しい表現の自由が敷かれ、パステルナークは作品を発表する場を奪われていた。1953年、スターリンが死んだ。これにより、芸術、文学への弾圧が批判され始め、表現の自由を求める声が高まる。しかし、表現の自由が、完全に認められたわけではなかった。パステルナークは、長編小説の執筆に挑戦したいと、1930年代から考えていたが、大戦後(1945年)、ついにその構想を実行に移した。この小説が『ドクトル・ジバゴ』であった。
1957年、パステルナークはドクトル・ジバゴの出版交渉を行うが、結局、ソ連では出版されなかった。しかし、同年にイタリアを皮切りに、世界各国の様々な言語に翻訳され、出版されると、ドクトル・ジバゴは大きな反響を得る。そして、ソ連の人だけが、この作品の存在すら知らないというおかしな現象が起こる。
1958年10月23日、パステルナークがノーベル文学賞を受けることが決定。すると、ソ連の各種新聞、雑誌にてパステルナークの非難キャンペーンが始まる。その要旨は、「反革命的な小説で、ノーベル賞を受けた恥知らず」パステルナークは作家同盟から除名された。ソ連では、作家同盟から除名されるということは、作家でも詩人でもなくなり、作品を発表する場がなくなった、ということに等しい。さらに、パステルナークを国外追放せよ、という者まで現れる。このままいけば、本当に国外追放になるのでは?というくらいに、パステルナーク非難キャンペーンは激化する。
ロシアを愛する(あえてソ連とは書かず)パステルナークは、国外追放を恐れ、ノーベル文学賞辞退の旨、電報を打った。
西側諸国では、「共産主義体制下の犠牲者」として、大々的にこの事件のことが報じられた。 なぜ、ドクトル・ジバゴがソ連では出版されなかったのか?
作品の反革命的内容が検閲にひっかかったとも、ソ連の作家同盟による嫌がらせとも言われている。 一般的にはドクトル・ジバゴの反革命的な内容が問題になり、政府から弾圧を受けた、とする説が有力である。しかし、当時のソ連書記長フルシチョフは、「ドクトル・ジバゴを読んだが、特に問題があるとは思えなかった」と、回想録の中で述べている。
政府の干渉を意に介さず、わが道をゆくユダヤ人のパステルナークに対して、作家同盟が嫉妬し、妨害工作をした、という説の方が説得力があるように思われる。
『ドクトル・ジバゴ』は、滅びゆく者たちの物語である。時代の激しい変化の中、自分らしく生きようと願う者たちが滅んでゆく。
共産主義とか資本主義とかには関わりなく、どの時代、どの場所においても普遍的なテーマを語っている。『ドクトル・ジバゴ』の主人公であるジバゴは、革命(世の中の変化)によって、自分の生活、特権などが失われることについては決して異をとなえたりはしない。しかし、自分の信念、思想を奪われることに対しては激しい抵抗を示す。普通の人間は、この逆で、自分の生活を守るためなら、自分の信念を平気で曲げる。ジバゴにはそれができなかった。ゆえに、滅びるのである。パステルナーク自身が同じような道を歩んでしまったのは皮肉なことである。
パステルナークは、『ドクトル・ジバゴ事件』の2年後、肺癌で死去する。その際に、妻にこのような言葉を残している。
「さて、お別れだね。人生と君をとても愛しているけれど、お別れをするのは少しも悲しくないよ。この国だけじゃなく、世界中、まわりには俗悪なことが多すぎるからね。ぼくはそういうことを受け入れられないんだ」
注 文中にある、反革命的、という言葉の革命が意味するのは、ロシア革命のことです。つまり、ロシア革命によって生まれた社会主義、共産主義に対して異を唱えたものを、当時のソ連では反革命的、と表現しています。】
以上な事があった後、イタリアの大プロデューサー、カルロ・ポンティが映画化権を獲得し、ハリウッドのMGMと共同製作に踏み切ったのが、巨匠デビッド・リーン監督(「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」)により映画化(1965年)され、アカデミー賞ほか数々の名誉に輝き、オマー・シャリフが扮し、文字通り彼の代表作となりました米/伊作「ドクトル・ジバゴ」である。
