koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

Germanfreeks7・・・

2012年08月29日 19時42分12秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

これも結構前に組んだものとなりますが・・・。

独空軍戦闘機(WWII)メッサーシュミットBf109F-4(通称"フリッツ")。
東部戦線で活躍した第53戦闘航空団第5中隊長クルト・ブレンドレ大尉乗機です。
以前も述べましたが,基本的にWWIIの独機は,ライトブルーを基本色として,胴体と翼上面はダークグリーンとブラックグリーンの迷彩となっているのですが(内部はRLMグレー),この機体も前回紹介したものと同様に上面がアース系で塗装されています。
ウクライナとか白ロシアは赤土が多いのでしょうか・・・。

1つ前の量産型であるE型(通称"エミール")よりは垢抜けた感じではありますが,無骨なフォルムをよく捉えていると思います。
1/100ですし,中古品を買い叩いてきたものですので,不満はありません・・・。
いずれ,機首上方に瘤(ボイレ)が付いたG型(通称"グスタフ")組みたいですね。
Finemoldから1/72出ていたし・・・。

・・・で,長々と綴ってきたGerman Freeksも次回で1段落の予定です・・・。
お気に入りの1機を紹介できると良いのですが・・・。 

日記@BlogRanking


1,800ページ・・・

2012年08月29日 19時42分12秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

書き連ねたブログの原稿の総ページです。
ワープロソフト(私はある時代に一太郎を囓ってしまったので,Wordは苦手)の40字×40行をそのまま使っての結果です(ファイルの大きさは3.85mb)。
現在のブログ(本家)を始めたのが2006(平成18)年の8月ですから,丁度6年前ということになります(それ以前はMSNスペース-現World Pressで2年弱やっていました)。
つまり単純計算すると,6年で1,800ページですから年間300ページ平均。
1日1ページ書いていないということになります。
存外たいしたことない・・・と思いますが,やはり塵も積もれば山となるということなのでしょう・・・。


こうした自分のページをweb上に持つことに至った経緯については,確か以前述べました。
ICBMもといIBMのホームページビルダー(ver.7でした)を入手して,ワープロ感覚で骨子を作ってリンクを張って,後は無料でうpできる先を探していたところ(geocityとか),もっと簡単にwebサイトを持てるブログサービスなるものを発見。
フリーメールのアドレスさえ有れば,5秒でアカウントを取ることが出来ました。
後は,今に至る・・・という訳で,本家と分家の他にTwitterとmixi,facebookも併用しています。
虻蜂取らず・・・ではありますが・・・。


・・・ということで,毎日相も変わらぬ自己満足の駄文を全世界に向けて垂れ流している(汚い・・・)訳です。
多分,これからも全く変わらないと思いますので,改めてどうぞ宜しくお願いします。
日記@BlogRanking


夏休みの宿題・・・

2012年08月27日 19時33分51秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

分家のお題です。
どこかで聞いた記憶のあるお題だったので,昨年のブログを繙いてみると8月19日に同じ題名でエントリしていました。
内容も覚えておりまして,夏休み帳にまつわる芳しくない思い出を綴ったものでした・・・。
小学校の夏休みは,7月21日から8月25日までだったことを鮮明に覚えていますが,とにかく遊びまくったことしか記憶にございません。
昨年も書いたように,市内の小学校の先生方が編集した「夏休み帳」の他に高学年では「○年生のまとめ」といった厚い冊子が渡され,憂鬱さに拍車をかけたものです。
面倒くさいものはさっさと片付けて・・・とばかりに,朝6時に起きてラジオ体操に行き,帰宅後すぐ朝食を摂り,9時まで一応勉強してその2冊の宿題を7月中にやっつけて,8月は毎日のように遊びまくったことも書きました・・・。
そして,工作だけはやたら萌えたことも書きましたが,そのあたりは今でも変わっていません・・・。


中学生になると部活が忙しくなったのですが,中三の時はそれもなく勉強に専念・・・の筈でしたが,そんなことをするは筈もなく,後に視力を低下させる元凶となった読書三昧の日々を送りました。
書店で文庫本を買って読む楽しみを覚えたのも,この時期でした。


高校へ行くと,さらに部活の時間が大きなウェイトを占めることになり,高3の9月まで部活をやりました。
7時に帰宅して,8時~お昼過ぎまで勉強・・・という計画は立てていたのですが,それも勿論画餅に・・・。


一浪した末に入った大学の夏休みも,部活で消えました。
何せ体育会と変わらぬ内容でしたので(完全な縦社会でした),とにかくハードでした。
バイトして旅行して・・・などという所謂大学生して・・・などということはほぼあり得ませんでした(一応春に10日程休みはあったので,そこで旅行には行きましたが)。
宿題と呼ばれるものはありませんでしたが,4年生の時は卒論に向けての演習があり,結構な内容だったのですが,部活の合間を縫ってとにかく読書に勤しんだのがこの時期でした。
鴎外・漱石・武者小路に始まり,太宰治や石川達三,果ては獅子文六に吉川英治まで,純文学から国民文学まで読み漁りました・・・。
その結果,就職にも失敗・・・。
今思うに,やるべきことをきちんとやらなかったが故に,若いときの貴重な時間を私は多大に浪費してきたということでしょう・・・。


さて,では今年の夏休みは何をしたのか・・・。
家族で1泊2日で出かけて,模型を組んで・・・と小学生の頃と全く変わらない生活だということになります・・・。
小学生時代から全く進歩がない・・・というご意見はごもっともですが,永遠回帰・・・ということにしておきましょう・・・。


