「ヨハネによる福音書」3章16節から21節までを朗読。
16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
キリスト教は、世間でよく「愛の宗教である」と言われます。教会に来ますと、「愛」ということがしばしば説かれる。そういうことが理由であるかと思いますが、また聖書には愛の行い、多くの苦しんでいる人や悩んでいる人に親切をする、そういう慈善が美徳、良いこと、神様の御心だと教えられていると、世間の人が理解している節があります。それは間違っているとは思いませんが、少し、中心がずれていると私は感じます。神様が私たちを愛してくださっていること、これは確かにそのとおりですが、そのことをどうやって確かめるか。何をもって神様が私たちを愛してくださっている、と言えるか。私たちが生きている現実の生活には、様々な苦しみや悲しみ、思い煩いが絶えません。
今年も12月を迎えましたが、1月から今に至るまでを振り返ってみますと、「どうしてこうなったのだろうか」「何が原因なのだろうか」と思うことがたくさんあるでしょう。それぞれに「あの時こうしたから悪かった」「自分があんなことを言わなければこうならなかった」と、悔いること、後悔することも数多くあると思います。しかし訳が分からない、「何で?」「どうして?」とつぶやかざるを得ない事態や事柄のほうが多いのだろうと思います。旧約聖書の「伝道の書」にもそういうように書かれています。「私たちの人生には苦しみと悩みと様々なことがたくさんある」と語られています。そうなると、いったいどこに神様の愛があるのか?と問われます。
あるとき、伝道集会の始まる前に、一人の人が訪ねてきたことがありました。その人は酔っ払っていました。そのころ、正面の袖看板に『神は愛である』と書いていました。その人が入って来て、酔っ払っておりますから、「お前、表に何と書いてあるか!」と。「読めば分かるでしょう」と言うと、「だから、お前、何と書いてあるか!」。「神は愛である」「そうだろう。神は愛である。というのに、どうしてこういうことがある」と、それから何といいますか、管を巻くといいますか、自分が普段から矛盾していると思っている事、合点がいかないことなど、具体的なことを通して、言いつのりました。「それでも愛なのか!」と言われて、私は「分かりません」と言ったのです。「神は愛である、と神様がおっしゃっているのであって、私が言っているのではありません」と、逃げ口上でありますが、そう言ったのです。一通り文句を言ったら出て行きまして、それから二度と来ませんが、恐らく世の人々はいつもそのように思うのではないでしょうか。不条理という言葉があります。理屈に合わないことです。きちんと原因、結果という枠組みに何もかもが割り切れるのなら、それなりに納得するでしょう。自分がこんなことをしたから、こういう目に遭っている、というのでしたら、言い様がありません。ところが、世の中にはそうでないことがあまりにも多い。皆さんの生活でもそうだと思います。「どうして自分はこうなったのだろう」と、いろいろなことで思い煩うことがたくさんあります。そのために苦しい。だから「神様は愛ですよ」と言われても「神様がいるのに、どうしてこんなことをするのだろうか」とつぶやきます。
いま申し上げたように、「神様が愛であるというのに、どうしてこんなことになったの」「愛だというのに何でこうなんだろう」と言って、神様の愛を一生懸命に求めるといいますか、疑う。そういうことには熱心です。それに対して、神様が愛であって、私を愛してくださる、とおっしゃるが、私はいったい愛される値打ちがあるのだろうか、という受け止め方をする人は数少ないのだろうと思います。求めることのほうが多い。神様は愛なのだからこうしてくれても当然、愛なのだからこうなって当然じゃないかと、神様の愛を求めることは熱心ですが、しかし、神様があなたを愛さなければならない理由はどこにあるのか?「神様はどうして私を愛してくれないのです」と言う。「じゃ、お前は愛されるだけの何があるのだ?」と言われて……、どうですか、皆さん?「私は神様に愛されて当然です。神様、あなたのためにこんなことをしました」と。あるいは「神様、私がいればこそ、あなたが神でおられるのですよ」と言うほど自信のある方はまずいない。考えてみたら、神様の愛を疑うなんて偉そうなことを言いますが、疑う以前に、自分が愛されるべき何ほどの者であるか?どんな人間なのか?を忘れているのではないでしょうか。実はそもそも神様に愛されるべき値打ちも価値も何もない者です。
