画竜点睛

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「ジェノサイド」(25)

2013-05-25 | 雑談
ベルグソンは単刀直入に次のように答えます。「因果法則に対するわれわれの確信の獲得はわれわれの視覚印象の漸進的整序ともっぱら一致すると」。

子供の目が外界に向かって開かれるとき、その目は様々な色彩と変化する不定形な対象の形とを知覚します。視覚は徐々に触覚を伴うようになります。「子供は一つの形を知覚すると同時に、その形を把握するための、またその形の輪郭に触れるための努力をする」のです。このように視覚が触覚へと延長することによって、子供にとって色と形とは見かけ上抵抗にまで延長するようになります。「さらに、ある一連の一定の触覚印象は一定の視覚的形に対応している」ことから、ある視覚的形が現れるとき、それに対応する一定の触覚印象を期待するという習慣が形作られます。しかしそれが単に受動的期待にとどまるものならば、それによって悟性を揺り動かすような強固な習慣が形作られることはないでしょう。「さきに指摘したごとく、現象がわれわれの視覚経験の中で規則正しく継起することはごくまれなことであり、たとえこの継起が頻繁であったとしても、それはわれわれにとって決して動的関係の形式を、ましてや必然的関係の形式をとるもの」ではないからです。ここで問題となっている現象は、第一の現象から第二の現象への移行に際して人間の能動的な行動が、つまり対象の輪郭を辿るか抵抗を感じようとするためになされる運動が介入してこなければならないような現象です。このような努力が不断に行われていることは以前「夢」の中で見た通りです。だとすれば、この不断の経験において「視覚的形から触覚的印象を汲み取りに行く」行為の一部を視覚的形自身に帰し、「外的対象(われわれにとっては、何よりもまず視覚的対象であるが)が、言葉の動的な意味で、触覚的印象の原因である」と考えるようになるのも自然の成り行きではないでしょうか。このようにして現象間の因果関係は人間の意志的な行動にも比すことの可能な、「第一の現象による第二の現象の能動的産出」と看做されるようになり、視覚印象と触覚印象との対応関係の不変性のゆえに、その能動的産出は必然的なものと看做されるに至るのです。とはいえこの視覚印象と触覚印象との間に設けられる対応関係の不変性は、それ自体では必然性の根拠とはならない点に注意しましょう。同じ事の繰り返しになりますが、「継起する二つの現象の純粋かつ単純な反復」が必然的法則の観念を暗示することはないからです。もう少し具体的に考えてみると、「視覚印象の触覚印象への絶えざる延長」は、視覚印象と触覚印象を連結し視覚印象の延長を可能にするもの、つまり運動習慣の創造なしには行われません。必然的法則の観念が生まれるために不可欠なのは、不変性と同時にこの運動習慣の創造です。「われわれの神経組織は、中枢を媒介として知覚器官に結びつけられた運動のメカニズムを構成するために作られている。これらのメカニズムは、ひとたび準備されると、行動に移る傾向を持つ」。視覚的形を知覚しつつ次に来る触覚印象が何であるかを予測できるのはこの自動機械(運動機構)のおかげであり、これらのおかげで「視覚的形の輪郭をたどるために行なわねばならない運動」をあらかじめ内面的に素描することができるのです。「視覚的形の実際の認識(再認)はとりわけこれらの運動傾向によってなされること、またこれら運動傾向の獲得が感覚の訓練の主要な目標であること」は、すでに「物質と記憶」で詳しく論じられています(これについてはあとで触れます)。このことは、ある一定の視覚印象にある一定の触覚印象を連結する操作が任意の連合作用、任意の習慣ではないということの何よりの証拠でしょう。「それはわれわれの生命に欠くことのできない部分をなしている習慣であり、それはわれわれの身体全体が関心を抱く操作であり、われわれの神経組織の根本的能動性――なかんずく感覚運動性である能動性――が目ざす操作」なのです。科学の誕生以前、というより知性の誕生当初、「原因」に該当するのがこの視覚印象であるとすれば、「結果」に該当するのがこの触覚印象です。身体の感覚運動機構の能動性がこの「原因」に「結果」を結び付けるという意味で、「原因の結果への動的関係」あるいは「原因による結果の必然的決定」は思惟される以前に身体によって感じられ、体験されるのだと言うことができます。