どうも夏休みの宿題からえらく乖離した甚だまとまりのない文面になってしまいました・・・(いつもか・・・)。
日記@BlogRanking


"Song of Norway"・・・

2012年08月22日 19時23分10秒 | 音楽

分家の伝言板では蘭さんとマニアックなやりとりを楽しませていただいております。
巡回中にその日聴いているお気に入りの楽曲について紹介しているだけなのですが,これがなかなか楽しく,毎日のようにお薦めの曲や演奏家を紹介し合っています。
その中に,グリーグのピアノ協奏曲イ短調がありました。


"Song of Norway"なるミュージカル映画が有り(71),ノルウェーが生んだ大作曲家であるグリーグの半生を綴ったものだそうです(未見)。
只,グリーグの楽曲は意外なことに我が国では知られていなくて,このピアノ協奏曲の他に,劇付随音楽「ペール・ギュント」(組曲版の方が有名?)ぐらいでしょうか・・・。
CD棚を漁ったら,「ホルベルグ組曲」と「抒情組曲」,「ノルウェー舞曲」が収録された1枚が出てきました・・・。
その中でも,やはりピアノ協奏曲のポピュラリティと叙情性は抜きん出ていると思います。


中でも,第2楽章がお気に入りでして,若い頃から休日に床に転がって昼寝をする際のBGMとして活用してきました。
心地よい午睡に入るには,このノクターン(夜想曲)風の楽章が実に最適でして,今尚かったるい夏の午後には活用しています・・・。
フィヨルドを見下ろす小高い丘には,短い北欧の行く夏を惜しむように花々が咲き乱れて・・・などという光景をついつい思い出します・・・。
随分前の夏(学生の頃),夏の終わりの信州を訪れて,フォッサマグナに沿って旧千国街道を歩いたことがありました。
小高い位置からは,日本列島の褶曲によって出来たという青木湖が美しく望まれ,その静かな湖面を見るうちに,不思議にもこの曲が脳裏に浮かんできたことがありました。
勿論,フィヨルドは海ですので,凄い矛盾を孕んだ妄想なのですが,以来夏のノルウェー
にはある種の憧れを持ってきました・・・。
残念ながら,同じ北欧でもフィンランドの上空を通過したことは2度程ありますが,ノルウェーには全く縁が無く,せいぜいPCのデスクトップの壁紙を涼しげなフィヨルドの風景にすることぐらいに留まっております・・・。


・・・ということで,リンクを貼っておきます。
CD棚には,ルーマニア人のルプー(プレヴィン指揮ロンドン響のバックが神技的)とアメリカ人のペライア(ディヴィス指揮バイエルン放送響の美音が◎)という同年代(仲が良いらしい)のピアニストの録音が有りましたが,映像はユリア・フィッシャーなるドイツの閨秀です。
凄いことに,ピアノのみならずヴァイオリンの腕も第一級という敏腕で,1つのコンサートでピアニストとヴァイオリニストを同時に務めたそうです・・・。
ぜひ心地よい気分に浸って,北欧に思いを馳せてください・・・。


"il Porco Rosso"・・・

2012年08月21日 14時01分08秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

一昨日のエントリのサボイアS.21ですが,エンジン不調のためミラノへ整備に向かう途中不運なことに,伊系アメリカ人ドナルド・カーチスの駆るカーチスR3C-2改造戦闘飛行艇の襲撃に遭い,エンジン不調のため被弾して大破。
胴体のみがミラノのピッコロ社に送られます。
後は,映画を御覧になった方々には周知でしょうが,ピッコロ社の若き設計主任であるフィオ・ピッコロの主導の下に新しいエンジンと新設計された主翼を装備し,再びカーチスとの決着を付けるべくフィオを伴ってポルコは再びアドリア海へ戻るのでした・・・。


ま,映画自体が宮崎駿監督の飛行艇に対する愛着と毎度毎度のロリコン趣味,そしてダンディズムが炸裂したようなものと思われるだけに,私個人としては最近低調(と勝手に私が思うだけか?)なジブリの作品の中で大いに気に入ったものとなっています。
ま,二股かけているとか,格好付けているだけで付かず離れずの中途半端な男,という手厳しい批判が女性から多く寄せられているようですが,男とは身勝手な生き物・・・という生き方を標榜・具現化している私としては,「ラピュタ」,「トトロ」と共にジブリのベストと思います。


前期型との相違というか改修部分は,まずエンジンがイゾッタ・フラスキーニ・アッソ(ライセンス生産はイスパノ三菱)から同じく水冷V角12気筒(かつてのフェラーリF1を思い出す)のFIAT.AS-2(フォルゴーレ)に換装。
これは劇中にも出てくるシュナイダートロフィーでカーチスに対抗すべく(カーチスR3C-2の心臓であるV-1400に比しても100馬力のアドバンテージ)フィアット社が威信をかけて開発したものです。
したがって,ラジエターの位置も両側から下部に変わり,プロペラプレートも幅広くなりました。
目立たないところでは操縦性向上を目指して,主翼の昇降舵に小型のトリムタブが追加。
離着水の際のナーバスな動きにも対応します。
そして,何と言っても機関銃を1丁下ろして新設されたフィオ用の簡易座席と風防の追加です。
カーチスとの戦闘の際は,何と単発機銃だったとてうことです。
その分軽くなったという・・・。


製作はS21と同時進行させました。
何せ塗装が同じですから。
只,同じモンツァレッドでもS.21が深紅なのに対して,このS.21Fは若干橙がかったようにしました。
これはフェラーリF1が光線の関係で深紅にも橙にも見えるのがイメージとして有ったからです(昨年鈴鹿で見た際は,美しい深紅でした)。
水平尾翼の支柱やコクピット左の燃料ポンプ等細かい部品が多く,最近細かいものが見えにくくなってきた私としてはしんどい作業でした。
何と言ってもデカールのひび割れが一番厄介で,補修作業を要しました・・・。
ポルコとフィオのフィギュアも塗装しましたが,どうも後者は出来がいまふたつで,載せると風防が取れてしまうので,泣く泣く部品入れに収納。
付属の1/48のポルコも飛行帽をカーキに塗るのを忘れてしまい,かつて1/35のミリタリーフィギュア(子どもの頃目玉を入れて鼻穴を入れるのが流行った・・・)が苦手だったことを思い出しました・・・。