本作は、そのリメイク版となり、20世紀初頭の記録フィルムを織り交ぜながら、映画よりも原作により忠実に描いている。
あらすじの補足
1897年、帝政ロシア。両親を亡くしたユーリ・ジバゴは父の友人に引き取られ、その娘であるトーニャと兄妹同然に成長した。医者として勉強を続けながら、詩人としても将来を嘱望されていたジバゴは、ある夜一人の女性と会う。彼女の名はラーラ。実業家で、ジバゴの父を自殺に追い詰めた男で、彼女の母親の愛人であるコマロフスキーと許されない関係にあった。その後ジバゴはトーニャと結婚し幸せな家庭を築くが、世界を覆う戦争の波はロシアにも押し寄せてくる。従軍医師として戦地に赴いたジバゴは、看護婦として働くラーラと再会する。ラーラはコマロフスキーと別れ恋人のパーシャと結婚したが、その彼は革命運動に身を投じ行方不明になっていた。そんな2人は淡い恋心をいだきはじめていた。モスクワに戻ったジバゴを待っていたのは、ロシア革命の大動乱だった。家を奪われ、職も失ったジバゴは家族を連れて疎開を決意。ウラルのベリキノに着いたジバゴは、隣町のユリアティンに住むラーラと再び巡り会う。熱い情熱には抗えず、二人は許されぬ関係になる。だが、動乱の時代の過酷な運命が待ち受けていることを二人はまだ知る由も無かった。(C)Granada Television 2002
あらすじ
前  編
19世紀末のロシア。1897年、ユーリー・ジバゴ(ハンス・マシソン)は、幼い頃両親を失い、科学者グロメーコ(ビル・パターソ)にひきとられた彼は、夫妻の一人娘トーニャと兄妹のように育てられる。
1912年、モスクワ。医学の勉強を続けるかたわら詩人としても知られるようになったジバゴそして美しく成長したトーニャ(アレクサンドラ・マリア・ラーラ)は、ジバゴを愛していた。ジバゴは、街で友人達との雑談の中、フトした時に、近所の仕立屋の娘ラーラ(キーラ・ナイトレイ)を見た事で、密かに恋焦がれていく様になる。しかし彼女は、帝政打倒の革命に情熱をもやす学生パーシャ(クリス・マーシャル)を愛していた。
そんな美しく大人になったラーラに、母アメーリアの愛人で政財界に大きな影響力をもつ弁護士コマロフスキー(サム・ニール)が、目をかけてきた。やがて、コマロフスキーの愛が娘に移った事を知ったラーラの母は、生活の為にラーラがコマロフスキーの招待に応じる事を承諾する。母の心を知っているラーラも悟ったかの様に、夜を共にするのであった。
娘との関係やコマロフスキーとの関係に悩み続けたラーラの母は、終に自殺を計るが、その時に、ジバゴが手当てをした事で、偶然にラーラと会う事になる。
だが、そこで、ラーラとコマロフスキーとの関係を知ってしまう事になり、はかない悲しみにジバゴは、おそわれる。
そんな中、遠い昔の記憶に、愛する父が目の前にいるコマロフスキーにより、自殺に追いやられた事を、思いだす。
次に日、コマロフスキーに嫌気がさしラーラは、手紙でコマロフスキーに別れを告げた。
そして、革命の嵐が、そんな、ジバゴ達にも近づいてくるのである。
ついに、革命派と軍との衝突が起きた事で、居合せたパーシャとラーラは巻き込まれ、手傷を負ったパーシャだが、何とか無事逃れ、一方帰宅したラーラの前には、コマロフスキーが現れ、再び無理やり関係を持たされるのであった。
ラーラは誘惑から逃れるため、ある日のパーティーに、彼に発砲するという事件を起こす。
銃弾は、コマロフスキーに当たらず、他の招待客を負傷させたのであるが、公にはならずに済む。また、トーニャと一緒に、居合わせたジバゴは、治療にあたるが、怒りにも似た感情を抑えきれず、コマロフスキーに自身が誰であるかを明かす事になる。
一方、ラーラは、ウラルに旅立つパーシャと共に行く事を決意する。