因果律への確信の起源はおおよそ以上のようなものですが、対象の視覚的形と身体との偶発的接触の間に安定した関係が築かれたあとは、同じ関係が今度は視覚的形と身体一般との可能的接触との間にも立てられるようになったと推測できます。さらに人間の身体も他の対象と同じ一つの対象だと考えると、外的な対象同士の接触にも身体と対象が接触した場合と同じような原因と結果の間に設定される動的な意味が、つまり対象が感覚運動機構の能動性を刺激し、それを媒介として期待された必然的反応を引き起こしたのと同じ動的な意味が付与されるでしょうし、結果として引き起こされた運動も必然的なものと看做されるでしょう。因果法則では「すべての対象は原因である」とされます。それは単に、「一定の視覚的形はすべて接触や抵抗や一定の衝撃へと延長しうる」ということ、「最初の項と第二の項との間の関連はわれわれの視覚感覚とわれわれの運動との間の関連と同じもの」であるという無意識の思想を表明しているに過ぎません。自由な因果関係の観念から決定的因果関係の観念への移行がどのように行われるかをここでもう一度簡単にまとめて置くと、まず継起と共在という側面に関しては、「一面において原因は結果に先行するが、他面において原因は働きかける力であり、したがってそれが生み出す結果に現前しているので、原因はまた結果と同時のもの」とされます。次に自由と必然性という側面に関しては、もともと原因と結果を媒介したのは運動の能動性ですから、原因の結果との関係はその起源においては自我と行動との関係に類したものだったと考えられます。しかし他面、「われわれの運動の能動性はそのとき、触覚印象の視覚印象への規則的対応によって規則的に作用するメカニズム」を構築する過程で自らも規則性を帯び、最終的に必然性を帯びる事態を避けられません。こうして、原因の能動性を性格づけているのが規則性や必然性であって、意外性や自由ではない理由がわかるのと同時に、互いに対立し合う諸性格が何故外的原因に対しても付与されるのか、また「通常の知性の中で、これらの対立がいかにして和解し合うか」が理解されます。

もちろん現実の過程はこれほど単純なものではなく、説明を完全なものにするためにはもっと細かい点にまで目を配る必要があるでしょう。さしあたりここでは二つの点を指摘しておきます。

一点目は、視覚に限らずあらゆる感覚の訓練が「われわれのうちに因果性への確信を植えつける」役割を果たし得るということです。この報告では特に視覚の例が取り上げられていますが、それは感覚の訓練――ある感覚と期待された印象との整序――と言えばほとんどの人にとって視覚の訓練を指しているからです。しかし生まれつき目が見えず、視覚の訓練ができない人であっても、視覚の代わりとなる感覚の訓練によって因果法則に達することは可能でしょう。目の見えない人にとって視覚の代わりとなるのは触覚(聴覚もそうかも知れませんが)です。目の見えない人は触覚によって物体を認識する習慣を形作ることによって、ある既知の対象の輪郭を手さぐりした瞬間それを認知することができるようになります。このことは、対象への最初のタッチがそれに続く触覚印象を暗示することを意味しています。言い換えると、触覚の受動的印象が習慣を媒介として適切な運動傾向を決定することを意味しています。したがって視覚の場合と同じように、ここにも「原因」と「結果」に当たる二つの系列が存在します。すなわち「(1)受動的感覚的印象と、(2)習慣から発して、新しい感覚的印象――今度は予測され、期待された印象――へ言わば向かう運動傾向」です。因果法則への確信の獲得がこの二つの系列の相互調整によって行われる点では、触覚の訓練も視覚の訓練と何ら変わりません。

二点目は「体験された必然性」から「思惟された必然性」への移行に関してです。これは「自由な因果関係」から「決定的因果関係」への移行と似ていますが、両者は全く別のものです。「自由な因果関係」や「決定的因果関係」の観念は原始的知性や常識の範疇に属するのに対して、「思惟された必然性」は科学の範疇に属するからです。実際、因果法則への確信は人間のみならず高等な動物でも持ち得る確信であり、「思惟されたと言うよりも体験された確信」です。しかし「この確信を反省することは人間に、そして人間にのみ属すること」であって、因果法則本来の意味での表象が生まれるのもこの反省からです。「一度形成されたこの表象は、その起源がよりよく見わけられるにつれて、ますます純化されるであろう。科学は因果性に閉じこめられていた動的要素を、少しずつ、因果性から除いて行くであろう。原因の結果への関連は、かくして、原理から帰結への関連に、あるいはもっと適切には、互いに関数関係にあるときの二つの変数を結びつける関連に、すきなだけ近づくであろう。そして、因果性はますます厳密な、ますます数学的な必然性の意味を含んで行くであろう」。