クライマックスは,何と言っても水際での殴り合いのシーンでしょうか。
「この腐れ豚が・・・」(cv.大塚明夫)
「カウボーイ野郎が・・・。牛のところへ帰れ」(cv.森山周一郎)
で大笑いしました。
そして,一瞬ポルコにかけられた魔法が解けた瞬間に・・・(感動・・・)


ここまで来たら,カーチスR3C-2改(作中ではR3C-0か)作るしかないですね。
模型は買ってありますが・・・。
飛行服と同様の濃紺と黄色は騎兵隊のイメージと宮崎監督は述べていましたが,つまりブルース(ブルーエンジェルス)カラーということですね。
ブルースの青って缶スプレー出ているのかな・・・。
手塗りは勿論,簡易エアブラシ引っ張り出すのもかったるいし・・・。
どうも汚しがうまくいかん・・・
風防厚すぎた・・・
フィギュアの塗装技術は中学生以降進歩しとらん・・・
エンジン形状の違いが・・・分からん・・・


庭仕事・・・

2012年08月20日 19時41分33秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

本当は,昨日の根多の続きを用意していたのですが・・・
本日の出来事が強烈・・・というか,ふらふらになるような状況だったので,敢えて掲載します。
実質お盆休み最終日の今日,誰もいないのを良いことに,庭仕事をしました。
今までサボって伸び放題だった芝草を半日かけて刈りました・・・。
昨年まで使っていた手動式の芝刈り機が逝ったので,電動を購入。
本当は松下製が欲しかったのですが,生産中止。
家電と違って数が出るわけではないので,っさりと見切りを付けたということでしょう・・・。
だったら,どのメーカーでも良し・・・ということで,値段と口コミを秤にかけてオンおラインで注文。
\7,980だから文句はありません。
折しも,太陽高度が上がり一番焼け付く時間。
ヘッジトリマーで際刈りをしてから芝刈り機を動かし,熊手で草を集める・・・。
3回,芝刈り機がブレーカーのせいで自動停止し。
都度クーリングして,ようやく3時過ぎに終了。
さすがにへろへろで,遂に今夏初のエアコンを回しました(ガスが抜けないように月に1回は回していたのは除きます)。
さて,どれぐらい違ったか,如何に今までが酷かったか,ぜひ画像を御覧ください。
自然のままにするイングリッシュガーデンだ・・・などと嘯いていましたが,さすがにここまで酷くなると,そうも言えなくなったという・・・。

                                                      

日記@BlogRanking


雲海のサボイア・・・

2012年08月19日 16時00分56秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

久々のスケール物・・・と思いきや,これは多分ガンプラなどのようにキャラクターものに分類されるのでしょうか・・・。


イタリア海軍試作戦闘飛行艇サボイアS.21。
FineMold製1/72の歴としたスケールモデルキットです。
え゛,独機フリークじゃなかったのか・・・と思われる方も居られるでしょうし,オリンピック以来のUKフリークはどうした・・・とも思われることでしょう。
サッカーも音楽もF1も,ラテンは好みではない・・・と豪語して憚らない私が,何故敢えてイタリア製の古典機に類するものを・・・となりますが,何のことはない92年のスタジオジブリ作品「紅の豚」の主人公であるポルコ・ロッソの乗機なのです。
最初のキャラものでは・・・というのは,こうした理由がある訳です。


サボイアS.21という飛行艇は実在するのですが,実はもっと古めかしい形をしています。ですから,このS.21は宮崎駿監督の手になる「飛行艇時代」(私も買いました)とアニメ映画の中だけのもの・・・ということにはなりますが,サボイア社のあるミラノ北郊のマジョーレ湖畔の街セスト・カレンデで1926年に製作され,マジョーレ湖で初飛行。
その後,イタリア海軍にS.58が採用されることになってお蔵入り。
それをミラノの航空機整備工場の ピッコロ社に技術資料として引き取られ・・・ということになっています・・・。
因みに説明書によると,水冷V12エンジンのモデルとなったのは,三菱イスパノ製ということに・・・。


機体上面は,フェラーリF1と同じモンツァレッド,下面とフロート下は船の甲板に使われるデッキタンかデサートイエローという塗り分けも簡単なので,すぐ完成するかと思いきや・・・。
これがとてつもなく大変でした。
何故か別部品になっている垂直安定板後ろ半分の方向舵がうまく填らない上にデカールの品質も今二つでひび割れを起こす・・・。
買ったのが確か1999年の2~4月頃なので10年以上前なのですが,保存が悪かったのかどうか・・・。


・・・ということで,組む前にイメージトレーニングとして「紅の豚」のDVDを引っ張り出そうとしたのですが,ネット上で幾らでも見ること出来るのですね。
便利な時代になったものです・・・。
当然BGMは,「紅の豚」のサウンドトラックです。
特に最初のトラック,映画では冒頭の客船を襲うマンマ・ユート団に対してポルコ・ロッソが出撃して鎧袖一触・・・という場面で流れたThe Wind of Time -When a Human Can Be a Humanを・・・。
とにかくこの映画,豚が滅法格好良い・・・。
「飛ばねえ豚は,只の豚だ」(cv.森山周一郎)
と,言いたくなります・・・。
お子様向けではなく,またジブリ作品の中で女性には至って評判が悪いようではありますが・・・。

