忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ゾンビと虐め

2010年06月18日 | 過去記事
小学校1年の頃は近所の悪餓鬼相手に「特大ウルトラマン消しゴム」を奪い返すため、私は「孫の手」を装備して全員ぶっ叩いて取り戻した。ばあちゃんの差し金だった。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=522442&log=20070227

3年生で転校したが、そこにも悪いのがいて初日からやられた。5年生の時、遠足で並ぶ廊下で襲いかかってトラウマを植え付けてやった。「絵具のバケツ」を容赦なく、全力で顔面へと振り下ろした。習った空手は関係なかった。そいつはそれで曲がってしまったのか、大人になったら白いワゴン車に後輩連中を乗せて女性をさらい、身ぐるみ剥ぎ取って乱暴して山に捨てた罪で捕まった。

高校は途中で辞めたが、中学生の時は虐められなかった。というか、明らかに虐める側にいた。反省はしていない(笑)。

でも、社会に出たらまたやられた。ひとつ年上の同僚だったが、二十歳を過ぎてもヤンキーから抜け出せないでいる奴だった。社員旅行で沖縄に行った帰りの飛行機の中、私の席を睨みつけていた。元々、私とはウマが合わない奴だったし、好かれているとは思わないが、あそこまで攻撃的な視線を向けられる理由はなかった。が、しかし、それはすぐに理解できた。そいつの不倫相手が私の座席の隣にいた。30代の主婦で醜聞な噂の総合商社みたいな女性だった。私にすらベタベタしてくるから、正直、嫌悪感すら持っていた。

そいつは空港でからんできた。吸殻を投げつけられた。私は社長のほうを見たが、社長らは他人のふりをした。そばにいた先輩と上司が気付いて止めにきたが、そもそも私は驚いているだけだ。相手は激高して何か言っているも、止めに入った人も何が起こっているのか把握するのに難儀していた。不倫相手の女性はヒロイン気取りで泣いている。私の頭の中では河合奈保子が「けんかをやめてぇ~♪ふたりをとめてぇ~♪」と歌っていた。

一発、蹴られた。素人丸出しの不細工な前蹴りだ。おそらく急所を狙っていた。私は腰を引いて流したが、当たろうが外れようが「蹴った」ことは間違いない。それをみた周囲はようやく体を張って止めた。大人しくしている私も何人かで抑えつけられた。ま、その場はそれだけだった。

信じられないことに、そのまま私は仕事だった。酷い会社である。本社に行って加工済みの商品を受け取り、トラックに荷物を積み込んでいた。すると、社長の息子だと噂される社員と一緒にそいつが来た。「さっきはごめん」と言わされている。次期社長と噂される坊ちゃんとそいつは仲が良かった。おそらく社長に叱られて、坊ちゃんに付き添われて「謝ったほうがいい」となったのだろう。お前らはヒマかも知れんが、こちらはこれから仕事
だというのに、くだらない話をしているヒマがあるなら、私のようにこれから仕事で各店舗に散る店長連中の手伝いでもすればいいのに、と思った。

「なにが?」

と聞いてやった。すると「さっき、空港で」と言うから、続けて「なんで?」と問うた。当事者はそこで私から目を逸らした。顔は半笑いである。慌てた坊ちゃんは「ま、いろいろあったと思うねんけど・・」とお茶を濁したから突っ込んだ。いろいろってなに?

まあ、でも、私よりも年上の二人が口ごもっているから、私は「もういいよ」と言ってあげた。すると、坊ちゃんは自分の仲裁が上手く運んだとばかり「どっちも大人やねんから、これからは場所とか考えてな、社長もおったしな・・・♪」と大物気取りをやった。

黙って去ればいいモノを、そこでお調子に乗るから、まだ若いころの私にからまれる。

オレ、餓鬼みたいなことした?

「いや、そういう意味とちゃうけど・・・」

謝りに来たんじゃないの?説教しに来たの?

「いや、それはもう、謝ったやんか」

許すなんて言ってないけど?

「え・・・?そうなん?」

そう。ンで、そういうことなら言っておきたいことがいくつかあるから聞いてくれる?

「うん・・・」

先ず、ね、そっちの人ね、次は空港とかは止めて連絡してきてね。時間空けるから。誰もいないところでゆっくりできるでしょ?空港なんか警備員もうじゃうじゃいるし、そのまま警察に連れて行かれても困るでしょ?それに、社員旅行は会社の金で行かせてもらってるわけだし、建前だけでも社員仲良くしているところ見せるのが礼儀だと思うんだね、大人なんだから。電話番号知ってるよね?次からは必ず、電話連絡してね?楽しみにしてるから。