「エペソ人への手紙」2章1節から3節までを朗読。
ここに私たちがどんな状態の人間であるか語られています。それは「罪過と罪とによって死んでいた者」と。いうならば、私たちは死んだ者だった、というのです。神様の目からご覧になったら、私たちはどこを取っても価値のあるもの、値打ちのあるものがない状態、死んだ者というのはそうでしょう。死んだものを有難く思う人は誰もいません。福岡の教会のそばに大濠公園がありますが、よく愛犬家の方が犬を連れて来ます。犬が可愛いのですが、散歩をさせているつもりでしょうが、抱いて回っています。その犬がチョコチョコとしているから可愛いので、あれが死んでご覧なさい。連れて回っているとき、周囲の人が「あら、可愛い。何々ちゃん」と言うから、見ると人の名前が付いているからびっくりするのですが、チョコチョコ動いていますから可愛いのです。あれが死んでドタッと横たわっていてご覧なさい。近寄って「可愛い!」という人がいますか? 死んだものですよ。死んでしまったら、これは何の魅力もない、値打ちがない。これは捨てるほかはない。
1節に「あなたがたは、……死んでいた者」とあります。私たちは死んだ者なのだと。そして3節に「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い」と、我がままな自分の思いのままに、感情のおもむくところ、心の思うがままの自己中心な生き方をしていた。そして世間の倣(なら)い事や習慣やそういうものに自分がなじんでいる、そういう生き方しかできなかった。そして3節の終わりには、「生れながらの怒りの子であった」とあります。この「生れながらの怒りの子」とは、ご存じのように、生まれながらに神様の怒りを受けるべき者として定められていた、という意味です。私たちは始めから神様に呪われ、捨てられ、死んだ者であって、何一つ魅力も価値も値打ちもない者であったと。ところが4節に「しかるに」と、そうであったのに、「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって」、ここに私たちを愛してくださった、とあります。神様は私たちを愛されておられたのだと。そのご愛によって、大きなご愛をもって5節以下に「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。神様が私たちをキリストのゆえに生きる者としてくださる。これが神様の愛のわざであり、証詞です。
「エペソ人への手紙」1章3節から5節までを朗読。
神様はそういう呪われ、神様の怒りを受けるべき永遠の滅びに定められていた私たちをただ愛のゆえに、神様は私たちを愛してくださるがゆえに、もう一度神の子にしようと、神様の民として神様のものとしてくださるために、時を定めて一人の人を世に遣(つか)わしてくださった。その一人の人とは即ち主イエス・キリスト、イエス様が二千年ちょっと前になりますが、ベツレヘムの馬小屋に生まれてくださったのです。それは神様の愛の証詞です。イエス様を私たちの所へ送ってくださった。私たちは神様のご愛を受けるに足らない、何の値打ちも価値もない死んだ者であった私たちを憐(あわ)れんでくださった神様です。その神様がひとり子であるイエス様を私たちの所へ遣わして、5節に「イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと」、「神の子たる身分」、すなわち私たちを神の子供にしてくださるのです。そのために「御旨のよしとするところに従い」とは、遠まわしの言い方をしていますが、はっきり言いますと、それは神様の喜びだと。そうすることを神様は積極的にご自分の意思である、と神様のほうが望んでくださった。いうならば「仕方なしに」とか「したくないんだけれども、仕方ない、してやるわ」という意味ではない。「御旨のよしとする」とは、積極的に「神の子にしたい」と皆さん一人一人に目を留めてくださって、ご自分のほうから私たちに近づいてくださった。そのことが「御旨のよしとする」という意味です。そして「愛のうちにあらかじめ定めて」、まだ私たちがこの地上に生まれもしない、姿かたちもなかったそのときから、神様は愛をもって、私たちを顧(かえり)みてくださって、ひとり子を世に遣わして、主イエス・キリストによって私たちを神の子としてくださった。