「身体によって体験された必然性から精神によって思惟された必然性へ」の移行は、こうして水面下で感知できないほど少しずつ進行します。「経験論の(またしばしばその反対者たちの)誤りはこの二つの必然性の間に、すなわち生と科学との間の中間に身を置くこと」です。経験論が原初的と信じる経験は、身体の努力によってすでに開拓された経験、「もはやわれわれの物質的要求にかかわりをもた」ず、さりとてまだ反省の対象にもなっていない経験、「創造的進化」の比喩で言えば土地の区分けの終わった経験です。それはまだ完全に科学ではありませんが、もはや始原の生ではありません。「第二の必然性(体験された必然性)を説明するためにはあまりにも主知主義的であるこの経験論は、第一の必然性(思惟された必然性)を根拠づけるには十分に主知主義的でない」のです。経験論が位置する場所より低いところから出発し、自己を超える高さまで自らを高めてはじめてこの二つの必然性を説明することができるのです。

この報告は1900年に発表されたものですが、扱われている主題が他に類を見ない点で貴重な文章ではないかと思います。といっても内容的に他の著作と重なり合う部分がないわけではなく、ヒントになる部分がないわけでもありません。それについてはおいおい述べるとして、文中に出てきた運動傾向(運動図式)による再認について説明を補足しておきましょう。

運動図式の説明はさしあたり必要ないと少し前に述べたばかりですが、前言撤回し、ここでは運動図式とは何かという点に絞って「物質と記憶」から必要な部分を抜き出すことにします。

例えば外国人二人がかつて一度も聞いたことのない言語で会話をしているところに立ち会っている場面を想像してみましょう。わたしの耳に届いているのは外国人二人が聞いているのと同じ音声です。しかしわたしが知覚するのは雑然とした騒音、あるいは何となく似通った音の連続であって、そこに何かを識別することも、それを復唱することもできません。ところが二人の外国人はわたしが聞いているのと同じ音の塊りの中に、子音や母音、音節を識別し、単語を明確に識別しています。わたしと彼らとの間にはどんな違いがあるのでしょうか。

「一つの言語を知っているということは、それを想起していること」(「物質と記憶」第二章・竹内訳。以下同じ)に他なりません。そこで問題は、ある言語の知識があるかないかによって、「知覚の物質的規定」の何が変わってしまうのか、同じ音声を聞いているにもかかわらず、ある者にはそれが意味のある会話として聞こえ、他の者には意味のない雑音として聞こえてしまうということがどうして起こるのか、という点にあります。まず指摘できるのは、単に外部からの刺激によって蓄積されていた記憶が呼び起こされるわけではないということです。何故ならいくら刺激を強くしても、つまり話している声をいくら大きくしても二人の外国人にとって会話がより理解しやすくなるわけではありませんし、わたしにとってそれが雑音にしか聞こえないという状況に変わりはないからです。結論を先に言うと、「ある単語の想起がわたしの耳に聞こえる単語[の音声]によって喚起されるためには、少なくとも、耳がその単語を[単語として]聞きとっていなければ」なりません。つまり「それらの音声がすでに分離され、区別されて、音節としてまた単語として知覚されて」いなければならないのです。このようなことが可能であるためには知覚された音声はどのように記憶に働きかけなければならないのでしょうか。「どのようにしてそれらの音声は、聴覚イメージの倉庫から、それらと重なりあう聴覚イメージを選びとる」のでしょうか。