つや消しコート噴いたら粉を吹いたので,上から半光沢を。てかってしまった・・・風防の透明度の悪さが・・・台車が付いとった・・・こんな風に飾るのか・・・にしても,発色悪い・・・


南羽州紀行,2012-其之参 グルメ編

2012年08月18日 14時26分20秒 | グルメ

山形の名物と言えば何と言っても蕎麦です。
旧村山郡から旧最上郡にかけての最上川一帯は,舟運とともに蕎麦作りが盛んでした。
山形県内を南北に貫く国道13号線と最上川を挟んだ対岸(西岸)には国道347号線が走りますが,河北町から大石田町にかけては「そば街道」と呼ばれ,名物の蕎麦を食すことが出来ます。
随分前になりますが,故里である庄内からの帰途村山市の碁点温泉で,名物の板蕎麦を食したことがあります。


また,山形県内各都市は現在ラーメン立国もしています。
昨年紹介した米沢ラーメンなど最たる例ですが,米沢以外だと赤湯(南陽市),上山,酒田等には独自のwebページも有りますし,鶴岡,新庄といった諸都市でもご当地ならではのラーメンを食すことが出来るようです。
・・・で,前の晩リサーチしていった結果http://www.hotpepper.jp/strJ000291352/に行くことに。
何と定食屋さんですが,ラーメンもいろいろあるしメニューの豊富さも魅力。
宿から程近いし,夕食には持って来い。
さらには,上記サイトからクーポンをDLしたら,何とソフトドリンクが一杯ずつ付きました(250~300円)。
で,せっかくだからラーメンを・・・と思ったのですが,何せ日中水に入って消耗したせいか腹が空ききっており,どうしてもがっちり食べたくなって,私は邪道とは思いながら定食を頼んでしまいました。
これがまた実に美味で(画像参照),満腹かつ満足でした。
下の子がラーメンを頼んだので,ちょいと食してみたらこれがまたさっぱりしていて美味しい。
60年前から営業しているという老舗だそうですが,地域の方々に愛されてきたのがよく分かりました。


翌日の昼食は,
「昨日ラーメン食べたから・・・」
という下の子の一言で,蕎麦を食すことに決定。
只,名物の板蕎麦って,確かに美味ですが値段が高いという難点があります(1人1,000~1,200円ぐらい)。
ですから,ここは河北町名物である肉蕎麦(冷やし)を食す店に行くことにしました。
これなら,1食あたりラーメンと同じぐらいの値段で食すことが出来ます。
ところが何軒か回ったところ休業日だったり,莫迦混み(駐車場満車の上,店の前に行列)だったり・・・と,目を付けた2店がOUT。
ようやく3軒目に入った店http://umappu.com/ikkyuan/は駐車場も広く店の前に行列も無かったのですが,12時台だったので店内で10分程待たされることに。
他の3人は名物である肉蕎麦を頼みましたが,私は敢えて肉中華を注文。
で,周囲を見ると皆げそ天を食している・・・ということはこれは美味しいのでは・・・と思い,敢えて追加。
最初は,ざるそばや米沢名物の冷やしラーメン(ラーメンのスープをそのまま冷やしたもの)のような味か・・・と思いきや,温いスープ。
この温さが食感をそそります。
とにかく絶品でした。
肉蕎麦と肉中華はスープも異なり,どちらも最高。
げそ天を入れるとさらに・・・だったのは言うまでもありません。


・・・ということで,結びにしますが,今回は地方史の蘊蓄を語って食べ物について書いたので紀行文からは程遠いものとなってしまいました。
あとはしばらく遠出の予定も無いのが残念ですが,違う根多で明日からまた書ければ・・・と思います。
山形駅西口,お食事処「つばさ」のラーメン。すっきりした後味・・・。
生姜焼き丼。見た目も◎。
チキンカツ定。雑作のない料理だが,県内産地鶏を使用し極旨
私が食したカツ煮定。某所のカツ丼に匹敵する旨さ・・・。
全容はこんな感じ。ご飯の盛りも◎。味噌汁も旨し。
山形市下条町の肉そば処「一休庵」の肉そば。最高!!
同肉中華。絶品・・・!!
これも名物のげそ天。麺と合わせて◎
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南羽州紀行,2012-其之弐「最上騒動」

2012年08月17日 13時37分35秒 | 歴史

近世初頭,大名家に付きものと言えばお家騒動です。
幕府にとって,格好の外様大名取り潰し(改易)の口実となりました。
我が藩でも『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)の題材となった伊達騒動がありまして,加賀騒動,黒田騒動とともに三大お家騒動と呼ばれています。
但し,この三家は何とか幕末まで大藩として命脈を保つことが出来たのですが,前日から述べている最上家の場合は,命取りになってしまったのですかすら,目も当てられません。