もう一度「ヨハネによる福音書」3章16節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。「この世」とは、誰のことでもない私たち、皆さんお一人お一人のことです。だからよく「この世」という所に自分の名前を入れて読め、と言われます。そのとおりでありまして、神様が私のためにひとり子、ご自分の愛する掛け替えのないひとり子主イエス・キリスト、神の御子をこの世に遣わしてくださった。神なる御方、神の位に居給うた御方、「ピリピ人への手紙」にありますように、「神のかたちであられた」(2:6)、いうならば神ご自身が人となる、これは破天荒な出来事です。まずもってこのようなことはあり得ない事です。神様が、造り主が、造られた被造物になる。ご自分を余程小さく、低くしなければできません。しかも私たちは先ほど申し上げたように、そもそもが怒りの子であり、死んだ者である。何一つ値打ちも価値もない、そのような腐れ果てた、ボロ雑きんのように捨てられたもののなかに主が降ってくださる。これは驚くべきことではないでしょうか。そんなにまでして「あなたを愛しているよ」と神様は私たちに愛を証詞してくださった。神様の限りない大きなご愛のなかに私たちはいま取り込まれている、握られているのだ、と知っておきたい。ともするとそのことを忘れます。つい生活のいろいろなことを見て、「ああなっているから嫌」「これはどうも神様は私を愛していないんじゃない。神が愛なんて言うけれども、いったいどこに愛が? ああ苦しい、ああ辛い、ああ誰か助けてくれないか」と、人や周囲ばかりを見て、事情や境遇、そのことばかりを求めている私たち。神様がどんな思いをもって私たちを愛してくださっているかを忘れてしまう。ですから、絶えずこのことを繰り返し繰り返し、まず第一のことは神様が私を愛してくださっていると、トコトン信じ続けていくことです。自分の見える生活が、あるいはその事態が、状況や生活の条件、様々な事柄がどうであろうとこうであろうと、自分の思いどおりではない、あるいは願いどおりではない、思ったようにいかない、そういう中に置かれていても、しかし神は愛である、と信じ続けていく。神様のご愛を疑わない。神様が私たち一人一人を愛してくださっている。では、その愛はどこにあるか? 主イエス・キリスト、御子を私たちのところに送ってくださった。それは二千年前のベツレヘムにお生まれになったと言いますが、二千年前のことではなくて、今日も、今もキリストが私たちの内に生まれてくださる。
どこでしたか、津屋崎の近くでしたか、あるとき車で通っていましたら、「年中クリスマス」というお店がありました。クリスマスのツリーやキャンドルだとかいろいろな電飾などを夏も売っているのです。昔は大体11月の中旬ぐらいから、店の片隅にクリスマスコーナーが設けられて、そこで売って25日を過ぎると一斉に引き上げて、今度は門松か何かお正月用品が並ぶというのが、通り相場だったのです。しかし、そこはいつ行ってもサンタクロースの衣装からいろいろな物が置いてある。私はそれを見て、商売人もなかなか目の付け所が違うな、と思う。私たちは年に一度、12月25日がイエス様のお誕生日だから、「クリスマスおめでとう」と言いますが、実は私たちは年中クリスマスなのです。イエス様がいつも私たちの内に住んでくださる、肉体となって宿ってくださる。あの馬小屋に生まれてくださったイエス様が、いま私たちと共にいてくださる。これは毎日がクリスマスなのです。だから、おめでたいのです、毎日。本来だったら毎日クリスマスケーキを食べて……、体をこわすといけないから、ごちそうは食べないにしても、「うれしい、楽しいクリスマス」と祝会などで歌いますが、毎日「うれしい、楽しいクリスマス」を歌っていなければいけないのに、どうですか。みけんにしわを寄せて、何か鬼の面をかぶったような顔をして、毎日を送っている。年に一度12月になって、「ああ、クリスマスや」と。だから私たちにはいのちがないのです。