外国語のみならずあらゆる言語に対して、母(国)語に対しても二人の外国人の会話を聞いているわたしと全く同じ状況に陥ってしまう人達がいます。それが言語聾の患者です。彼らのうちの何人かは正常な聴覚を保持しているにもかかわらず、人が話す言葉を理解することも、「それを分節して聞き分けることもでき」ません。このような症例の原因として、大脳皮質に記憶されている単語の聴覚想起自体の破壊や、皮質間あるいは皮質下における何らかの大脳の損傷などが挙げられてきました。後者については、大脳損傷の結果記憶が観念を喚起できなくなったのだとか、知覚が記憶に結合できなくなったのだ、とされるのです。しかし前者はその真偽はともかく曲がりなりにも原因の説明たり得ているのに対して、後者は何の説明にもなっていません。大脳の損傷によってどのようなプロセスが破棄されたのか、記憶が観念を喚起したり知覚と結合するプロセスとは具体的にどのようなものなのか、という肝心な部分の説明がまるごと脱け落ちているからです(その結果観念連合という根拠のない仮説に全面的に頼らざるを得なくなるわけですが)。結局先ほどの疑問を解決しない限り、この問題の決着はつかないということになります。

聴覚的印象と聴覚的想起をそれぞれ別個に考えていたのでは、いつまでもたっても問題の解決は望めないでしょう。しかし聴覚印象が身体の内に徐々に聞き取った声の発声を模倣しようとする運動を組織し、その運動が言葉の連続を分節したり主要な分節を際立たせてくれるのだとしたら、話は違ってきます。「この自動的に発動される内的随伴運動は」、最初は当然習いたてのダンスのように、各部分がばらばらでまとまりのない混乱したものでしかありません。それが繰り返され学習されるうちに次第に統率の取れたものになり、はっきりとした形を取るようになります。言葉を覚える途上にある幼児は、話しかけてくる人の身体に生じている運動の大掴みな特徴と方向性をその形象の中に見出すことができるようになるでしょう。こうして言語の習得の進展とともに、この形象、いわば発語の運動図式とでも呼ぶべきものが生まれつつある筋肉感覚という形で意識の中に展開されるようになります。言葉に耳を慣らすということは、したがって生まの声を意識の中で調整することでも、それを特定の記憶に結び付けることでもありません。それは発声に必要な筋肉の運動傾向を聴覚的印象に適合させ、その適合性を高め完成させることなのです。

何かの身体運動を身につける場合、まず全体的な動きを頭の中にイメージし、そのイメージ通りに体を動かしてみることから始めます。むろん最初からすんなりと全体の動きをイメージすることができる人はいませんし、イメージ通りに体を動かせる人もいません。このとき視覚的知覚が運動を連続的な全体として捉えているのとは対照的に、そのイメージを再構成しようとする身体の動きは多様な筋肉の収縮と緊張から成っており、自らの動きを自覚する意識も多様な運動感覚を含んでいます。つまり全体の動きを模倣しようとする身体の運動はそれ自身イメージの潜在的分解であり、身体の動きそのものが目的であると同時に自己分析の手段にもなっているのです。こういう意味からすると、結果から見れば単に失敗の連続でしかない試行錯誤は、身体運動や習慣を身につける唯一の方法であると言っても差し支えありません。この試行錯誤、すなわち反復と練習の目的は、全体に含まれていた運動の要素を取り出し、その一つ一つに動きの正確さを保証する自律性を与えるとともに、要素間の連携を確保することにあります。ただし反復とは言っても、決してそれが同じ事の繰り返しではない点に注意しましょう。反復の効果はイメージを分解し、次いで再構成することを繰り返すことによって、身体の知性に語りかける点にあります。反復は見過ごされていた細部に身体の注意を向け、身体が分割し、分類するのを助けます。何が本質的であるかを身体に強調して見せます。反復は全体的運動の中に、その構造を特徴づけている輪郭線を一つ一つ身体に見出させていくのです。この意味で、身体運動は単に観念的に理解されたときではなく、身体がそれを理解したときにはじめて完全に習得されたのだと言えます。