芽は,山形藩初代義光の代から既にありました。
義光は秀吉在世中から抜け目なく家康に近侍し(秀次に嫁す予定だった駒姫を,助命嘆願虚しく斬られて秀吉を恨んでいたとも言いますが,小田原参陣のことといい,先を見る確かな目を持っていたのは間違いないでしょう),二男家親を家康の元に送っています。
家康は大層この家親を気に入り,義光としてもお家の安泰を図るためにも長男の義康ではなく,家親に家督を譲ろうと思ったことでしょう・・・。
父子の仲は以来険悪になっていきます。
慶長16(1611)年,義康が何者かに暗殺されます。
義光が手を下したとも,家臣が単独でやったとも言われ,今尚謎となっています。
義光は,義康が和解を図っていたことを知って大層嘆き悲しみ,3年後に失意の内に世を去ります。
後を継いだ家親は幕府との連携強化を図り,かつて豊臣家に仕えた経緯のある弟清水義親父子を大坂の役直前に誅殺します。
ところが大坂の役後の元和3(1617)年,家親が37歳で頓死。
猿楽を見ている最中のことだったようで,毒殺説が流れたと言います。
その結果,家親唯一の子である義俊が三代目の山形藩主となるのですが,若年にして文弱のきらいがあり,家臣が義光四男の山野辺義忠を擁立する派と義俊派に分裂するに至ったのです。
元和8(1622)年,義光の甥にあたる松根光広(義俊派)が老中酒井忠世に「家親の死は楯岡光直の犯行による毒殺である」と訴え出たため,忠世は訴えに基づいて楯岡を調べたが証拠は全くなく,騒動は一層激化しました。
騒動を重く見た幕府は,一旦最上領を収公し義俊には新たに6万石を与え、義俊成長の後に本領に還すという決定を下します。
しかし上記山野辺義忠と歴戦の士である鮭延秀綱は納得せず,「松根を重用する義俊に従うことは出来ない」と言上したことで幕府の態度は硬化。
同年,山形藩最上家57万石は改易となります。
義俊には新たに近江大森(現滋賀県八日市市-もとい東近江市-何で訳分からん町村合併するんか・・・怒)で1万石の所領を与えられました(後5000石に減封し高家となる)。
子孫は今尚大森に居られるということを,歴史ボランティアのご老人にうかがいました。それがせめてもの救いでしょうか・・・。


上記,山野辺義忠は岡山藩にお預けになった後で,水戸藩に仕官して家老となり,三大藩主となる光圀の教育係となりました。
また,松根光広の子孫は宇和島藩の家老に,楯岡光直は熊本藩に仕えました。
主君と家臣が一枚岩となっていなかった点が,最上氏の大名としてのアキレス腱になったようで,それは既に義光の時代からの特徴だったと思われます。
最上氏は村山郡から最上郡にかけて(丁度山形県中央部)根を張り,天童,東根,山野辺(山辺),楯岡,中野,上山・・・といった現在も残る地名から支族を排出しましたが,それら同族+地元豪族の集合体という中世的・室町幕府的な支配体系が殿様の権威を弱めることになったのでは・・・と思われます。


最上家か去った後の山形には,鳥居忠政(関ヶ原前哨戦の伏見城攻防戦で討死した元忠の子)が平藩より転封となりましたが,二代で改易。
次が会津藩祖となる保科正之,そして越前松平,奥平,堀田,大給(おぎゅう)松平,水野,秋元等,多くの譜代・親藩大名が山形藩主として,それこそぱっぱかぱっぱか移り変わっていきました。
そういうこともあって,山形市の街割りをした最上家は今尚市民に親しまれているのでしょう。
考えてみたら,東に伊達,南に上杉,北に佐竹と,外様の雄藩が控えているので,幕府としてもこの山形城を重く見たのでしょう・・・。


・・・ということで,本文とは全く関係ないのですが,斯波氏の祖である斯波家兼の菩提寺である光明寺と駒姫の墓所である専称寺を見てきました。
折しもお盆の中日で,墓参の真っ最中であり,迷惑だったことでしょう・・・(反省)。
特に専称寺界隈は寺町で,交通整理が出ていました・・・。
隣町のことなのに,意外と知らなかった最上氏のことが少し分かって,何となくお利口になった気分です(現金な奴・・・)。
次回は番外編となるのか,それとも相変わらずこのような駄文を垂れ流す(汚い・・・)ことになるのか・・・ 。
一応続きます・・・。
斯波家兼墓所光明寺
何と一遍上人像が・・・。時宗か・・・だとしたら多分初めてだ・・・。
光明寺本堂
斯波家兼墓所
専称寺の堂々たる山門。
立派な本堂。少々痛んでいるのが惜しい・・・
駒姫墓所へ。御殿堰が流れる。
駒姫は寺域の一番奥に静かに眠る・・・
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南羽州紀行,2012-其之壱「出羽の梟雄」

2012年08月16日 20時26分35秒 | 歴史

慶長5(1600)年9月の関ヶ原の役以降,幕府は東軍に付いた豊臣恩顧の大名を意外な程厚遇します。
そして,やがて2代将軍秀忠の代になると,幕府の策謀によって次々と改易(取り潰し)になっていくのですが,現在残る城下町の遺構は彼らによって築かれました。
例えば,我が街の街割りをしたのは独眼竜と呼ばれた伊達政宗でしたし,高知は山内一豊,福岡は黒田長政(現在の福岡市の由来は,長政父の如水が所縁の備前福岡-刀鍛冶で有名な長船の近く-から取った)が街割りを進めました。
これら3家は太平の世を260年間存えましたが,以下の大名家は改易となりました。
例えば,熊本の加藤家,松江の堀尾家,広島の福島家等です。
それぞれの改易事情を述べると,それこそとんでもない分量となるので自粛しますが,加藤,堀尾の両家は,今尚熊本と松江で慕われていると聞きます(少なくても熊本は,細川ではなく加藤でしょう・・・)。
で,山形の街割りを進めて,近世城下町を形成するに至った 最上義光(もがみよしあき)もどうやらその1人のようで,山形では今尚大切にされているようです・・・。