16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。ひとり子、イエス様を私たちのためにこの世に送ってくださった。しかもイエス様がこの世に来てくださったご目的は何であったかと? そのご生涯の終わりはあのゴルゴタの丘で十字架に命を捨てるためでしょう。罪なき御方、何一つ罪を犯したことのない方が罪人とせられて、そして罵詈雑言(ばりぞうごん)、多くの悪口をあびせられ、むちで打たれ、釘付けられ、やりで突かれ、いばらの冠をかぶせられ、一滴一滴血を流して、私たちが呪われるべき呪いの一切をご自分が受けてくださった。まさにイエス様のご生涯はこのことのためです。ご自分を罪人として、神の小羊となって、神様の呪いを受け、刑罰を受けるために私たちの所へ来てくださった。それこそが神様の愛でなければ、いったい何でしょうか。それを信じなくして、どこに神様の愛がある、と言えるでしょうか。ただ目先のことや生活の境遇や環境がああなった、こうなった、だから……、といって、そういうことばかりを求めますが、それはあくまでもこの世のものであって、「見えるものは一時的であり」(Ⅱコリント 4:18)とあるように、ひと時にして消え去っていく。しかし、私たちは見えない御方に目を留めるのです。どうぞ、主のご愛を堅く信じていきたいと思います。
その次に、もう一つ大切なことですが、「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。もう一つは「永遠の命を得るため」。永遠の命を得る、と言うと、「これは死んでからのことかいな」と思います。死んでも生きるように、そのための永遠の命? そうではありません。私たちはいずれ死ぬのであります。これは肉体が衰えて、消え去っていきます。これはどんなことをしても抵抗できません。アメリカでは変わった人がいて、そのうち治療法ができるまで自分を冷凍保存してもらう、というのがあるそうです。死んだ瞬間にマイナス何十度という温度で体を冷凍して、そのまま100年後に解凍すれば、そのころ自分の病気を治療する方法があるかもしれないと思っている人がいる。そのために何億円と払う愚かな人がいますが、いくらそんなことをしても、自分が冷凍されて、100年後自分が解けて目が覚めた瞬間、地球はとっくに消えてしまっていた、ということにならないとも限らない。どちらが早く駄目になるか、これは分からない。世の終わる時が来ると、イエス様がおっしゃっているとおりです。だから、私たちの肉体も必ず終わるのです。では、永遠の命とは何なのか?「終わってから天国に行くことやろうな」と思います。確かにイエス様がそうおっしゃるように、「私たちはこの地上の肉体を脱ぎ捨てて、そして、その霊はそれを授けた神に帰る」。神様の所へ帰っていきます。しかし、またそこで「最後のさばきを受けるときがくる」。「第二の死が待ち受けている」と「黙示録」には記されています。私たちにとって「永遠の命」とは、死んでから先のこと、それももちろん大切なことですが、まずもっていま生きている私たちにとっても永遠の命なのです。その永遠の命というのは何なのか?これは「ヨハネによる福音書」17章3節に「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」と語られています。いうならば、イエス様は神でいらっしゃること、イエス様を神の子と信じること、これが永遠の命だ、と言われています。イエス様がわたしたちの内に宿って、キリストによって生きる者となること。イエス様が私たちの命となってくださること。それは具体的にどうすることなのか?説明としてはよく分かるけれども、具体的なところはもう一つピンとこない。イエス様と共に生きる。だから、クリスマスの物語のなかで、ヨセフさんに御使が現れて言ったときに「その名はインマヌエルと呼ばれる、神われらと共にいます」と。イエス様は私たちに神と共に生きることを得させてくださる。生きる者と変えてくださるのです。神様がいつも私たちと共にいること、いうならば、私たちの生きる命が肉体による命から神様の力によって生きる者と変わっていくことです。そのことを具体的に証詞した人がパウロであります。「ガラテヤ人への手紙」に、「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり。最早(もはや)われ生くるにあらず」(2:20文語訳)、私が生きているのではないと言っているのです。でも、まだ生きているじゃないかと。それはキリストが私の内にあって私を生かしてくださる。キリストによって生きている私だ、と言っているのです。