以上のように考えれば、話を聞いているときにそれに付随する聞き手の側の運動傾向が話し手の声の流れを分割(分節)している、という言葉の意味が自ずと理解されるでしょう。この運動傾向の特徴はどのようなものでしょうか。一般に、話を聞いている最中頭の中ではその話がそっくりそのまま再生されているのだと考えられています。もしそれが正しいなら、話せるようになった子供は聞き取った言葉を逐一繰り返すことができるでしょうし、ある外国語の一文を理解し単語の読み方を知っていれば、その一文を正確な発音で読み上げることができるでしょう。しかし現実は、それほど単純なものではありません。ある歌を聞き、歌詞とメロディーを覚えたとしても、即座にその歌を歌いこなすことができるわけではないのです。臨床的事実も、この日常的な観察を裏書きしています。運動性失語症の患者は人の話を聞いて理解することはできるのに、話すことができません。逆に言えば話すことはできないのに、人の話を理解することはできます。つまり運動性失語症は言語聾を引き起こすわけではないのです。――このことが意味しているのは、話を理解することと実際に口に出して話すことは全く別のものであること、運動傾向、運動図式と名付けたものは録音された音声のように最初から完成されたものではなく、完成のための土台あるいは下絵となるもの、大雑把な特徴だけを要約したものだということだと考えられないでしょうか。頭で理解するだけなら、本質だけ知れば十分です。それに対して身体の論理は暗黙の了解というものを許しません。すべての部分が明示され、それによって全体を再構成すること、すなわち「どんな細部も見逃さない完璧な分析と、どんな簡略化も許さない現働的な綜合」が身体にとっては必要不可欠なのです。したがって運動図式と実際に話された言葉との関係は、スケッチと描き上げられた絵との関係と同じです。生まれかけの筋肉感覚からなる図式がスケッチを提供し、実際に感得された筋肉感覚がそれに色彩と生命を吹き込んで絵を仕上げるのだと言えるでしょう。

残る問題は、この運動傾向がどのようにして生じるのか、それが常時発動しているものなのかどうか、ということです。言葉を発音する際、声の分節のために舌と唇が、発声のために喉頭が、呼気の流れを発生させるために胸郭筋肉が同時に活動しています。一つ一つの音節が発音されるごとに、脊髄と延髄の中枢であらかじめ構築された様々な運動メカニズムが協働して全体的に働いているのです。「これらの運動メカニズムは、心理=運動域にある錐体細胞の軸索の神経突起によって、高次の大脳皮質中枢群に結び付けられて」おり、この連結路を介して意志の命令が伝達されます。つまり要約すると、音節が発音されるごとに、しかるべき命令がしかるべき運動メカニズムに伝えられているということになります。様々な分節と調音の必要に対応すべく組み立てられたこれらの運動メカニズムは、しかしそれらのメカニズムを有意に活動させる原因(意志)によってのみ働いているのではありません。単語の聴覚的知覚にも連動して働いていることを明らかに示す事例があります。一つは、転落事故で自発的に話すことができなくなったにもかかわらず、他の人が話す言葉を正確に復唱できる患者の例と、もう一つは人の話を理解することは全くできないのに、最初の例と同じくそれを正確に復唱できる言語聾の患者の例です。この二つに共通しているのは、話しかけてくる人の声が患者に何らかの刺激を与えているらしいということです。そう考えなければ、自発的にか機械的にかはわからないにせよ、患者が言葉を復唱できることの説明がつきません。これは働いているメカニズム自体は通常のメカニズムと同じであるものの、単にそれが正常に機能しなくなったことに起因するもので、刺激は麻痺していた機能を一時的に目覚めさせているに過ぎない、と考えることもできるでしょう。ベルグソンもこの仮説を一応は首肯しつつ、「反響言語」と呼ばれる症例を説明しきれない点で疑義も呈しています。反響言語も失語症の一つで、上に挙げた言語聾の患者の例と同じく、話を理解することはできない一方で復唱だけは比較的よくできる症例を言います。ベルグソンが疑義を呈しているのは、反響言語では患者の復唱が純粋に機械的、無意識的な過程に基づいているように見え、自発的なものである可能性が極めて低いように見えるからです。仮にもしそれが本当に機械的な過程に基づいているのだとすると、正常な機能の麻痺や低下という仮説に逃げることはできず、言語の音声中枢と発話中枢を直結するような特別な過程が別にあると考えるか、聴覚に関わる感覚が意志の命令を待たずそのまま発話へと進展したと考えるほかはありません。ベルグソンは、真実はこの二つの仮説の中間にあるのではないかと考えます。患者の復唱は純粋に機械的な行動でも有意な記憶の喚起でもなく、聴覚的印象が発話運動へと延長される傾向の表出です。この傾向は意志の統率から外れてはいないものの、いつでも意志の代理となり得るもの、形をなす前の知性ともいうべきもの、通常の状態では聴覚的印象の顕著な特徴を示す枠組みの内的反復として現れるものです。先程から述べている運動図式とは言うまでもなくこの傾向に他なりません。

