三日坊主脱出!

シモネタあり、おやじギャクあり、自虐あり、たまに真面目な話あり

愛があれば?

2006年06月13日 18時39分50秒 | 両親
数人の方からメールを頂きました。
まず最初に、期待に沿えなくてごめんなさい。
こんな母親が存在してるなんてことすら
許せないとは思いますが、
私はやっぱり今は、これで後悔していません。

親が精一杯子供を愛してあげたら、
子供はいつの日か、その愛情を元に一人で歩き出すのでしょうか?

私は、そうは思えないです。
うちの母と父と妹の15年間は地獄です。
今もまだ続いていますが。
母は愛情がなかったわけではなかった。
ううん、むしろ、愛情は人一倍だったと思う。
だけど、妹は、母を恨んでる。
頭では愛情を理解できてるみたいだけど、
心がね、やっぱりダメみたい。
妹の部屋には障子がありません。
押入れにふすまもありません。
全部、妹が叩き破ってしまいました。
障子のサンですら、ふすまの骨ですら。
妹が泣く、怒る、母が泣く、怒る、父が酒に逃げる、怒る。

家族みんなで話し合ったりしたし、
父も病院に相談したり、妹自身もカウンセリング、
精神科、色々行ったけど、結局、何も変わらない。
一人暮らしをしてみたり、バイトをしてみたり、
就職してみたり、家事手伝いしてみたり・・・。
何も変わらない。妹なりに少しずつ変わってるみたいだけど。
でも、やっぱりまだまだ実家は地獄のようです。
妹が、息子に対して、
「ちょっとくらい工作が得意でもね、そんなのは役に立たないのよ」
と言ったことがあります。
まだ、幼稚園だった息子は、バカだとか言われたとか驚いていましたが。
小さい子にも、容赦ありません。

妊娠中の二番目の妹に対して、
「お前なんか流産すればいい」とも言ったそうです。

もう一度怒ると手に負えません。
家族はそれでもまだ妹の本心ではないと思ってるのでいいのですが、
親戚にも同じことをしてしまい、
いくら家族がフォローしても溝は深まるばかりです。

ずーーーーーーーとこんなです。妹は。

私は酷い姉だから、妹が可哀想と思いつつも、
息子が妹のように育ててしまいそうなのが怖かった。
妹のようにしたくなかった。
だから、何が原因で妹がそうなったのか知りたかった。
でも、わからなかった。
わからないからこそ、今も、実家は地獄なんだろうけど。

私は母のような母になるのが怖かった。
息子を妹のようにしたくなかった。
カウンセリングの先生とかは、
「大丈夫よ、あなたはお母さんみたいになりたくないと思ってるんだから」
なんて安易なことを言うけど、
母子の関係っていうのはそんな簡単なもんじゃない。
気付くと、自分の母親と同じことを言ってるし、やってるし。
気付いてない部分はまだ一杯あると思う。

まぁ、だから不倫っていうのも確かにおかしな選択だったけどね、
彼から、受け入れることとか学ばなかったら、
母と同じ母親になってたと思うから、まー、後悔はしてないかな。

今後、息子から、私の母以下の母だと言われる可能性はあるとは思いますがね。

でもまぁ、不倫のキッカケは自分のためですね。確かに。
副産物として、受け入れられるということをようやく理解できて、
それが、子育てに役に立ってるってだけで。
しかも、今は、もう子育ては一人でも出来そうだと思ってるのに、
やめないんだから、もう、子供がとか妹がどうのこうのではないですね。

