月刊パントマイムファン編集部電子支局

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『パントマイムの歴史を巡る旅』第17回(あらい汎さん(4))

2013-09-09 01:19:10 | スペシャルインタビュー
佐々木 ところで、あらい先生のソロの代表作『物置小屋のドン・キ・ホーテ』(1986年初演)は、どんなふうに生まれたのでしょうか。
あらい あれはね。まず、ドン・キホーテという人物に興味がありましてね。僕から見ると、ドン・キホーテはまさにクラウンで、その行為はパントマイムそのものです。それは、例えば、ドン・キホーテは荒野に立つ風車を巨人だと思い突撃していくじゃないですか。風車に、彼の幻想の中の巨人を見て戦いを挑むのです。マイムの無対象というのも演者の幻想だと思います。そこが僕のマイム観と繋がったいう事です。私の著書にも書いてありますが、マイムの無対象というのは、今ここには無くとも自分の意識や思いの中に確実に存在している事柄です。何だか分かりますか?
佐々木 ええーっと…。
あらい 僕は、かなり色んな組織、世代からの依頼でワークショップの機会をいただいております。そんな折、この問いを必ずします。はじめは誰もがきょとんとして首をひねります。そこで聞いてゆくのです。「今朝何を食べたのか教えてほしい」とか「先週の日曜日に何をしたの」「小学校の時の先生の話をして下さい」と。また「今夜何を食べたい」とか「来年の計画、将来何になりたい」などと聞いてゆきます。そこで気がつくのです。記憶や思い出は、ここにはないけど自分の中には確実にある事だと。また将来への夢や未来への展望、将来の不安もそうです。僕は今ここにこのように生きていますが、もうじき必ず死するわけです。いつどこでどのように死ぬのだろうという思いは、この歳ですから自分の中に確実にあります。それが僕にとっての大きな無対象です。だからドン・キホーテもここにはないもの、つまり自己の幻想と戦っている訳で、私の思考しているマイムだと思ったのです。ドン・キホーテはクラウンです。だからこの物語といいますか人物を何とかマイムの作品にしたいなと思っていました。

佐々木 とっても興味深い話ですね。あの壮大な小説をどのようにパントマイムの作品にしたのでしょうか。
あらい 僕の作品の作り方は、所謂“孤島もの”だと思います。孤島ものというのはドラマに、ある限定を設ける手法です。例えば島に閉じ込められると、必然的に島の中で物語が展開しますよね。逃げることの出来ない場所を設定する事で、その劇の展開する状況や場所から逃げることが出来ないようにするのです。逃げられてしまうと物語にならないですからね。海に沈んでしまった潜水艦の中のドラマとか、冬の山小屋に閉じ込められてしまったとか或いは時間や、他人に縛られているとかの条件です。限られた中だからこそ強いドラマが生まれるんだと思うのです。逃げ場が無いと言う事で劇が明快になるのです。
佐々木 確かにマイムの作品では場所や時間が限定されることが多いですよね。
あらい このような作品をこの世界では孤島ものと呼んでいるのです。僕の初期作品『男のバラード』はサラリーマンの朝から夜までの物語です。全ての小説や舞台は大体孤島ものですね。例えば、誰かの家、ある人物の人生、ある戦の顛末という風に限定を設けて展開するのです。その限定の作り方が作品の良し悪しに関係します。ドン・キホーテをどうやって作ろうかと思った時に、物置小屋に閉じ込めることで限定を設けようと思いました。
佐々木 それは、なぜ物置小屋に限定したのでしょうか。
あらい ドン・キホーテの物語には色んな人物や先ほど触れた幻想の敵が現れてきます。これらの存在しうるリアルな場所を想定してみたのです。色んな物が存在し蠢いていてもおかしくない場所、それが物置だったのです。後に夢の島のような廃棄物処理場を舞台にした「七つの星のノクターン」がありますが、思考としては同じですね。そしてこの設定が思い浮かぶのには僕の幼児体験が基になっているのではないかと思うのです。物置小屋の胡散臭さや怖さはひんやりとした空間、言い知れぬ匂い等と共に幼児期の記憶としてあります。幼児期というのは想像の宝庫だと思います。その頃の体験は、その後の人生の様々な体験よりも濃い感じがするのです。そこで、そこに自分を閉じ込める事でドラマが展開するのではないかと思い、(子どもの頃の)かくれんぼという遊びを思い出したのです。
佐々木 なるほど。

あらい そういう閃きが作品を作らせてくれるのではないかと思います。かくれんぼという遊びは、鬼に見つけて貰う事によって成立する遊びです。この作品は、かくれんぼ遊びをしていて見つけて貰えなかった男の話です。子供のころ、多分、皆、鬼に見つけてもらえなかった時の寂しさを知っていて、音を立てたり、ちょっと姿を見せたりして、ついには見つけてもらうことが出来、家に帰れたと思うのです。「物置小屋のドンキホーテ」は、見事に隠れすぎてしまった男の物語です。男つまりドン・キホーテは物置小屋に隠れて、そこで色々な敵とめぐり合います。最初に現れる敵は虫です。虫はドン・キホーテの中の水車です。この作品を作ろうとしてまず、物語の中の途上人物は僕にとって何なのか、誰なのかを見付ける事ではじめたのです。僕の幼児期の遊びの一つに、虫たちへのいたずらがあります。彼らは足を切られたり、羽を毟られたり、尻尾をきられたりして多分、かなり恨んでいます。第一場はそれらの一つが襲い掛かってくるという場面です。それが最初の敵ですね。最後巨人ならぬ巨虫となって男を飲み込み骨だけを吐き出します。
佐々木 このシーンにそういった想いがあったのですね。

