画竜点睛

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「ジェノサイド」(45)

2014-11-09 | 雑談
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本書は精神の実在と物質の実在を肯定し、両者の関係を一つの明確な事例、すなわち記憶の事例において規定することを目指しています。それゆえ本書ははっきりと二元論の立場を採っています。しかしその一方、本書は二元論がこれまで常に引き起こしてきた理論的困難を取り除きはしないまでも、大いに軽減できる見込みのある方法によって身体と精神を考察します。二元論は直接的意識によって暗示され、常識に受け入れられているにもかかわらず、これらの理論的困難のせいで哲学者の間ではほとんど評価されていません。

これらの困難の大部分は、物質に関する実在論的な考え方、もしくは観念論的な考え方に起因しています。本書第一章の目的は、観念論も実在論もどちらも行き過ぎた主張であること、つまり物質を、わたしたちがそれについて持つ表象(観念)に還元するのも間違いであり、あるいはわたしたちの内に表象を生み出しはするものの、表象とは本性の異なるもの(物)と看做すのも同様に間違いである、ということを示すことにあります。わたしたちの立場からすると、物質とは「イマージュ」の総体なのです。「イマージュ」という言葉によってわたしたちが示そうとしているのは、観念論者が表象と呼んでいるものよりは上であるが、実在論者が物(事物)と呼んでいるものよりは下の或る実在――「事物」と「表象」の中間に位置付けられるような実在です。このような物質に関する考え方は、常識の物質に関する考え方そのものだと言って差し支えありません。哲学的議論に縁のない人に向かって、あなたの目の前にある対象、あなたが見たり触れたりしている対象は、あなたの精神の中に、しかもあなたの精神にとってしか存在しないとか、あるいはさらに一般化して、バークリーが言ったように、ある一つの精神にとってしか存在しない、などと言えばその人物はひどく驚くでしょう。その人物は、対象はそれを知覚する意識から独立して存在している、と頑として抗弁するに違いありません。しかし他方、対象はわたしたちがその場所に知覚しているものとは全くの別物で、目に見える色も、手に感じられる抵抗も幻覚に過ぎない、と言えばやはり相手は驚くでしょう。その色や抵抗は対象の内にある、それらはわたしたちの精神の状態ではなく、わたしたちから独立した存在の構成要素である、と彼は考えているからです。それゆえ常識にとって、対象はそれ自体で存在すると同時に、わたしたちがはっきりと認める通りの生き生きとした形姿を備えています。つまり対象とは一個のイマージュであると同時に、それ自体で存在するイマージュなのです。

第一章において、わたしたちは「イマージュ」という言葉をまさにこのような意味で用いています。わたしたちが身を置くのは、哲学者同士の議論を一度も聞いたことがないような人の観点です。そういう人は当然、物質は彼が知覚する通りに実在していると信じているでしょう。そして彼は物質をイマージュとして知覚しているのですから、物質はそれ自体イマージュだと(素直に)考えるでしょう。要するにわたしたちは、観念論と実在論が、実在と現象に分離する以前の物質を考察しようとしているのです。一旦哲学者が物質を二つのものに分離してしまった以上、それを白紙に戻すのは確かに難しいかも知れません。しかし読者にはそうした既成事実を頭から消し去ってもらいたい、というのがわたしからの要望です。もし第一章を読んでわたしたちの主張のあれこれに異論が生じるようであれば、その異論は、二つの観点のいずれかに立ち戻ったことによって生まれたのではないか自問し、その二つの観点を脱却していただきたい。