何せ山形県出身にも関わらず,伊達藩領で育った私ですので,最上氏や上杉氏といった隣県の大名に対する認識は極めて甘く,政宗母(義姫という諱が伝わっていますが,父や兄のから察するに眉唾ものかと思われます)が最上氏だったこと(弟藤三郎を家督に擁しようと小田原参陣の政宗を毒殺しようとしたとも),殺生関白と言われた秀次の側室に義光女の駒姫が居り,父の助命嘆願も虚しく秀次に連座して僅か15歳にして六条河原で斬られた(しかも輿入れ前だったという説も)ことぐらいしか知りませんでした。
あとは,東北の関ヶ原と言われた長谷堂城の戦いにて,退却するかねたんを追撃したことぐらいでしょうか・・・、。
ですから,せっかく山形に行くのだから,義光について少し学んでこようと思って出かけました。


調べてみると,さすが東北の戦国大名らしく,結構えぐい生き様です。
二回り年下の政宗と相通じるしたたかさを持った武将のようで,少なくても秀吉没後の混乱期を立派に生き残ったあたり,時節を見る目は持っていたと言えるでしょう。
例えば,小田原の役の際に宇都宮城において秀吉に謁見して本領を安堵されています。
政宗の小田原参陣よりも時期的には後ですが(政宗は,上述の母による毒殺騒ぎがあって,参陣が遅れた),抜け目なく家康に近寄っており事なきを得ます。
また,秀吉政権晩期の慶長大地震の際は(加藤清正が真っ先に駆けつけ,文禄の役の際に三成の報告によって秀吉に受けた勘気を解かれた所謂「地震加藤」とは真逆に),家康に近侍して,着々と後の世に対する布石を打っています。
また,隣接する小野寺義道を挑発し,謀略によって重臣を義道に斬らせるなど,結構なことをやっていますし,上杉景勝とは私の故地である庄内地方を巡って,度々争っています。こうした情勢での関ヶ原ですから,当然義光は東軍に付き,会津置賜120万石の上杉と対立します。
出羽の関ヶ原と言われる長谷堂合戦は,こうした中で行われました。
上記小野寺義道を牽制するために庄内地方に出兵していた義光には僅かの手勢しか残されていませんでした。
そこを2万と目されるかねたんの軍勢が押し寄せてきたのですから,本来はひとたまりもなく蹂躙されたところでしょう。
しかし,かねたんが包囲した山形城は霞がかかっていて攻めあぐね,長谷堂城は城将の奮戦もあり容易に落ちず(城兵は上杉軍2万余に対して4,000とも),義光の虎の子である2,000挺もの鉄砲を駆使して善戦します。
関ヶ原の敗戦の報が届き,上杉軍はかねたんの所領である米沢に向けて撤退を開始しますが,義光が黙って見ている筈がありません。
猛烈な追撃戦を展開したものの,後一歩でかねたんを討ち漏らしたと聞きます・・・。
因みに,同じく東軍に属する伊達軍は,義光の依頼によって留守政景以下3,000余の援軍を送りますが,戦局を見守るに留まりました。
このあたりは機を見るに敏な独眼竜のことですから,最上と上杉の双方が弱ったところを漁夫の利・・・と思ったであろうことは難くありません。
義光の只者ではないところは,この長谷堂合戦後に如実に現れています。
かねたんを追撃しただけではなく,上杉領の庄内地方・由利郡(秋田県南部)をどさくさに紛れて奪取し,勢いに乗り小野寺氏の横手城をも攻略。
さらには,秋田実季を東軍を裏切ったと讒訴して,常州宍戸へ追い出すことに成功・
上杉領(というか当時はかねたん領)の置賜郡を除く現山形県全土と平鹿郡・雄勝郡(秋田県南部)57万石という大大名となりました。


最上氏は,他の戦国大名とは異なり,源姓足利一族斯波氏族という歴とした血筋を誇ります。
つまり室町幕府の奥州・羽州探題であった斯波氏(現岩手県紫波郡出自とも)の流れを汲む源氏の名門でした(この点では甲斐武田氏と共通します)。
最上氏は南北朝時代の延文年間(1356 - 60)に奥州管領斯波家兼の子である斯波兼頼が出羽国按察使として山形に入部し点山形城を築城し本拠としたことに始まると言います。
守護大名の集合体であり,将軍とは言え足利氏の力がなかなか地方にまで及ばず,奥州や九州では南朝勢力が未だ蠢動している時期でもあり,それに対する幕府の布石であったということでしょう。
戦国期には伊達氏と争ったりして,一時勢力を落とすものの義守-義光の代に出羽の大名として躍進したことは上述の通りです。


一代の梟雄とも言うべき義光の墓所は,市内の光禅寺にありました。
亡くなったのは慶長19(1614)年。
同年暮れには大坂冬の陣が起こります。
今尚山形市民に慕われる義光の威徳は,山形城にほど近い最上義光記念館にて偲ぶことが出来ます。
ここにあった長谷堂合戦屏風には,武将の名前が細かく記され,暫し時間を忘れて見入りました・・・。
(最上氏の顛末までを書こうとしたのですが,力尽きました。明日続きを書けると良いのですが・・・)
最上義光記念館全景。内部は撮影禁止。義光菩提寺光禅寺本堂。堂々たる構え。○に二つ引き両の家紋は足利氏を示す。光禅寺庭園。桃山~江戸初期の小堀遠州式回遊庭園。義光墓所。隣に殉死した4人の家臣の墓も・・・光禅寺山門。ここにも二つ引き両が・・・
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夏の旅行・・・

2012年08月15日 21時22分36秒 | 旅行,および「鉄」

アイテム目当ての分家のお題です・・・。

お盆休み中は,受験生も居るし,何処行っても莫迦混みなので,今年はどこにも行かず・・・のつもりでしたが,それも味気なし・・・ということで,ようやく腰を上げたのが何と今月に入ってからでした。
安いビジネスホテル探して・・・と思ったのですが,やはり観光地を控えた主要都市は,当然のことながら既に予約がいっぱいで,周辺都市を探し始めた矢先に,隣県(というか隣町)の山形市ホテルのトリプルルームが取れました。
しかも小学生1名追加したら,アメニティー無しで無料。
本当にラッキーでした。
蔵王を控えていますし,上山(かみのやま)市や天童市の史跡巡りや名物である蕎麦やラーメンの食べ歩きもできます。
因みに,昨年同時期にも同じ町に泊まっており,そのホテルはほぼ隣同士でした。
新しいのは昨年泊まった方ですが,高級感は今回の方が有りました。
何せ地上24階建てでしたから・・・。