あらい もう一つの敵が思春期の時に出会った女の子です。これは物語の中ではドン・キホーテの意中の女性のドゥルシネーア・デル・トポーソです。僕の女の子に対する幼児期の記憶にこんな事があります。その内の一人は、ウチの近くの床屋さんの子で一つ年下の女の子です。家に遊びに来ては、ままごとをしたり、時には相撲をとったりして 遊んでいました。ある日の事、突然今日からお相撲取れないよと言われてしまいました。理由が分からないです。今まであんなに仲良く遊んでいたのに、すごい嫌われたと思ってつらかった記憶があります。今では分かります。その娘は何日か前に女になってしまったのです。
 もう一つのエピソードがあります。私の家は田舎ではありますが、その中の繁華街に当たるメインの通りを入ったすぐのところにあったのですが、垣根越しにパチンコ屋さんの裏に面していたのです。その頃のパチンコ屋さんは暗いイメージを多分に持っていました。働いている人も訳ありの流れ者だったり、普通の会社に勤めることの出来ない何かの事情を持った人だというのが噂でした。お店の従業員はほとんど女性で玉の補充をしたり、掃除をしたり、頻繁に客の苦情に応えたりしていたようです。パチンコ台の裏は狭くて熱いのでしょう。夏の厚い日には従業員は裏に出て来て涼むのです。クーラーのない頃です。扇風機さえ贅沢品だった頃です。
 ある日、夏休みだったと思います。僕の勉強部屋の窓は表側、即ちパチンコ屋の裏に面しているのです。夏ですから窓を開けて宿題をやっていたのでしょう。どこかで見かけたことのある従業員の一人が汗を拭き拭き裏に出てきたのです。多分1年か2年上で中卒でそこに就職したのではないでしょうか。突然スカートをめくりバタパタさせ股に風を取り込むために扇ぎはじめたのです。僕はそんな光景をボーっと見ていました。するとその女は突然顔をあげ、ボーと見ていた僕と眼が合ってしまったのです。「スケベーね」女は口にしました。どうしよう、咄嗟に親や、近所の人に言いつけられたらどうしようかと思いました。そんなつもりで観ていたわけじゃない”心の中で叫びました。犯罪者になったように怖かったのです。
 そういう幼児期に体験した女性たちの記憶が第二場の白いワンピースとのやり取りとなります。第3場は社会がテーマです。

佐々木 すごい展開ですね。
あらい 三つの敵を想定しました。最初は虫、次に女、最後に社会と続きます。虫は過去の記憶、女は現在進行形の記憶、社会は未来への不安です。全てここには無いけれども僕の内側に住んでいるもの達です。そして社会の中では積木を積み上げる作業を仕事として設定しました。最初は、石をつんでやっていたのです。つまり三途の河原です。余り直接的だから積み木にしたのです。家と職場の往復で、積み木で家を作り上げ死んでゆくという設定にしました。日常の繰り返しです。死した後、男と関わりのあった女たちが骨壷を持って現れ積み木を奪い合い去ってゆきます。女たちは、男にとっての妻だったり、愛人だったり、妹だったりです。
 物置小屋にいたのは、かくれんぼをしていたからですが、自分が隠れている間に僕の友達は、見事に社会に出ていきます。それは多分僕自身のことです。子供の頃役者になりたくて、いまだにその夢を追いかけている僕ですが、その間に友人たちは社会的な職業に就き立派にやっているのです。僕の友人たちは立派に大人らしい大人になっていったのです。
 男は頭に巻かれた三角の白い布をちぎり、棺となった箱から飛び出します。男の傍らの箱の中からは、色々な音が飛び出してきます。始めはあの頃の下駄の音やゴム草履の音ですが、車の音から汽車、新幹線、ヘリコプター、飛行機、終にはロケットが飛び出します。男の知らなかった時代や文化の波です。
 男は、鬼ごっこを一緒にやった友人の名前を片っ端から呼んで行きます。幼児期の夢に取り残されてしまった男の叫びです。いつまでも純文学をやっている歳ではないだろうという大人社会からの罵声です。最後に箱の中から火が噴き出て、男が倒れ、舞台全体黒いビニールで覆われてゆきます。つまり闇で全てが覆われて終わりになるのです。いや、終わりません。男は闇から顔を出し闇の頂点で、再び友の名を呼び続けます。この世界で生きてゆくという覚悟の表明です。こういうふうに話してみると、この作品結構良くできているね(笑)。

佐々木 この作品は、ファイナル公演を既に上演したそうですね。
あらい 2004年にファイナル公演を上演しました。なぜかというと、僕は40歳の時にヘルニアで入院しました。その後回復して、2004年にこの作品をやっている時に、あれっ、まだこんな場面かって思ったのです。2時間近い作品ですが、体力や精神が衰えるとドラマをなぞっているだけで、その時、その場所で生きていない事に気づくのです。ドラマの進行の中にいることで精一杯になってしまいます。まだあんなに残っている。こりゃダメだ。この先は神経が持たないと思ったんです。神経が持たない舞台なんて人に見せられないと思うじゃないですか。お相撲さんと同じで体力と神経の限界だと思いました。2時間近くほとんどソロですから、大変ですね。それで、2004年の時にファイナルとしたのです。
佐々木 なるほど。
あらい 近頃は、一人で1時間半くらいのソロをやる時はかなりしゃべってますね。自分の事を口先マイマーと呼んでいます。銀座で『パントマイムウィーク5』に出演した時もほとんどしゃべっていました。この作品は、沈黙で1時間半から2時間演じます。イメージが膨らんでないとできません。体力というのは大事です。
(つづく)
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