バークリーが「機械論的哲学者達」に異を唱え、物質の第二性質(色や香りなど)は第一性質(延長や形、運動)と少なくとも同程度の実在性を持つことを明らかにしたとき、哲学は一つの大きな進歩を成し遂げました。彼の誤りは、そのため(物質の第一性質と第二性質とが同等の実在性を持つため)には物質を(すべて)精神の世界に移し、それを純粋な観念にしてしまわなければならない、と思い込んだ点にあります。なるほどデカルトが物質を幾何学的延長と同一視したとき、彼が物質をわたしたちからあまりにも遠ざけてしまったことは否めません。しかし物質をもう一度わたしたちの手に奪回するには、何も物質を精神そのものと一致させる必要はなかったのです。バークリーはそこまで極論してしまったために、物理学が何故成功を収めることができるのかを説明することができず、デカルトが諸現象間の数学的諸関係を現象の本質そのものとすることができたのに対して、宇宙の数学的秩序を単なる偶然の産物と看做さざるを得なくなります。そこでこの数学的秩序を(合理的に)説明し、(バークリーの主張によって揺らいだ)わたしたちの物理学の基礎を固め直すためにカントの批判(哲学)が必要になりました。――もっともカントの批判はその成功と引き換えに、わたしたちの感覚と悟性の有効範囲を限定することを余儀なくされます。もしわたしたちが物質をデカルトが押しやった地点とバークリーが引き寄せた地点との中間に、つまり常識が捉えている場所にそのまま置くことにしていれば、少なくともこの点に関してはカントの批判は必要なかったでしょうし、少なくともカントが限定したようには人間の精神がその有効範囲を限定されることも、形而上学が物理学の犠牲になる(形而上学は不可能であるとカントが宣言する)こともなかったでしょう。わたしたち自身が目指しているのは、まさにそうした地点において物質を捉えることです。本書第一章においてわたしたちは以上のような物質の見方を確立し、第四章においてそこから様々な結論を導き出します。

とは言え最初に述べたように、わたしたちが物質の問題を扱うのは、飽くまでそれが本書第二章、第三章で扱う問題、まさに本書の中心となる問題、すなわち精神と身体との関係という問題にかかわる範囲に限られます。

この(精神と身体との)関係は哲学の歴史において常に問題にされてきたものの、実際に考察が加えられたことはほとんどありません。「心身の合一」を何物にも還元できない説明不可能な事実として受け容れる説や、身体を漠然と精神の道具と看做す説(など理論の体をなしていない説)を除くと、心身関係に関する考え方には「随伴現象説」と「並行論」という二つの仮説くらいしかありませんが、この二つはどちらも事実上――つまり個々の事実の解釈においては――同じ結論に達します。実際、思考を脳の単なる一機能と考え、意識状態を脳の状態の随伴現象と看做す(随伴現象説)にせよ、あるいは思考の諸状態と脳の諸状態を、同じ原文の二つの異なる言語への翻訳と看做す(並行論)にせよ、どちらの場合も原理的には、現に活動している脳の中に入り込んで大脳皮質を構成する原子の変転に立ち会うことができれば、そして(心身の間で交わされるやりとりを解読する)精神生理学の鍵を手に入れることができれば、その原子の変転に呼応して意識内に生じるすべてのことを細大漏らさず知ることができる、という前提に立っているのです。

実を言うと、哲学者、科学者を問わず最も広く信じられているのはこの仮説です。しかし事実を先入観なく分析した場合、本当にこの種の仮説が示唆されるかどうかは、慎重に見極める必要があるように思われます。意識状態と脳との間に、密接な関係があることに疑問の余地はありません。しかし例えば、上衣とそれが掛けられている釘との間にもやはり密接な関係はあります。というのも釘を抜けば上衣は下に落ちるからです。だからと言って、釘の形は上衣の形を表しているとか、釘の形から何らかの方法で上衣の形を予想することができる、などと言う人がいるでしょうか。同様に、ある心理状態(上衣)が脳のある状態(釘)に掛けられているからと言って、片や心理的な、片や生理的な二つの系列の「並行関係」をその事実から導き出すことはできません。並行説は科学的データに基づいている、と哲学が考えるなら、紛れもない循環論に陥ることになります。何故なら意識と脳との間に密接な関係があるという単なる一事実を、並行説という一仮説(それもわたしに言わせれば矛盾だらけの仮説)に沿って科学が解釈するのは、意識的にせよ無意識的にせよ、(ひとえに)哲学的な理由に基づいているからです。換言すると、科学はある種の哲学によって、並行説以上に確からしく、並行説以上に実証科学にとって有益な仮説はない、と事ある毎に吹き込まれてきたからです。