「・・・・・・・。」

それと、ね、今度はね、悪いけど我慢しないし容赦もしない。まず、その毛が生えた両手の指を数本折る。私が本気で殴れば頬骨は折れる。鼻なら凹んで潰れる。目なら眼球は破裂する。口なら前歯の数本が折れて喉に詰まる。そのあと両膝の関節と両腕の肘の関節も壊す。そのチョロ髭の生えた顎は叩き割る。上から全体重をかけて、顔面を何度も踏むから粉砕骨折するかもしれない。いいかい?次は必ず、絶対、確実に致命的な怪我をさせる。大きい病院に入院することになる。いや、そうなったら私は一切加減しないから、もしかすることもある。いいね?つまり、くだらない嫉妬心からお門違いの相手に喧嘩売るなら、私は避けていたほうがいいと、同僚の誼で言っておく。

あ、そうそう、まだ、さっきの勢いあるなら、今から助手席に乗ればいい。実は、私はまだ収まってない。空港で私に吸殻を投げたよね?時間が経つにつれて収まるどころか、だんだん腹が立ってきていたところなんだ。今は大丈夫でも5分後はわからない。今日の夜はわからない。明日の朝はもっとわからない。1週間後かもしれないし、1年後かもしれない。最初に言っておくけど、そうなったら私はいきなり襲うよ?誰かに止められるような状況ではやらない。仕事帰りの深夜、トラックの陰に潜んでいるかもしれない。マンションの駐車場も危ない。だから、いま、中途半端なことはしない方がいいと思うんだ。どうせ、そうなったら仕事も辞めなきゃダメだしね。まあ、これを嘘だと、ハッタリだと思うなら、どうぞ、いま、助手席に乗ってくださいな。それとも、近くの倉庫でも行こうか?シャッター閉めとけば15分は大丈夫だろうし、ね。さぁ、どうする?やるかい?

「・・・いや、もう、いい・・」
「・・・・・・。」

ンで、なにしに来たんだっけ?

「・・・・・す、すいませんでした」

よし。許してやる。これでもう、仕事帰りに気をつけるのは交通事故だけになったね。その代わり、明日の朝、中央で缶コーヒー奢ってね?よかったね。



スーパーで店長になっても商人さんに虐められた。気の荒いセリ場のおっさんにも、無条件でやられた。でかいコンテナを投げつけられたこともある。飲食店ではアルバイトの大学生にやられた。パチンコ屋でも散々やられた。これからもあるだろう(笑)。


倅もやられた。今月の7日、川崎市の中学3年生が「友人を虐めから救えなかった」として自宅のトイレで自殺したが、倅の場合も「友人が虐められている」ことがきっかけだった。虐めに加わらず、その子と普通に接する倅も標的にされていた。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=522442&log=20061104

自殺した子は「オレは正義感が強い性格」だと書き残し「友達を救えなかった」ことを悔やんで自ら命を絶ったとされる。「14年間、楽しい人生を過ごした」と書き「人にやさしくという姿勢を貫いた」と結んでいる。遺書には虐めをしていた相手の名も記してあったから、親が気付かずとも学校が責任を認めずとも「虐めはあった」ということの証明にはなった。しかし、惜しい。この子は「友達を救えなかった」と死ぬのではなく「自分は友人を救ったのだ」として生きることができた。実に惜しい。

なぜ「○▽は虐めを行っています。誰か助けて」と書いたプラカードを持って校門の前に立たんのか。全校生徒が通る場所で拡声器を持ってやればいい。授業中、ずっと加害者を指さしてもいいだろう。無言でずっと、先生が止めようとも殴られようとも、ずっと無言で見つめてやればいい。暴力以外の対抗手段はある。

自分に危害を加えようとする奴はいる。100%いる。自分の大切なものを壊したり奪ったりする奴はいる。100%存在する。だからこそ、暗がりで路地に連れ込まれ、数人の暴漢から「カネ出せ」とやられたときは有り金出すべきだ。そして、それを「勇気がない」とは言わない。ちなみに「金が最も大切」という論拠はそれだけで崩れる。「金だけは勘弁してくれ!命ならホラ、いくらでもやる!」はいないのだ。しかし、こういうと「地獄の沙汰も金次第」として「金を積んで命が助かったなら、それは命を金で買ったのと同じではないのか?」という馬鹿が出る可能性もあろうから最初に潰しておくと、それは実に短絡的な「金の有用性」における錯覚だと断じておく。

ここにも何度か書いたがつまり、金とは人類史上、最上の発明品なのであり、これ以上はないと言うほど「便利な道具」なのである。それはすなわち「ときには命が助かるほど便利」というだけに過ぎない。「強盗に襲われた時」などに限定した際、便利なのは拳銃かナイフか爆弾か金かという選択に関する「意見の相違」に他ならない。

また、単純に「金が好き」というのは「金のコレクター」なのであり、そこには種類を集めるコレクターもいれば、単に量を集めたいだけのコレクターもいるというだけだ。だから「金は命より重い」というセリフの漫画は好きだが、「金で買えないモノってありますか?」という阿呆は嫌っていい。ま、ちなみに「命は地球より重い」とも思わんがな。