そして、ジバゴも病に倒れた養母アンナのたっての願いで、トーニャと結婚を心を決めるのであった。
そんな二人の結婚式と、ラーラ達の結婚式が偶然にも同じ日にとり行なわれたのであるが、ラーラにコマロフスキーとの関係を打ち明けられた事で、パーシャは悩むのだが。
月日は流れ、ジバゴにも、子供が出来、そして、ラーラにも子供が出来、平穏な日々がおくられている様にも思われたが、夫のパーシャは、彼女の愛に疑いを持ち続けていた。
パーシャが言う、「ごまかしで生きるのは、嫌だ」と、そして「戦場に行く」と、そう言って、彼女のもとを去った。
1914年、ロシアは第1次大戦に突入し、ジバゴは医師として従軍した。戦場でパーシャを捜す為に看護婦として働らくラーラに再会した彼は、彼女がすでにパーシャと結婚をしているを知り、自分もまた家庭を持っていたのだが、ラーラへの愛をどうすることもできなかった。それにパーシャは戦死したとの報告も入っていた。そんな二人には、当然の様に惹かれ合う様になる。
後  編
その頃ロシアは内戦が激しくなり、ジバゴはモスクワの家族のもとへ帰ったのだが、グロメーコ邸は公共居住施設となり、革命軍の手に帰したモスクワは、飢えと物資の不足にあえいでいた。
友人のミーシャ(ダニエレ・リオッティ)に会い、気の進まない仕事を依頼されるが、革命政府下の方針には、納得出来ないものがあった。
ジバゴが革命軍のリーダーで、義弟の勧めもあって、べリキノの別荘がある田舎で休養することにした彼は、旅の途中で白軍のスパイと間違えられ、赤軍の将校に尋問された。この将校は、戦死と報じられていたパーシャであった。彼は変わりはて以前の用な明るさは、消え失せ、今や革命への狂信以外、何もない男になっていた。
山の麓の田舎に着いたジバゴは、義父と妻トーニャそして息子のターシャ四人の家族で、心豊かに暮らし始める。
近くの町ユリアティンに来たジバゴは、そこに住むラーラに偶然会った。それは、二人を結びつける様な運命であり、再び、互いが元に戻るのには、時間はいらなかった。
時代は、ロシア革命の後、臨時政府は安定することなく、赤軍、白軍、パルチザンなどイデオロギーの異なる集団による内乱状態が続いていた。
妻には、後ろめたさと自身に許せない気持ちがあるが、ラーラとの愛も再燃した田舎での生活は、ジバゴにとっては幸せの日々であった。ある日の帰り、突然、彼は、赤軍パルチザン部隊パルチザンの1隊にとらえられた。その日は、妻に2人目の子供が生まれると知り、苦しい胸の中、ラーラと別れる決心をし、家路に馬を飛ばし帰る直後のことであった。
子供が生まれる時、トーニャの手伝いに訪れたラーラ。トーニャの夫への安否を心配する事で、二人は、互いの立場を知ってしまう事になる。
その時ジバゴは、無残な戦いを目にしながら、その空しさも知り、目的すら見えない彼は、脱走とは、言い難い様な形でその場を離れる。
ラーラの家では、裏切られた事で傷ついたトーニャはラーラと激しく話し合い、そして「もし、彼が、あなたの元に帰ってきたら、私の所へは、帰らないでと言って、あなたの事を思いながら帰ってきても、その時は私達はいない。今までの家にも、居たくない、辛いだけだから。」と、ラーラに告げ、去って行く。
ジバゴは、やっとの思いでラーラのもとに帰ったのだが、2人の関係を知った妻が、子供をつれて、パリに亡命したと告げられた。
今や亡命者の夫となったジバゴと、すでに追放の身となっていたパーシャの妻ラーラの前に、コマロフスキーが現れた。彼はラーラの夫の失脚により、ラーラは勿論、2人に危険がせまっていると再三話し、後にする。
あくる日、二人は、コマロフスキーの意見に反し、べリキノの別荘で暮らす事にした。
しかし、再びコマロフスキーが現れ、ジバゴは彼の下心を非難しながらも、ラーラの身の安全を考え、後で必ず会いに行くと約束し、コマロフスキーに身重のラーラを任せる事にした。