最初に例に挙げたように、言語聾の症例には聴覚的想起も聴覚的感覚も罹患前と何ら変わりなく維持されている例がいくつかあります。これらの症例も運動図式が損なわれたこと(感覚=運動機能の機械的障害)に起因するものだと考えれば、すべての面で納得できるのではないでしょうか。失われたのは記憶そのものでもなく、記憶を喚起する働きでもなく、知覚と運動のつながり、知覚されたものを分解、分節する働きです。言語聾の患者が聴覚的想起を維持している症例は多くありませんが、それらを仔細に見ていくと特徴的な事実に気付かされます。ある精神医は、聴覚には何ら問題がないにもかかわらず、どんなに大きな音であっても騒音に全く反応を示さない何人かの言語聾の患者の例を報告しています。これは多分、これらの患者においては音は聞こえていてもその刺激が身体の反応に結び付かない、聴覚的印象が運動にまで延長されることがないということでしょう。また別の神経学者は、時計の鳴る音は聞こえるのに、音が何回鳴ったかを数えることができない一過性言語聾の患者の例を報告していますが、これは一つ一つの音を分離して区別することができないことによるものだと考えられます。これに類似した例として、人の話や会話が雑音のようにしか聞こえないという患者の証言もあります。そして特に示唆的なものとして、言語聾の患者に音節を一つ一つ区切った上で単語を繰り返し聞かせた結果、話を理解できるようになったいくつかの事例が挙げられます。この最後の例は実際に症状の改善が見られた点で、非常に意味のあるものだと言えるでしょう。

運動性失語症が言語聾を引き起こした例が一つもないというのも、これまた非常に示唆的な事実です。話が理解できるということは、「それらの音声がすでに分離され、区別されて、音節としてまた単語として知覚されて」いるということです。したがってもし頭の中で話し手の言ったことなり自分の考えたことがそのまま再現されているのだとしたら、ある言語や物事は理解された瞬間から(何の訓練も経ずに)それを口に出して話すことができるのでなければなりません。実際には話すことができるためには訓練が必要であること、話すことはできなくても話を理解することができる人がいるという事実は、意識の中に展開されているのが言葉や思考の完全な再生ではなく、その要約であることを示しています。感覚の訓練が知覚を分解した上でその概略的な下絵、運動図式を組み立て、最後の仕上げとして実際に感得された筋肉感覚がその図式に色付けしていくのです。身体の持つこの自動的傾向は、知性の最初の現れでもあります。それが単に自動性に過ぎないとしたら、人によって異なった音程、異なった調子で話される言葉を混同せずに聞き分けることはできないだろうからです。「このような反復と再認の内的身体運動は、意志的注意というもののいわば前奏曲」であり、「意志的なものと自動化されたものとの境界線を成して」います。言い換えればそれは「経験を可能にする諸条件」を構成しているのです。

運動図式の概要がわかったところで、一旦話を整理しておきましょう。まず着目したいのは、ベルグソンが身体の論理とか身体の知性と呼んでいるものです。身体の知性に働きかけるためには、繰り返し何度も感覚の訓練を行わなければなりません。その結果身体の中には「過去の努力の総体とも言うべきもの」が「運動メカニズムという形で蓄積」されます。これら一連の試行錯誤は「低次の心理学的事実」(「エクリ・エ・パロール」所収の「心身平行論と実証的形而上学」)であって、「無意識の心理学的事実」(同上)ではありません(低次という言葉は、経験論が位置する場所より低い所にある、という意味に解すればわかりやすいでしょう)。「われわれがこのメカニズムを意識するのは、それが働きはじめるそのとき」(「物質と記憶」第二章・竹内訳)であり、この意識の働きもまた「一つの記憶機能」と言えるものですが、それが過去の努力を再発見するのは「もはや過去の努力を呼び出す想起=イメージのなかにおいてではなく、現下の運動を実現するのに役立つ[習慣という]厳密な秩序と体系性のなかにおいて」(同上)であるという意味で、つまりこの記憶機能は「われわれの過去を表象しているのではなく、われわれの過去を演じている」(同上)という意味で「無意識の心理学的事実」ではないのです。ベルグソンが自然的な幾何学とか体験された必然性と呼んでいるものは、すべてこの「低次の心理学的事実」を指していると考えられます。
(「低次の心理学的事実」という言葉と「無意識の心理学的事実」という言葉は、ベルグソンの学説が心身の関係を低次で無意識の機能によって規定するものだと或る学者が評したのに対して、自分が心身の関係を規定しようとするのは無意識の心理学的事実によってではなく、低次の心理学的事実によってであると答えたところから来ています。「低次の心理学的事実」であって「無意識の心理学的事実」ではないというのは「物質と記憶」第二章で論じられているものの性格をわかりやすく表しているように思われます)