しかし、要するに、だ。

例えば「100兆円を差し上げますから死んでください」と言われて死ぬときとはどんな時かを考える。先ず、これも100%「自分のため」には行えない。天涯孤独の独り者であっても「寄付してください」しかない。後を委ねるしかない。「世のため人のために使ってください」と言い残すかもしれないが、まさか「その金で自分の博物館を立ててください」はなかろう。自分は見れないしw

すると、やはり「道具とは命のためにある」のだとわかる。どんな道具であれ、それらは「命のために」使われている。なにも病院の器具などを持ち出さずとも、例えば、この今使っているパソコンでもいい。「命のために」とは「命を救うために」に限定されない。使うのが生きた人間なら、生きた人間が使っているものならば、それらはすべからく「命が使っている」と換言することもできよう。ならば、その先にあるモノはやはり「その命を使って何をするか」がある。すなわち、これは「人間はなぜ生きているのか」などの哲学的な疑問と昇華する。「金で買えないモノってある?」とはつまり、「命の可能性」を否定する愚かな考え方のことである。

金も道具も「無駄に使う」ことはダメだとされている。今なら蓮舫がテレビを連れて飛んで来て仕分けされる。ならば、その最終目的である「命のため」とは何なのかと悩むと、その先にはやはり「命しかない」のだと気付く。「命は命のためにある」という、ひとつの結果が見えてくる。とすれば、自分に命はひとつだから、それはつまり「他の命」を指すことだとわかる。「命の正しい使用法」があるとすれば、それは「自分の命以外の命のために使う」と命の裏に書いてあるかもしれない。その実用性を確認するならば、先ず、65年間の大東亜戦争が鮮烈であろう。特攻隊員の命は本土の「他の命」を護るために使われた。本土に残る大量の命のために、これまた若き大量の命が消費された。もちろん、残った命も命は命、命の役割である「他の命のために」繋がった。

しかしそのころ、明確に「無駄な命」が議論されていた。せねばならないことだった。「無駄な命」とはあり得ないが、それはすなわち「正しくない命の使用」を戒めることだった。「命は大切」とは「戦争反対」と同じく、そこらの虫けらでも本能で悟っていることだったから、本来、そこまで理由を説く必要はなかった。しかし戦後の「なぜ命は大切なのか?」という愚問は繰り返し問われ、この国を腐らせたい勢力はそこに「ともかく命は大切なんだ」とやった。そこに疑念を抱くことは許されず、ついには「一人の命は地球より重い」として、その結果、多くの命を危険に曝す総理大臣まで出た。こいつらこそが、すべての「なぜ?」を壊した犯人だった。バッタでも知っている「生きる理由」がわからなくなった「命」は「自分の命だけが大切」という矛盾を孕んで浮遊し始めた。それが「いま」だ。


だから「虐めを苦にして自殺」は減少しない。この正義感あふれる中学生も「命の使用法」を過ったと言わざるを得ない。14年間の命を投げ出さずとも、その友人は救えたのではなかろうか。自分の命を犠牲にして耳目を集め、加害者に対する責めを負わせる効果はどれほどだろう。その溢れる正義感が「友人を救えなかった自分」を絶望させたとすれば、なんともやるせない話である。せめてそこに「命を使う感性」が養われていればと無念に思う。これを「使命感」という。


また、年間の自殺者数が連続3万人を超えたとテレビでやっているが「借金苦で自殺」も「重病の末に自殺」も「失業して自殺」もなくならないように、水牛の群れを狙うライオンが手負いを探すのと同じく、それは「自然淘汰」によるものかもしれない。「生きる理由」が分からない状態とは「生きる意志の脆弱さ」とイコールするからだ。人間の天敵は人間だが、だからこそ「自然界のようにいきなり襲われて喰われたりすることはない」と思われがちだ。しかし、それも錯覚だ。ちゃんと「群れ」があって襲いかかる「敵」もいる。だから、自然界と同じく「生きる」という意志の弱さは、そのまま生命の危険となる。



だから、私は分かりやすい「ゾンビが好き」なのである。現実に絶望して自殺する登場人物もいれば、家族を救うために、恋人を護るために、子供を生かすために、血塗れになってゾンビと戦いながら生き抜こうとする主人公もいる。正真正銘の恐怖と絶望、説明不可能な不安や不明に立ち尽くす時、往々にして人間というのは不満や不平を忘れている。結局、どのような理不尽であれ不条理であれ、それらをぜんぶ受け入れて「互いの命を護り合う」ことで人間はゾンビに打ち勝つ・・・というストーリーが好きだ。


もちろん、今現在は威張っている私でも、先の事まではわからない。人生における「手負い」の状態はあろう。そんなとき、さらなる「攻撃」に曝されたら、人間など弱い部分もあるのだから、なんか、すっと逝ける方法で己を絶つかもしれぬ。だから、こんな私でも優しくして欲しいのである。あなたが来てくれることを信じて、今日も私は山田バーのドアを見つめているのである。くすん。

まあ、いずれにしても雪山で山崎18年を飲みながら、マルボロ吸いながらが理想だがな(笑)。

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