そしてラーラが極東に去った後、戦死したはずの夫、パーシャがラーラを捜し、尋ねて来た。ジバゴに会い、ラーラの様な女性が迫害されない世の中を造りたかったと言い残し彼は自殺する。
その後ジバゴは、妻を尋ね、モスクワに着くが、そこでも義父が大学を終れた事で、妻と子供をつれて、パリに亡命したと告げられた。
そして、手紙が託されていた。
ジバゴへの思いと、無事で自由に生きて下さいと書かれた、ジバゴへのトーニャの深い愛情の文面が綴られてあった。
友人のミーシャをたより、トーニャに会う為、国外に出る協力を頼みに行くが、体を壊しているジバゴと過ってミーシャ自身も愛したトーニャの事を考え、窘められる事になる。
8年後の1922年、ジバゴは心身ともに衰弱していた。残された時間を、医師として、詩人として、自らの魂に誠実に生きるユーリ・ジバゴ。
そんなある日、療養していたジバゴの前を息子とラーラが通り過ぎるのを見るが、言葉をかけようとする時には、彼は人生を終えてしまうのである。
葬儀の日、彼の死を知ったラーラは、ジバゴの亡骸と対面し、息子に「お父さんよ」と教える。「分かってたよ」と答える息子であった。
そこで、友人ミーシャから、ジバゴのラーラへの思いの全てを書き記された詩を渡される。
彼女もコマロフスキーから、離れていたのであった。
そんなジバゴへの思い出の中、外出から帰ったラーラの目に警察の手が回っている事が判る。
その時、幼い息子を逃がす為、「鬼ごっこするから、何処までも走りなさい」と、言った母を、見たのが、息子には最後であった。
また、ラーラも連行される車の中で、二度と会う事がない自由な息子の走っている姿に、ジバゴをダブらせたのか、微かに見守る様な微笑みかけるのだった。
冒頭の父を探すジバゴの少年期、ラストの母から言い付けを守り走り去るジバゴの息子、この二人の孤独な少年の姿が印象的に残る映画であり、また、歴史の流れに、飲み込まれながらも、懸命に生きた女性ラーラの様な強い母の姿もロシアの地に限定する事もなく、何時の時代でも存在し続けるであろう、人の哀れさも感じさせられる様でした。


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激動の時代 (ミーシャ)
2007-07-07 10:00:08
こちらはまだ観ていないのですが、SUKIPIOさんの読み応えのある記事で、今日にも観たくなってしまいました(笑)
この激動の時代には祖国愛と亡命との間で、身の処し方に悩んだ人々が大勢いたことと思います。芸術家や科学者など特に・・・。誠実な人間ほど不幸な時代でした。一方、ロシアの農民の歴史は、アジア系の遊牧民から想像を絶するほど荒らされた歴史とも言えますね。ロシア人が国家を遅く持った原因でもあるわけです。ロシア人の成立は、こういった外からの恐怖を除いては考えられないのですね。ロシア人は人が好い、しかし役人になると別人になると言われます。そんなロシアの歴史など思い起こしながら、ジバゴの一生を思いました。
こんばんわ、ミーシャさん。 (SUKIPIO)
2007-07-07 23:32:12
ミーシャさんは、コメントありがとうございました。
よくご存知の上に、仰る通りだと思います。

モンゴル軍の侵攻は1223年に始まり、ルーシが初めてモンゴル人の名前を知ったのは、蒙古帝国ではチンギス=ハーンの時代でしたね。

1239年、周到な準備を終えたであろうバトゥは、ルーシ最大の都市を包囲します。その時キエフの守備を任され、このバトゥを相手に最後まで戦う羽目になったのが、ガーリチ公ダニールの千人長ドミートリーでありましたが、モンゴル軍に破れ、1240年秋、キエフスカヤ・ルーシの中心地でルーシの母なる都キエフは陥落します。
このキエフの破滅は、一都市の破滅というより、一文明の破滅であり、この事件でキエフスカヤ・ルーシの時代は終わりをつげ、キエフはロシアの歴史の表舞台から姿を消す事になります。