それで「わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」と、更にその続きに語っているのです。私たちはイエス・キリストを信じることによって生きる者となる。イエス様が私たちを生かしてくださっていることを絶えず覚えていくこと。これが永遠の命なのです。それでもまだちょっと分かりにくいと思われる方に、もう一つ申し上げると、永遠の命とは、自分が何のために生きているかを問いかけて、今日キリストのために生かされているといえるなら、永遠の命があるのです。パウロはそのように言っているのです。「私は自分のために生きているのではなくて、キリストのために生きている」。キリストによって生かされているとは、取りも直さず、今日一日のすべてがキリストのものであり、イエス様のために生きているのです、ということです。これが永遠の命の生涯を生きる具体的な生き方であります。私たちは気がつかないうちに自分のために生きている。大部分がそうです。自分のためのお金であり、自分のための時間であり、自分のための健康であり、自分のための何かです。事ごとに自分が、自分が、自分のために、と思います。あるいは愛するご主人のためであったり、奥さんのためであったり、あるいは子供や孫のためであったりするかもしれません。でも大部分は自分のためです。ところが、私たちに大切なのは、自分のためではなくて、私のために死んでよみがえってくださったキリストのものとなっていく。主のために生きている。会社で働いていようと、家庭で主婦として役割を与えられていようと、そこでキリストのために生きているかどうか、これが永遠の命の生涯なのです。16節「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちはこの永遠の命の生涯を生きようではありませんか。
先ほどの「エペソ人への手紙」に、神様は、「私たちを神の子とするために愛のうちにあらかじめ選んでくださって、それは御旨のよしとすることである」と、神の子になることは取りも直さずキリストの者となることであります。いうならば、キリストのために生きる者と変わることです。どんなことでも、常に私のために死んでよみがえってくださったイエス様、私のために神の位を捨て、世に下って、愛のゆえに神様が私たちに遣わしてくださったキリストのために生きる者となるとき、初めて日々の生活が喜びと感謝と望みに変わっていくのです。いつも自分のため、自分の生活、自分の何かを求めて、自分の都合のために生きている限り、そこには命がありません。それはやがて消えていきます。だんだんと年を取ってきまして、いろいろなことが不自由になったり、できないことが増えたりします。そうなると、ますます生きるのは自分のためのように思いますが、そうではありません。私たちは主のために生かされている。だから寝たきりになろうと、認知症になって訳が判らなくなろうとも、私たちはキリストのために生かされている。キリストのために命が与えられていることを信じるのです。
神様がまず私たちを愛してくださっている。そしてご自分の尊いひとり子を世に遣わしてくださった。そのキリストを私たちが信じて、キリストのために生きる生涯に変えられていく。自分のためでも世のためでも人のためでもない、ただキリストのために。このクリスマスを迎えるにあたって、主が私たちに開いてくださった永遠の命の生涯を生きる者となっていきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
キリスト教は、世間でよく「愛の宗教である」と言われます。教会に来ますと、「愛」ということがしばしば説かれる。そういうことが理由であるかと思いますが、また聖書には愛の行い、多くの苦しんでいる人や悩んでいる人に親切をする、そういう慈善が美徳、良いこと、神様の御心だと教えられていると、世間の人が理解している節があります。それは間違っているとは思いませんが、少し、中心がずれていると私は感じます。神様が私たちを愛してくださっていること、これは確かにそのとおりですが、そのことをどうやって確かめるか。何をもって神様が私たちを愛してくださっている、と言えるか。私たちが生きている現実の生活には、様々な苦しみや悲しみ、思い煩いが絶えません。
