風通庵-直言

ヨモヤマ話

「議論」をするとは

2010-10-30 10:33:02 | Weblog
 「議論」をするとはどういうことか。政治の世界で、特定の問題に対して「まだ議論の余地がある」とか、「いづれ後日議論したい」とか。毎日の新聞をみていると、特に政治の世界に限らずどこかにこれに類似した表現をみる。要するに、いまここで論ずる時間がないからではなくて、いまここで持ち出すと揉めるから、引き出しに仕舞っておこう。「先送り」のようである。


 三省堂の「新明快国語辞典」によると、ある問題に関し、何人かの人が、自説の陳述や他説の批判を相互に行い、合意点や結論に到達しようとする、こと、やりかた----。解説している。

 
 だから、自分の考えや他人の考え、いろんな考え方を出し合って、お互いに共通する考え方を導くことであると解される。が、しかし、実態としては「言い合い」でしかない。だから、いわゆる口の達者なものが勝つ、そんな仕組みである。他人の意見の良きをとり、自分の意見の悪しきを捨ててではなくて、出席者、参加者すべてが、自分の意見を押し通す、自分の意見は自分の意見として押し通し、一方的に言うばかり。だから「議論とは言い合いである」と言える。だから騒々しいだけ。喧しいだけ。またこれを擁護する言葉に「価値観の多様化」がある。
 議論下手の今の人向きに、特に民放では「トーク」とか「トークショウ」とか言って、好き放題に喋らせている。これは大きな声の独り言である。従って誰を中傷するでなし、誰からも不快感を味わうでなし、一人は一人で、先ずはお罪のないところである。


 これが政治家の言葉となると、「先送り」で、その果てに「うやむや」である。ヒョットすると,いまの官邸の好きな言葉かもしれない。だから、「まだ議論の余地がある」という言葉こそ曲者である。




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