ある日、新聞を見ていたら、綺麗な女性の写真が載っていました。
突然、心臓の病気になり移植しないと命がもたないんだそうです。
まだ20歳前後の人だったと思います。
海外での移植になるそうで、費用がかかり、募金を募る記事でした。
なんか写真が頭から離れなくて・・・。
振込み口座をメモに残しておきました。
命が長くはないかも・・・という恐怖は味わったことがあります。
それが確実に長くないと断定されてしまった彼女がどんな気持ちなんだか・・・。
是非、移植して頑張ってほしい。
でも、私はまったくの垢の他人です。
世の中には、病気のために費用を必要としてる人は山といるでしょう。
海外移植の場合は、法外な値段のためかよくネットなどを利用して、
募集をかけてるようですが、国内の病気治療に必死にお金を工面してる人も
いると思います。
そういう人達が沢山いる中で、私はなぜ彼女だけを選んで、彼女たけに
募金をしようとしてるんだろうか??
他の人はどうでもいいんだろうか??
他の人が、彼女も助けたんなら、私にも助けて、私にも、私にも・・・と
言われたら、私は全員に募金するんだろうか?
なんだか、急に、自分が偽善者である罪悪感の方が大きくなってしまって、
ずっと考えてしまっていました。
でも、そういう人達を見過ごせない時点ですでに偽善なんですよね。
なんとかしてあげたいと思ってしまうのもすでに自己満足なんですよ。
どうせ偽善で、どうせ自己満足なのなら、何もしないより、
何かしている偽善や自己満足の方がいいと開き直ることにしました。
私は年齢の割りに、自分のポリシーが無さすぎなんですよね。
あっちの事情も、こっちの事情もわかるし、あっちの言い分も、こっちの言い分も、
あっちの考え方も、こっちの考え方も、みんな一理あるから、どれもみんな正しく思えて。
でも、大切なのは、その中で自分はどれを選択するかってことなんでしょうね。