ところで、この問題を解決するための確かな道標を事実から得ようとすれば、わたしたちは自ずと習慣を含めた記憶機能の領域に連れて行かれます。これは誰にでも容易に予想し得ることです。何故なら記憶は――わたしたちが本書で明らかにしようとしているように――まさに精神と物質が交叉する点を表しているからです。もっとも理由についてあれこれ考えるまでもなく、心身の関係に何らかの光を投げかけることのできるようなすべての事実の中で、記憶機能に関する事実が、正常な状態のものであれ異常な状態のものであれ特に重要な位置を占めていることは誰の目にも明らかでしょう。単にそれに関する記録が豊富であるばかりでなく(蓄積された失語症に関する症例記録だけでもどれだけ膨大な量に上るか想像してみていただきたい)、解剖学、生理学、心理学が一致協力してこれほど成果を上げている領域は他にありません。心身の関係という伝統的な問題を先入観なく事実に立脚して検討すれば、この問題が記憶機能の問題、とりわけ言葉の記憶機能の問題に収斂していくことが容易に見て取れる筈です。その一点からきっと、この(心身の関係という)問題の極めて不明瞭な側面を照らす光が差し込んでくるに違いありません。

わたしたちがこの問題をどのように解決しようとしたか、それはこのあと(本文中に)見られる通りです。一般に心理状態は、ほとんどの場合脳の状態から大きくはみ出しています。つまり脳の状態は心理状態のごく一部、空間における身体の運動に翻訳し得る部分を表示しているに過ぎません。複雑な思考が一連の抽象的推論として展開される場合を考えてみましょう。この思考とともに数々のイマージュ、少なくとも形をなしつつあるイマージュが意識に表象されます。これらのイマージュそのものが、今述べたようにそれぞれイマージュの表象として意識に現れる(イマージュとして意識に表象される)のと同時に、それらのイマージュが空間の中で自らを演じるための(準備的)運動――言い換えると、身体に(その運動に移行するのに必要な、状況に応じた)あれこれの態勢を刻印し(態勢を取らせ)、それらのイマージュが潜在的に含んでいるすべての空間的運動を準備する(橋渡し的な)運動が、下描きとか傾向という形で例外なく描かれます。展開される複雑な思考のうち、脳の状態が刻々と示しているのはまさにこの運動(の図式)なのです。脳の内部に潜入し、そこで生起していることを逐一観察できる人がいるとすれば、その人は恐らく、下描きされ、準備されたこれらの運動について十分な知識を得ることができるでしょう。しかし彼がそれ以上のことを知ることができる、と判断できる根拠は何もありません。仮にその人が超人的な知性を持ち、精神生理学の鍵を持っていたとしても、脳の状態に呼応して意識の内に生起することに関しては、例えば舞台で劇を演じている役者の所作だけを見て戯曲の内容を推し量るのと同じように、ごく限られたことしかわからないでしょう。

要するに精神と脳との関係は一定不変というわけではなく、また単純なものでもないということです。演じられる戯曲の性格によって、役者の所作が(その戯曲の内容を)雄弁に語る場合もあれば、ほとんど何も語らない場合もあります。パントマイムの場合、(パントマイミストの所作は彼が伝えようとすることの)ほとんどすべてを語っているのに対して、複雑な内容を持つ喜劇の場合、(役者の所作はその喜劇の込み入った内容について)ほとんど何事も語りません。同様に脳の状態も、わたしたちの精神活動を行動として外在化させるか、それとも純粋な認識として内在化させるかに応じて、精神状態を含む度合いが異なります。