「夢」の中で語られていた努力や「創造的進化」で語られていた土地の区分け、あるいは「物質の下位分割」、すなわち「感覚印象とそれを利用する運動」(「物質と記憶」第二章・竹内訳)とを関連付けるために行われる感覚器官の訓練は、何よりも有用性を目指しています。「(前略)われわれの実生活は限られた数の事物群のなかで営まれており、それらの事物群は、多少の差はあれ、繰り返しわれわれの前を通り過ぎてゆくものである。その一つ一つ一つの事物は、それが知覚されるのと同時に、さまざまな運動を少なくとも初動状態においてわれわれにうちに喚起し、その運動によってその事物にわれわれは対処しようとする。このような[知覚によって喚起される]運動は、反復されるなかで、それなりの身体メカニズムを創り出し、やがて習慣的状態に変化し、われわれがそれらの事物を知覚すると自動的にわれわれの側の態勢を決定するようになる。われわれの神経システムは、[第一章で]すでに指摘したことであるが、ほとんどそれを目的としていると言ってよい。向心性神経系は刺激を大脳に伝え、その刺激はたくみに自分の進むべき道を進んで、反復が創り出した運動メカニズムに伝達される。こうしてその場にふさわしい反応が生み出されて、環境との均衡が図られる。この環境との均衡は、要するに、順応と呼ばれているもので、それが生命の一般的な目的である」(同上)。こうして見ると、身体の運動はそれが現実的なものであれ可能的なものであれ、もっぱら物質を対象へと分割することを目的としていることがわかります。「現実世界のこの最初の下位分割が、直接的直観に対応するというよりも、ずっと多く生命の基本的欲求に対応するものであるとしても、この分割をさらに推し進めることで、事物をよりまじかに認識することがどうしてできる」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)でしょうか。有用性から離脱し、「直接的直観」に立ち返るためには、「現在の行動から身を引き離すことができなければならず、無用なことに価値を見出すことができるのでなければならず、つまりは夢見ることができるのでなければ」(「物質と記憶」第二章・竹内訳)なりません。そして「夢見るという、この特殊な努力をなすことができるのは、ただ人間だけ」(同上)なのです。「持続は、同一のものが繰り返される、連続していない一連の瞬間とは区別されるが、その区別のされ方は、実際は二通りに表現されなくてはならない。つまり一方では、《つづいてくる瞬間は、つねにそれに先立つ瞬間に加えて、この先立つ瞬間があとにくる瞬間に残した記憶内容を含んでいる》が、他方では二つの瞬間はたがいに集約され凝縮される。なぜならば、ひとつの瞬間は、他のひとつの瞬間が消えないうちはまだ現れないからである。したがって、二つの記憶がある。あるいは、分解できないように結合された記憶の二面がある。つまり、記憶内容としての記憶と集約としての記憶である。(結局、持続のなかにこのような二重性がある理由が問われるならば、おそらくその理由はわれわれがあとで検討する次のような運動のなかに見出されるだろう。それは、持続する《現在》が、それぞれの《瞬間》に二つの方向に分かれる運動である。そのひとつは過去へ向かい、過去へと膨張し、もうひとつは未来に向かって集約され、おのれを集約する運動である。)」(「ベルクソンの哲学」第三章)。互いに切り離すことのできないこの二つの運動がなければ、形作られるのは「機械的な反射運動を伴うだけの受動的な知覚」(「物質と記憶」第二章・竹内訳)、つまり対象の知覚だけでしょう。「明確な輪郭を持ち、[意識によって]再認された知覚が形成され」(同上)、その中に感覚的な質が保持されるためには、夢見るという特殊な努力、過去への飛躍が必要です。