役に立ったわ、ありがとう、じゃーねって別れれば、
まだよかったんでしょうけどね。
今度は、自分自身が別れたくないとはっきりわかりました。

こんな母親がいるのは許せないと思いますが、
私は、こうしか出来ないです。

2005年11月13日 14時44分51秒 | 両親
女の子はなぜかお父さんとは揉め事がないという話を聞いて驚いています。
私の場合もそうです。

たぶん、父には母の役割を求めていないんでしょうね。
だから、父では母の代わりにはならない。
それを親は気付いていないんでしょうね。

私はファザコンだなぁと思う時があります。
父は、恐らく、母が完璧な主婦だとすれば、
父は、最悪な人間ではないかと思います。

短気だし、酒、借金、精神的にももろかったです。
酒をくらって「俺は死んでやる」と車を運転しようとする父を
必死に止めたことも・・・。

しっかし、なぜか嫌いじゃないんですよ。

私は小さい頃、父と遊んだ記憶はいっぱいあります。
末の妹は母が担当。私は父が担当。
二番目の妹は、母だったり、父だったり。
両親としては当然の分担だったんでしょうね。
ただ、私はやっぱり母でないと得られないものがあった。
それに気付いてくれなかったんでしょうね。

でも、父と遊ぶのは本当に楽しかったです。
家の中で、鬼ごっこをしていました。
私は2階のトイレに隠れて鍵をしめてしまいました。
すると、なんと1階の屋根の部分をつたって、
トイレの窓の外に父がやってきたのです。
しかも、ご丁寧にストッキングまでかぶって・・・。
ぎゃああああああああ!!!!当然、子供達はパニックです。

外でかくれんぼをしてるときもそうです。
子供ながらに、「大人は隣の家にまで入ってこれないだろう」と思って、
余裕で隠れていると、平気で隣の家に入ってくる父がいます。
うわあああああああ!!!びっくりです。

プールとか色んなところに連れて行ってもらうと、
「ママには内緒だよ」と言って、アイスとかご馳走してくれました。

かといって、本来は真面目な父なんです。
テスト前に私が熱を出したことがあります。
しかも、次の日のテストは物理です。
まずい・・・勉強しないと・・・でも熱があって起きれない。
すると、父が物理の教科書を持ってきてくれました。
そして、枕元でずっと物理の教科書を説明しながら読んでくれました。

ある日、高校受験の準備をそろそろした方がいいと父が言いました。
自分のときは、教科書を1年から3年まで全部ノートのまとめあげた。
と言いました。
なるほど!と、私もさっそくそれを真似しました。
父はいつも指針をくれたような気がします。
だから、突然大海に放り出されたような困惑を感じたことはありませんでした。

父からは、愛情がすごく感じられました。
二番目の妹は、父が死ぬほど嫌いだったというので驚きです。
私は嫌いな時期なんてありませんでした。
やっぱりファザコンだったのかなぁ。
でも、怒らせたら怖いという緊張感はいつもありました。
末の妹が、父に言いたい放題言うのを聞いて、
いつも、「すげーー」と思っていました。
私には、そこまで言うことはできません。
父が自分でも言ってますが、
私には男と思って育てたというくらい厳しく、
末の妹には甘くしていたんだそうです。

