月刊パントマイムファン編集部電子支局

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『パントマイムの歴史を巡る旅』第25回(佐々木博康さん(1))

2015-01-12 12:25:05 | スペシャルインタビュー
現在の日本のマイムの潮流を辿っていくと、近代のマイムの祖で、マルセル・マルソーの師としても有名なエティアンヌ・ドゥクルーという人物に行きつく。フランスを発祥とした近代マイムがどのようにして日本に導入されて、日本のマイムに影響を与えていったのだろうか。エティアンヌ・ドゥクルーのマイムをベースに、日本初のマイムの養成機関として発足した日本マイム研究所長を務める佐々木博康氏に、長年の活動やマイムの表現や作品について語って頂いた。
※この文章の中で、マイムとパントマイムについては、以下の意味で使われております。
マイム:一番重要な身体の表現部分は胴体であり、次に腕と手であり、その次が顔である。
パントマイム:マイムと逆で一番重要な身体の表現部分は顔であり、次に腕と手、最後に胴体となる。
※インタビューは何十年も昔のことも触れているため、100%正確でない部分を含む可能性があります。ご了承ください。

■佐々木博康氏プロフィール
1959~65年 マイムを及川廣信氏に、舞踏を大野一雄氏に学ぶ。その間、土方巽氏の暗黒舞踏派のメンバーとして舞台公演に参加
1965年 フランス・パリで、マイム界の巨匠エティアンヌ・ドゥクルーにコーポラルマイムを、ベラ・レーヌにリアリズム・マイムを学ぶ
1967年 日本マイム研究所の所長に就任
現在は、マイムの普及と後進の育成に努めながら、国内、海外で公演を活発に行っている。マイム歴55年。1939年生、東京都出身

編集部 最初に、佐々木先生がマイムとの出会ったきっかけを教えてください。
佐々木博康(以下、佐々木) 私のマイムとの出会いは1959年1月、明治大学文学部演劇科1年生の時でした。当時、私は映画が好きで毎月20本近く見ていました。それで将来は映画の俳優や監督になりたいという気持ちが強くありました。そこで演技を勉強しなくてはと思い、劇団若草の青年部に入りました。それと同時期に私の父の友人であった舞台装置家の吉田謙吉さんから俳優を志す人はマイムをやった方が良いと言われて及川広信先生を紹介されました。及川先生はフランスでマイムの技術を学んで来られた方です。即入門させて頂き、その後6年半マイムの指導を受けました。その間、劇団のレッスンは面白くなく2年後に辞めました。言葉なしで身体のいろいろの部分を動かし、目に見えないものとか、力を表現したり、喜怒哀楽の感情を表現したり、また、何よりも面白いのは課題を与えられ、自分で考えたり、想像したりして創作することが台本に縛られた芝居の稽古よりずっと面白かったのです。ですから、マイムを始めて2年後に生涯肉体表現の探究者になろうと思い、今日まで55年間続けてきています。

編集部 及川先生は、その当時どんなことをされていたのでしょうか。
佐々木 先生は、日本でクラシックバレエをやっておられました。1954年にフランスへバレエ留学されました。そこで偶然マルセル・マルソーの公演を見られ、マイムにとても興味を持たれて、マルソーにマイムを習いたかったのですが、当時マルソーは教えていなかったので、マルソーの師匠であったエティアンヌ・ドゥクルーについて学ぼうと思われたのですが、その頃ドゥクルーはニューヨークでマイムを教えていたので、ドゥクルーの息子のマクシミリアン・ドゥクルーについてマイムを研究されました。そして1956年1月に帰国され、マイムの技術を日本で指導されることになりました。及川先生がフランスから近代マイムを初めて日本に移植されたのです。私が入門した1959年1月は、先生の以前の奥様の日本舞踊の稽古場でマイムのレッスンが行われていました。その3ヶ月後に雑司ヶ谷に稽古場が移りました。そこでは及川先生はマイムの稽古とバレエのレッスンを教えておられました。
 そして私が入門して1年半後の1960年5月に西新橋の自宅の2階にスタジオができ、そこが日本で最初のマイム研究機関である日本マイムスタジオ(日本マイム研究所の前身)の誕生となったのです。そこで及川先生がスタジオの初代所長となり、マイムの指導、普及に力を注がれました。日本マイムスタジオの創立と同時に、そこで演劇界や舞踊界の大御所が10名集まって日本マイム協会の創設となったのです。協会の初代会長には吉田謙吉氏がなりました。