次に自然的幾何学(自然的演繹)や自然的帰納に関して言えば、「因果性へのわれわれの確信の心理学的起源についてのノート」の中にそれを暗示する記述があります。例えば一定の視覚的形から一定の触覚印象を期待するという習慣の形成は、自然的帰納以外の何物でもないのではないでしょうか。「同じ結果は同じ原因に従っているという信仰」(「創造的進化」第三章・竹内訳)は結果への期待が必然性として体験されることに由来するのです。

一方すでに述べたように、「視覚印象の触覚印象(視覚だけには限りませんが)への絶えざる延長は運動の習慣の創造なくしては行なわれ」ません。この運動習慣が形作られる過程を考えてみましょう。最初にあるのは「知覚がそれに付随する確たる運動体系をまだ作り上げていない」(「物質と記憶」第二章・竹内訳。以下同じ)状態であり、最後にあるのは「付随する運動体系が確立されて、わたしの知覚をもはや必要としなく」なった状態です。その中間に「対象物は認知されているが、同時にその対象物が相互に連結された一連の運動体系を喚起し、この運動体系を構成する個別運動の一つ一つは他の個別運動と相互に制御し合っている」状態があります。この中間の状態とは、「感覚印象とそれを利用する運動とのあいだに」様々な関連付けがされ、反復されるごとにそれが強化されていく状態、と言い換えてもよいかもしれません。そして身体によって「どんな細部も見逃さない完璧な分析と、どんな簡略化も許さない現働的な綜合」が行われたとき、様々な運動メカニズムからなる運動体系が完成されます。このように考えると、運動体系とは位置とか数量とかの「われわれの行動性に対して最初に呈示される問題群」(「創造的進化」第三章・竹内訳)に対する解答であり、自然的幾何学とは身体に蓄積された運動メカニズムの総体(つまりはベルグソンが身体の知性と呼んでいるもの)だとは言えないでしょうか。自然的演繹と自然的帰納の違いで特徴的なのは、自然的帰納は動物でもできるのに対して、演繹したり概念を形成したり等質的空間を表象できる動物は存在しないという点です。これはおそらく、動物が構築できる運動メカニズムの数には限界があり、帰納するためには一定数の運動メカニズムがあれば十分であるのに対して、空間を表象するためには人間のように無限に運動メカニズムを構築することができなければならないからではないかと考えられます。

言うまでもないことですが、この「体験された」演繹と帰納から「思惟された」演繹と帰納との間には大きな隔たりがあります。前者から後者に移行するためには「運動の圏域から思考の圏域」(「物質と記憶」概要と結論・竹内訳)へと上昇し、次に運動の圏域へと下降することによって(つまり二つの圏域を往復することによって)自己を発見し直さなければなりません。これは一般化の出発点にある類似性が「感受され、体験される類似性であり、あるいは、自動的に演じられる類似性である」のに対して、「精神が[反省的に]立ち戻る類似性」は「知的に認知された、あるいは思考された類似性である」(以上「物質と記憶」第三章・竹内訳)のと事情は同じです。この往復の過程で「体験された」演繹と帰納の中に含まれていた動的要素が少しずつ取り除かれ、純化されていくのです。

そこでこの往復運動を辿るために、再び予定を変更して引き続き「物質と記憶」第二章の残りの部分を見ていくことにします。今まで見てきたのは知覚と運動のつながりによる自動的再認のプロセスですが、これから見ていくのは「知覚と運動のつながりの第二のタイプ」(「ベルクソンの哲学」第三章)の再認、注意的再認のプロセスです。このプロセスの中に見えるのは思惟そのものであるというよりも、思惟のうちの「演じうる部分」(エクリ・エ・パロール所収の「心身平行論と実証的形而上学」)でしかないという点にあらかじめ注意を促しておきます(つまり自動的再認と注意的再認は記憶機能あるいは想起のタイプの違いを表すものであって、記憶そのもののタイプの違いを表すものではありません)。

(つづく)

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