したがって精神活動には高低様々な音調のごときものがあり、生活への注意力の程度に応じて、行動に近づいたりそこから遠く離れたりしながら、わたしたちの精神活動は様々な調子で演じられている、と言うことができます。これが本書を導く考え方の一つであり、わたしたちの仕事の出発点となった考え方でもあります。一般に心理状態の複雑化と看做されているものは、わたしたちの観点からすると、わたしたちの人格全体の膨張に他なりません。普段わたしたちの人格全体は行動に集中する力によって圧縮されていますが、人格全体を万力のように締め付けているこの力が緩むとそれだけ膨張し、不可分のままより一層広い平面上にひろがっていきます。そしてまた、心理活動そのものの混乱、精神的秩序の喪失、人格の病などと一般に呼ばれているものは、わたしたちの観点からすると、心理活動とそれに伴う運動との連帯の弛緩あるいは悪化、外的生活に対するわたしたちの注意力の変質あるいは減退に他なりません。このような主張は、本書を初めて刊行したとき(1896年)、言葉の記憶の局在論を否定し、局在論とは全く別の視点から失語症を解明しようとした試みと同じく逆説的なものと判断されました。今日では様相が一変し、逆説的という評価はすっかり影を潜める一方で、当時すでに確立されたものとして誰からも認められ、絶対的なものと目されていた失語症に関する定説は、ここ数年、厳しい批判にさらされています。それらの批判は主に解剖学の観点に基づくものですが、中にはわたしたちがそのときすでに打ち出していた観点と同じ心理学的観点に基づく批判も見られます。またピエール・ジャネ氏は、近年、神経症に関する深い独創的な研究において、わたしたちとは全く異なる道を通って、すなわち様々な「神経衰弱的」病態を検討することによって、当初形而上学的仮説に過ぎないと看做されていた心理的「緊張」や「現実に対する注意力」に関するわたしたちの考察を取り入れるに至っています。

実を言えば、(「緊張」や「現実に対する注意力」という)それらの仮説を形而上学的と評することは必ずしも間違っていたわけではありません。心理学も形而上学も、ともに独立した学問であることは当然だとしても、この二つの学問は相互に問題を提出し合うべきであり、ある程度まではその解決に協力し合うことができるとわたしは考えています。心理学が人間精神のうち、人間の活動に役立つように働く側面を研究対象とする一方で、形而上学が有用性という行動の制約から自らを解放し、純粋な創造的エネルギーとして自己を取り戻そうとする同じ人間精神の努力に他ならないとすれば、どうして両者が協力し合わない筈があるでしょうか。二つの学問が問題を提起する言葉の字面にこだわっている限り互いに無関係としか見えない多くの問題も、この(「緊張」や「現実に対する注意力」という言葉の)ようにその言葉の内的な意味を探っていくと、相互に極めて密接な関係にあり、解決し合えるものであることに気付く筈です。わたしたちもこの研究を始めたときには、記憶の分析が、物質の存在や本質をめぐって実在論と観念論との間で、あるいは機械論と力動説との間で論争になっている問題と何か関係があるとは予想だにしていませんでした。しかし現実にそれらの間には関係が、しかも密接な関係が存在します。この点を考慮すれば、(心身の関係という)形而上学上の難問の一つは観察の領域に移され、弁証の世界に閉じ籠もった学派間の際限のない論争の種となる代わりに、漸進的な解決が期待できるものとなるに違いありません。本書のいくつかの箇所が複雑なのは、こうした角度から(つまり観察可能な領域において)哲学を捉えるとき、問題が錯綜するのを避けることができないからです。しかしこの混乱は現実の複雑さそのものに由来するものであって、以下に述べる二つの原則、わたしたち自身にとっても研究の導きの糸となった二つの原則を手放さない限り、難なくそれを乗り切ることができるでしょう。その原則とは、第一に、心理学的分析は、本質的に行動へと向かうわたしたちの精神機能の功利的性格を絶えず念頭に置いて進められなければならない、ということです。第二に、行動の領域で身に付いた習慣は純粋な思惟の領域に上っていき、そこで様々なにせの問題を生み出しているがゆえに、形而上学はまずこの種の人為的な不明瞭さを一掃しなければならない、ということです。
(本質的に行動へと向かう精神機能とは、別の言葉で言えば空間の直観でしょう)

(つづく)

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