今年も12月を迎えましたが、1月から今に至るまでを振り返ってみますと、「どうしてこうなったのだろうか」「何が原因なのだろうか」と思うことがたくさんあるでしょう。それぞれに「あの時こうしたから悪かった」「自分があんなことを言わなければこうならなかった」と、悔いること、後悔することも数多くあると思います。しかし訳が分からない、「何で?」「どうして?」とつぶやかざるを得ない事態や事柄のほうが多いのだろうと思います。旧約聖書の「伝道の書」にもそういうように書かれています。「私たちの人生には苦しみと悩みと様々なことがたくさんある」と語られています。そうなると、いったいどこに神様の愛があるのか?と問われます。
あるとき、伝道集会の始まる前に、一人の人が訪ねてきたことがありました。その人は酔っ払っていました。そのころ、正面の袖看板に『神は愛である』と書いていました。その人が入って来て、酔っ払っておりますから、「お前、表に何と書いてあるか!」と。「読めば分かるでしょう」と言うと、「だから、お前、何と書いてあるか!」。「神は愛である」「そうだろう。神は愛である。というのに、どうしてこういうことがある」と、それから何といいますか、管を巻くといいますか、自分が普段から矛盾していると思っている事、合点がいかないことなど、具体的なことを通して、言いつのりました。「それでも愛なのか!」と言われて、私は「分かりません」と言ったのです。「神は愛である、と神様がおっしゃっているのであって、私が言っているのではありません」と、逃げ口上でありますが、そう言ったのです。一通り文句を言ったら出て行きまして、それから二度と来ませんが、恐らく世の人々はいつもそのように思うのではないでしょうか。不条理という言葉があります。理屈に合わないことです。きちんと原因、結果という枠組みに何もかもが割り切れるのなら、それなりに納得するでしょう。自分がこんなことをしたから、こういう目に遭っている、というのでしたら、言い様がありません。ところが、世の中にはそうでないことがあまりにも多い。皆さんの生活でもそうだと思います。「どうして自分はこうなったのだろう」と、いろいろなことで思い煩うことがたくさんあります。そのために苦しい。だから「神様は愛ですよ」と言われても「神様がいるのに、どうしてこんなことをするのだろうか」とつぶやきます。
いま申し上げたように、「神様が愛であるというのに、どうしてこんなことになったの」「愛だというのに何でこうなんだろう」と言って、神様の愛を一生懸命に求めるといいますか、疑う。そういうことには熱心です。それに対して、神様が愛であって、私を愛してくださる、とおっしゃるが、私はいったい愛される値打ちがあるのだろうか、という受け止め方をする人は数少ないのだろうと思います。求めることのほうが多い。神様は愛なのだからこうしてくれても当然、愛なのだからこうなって当然じゃないかと、神様の愛を求めることは熱心ですが、しかし、神様があなたを愛さなければならない理由はどこにあるのか?「神様はどうして私を愛してくれないのです」と言う。「じゃ、お前は愛されるだけの何があるのだ?」と言われて……、どうですか、皆さん?「私は神様に愛されて当然です。神様、あなたのためにこんなことをしました」と。あるいは「神様、私がいればこそ、あなたが神でおられるのですよ」と言うほど自信のある方はまずいない。考えてみたら、神様の愛を疑うなんて偉そうなことを言いますが、疑う以前に、自分が愛されるべき何ほどの者であるか?どんな人間なのか?を忘れているのではないでしょうか。実はそもそも神様に愛されるべき値打ちも価値も何もない者です。
「エペソ人への手紙」2章1節から3節までを朗読。
ここに私たちがどんな状態の人間であるか語られています。それは「罪過と罪とによって死んでいた者」と。いうならば、私たちは死んだ者だった、というのです。神様の目からご覧になったら、私たちはどこを取っても価値のあるもの、値打ちのあるものがない状態、死んだ者というのはそうでしょう。死んだものを有難く思う人は誰もいません。福岡の教会のそばに大濠公園がありますが、よく愛犬家の方が犬を連れて来ます。犬が可愛いのですが、散歩をさせているつもりでしょうが、抱いて回っています。その犬がチョコチョコとしているから可愛いので、あれが死んでご覧なさい。連れて回っているとき、周囲の人が「あら、可愛い。何々ちゃん」と言うから、見ると人の名前が付いているからびっくりするのですが、チョコチョコ動いていますから可愛いのです。あれが死んでドタッと横たわっていてご覧なさい。近寄って「可愛い!」という人がいますか? 死んだものですよ。死んでしまったら、これは何の魅力もない、値打ちがない。これは捨てるほかはない。