編集部 西新橋のスタジオは佐々木先生のお父様の佐々木正躬さんがお作りになったそうですね。
佐々木 私の家の2階に16坪の稽古場を作ってくれました。
編集部 お父様はどういうことをやっていたのですか。
佐々木 昔で言うカフェでした。銀座に3軒、新橋に1軒ありました。各店特徴があり、くじゃくの羽のついた帽子をかぶった豪華な衣装のバニーホステス嬢が40名いる店や真っ赤なタイツをはいた30名位の女性が時間になると全員ビートの効いた曲で踊る店もありました。ユニークな店なのでアメリカの雑誌にも取り上げられました。また、父が私に与えた影響は実に大きかったですね。僕を小学校の頃から大人になるまで落語、浪花節、講談、歌舞伎、地唄舞、新国劇、松竹新喜劇、日劇のショー、夏の甲子園、プロ野球、大相撲、プロボクシングと数えたらきりのない程いろいろな所へ連れて行ってくれました。モスクワ芸術座が来た時はチケットを買ってくれました。

編集部 日本マイム協会はどういう活動をやっていたのですか。
佐々木 主な活動としては吉田謙吉会長がお亡くなりになった後、及川先生が会長となられマイムフェスティバルを主催されました。1年後に会長になられた太田幸一氏の時もマイムフェスティバルが行われました。その1年後に会長が交代し、その頃から協会は有名無実になってしまいました。

編集部 及川先生のところで学んでいた頃は、どういう訓練をやっていたのでしょうか。
佐々木 まずは身体の各部、頭、首、胸、腹、腰、各部間接をいろいろに動くようにすること。それを使って目に見えないものや力関係の表現、筋肉の弛緩と緊張、重心の移動、時間と空間の短縮、喜怒哀楽の感情表現などを学びました。

編集部 佐々木先生の初めてマイム公演は、いつだったのでしょうか。
佐々木 私がマイムを始めて3年過ぎた頃、日本マイムスタジオの最初の公演で文学座の安堂信也先生の演出でカフカの「審判」をイイノホールで上演しました。勿論「審判」はマイムでは初の舞台だったので注目されました。上演時間は2時間かかり、音楽も使わなかったので、演劇をよく見ている人にとっては本格的マイムのドラマでとても画期的で衝撃的であったと思います。演劇や舞踊を余り見ない人にとっては、カフカ作品は難解であったと思います。「審判」では主人公のヨーゼフKを大野慶人さんが演じ、私は7つの役をやりました。

編集部 1960年代の頃は、舞踏家とマイムが密接に関わっていたような感じがしますが、実際はいかがだったのでしょうか。
佐々木 マイムの人と舞踏家との交流は少しありましたが、長くは続きませんでした。私自身も大野一雄先生の弟子だったので大野先生と土方巽さんとは関係が深かったので、土方巽の暗黒舞踏の一期生として舞台で踊りました。土方さんの生活費を稼ぐためのキャバレー回り(暗黒舞踏のダンサーとして)も何回かやりました(笑)。また、大野先生は普通の舞踏家と違って飛んだり、回転したりしませんからマイム舞踏と一時言われたこともありました。大野先生の舞踏はゆっくりした動きで体全体と宇宙空間を意識された魂の踊りでした。頭のてっぺんから足の先まで意識が行き渡っていたので、そのことが私の肉体表現の一番の基となり、マイムを越えた魂のマイム舞踏に発展させていくことになりました。大野先生は私に多大なる影響を与えて下さいましたが、他のマイムの人々にもいろいろな影響を与えて下さったと確信していいます。
編集部 当時は、舞踏をやっていた方でマイムを習っていた方が多かったのでしょうか。
佐々木 大野先生の息子さんの慶人さんは私が及川先生に習っていた頃、一緒にやっていました。ただ、慶人さんは前述の日本マイムスタジオ公演「審判」が終わると舞踏の世界に戻って行かれました。
(つづく)
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