そう考えると、母は大変ですな(笑

母について

2005年11月12日 19時05分10秒 | 両親
小さい頃、母と一緒にいた記憶があまりありません。
一生懸命思い出してみました。

(1) 日曜日だけは家族中が遅く起きました。
  妹達より一番に起きて、父の布団にもぐりこむのが好きでした。
  母の布団にもぐりこもうとしても、いつも狭くなると断られました。
  私は年齢の割に体が大きかったので、父の布団には私。
  母の布団には妹。そんな感じでした。
(2) 妹達と人形を使いながらプロレスごっこをしていました。
  母が、それを見ていて、もっと女の子らしくファッションショーを
  しなさいと言いました。
  みんな思い思いにハンカチやら折り紙やらで服を作りました。
  3回ファッションショーが開催されて、審査員は母です。
  姉妹が一人ずつ優勝して終わりました。
  母と遊んで楽しかった記憶は、これだけです。
(3) 難しいテストだったんだけど、一人だけ80点を取りました。
  クラス中が、すごーいってびっくりしてました。
  でも、母は、「どうして100点じゃないの?」と言いました。
  「難しいテストでね、みんな50点くらいだったんだよ」と言いました。
  「先生は100点取れると思うから、100点満点のテストをするんだ。
   他の人が何点だろうが100点でなければ仕方がないといいました。」
(4) 何度か、「お願いだから、もっと褒めてほしい」と泣いて頼みました。
  でも、母は、「あっそう。よーくできたわね。すっごいすっごい」
  「これでいいのね?こんなこと言われたくらいで満足なのね?」と
  言いました。
(5) 私が塾でトップの方になると、面接のとき、塾長が母に、
  適当なことを言いました。この塾の期待の星だ。そんなようなことです。
  そんなときだけは、すごく私に優しかったです。
  私だけを見てくれて、私だけに時間を取ってくれて、
  帰りには、ちょっと甘いものでも食べていかない?なんて言ってくれて、
  優しかったです。
(6) 話をしようとすると、「今、夕飯作りで忙しいんだから、後にして」
  と言われました。
  後で聞いてもらったことはありませんでした。
(7) 数学が得意だった私は、友達達に試験勉強を教えてほしいと頼まれました。
  私は、得意げになって放課後、みんなに教えてあげました。
  それを母に言うと、
  「他人のことなんて見てる余裕あるの?自分のことをしっかりしなさい」
  と言われました。
(8) あるスポーツが好きで、地域の大会で上位になりました。
  賞状をもらいました。特に、母が何かを言ったように覚えていません。
  むしろ、受験の邪魔だからやめるように言われてました。
(9) 高校に入ると、別のスポーツをしました。
  合宿も普段の活動もすべて受験の邪魔だからやめるように言われてました。
(10) クラブの先輩はクラブを続けながらも○○大学に入ったんだって
  と言うと、そんな三流に入ったところでどうするのと言われました。
(11) それでもそのスポーツを続けて、なんとかレギュラーになりました。
  夏休みは祖母の家に帰省することになっていた我が家ですが、
  夏休みの練習を休めばレギュラーをはずすと言われたので、
  必死に、練習に行かせてほしいことを頼みました。
  一人で家にいてもいいから練習させてほしいと頼みました。
  祖母が悲しむこと、親として一人では心配で置いていけないこと、
  悲しませたら可哀相だ・・・そう思って諦めました。
  次の大会では、ベンチ入りも許されませんでした。

自分で決めたことなんだから、両親に恨みはありません。
ただ、私が築いてきた世界で大きな犠牲があったって
ことはわかってほしかった。
母には、クラブなんて受験の邪魔という認識だけだったんだろうけど、
私は必死に練習して、苦労して、ようやく掴んだレギュラーだったんです。
私にも私の大事な世界があることをわかってもらいたかった。

他にも怒られた、叱られたという記憶はあるのですが、
遊んだ、楽しかったという記憶はファッションショーのみです。
たぶん、あれは妹が優遇されるわけでもなく、
一人一人が一度だけ母から優勝と言われたのが凄くうれしかったんだと思います。

誰かもご指摘の通り、母も受け入れようとはしませんでしたが、
私も物心ついたときには、母に受け入れてもらおうとは思わなくなっていました。

自分の恥ずかしい姿や哀れな姿を見せたくないのです。
それは、同情されたくないという気持ちと、
心配させたくないという気持ち両方です。

妹には、「お姉さん、我慢していた気持ち、言いたかった気持を、
ちゃんと母に話すべきだよ」と言われますが、
いまだに、言う決心はつきません。

まぁ、そんな急がなくてもいいですよね。

母のことは好きです。
あ、大事なことを忘れていました。
私が病気のときの母は、すごく優しかったです。
ずっと病気でいたいと思うくらいに。
だから、感謝もしているし、愛情も感じます。

なので、母に不満を言うのは躊躇してしまいます。

でも、子供の時代は、そんなこと構わなくていいんですよね。
病気のときは病気のとき、他のときは他のとき。
病気のときも、他のときも、もっと自分を見てほしかった。
それは子供の時代だったら、当然の要求でいいんですよね?