・・・ということで,明日以降は,今回の旅程での個人的収穫を掲載したいと思います。
何せ2日で200枚を超える画像を撮ったので,選定と加工が追いつきません。
少しずつ掲載できればよいのですが・・・。
まずは,宿泊地関連を・・・。
再開発地帯に建つ地上24階のビル。
灯点し頃・・・
実際はもっと暗い。ccdの威力・・・
上の画像と同じ場所
駅を眼下に・・・
地上24階から霞城公園(山形城趾)を・・・
市内北西を・・・。昨日食事した店が中央に・・・山形駅と市内中心部を遠望駅西再開発地帯。昨年泊まったホテルが・・・
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三角翼の老兵・・・

2012年08月13日 21時30分45秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

これも結構前に組んだものではあるのですが,続いている独機の合間に掲載します・・・。


コンベアF106Aデルタダート。
第159戦闘要撃飛行隊フロリダ州兵空軍(ANC)ジャクソンビル基地配備機。
例によって食玩の「センチュリーコレクション」なるシリーズの一作で,3機目のF106(通称シックス)となります。
食玩とは云え,全体のディテールが良く,素性の良いキットと言えるかも知れません。
只,胴体の筋彫りが甘く(主翼は良い),多少の彫り直しを余儀なくされました。
機首のピトー管は若干削りましたが,まだ太い印象です(これ以上は強度的に苦しい。以前ならピアノ線差したのだが・・・)。


F106の任務は,防空軍団(ADC)の主力戦闘機として米本国以外だとアラスカやカナダ,アイスランドに配備され,冷戦時代は旧ソ連の脅威に備えました。
それが以前ほどではなくなった70年代以降は,主に州兵空軍の主力として何とF15の配備が整ってしばらく経った87年まで現役でした。
確か初飛行が56年と記憶しているので,30年以上運用され続けた長寿機ということになります(我が国のF4EJやF15Jもですが・・・)。


50年代後半,とにかくより速く重武装で・・・というコンセプトのセンチュリーシリーズ(F100D,F101A,F102A,104G,F105F,そしてF106A)は,今こうして見ると実に味のある機体ばかりでまさに古き良き時代の強いアメリカを象徴していた・・・と言えるのかも知れません・・・。
F102デルタダガーとの最大の違いは垂直安定板の形状胴体断面も三角だ・・・サイドビュー。US.AIR FORCEのロゴが誇らしげ・・・
バックビュー。アフターバーナーの形状・・・センチュリーシリーズは,とにかく味のある機体が多い・・・
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現在他出中・・・

2012年08月12日 21時18分55秒 | 旅行,および「鉄」

お盆休み期間は混むし,今年は受験生も居るということで,どこにも行かないつもりで居たのですが,それも味気ないということで5日になってから空いている宿をオンラインで探したところ,奇跡的にhttp://www.yamagata-ekinishiguchi-wh.jp/が取れましたので,現在隣県(というか隣町)の県庁所在地にきています。
午前中ゆっくり出て,こちらhttp://www.yamagata-jaba.jp/に行き,疲れ果てた後でhttp://mogamiyoshiaki.jp/?p=topを見て,さらにhttp://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=882を見て,食事http://www.hotpepper.jp/strJ000291352/party/・・・と,結構濃い1日でした。
明日の予定は未定ですが,蔵王越えで帰る他はご当地ラーメン(本当は蕎麦なんでしょうけど)を賞味したいところです・・・・・。
見聞録はいずれ画像付きで書きたいと思いますが,今日だけで100枚以上撮影していますので,加工して掲載するのは果たしていつになることやら・・・。


明後日は,朝聖地に貼り紙して友人とナイター観戦。
その翌日は実家,そしてさらに翌日は仕事,そのまた翌日は飲み会・・・と,中1日で飲む用事が・・・。


Knightsbridge March

2012年08月11日 20時58分29秒 | 音楽

いよいよロンドン五輪も終盤。
金メダル獲得は5つと多くはないものの,各種目に於ける日本勢の活躍は目覚ましく,銀と銅だけで30個を越えるメダルを獲得しています。


以前も述べましたが,過去の数少ない海外体験のうち,観光で1度,トランジットで1度(チューリッヒに向かうのに直行便が取れず,ロンドン経由という無駄なことに・・・。但し結果的に良かった),ロンドンを訪れたことがあります。
「シティ」と呼ばれる旧市街の重厚な趣き,ロイヤルアルバートホール(映画「ブラス!」の舞台。期待した割に映画自体は??でしたが)やバービカンセンター(ロンドン交響楽団の本拠地)等のコンサートホール,トラファルガースクエアやピカデリーサーカスの賑わい,ボンドストリートやリージェンドストリート等の街歩きの楽しさ等,この大都市が大層気に入りました。
また,郊外にはクロイドン,チェルシー,そしてウェンブリーといったサッカーではお馴染みの地名もよく耳にしました。

