ヨナの福音こばなし帳

オリジナルのショート・ストーリー。一週間で一話完結。週末には、そのストーリーから人生の知恵をまじめにウンチクります。

カプセルTARO(6)ウンチク編

2008-09-28 | ハナコの家出/ カプセルTARO
自分の中に、自分ではない自分がいるみたいな、そんな感覚をもったことはないでしょうか?

たとえば、
  あんなこと言うつもりじゃなったのに、言ってしまった・・
  普段だったら、絶対あんなことしないのに、なぜかあの時は・・
  本当は、まったく別のことをするつもりだったのに、気がついてみたら・・
  などなどなど・・・・

今回のストーリーのTAROも、そんなひとりです。彼は、自分のからだをスッポリ覆う透明な膜みたなものに入り込んでしまいました。それから、どこからか声が聞こえるようになりました。その声を受け入れながら、彼は変わっていきます。そして、ついに、自分でも自分をどうしようもできない状態になってしまいました。

聖書は、こんな具体に表現しています。
「滅びて行く古い人を脱ぎ捨てる」
(エペソ人への手紙 4章22節)

ストーリーのTAROでいけば、透明な膜を破り捨てて、そこから脱げ出る、そんな感じです。

問題は、それができないから、困っているわけですよ、ね。


聖書は、その最大の問題に、明確な解答を示しています。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、
    罪のからだが滅びで、
私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである」
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、
 キリストとともに葬られたのです」
(ローマ人への手紙 6章6、4節)

私たちは、自分では、その古い人から、抜け出ることはできません。そんな私たちのために、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださいました。死んだだけではなくて、ちゃんと葬られた、つまり、もう古い人は、きっちり完全処分済み、ということです。このことを、信仰によって自分に当てはめると、それが自分の身に起こります。

でも、死にっぱなしじゃ、しょうがないですね。

「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、
 キリストとともに生きることにもなる、と信じます」
(ローマ人への手紙 6章8節)

これも、信仰によって自分に当てはめると、それが自分の身に起こります。


信仰。なんか、この文字を見ると、宗教臭い、儀式臭い、そんな感じがしますが、そんなモンではないんですよ。

一言で言えば、イエス様を信頼する思い。イエス様になんでもお任せしよう、そういう気持ち。テーブルの上からお父さんの胸めがけて、飛び込む、子どもの心境。(一言ではなくて、三言になってしまった・・・)


「この神のことばは、
 信じているあなたがたのうちに働いているのです」
(テサロニケ人への手紙第一 2章13節)

次回からは、新しいストーリーです。アクセスしてくださいね。