子供が3人もいて、家事に必死だった。
家事に手を抜きませんでしたからね。母は。
だから、子供の話なんてイチイチ聞いてあげる余裕なんてなかった。
だけど、子供の時代だったら、私の話を聞いてほしいと思うのは
仕方がないと思ってもいいんですよね?

子供の時の私は、子供として当然の要求を受け入れてもらえなかった。
子供の時の私は、子供の私自身が築いた世界を認めてもらえなかった。

でも、恨みはない、謝罪してもらいたいわけでもない。
なのに、それを認識することに何の意味があるんでしょ?
これ以降の、私の思考は止まったままです。

父は・・・

2005年11月07日 02時28分16秒 | 両親
すごい。私、書きまくりだ。。。

以前、主人と凄い喧嘩をしたことがあります。
原因も何も全部忘れてしまいましたが。

丁度、父から電話がかかってきて、
私は思わず「離婚するから」と言ってしまったのです。
父がすぐ来て、仲裁に入り、なんとか治まりました。

後日、父から手紙が送られてきました。

「貴女は夫を立ててますか?」
「貴女は夫が帰りたくなる家を作る努力をしていますか?」
等が書かれていました。

私のいい加減なのは、両親が一番知っています。
几帳面な主人が、私のいい加減さにいつまで堪えらるか・・・というのは、
両親が結婚当初からずっと心配していたことです。

いや、ほんと私、本当に酷いんですよ。
たぶん、私を見たら、主人に同情する人の方が多くなると思います。
んなこと自慢気に書くなよ!!ってね。

主婦業なんて、女ならみんな出来ると思ってました。
女でなくとも、そんな特別なことは必要ないでしょう。
ところが、なぜかうまくいかない。
うまくいかない、やる気にならない、どんどん悪循環に。

彼はそれでも負けなかったですね。
ほら!汚いだろ!!と部屋の写真を送ると、
片付いた部屋より、落ち着くと言ってきました。
ほら!こんな料理食べたくないだろ!と言うと、
家で作った感じがして美味しいと(笑
そして、圧力鍋なら時間が短くて大丈夫だよとか、
なんとか、色々、出来ない~という私を励ましてくれました。

ようやく吹っ切れまして、
自分のレベルで合わせていこくじゃないか!と思えるようになって、
ダメでも一歩進めばいいことにしよう。
すると、不思議に、一歩進むだけなんだけど、
ダメだ。。出来ないって何も諦めてしまうよりは全然いいんですよね。
あ、でも、全然まだまだ最低のレベルですが・・・。

話がそれました。

父からの手紙です。
そして、最後に、
「○○くん(子供)を泣かすようなことをしたら、
絶対に二人を許しません」
そう書いてありました。

主人は変わらない、主人に意見できるような影響力を持つ人もいない。
私はダメ主婦。本当に酷いダメ主婦。
子供が泣くようなこと(離婚)は絶対に許されない。

そうすると、やっぱり私がダメ主婦をレベルアップするしかないのですよね。

それでも、いつか私がぶっ倒れたり、更年期(怖)とかで調子崩したり、
そういうときが来たら、また、同じことが起きるのでしょう。
障害を負った義父が、主人に怒鳴られてる姿を見ると、
あれが自分の未来の姿なんだなぁと思います。
義父は、仕事人間でした。
主人はそれを恨んでるようです。
しかし、義父なりに、不自由ないお金を与えて、
好きなことをさせてあげて、愛情表現は間違っていたと思うけど、
でも、愛情がなかったわけではないのです。
もう、大人なんだから、そのへんの気持ちは汲み取ってあげてもいいと思うのですが。
主人にしたら、過去の恨みと、現在自分に負担をかけてることが、
すべて許せないようです。

モラルハラスメントの体験談なども見てみましたが、
こんな酷いことまではさすがに主人はしないぞと思うこともありますし、
これ以上酷いことを平気でするなぁと思うこともありました。

私には、判断できない。
ううん。判断する勇気がない。
認めてしまうのが怖い。
結果が出てしまうのが怖い。

ここまで吐き出しておいて、結局、また逃げですか・・・。