バトゥとの戦いで戦死したスーズダリ公ユーリーの弟ヤロスラフは1243年キプチャック汗国の首都サライを訪れ、バトゥに会見し、バトゥの承認を得てウラジーミル大公となり、タタール人支配下のロシアで最初のウラジーミル大公となりますが、以後も、アジア系の遊牧民のタタール人(時代により異なるモンゴル系テュルク系等の民族の総称)の再々に渡る侵略を受ける事になります。
この時から、以後、歴代ハーン等にモンゴル恭順策をとり続け、1462年ドミトリー大公の曾孫でモスクワ大公国大公イヴァン3世が、周辺の汗国の許可を取らずにモスクワ大公に即位するまで、または、1480年にハンからの独立を宣言し、貢納を停止し、スラヴ民族の覇権を取り返す頃までの220年、あるいは240年の間「タタールのくびき」と考えました。
司馬遼太郎は、ロシア皇帝の専制政治はキプチャク汗国(1243 - 1502)の暴力的農民支配から性格を引き継いでいる印象を持つと書いています。
そんなロシアでのジバゴやラーラの強い思いや、スケールの大きさも納得出来ますね

このリメイク版は、あまり知っている俳優が出演していなかった事では、ジックリ観る事が出来ましたよ。
スズダリ、ウラジーミル行きましたよ (山口ももり)
2007-07-10 19:41:45
思いがけず、憶えていた町の名前を聞きました。ロシア・・・1年の半分以上が凍てついた大地、そこに住む人たちって本当に信心深いです。どうしても立ち向かえない絶対的な自然の力、その自然の力が人力より大きければ大きいほど、信仰に対して人は盲目的になるのではないでしょうか??ウラジーミル、スズダリ・・・・行きましたよ。トルストイの育った町、ヤロスラフ???だった???調べていなくっていい加減なんですけど。お時間あれば・・・スケッチをHPに載せています。ロシアってやっぱりヨーロッパとも中国とも違います。なんというか、体感温度が低いって感じ。国民の殆どが農奴であった国???「タタールのくびき」ってヨーロッパには本当に深刻だったようです。
ももりさんの、行かれた国の多さにも驚いております。 (SUKIPIO)
2007-07-12 19:44:56
何時も、コメントを頂きまして、ありがとうございました。
実際に、ロシアへは訪れた事がない私で、申し訳ないのですが、勝手な思いで書かせて頂いております。

トルストイは1828年モスクワ郊外のヤースナヤ・ポリャーナで伯爵家の四男に生まれ、両親の遺産を兄弟4人妹1人で協議分割。1847年トルストイはヤースナヤ・バリャーナ他4ヶ村を相続。成人男子の農奴数だけでも330人いた。領地の経営と農民の生活改善を志したと載せられていました。
スズダリ、ウラジーミルの地は、スーズダリ公ユーリーや弟のヤロスラフの曽祖父ウラジーミル2世モノマフの時代、1093年以降、彼は、自らの相続地であるペレヤスラヴリ・ルースキーのほか、北方のスズダリ、ロストフを支配し、のちに大公国の首都となるウラジーミルを含め、いくつかの都市を建設したと、されています。
ロシア民族主義の動きは、シベリア開発などで活躍した騎馬集団であるコサックが復活したり、ロシア正教会が人々の信仰を再び集めるようになってきていることを背景としている。ソ連崩壊後、生きる方向性を失った人々が求めたのが、社会主義の74年間は事実上禁止されていた宗教や民族的な慣習だった様ですね。
また、ロシアが「砂の社会」になった源流を、中世のモンゴル帝国による支配に求める考え方もあり、当時、世界最強の騎馬軍団だったモンゴルは、ロシアにとっては異民族であり、想像力の範囲を超えた絶対的な存在であった事で、そのキプチャク汗のロシア農民支配(タタールのくびき)につきまして、司馬遼太郎の記述を引用してみますと、 「12世紀末、中国の北方に広がるモンゴル高原に黒い雲のような勢いが発生し,四方の遊牧民族を斬り従え、あるいは傘下に入れ、いかなる農業国家もこれに抗し難くなったのが,チンギス汗の名で代表される事態でした。」