1節に「あなたがたは、……死んでいた者」とあります。私たちは死んだ者なのだと。そして3節に「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い」と、我がままな自分の思いのままに、感情のおもむくところ、心の思うがままの自己中心な生き方をしていた。そして世間の倣(なら)い事や習慣やそういうものに自分がなじんでいる、そういう生き方しかできなかった。そして3節の終わりには、「生れながらの怒りの子であった」とあります。この「生れながらの怒りの子」とは、ご存じのように、生まれながらに神様の怒りを受けるべき者として定められていた、という意味です。私たちは始めから神様に呪われ、捨てられ、死んだ者であって、何一つ魅力も価値も値打ちもない者であったと。ところが4節に「しかるに」と、そうであったのに、「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって」、ここに私たちを愛してくださった、とあります。神様は私たちを愛されておられたのだと。そのご愛によって、大きなご愛をもって5節以下に「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。神様が私たちをキリストのゆえに生きる者としてくださる。これが神様の愛のわざであり、証詞です。
「エペソ人への手紙」1章3節から5節までを朗読。
神様はそういう呪われ、神様の怒りを受けるべき永遠の滅びに定められていた私たちをただ愛のゆえに、神様は私たちを愛してくださるがゆえに、もう一度神の子にしようと、神様の民として神様のものとしてくださるために、時を定めて一人の人を世に遣(つか)わしてくださった。その一人の人とは即ち主イエス・キリスト、イエス様が二千年ちょっと前になりますが、ベツレヘムの馬小屋に生まれてくださったのです。それは神様の愛の証詞です。イエス様を私たちの所へ送ってくださった。私たちは神様のご愛を受けるに足らない、何の値打ちも価値もない死んだ者であった私たちを憐(あわ)れんでくださった神様です。その神様がひとり子であるイエス様を私たちの所へ遣わして、5節に「イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと」、「神の子たる身分」、すなわち私たちを神の子供にしてくださるのです。そのために「御旨のよしとするところに従い」とは、遠まわしの言い方をしていますが、はっきり言いますと、それは神様の喜びだと。そうすることを神様は積極的にご自分の意思である、と神様のほうが望んでくださった。いうならば「仕方なしに」とか「したくないんだけれども、仕方ない、してやるわ」という意味ではない。「御旨のよしとする」とは、積極的に「神の子にしたい」と皆さん一人一人に目を留めてくださって、ご自分のほうから私たちに近づいてくださった。そのことが「御旨のよしとする」という意味です。そして「愛のうちにあらかじめ定めて」、まだ私たちがこの地上に生まれもしない、姿かたちもなかったそのときから、神様は愛をもって、私たちを顧(かえり)みてくださって、ひとり子を世に遣わして、主イエス・キリストによって私たちを神の子としてくださった。
もう一度「ヨハネによる福音書」3章16節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。「この世」とは、誰のことでもない私たち、皆さんお一人お一人のことです。だからよく「この世」という所に自分の名前を入れて読め、と言われます。そのとおりでありまして、神様が私のためにひとり子、ご自分の愛する掛け替えのないひとり子主イエス・キリスト、神の御子をこの世に遣わしてくださった。神なる御方、神の位に居給うた御方、「ピリピ人への手紙」にありますように、「神のかたちであられた」(2:6)、いうならば神ご自身が人となる、これは破天荒な出来事です。まずもってこのようなことはあり得ない事です。神様が、造り主が、造られた被造物になる。ご自分を余程小さく、低くしなければできません。しかも私たちは先ほど申し上げたように、そもそもが怒りの子であり、死んだ者である。