ロンドンといえば,やはり全英オープン等,サッカー,テニス,ラグビー,ゴルフといった(馬術もか),英国発祥のスポーツのメッカというイメージですが,音楽都市という点ではブリティッシュロックの本場である他,クラシック音楽関連でも,ウィーン,ベルリン,ミュンヘン,ミラノ,パリと並ぶ重要な都市であると言えます。
ロンドンの5大オーケストラと言えば,ロンドン交響楽団を筆頭に,フィルハーモニア管弦楽団,ロンドンフィルハーモニー管弦楽団,BBC交響楽団,ロイヤルフィルハーモニー交響楽団ですし,それらの腕っこきを集めた録音用のナショナルフィルハーモニー管弦楽団,指揮者スタンリー・ブラックが指揮して映画音楽やライトミュージックを演奏したロンドンフェスティバル管弦楽団,実態はよう分からんロンドン新交響楽団など,その数と質たるやとんでもないです。


ロンドンに似合う音楽と言えば・・・ということで,先日書きましたが,肝心な1曲を失念しておりました。
ずばり「ロンドン組曲」。
作曲者は,これまた以前紹介した映画「暁の出撃」~ダムバスターズ行進曲を書いたエリック・コーツ(1886-1957)。
組曲は3つの楽章から成り,それぞれ①コヴェントガーデンガーデン(王立歌劇場がある)②ウェストミンスター(学校のチャイムの元となった大聖堂がある)③ナイツブリッジとロンドン市内の地名が付けられています。
実は,10年程前に1度演奏したことがありまして,譜読み不足によって玉砕して果てた悪い思い出が有る曲ではありますが・・・。
以下にリンクを張るのは終曲のナイツブリッジ行進曲です。
ナイツブリッジとは,ハイドパークからテームズ川方面へ南に延びる繁華街で,ハロッズが有ることでも知られています。
仕事を終えたロンドンの人々が,名物のパブに行って1杯・・・といった活気に満ちた1曲です。
せっかくなので,音声のみならず演奏の様子を,しかも吹奏楽ではなくオケで・・・と動画探したら1つしかヒットしませんでした。
しかも,どうやらドイツのオケのようで・・・(弦は見事ですが,金管は今イチ・・・)。
勿論,野外ライブならではの活気と楽しさは十分伝わってきますので,過不足はありません。


パブで飲むのは当然ビール・・・ということで,バス・ペールエールかギネス(これはアイリッシュか)に酒肴はローストビーフでも有ればよいのですが,残念ながら無いので,国産ビール(もとい発泡リキュール)と柿の種で1杯やります・・・。


Knightsbridge March by Eric Coates


German Freeks6・・・

2012年08月10日 21時42分12秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

引き続き独機です。
ドイツ空軍戦闘機メッサーシュミットMe262A。
通称「シュバルヴェ(スワロー:燕)」,或いは「シュツルム・フォーゲル(ストーム・バード:嵐の鳥)」
実験飛行隊所属,通称「白の9」。
大戦中に実用・量産化された世界初のジェット戦闘機です(世界初飛行はハインケルHe178)。
エンジンはユンカース社製のJumo004Bを2発装備。
最高時速は水平飛行で870km/hと,連合軍の最速を誇るレシプロエンジンのP51Dマスタングの704km/hを遥かに凌駕していました。
しかし,Me262の最大の不幸は,ヒトラーによって爆撃機としての運用を命じられたことでしょう。
ヒトラーの脳裏には,ロンドンへの報復爆撃しか頭になかったのでしょうか・・・。
当然搭載量も限られる戦闘機による爆撃に効果が上がるはずもなく,ヒトラーが折れて戦闘機の量産化を命じたときは時既に遅し・・・となったことは周知の通りです。
終戦間際に歴戦のヴァルター・ノヴォトニー少佐を隊長として編成された"コマンド・ノヴォトニー"も戦果を挙げるに至らず,僅かに第7戦闘航空団と第44戦闘団のみが150機以上の連合軍機を終戦までの1ヶ月の間に撃墜するに至ったのが,せめてもの戦果でした。
英空軍はグロスター・ミーティア,米陸軍はP80シューティングスターというジェット戦闘機をそろぞろ開発していましたが,ミーティアは性能的にMe262を上回るものではなく,P80は実戦に間に合いませんでした(というかP51Dで十分以上事足りたということでしょうに)。
勿論,ミーティアとMe262の空戦記録はありません。
卓越した性能を誇ったMe262でしたが,資材不足や慣れぬジェットエンジンの整備といったソフト面での欠点の他に,最大の弱点とされたのは暖まり難いJumo004Bエンジンでした。
つまり離陸以前に地上で攻撃されたり,離陸中スピードが乗らないうちに攻撃されたりした場合は,ひとたまりもなかったといいます。
ですから,離陸中はフォッケウルフFW190戦闘機によって護衛されたという何とも本末転倒なことが行われたようです・・・。
しかし,世界最初の実用量産型ジェット戦闘機という栄誉は,伝統ある独空軍(ルフトヴァッヘ)の掉尾を飾るに相応しいものだったと言えるでしょう・・・。


例によって模型屋のワゴンセールで買い叩いてきた食玩(1/144)です。
紡錘形にシェイプされた無駄のないフォルムはなかなかそれっぽいですが,風防を差し込むヒンジの上部がはみ出ていたり(透明度を著しく損なっている),後部胴体上のループアンテナがぼってりしていたり(直しよう無し。1/72を組んだときは,針金で自作しました),所詮は・・・といった感じですし,筋彫りもかなり彫り直してから墨を入れています・・・。


・・・と言うわけで,怒濤の独機攻勢はまだ続きます。
ここいらでちょっと毛色の違うのを・・・とも思うのですが・・・。
ぼかしがうまくいかず・・・風防枠からはみ出たようなヒンジはやはり気になる・・・墨入れがどぎつかったかそう言えば,鉤十字のデカールがない。ナチズムを象徴ということで禁止なのか??
日記@BlogRanking