「戦えば、地に一物も残さない、というやり方で、ともかくも自ら武を誇るのみで、生き方を異にする農民やまた他民族に対し、人間としての同情をほとんど持たなかったのです。その武の行くところ、暴風、洪水、地震のような自然現象に似たすさまじさがありました。」 (司馬遼太郎、「ロシアについて - 北方の原形」、 p.19、 文芸春秋文庫, 1989年)
ロシア人にとってタタール人は、二百五十九年にわたる搾取と圧政を受けた恨みかさなる人種であるとされ、そうした支配が長く続いた結果、ロシアは強い支配者がいないと元来まとまりが無い性質から機能しない様になり、その囲い固める役目の意味から皇帝(ツァーリ)やスターリンといった絶対的な支配者が生み出されたと云った仮説がありますが、そのスターリンがした事はクリミア半島のタタール人 をナチス協力者としてシベリアへ強制移住させ、それはモンゴル人に対するスラブ人の意趣返しであった事ともいえますが、反面、自国民や同胞の粛清を考えますと、歴史や現実の実態を知ったスターリンの恐怖心からであったとも言えますね。
モンゴルとロシア (ミーシャ)
2007-07-12 19:49:25
絵画にも音楽にも幅広い知識をお持ちのSUKIPIOさん、歴史的背景や映画の記事にも自然と熱い思いがにじみ出ていて引き込まれます。
>暴力的農民支配から性格を引き継いでいる印象・・・
13世紀は、日本史にとっても西欧史にとっても、近代への準備として大切な世紀でした。キプチャック汗国の建国、「タタールのくびき」と言われる暴力的支配が259年という長きに渡って続くんですね。これは被支配者であるロシア民族の性格にまで影響するほどのものでしたでしょう。のちに、ロシアの農奴は奴隷にまで貶められていきますね。余談ですが、私、日本には農奴はいなかったということを記事にしたばかりです(笑)
日本の農奴につきましては、以外と解らない事がありますね。 (SUKIPIO)
2007-07-13 20:07:53
ミーシャさん、コメントが遅くなり、申し訳ございませんでした。

日本の農民は、文献に載っているのは、一揆と災害の歴史だけの事で、私もそうなのですが、あまり知られていないのが事実の様ですね。
初期の戦国時代におきましては、農民は兵でありましたが、米の収穫が大事であった事からも本来の農業に専業させ、領主は水害等から農業を保護する事で自然災から防護策を行なっています。また、江戸時代では、地域差があるかもしれませんが、戦がなかった事で、農業の経営を盛んに奨励した様なのですが反面、農奴までは無かったとしましても、東北地方等では、飢饉により、厳しい状況が続いたり、明治、大正期に山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家(小作人)の子供達が諏訪の岡谷まで働く為に越えた野麦峠の史実もある様なので、どうなんでしょうか。
機会があれば、勉強したいと思います。
こんにちは・・戻りました。 (kju96)
2007-07-31 13:24:21
昨日、福岡に戻りました。
朝から蝉のかまびすしさと愛犬がいつもより多く回り
歓迎してくれています。
アメリカの夏も暑かったですが、日本の夏も暑いですね。
これから旅の話などアップします。
また、ご指導のほどよろしくお願いします。
お帰りなさい、kju96さん。 (SUKIPIO)
2007-07-31 18:20:19
楽しまれて来られましたでしょうか。
無事に帰られた事で、安心致しました。
とりあえずは、日本の、この蒸し暑さに、体をゆっくりと慣らして下さい。

そしてkju96さんの事ですから、色々な、ご収穫があった事と思いますので、ゆるりとUPされるのを、楽しみに待たせて頂きます。


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