何一つ値打ちも価値もない、そのような腐れ果てた、ボロ雑きんのように捨てられたもののなかに主が降ってくださる。これは驚くべきことではないでしょうか。そんなにまでして「あなたを愛しているよ」と神様は私たちに愛を証詞してくださった。神様の限りない大きなご愛のなかに私たちはいま取り込まれている、握られているのだ、と知っておきたい。ともするとそのことを忘れます。つい生活のいろいろなことを見て、「ああなっているから嫌」「これはどうも神様は私を愛していないんじゃない。神が愛なんて言うけれども、いったいどこに愛が? ああ苦しい、ああ辛い、ああ誰か助けてくれないか」と、人や周囲ばかりを見て、事情や境遇、そのことばかりを求めている私たち。神様がどんな思いをもって私たちを愛してくださっているかを忘れてしまう。ですから、絶えずこのことを繰り返し繰り返し、まず第一のことは神様が私を愛してくださっていると、トコトン信じ続けていくことです。自分の見える生活が、あるいはその事態が、状況や生活の条件、様々な事柄がどうであろうとこうであろうと、自分の思いどおりではない、あるいは願いどおりではない、思ったようにいかない、そういう中に置かれていても、しかし神は愛である、と信じ続けていく。神様のご愛を疑わない。神様が私たち一人一人を愛してくださっている。では、その愛はどこにあるか? 主イエス・キリスト、御子を私たちのところに送ってくださった。それは二千年前のベツレヘムにお生まれになったと言いますが、二千年前のことではなくて、今日も、今もキリストが私たちの内に生まれてくださる。
どこでしたか、津屋崎の近くでしたか、あるとき車で通っていましたら、「年中クリスマス」というお店がありました。クリスマスのツリーやキャンドルだとかいろいろな電飾などを夏も売っているのです。昔は大体11月の中旬ぐらいから、店の片隅にクリスマスコーナーが設けられて、そこで売って25日を過ぎると一斉に引き上げて、今度は門松か何かお正月用品が並ぶというのが、通り相場だったのです。しかし、そこはいつ行ってもサンタクロースの衣装からいろいろな物が置いてある。私はそれを見て、商売人もなかなか目の付け所が違うな、と思う。私たちは年に一度、12月25日がイエス様のお誕生日だから、「クリスマスおめでとう」と言いますが、実は私たちは年中クリスマスなのです。イエス様がいつも私たちの内に住んでくださる、肉体となって宿ってくださる。あの馬小屋に生まれてくださったイエス様が、いま私たちと共にいてくださる。これは毎日がクリスマスなのです。だから、おめでたいのです、毎日。本来だったら毎日クリスマスケーキを食べて……、体をこわすといけないから、ごちそうは食べないにしても、「うれしい、楽しいクリスマス」と祝会などで歌いますが、毎日「うれしい、楽しいクリスマス」を歌っていなければいけないのに、どうですか。みけんにしわを寄せて、何か鬼の面をかぶったような顔をして、毎日を送っている。年に一度12月になって、「ああ、クリスマスや」と。だから私たちにはいのちがないのです。
16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。ひとり子、イエス様を私たちのためにこの世に送ってくださった。しかもイエス様がこの世に来てくださったご目的は何であったかと? そのご生涯の終わりはあのゴルゴタの丘で十字架に命を捨てるためでしょう。罪なき御方、何一つ罪を犯したことのない方が罪人とせられて、そして罵詈雑言(ばりぞうごん)、多くの悪口をあびせられ、むちで打たれ、釘付けられ、やりで突かれ、いばらの冠をかぶせられ、一滴一滴血を流して、私たちが呪われるべき呪いの一切をご自分が受けてくださった。まさにイエス様のご生涯はこのことのためです。ご自分を罪人として、神の小羊となって、神様の呪いを受け、刑罰を受けるために私たちの所へ来てくださった。それこそが神様の愛でなければ、いったい何でしょうか。それを信じなくして、どこに神様の愛がある、と言えるでしょうか。ただ目先のことや生活の境遇や環境がああなった、こうなった、だから……、といって、そういうことばかりを求めますが、それはあくまでもこの世のものであって、「見えるものは一時的であり」(Ⅱコリント 4:18)とあるように、ひと時にして消え去っていく。しかし、私たちは見えない御方に目を留めるのです。どうぞ、主のご愛を堅く信じていきたいと思います。
その次に、もう一つ大切なことですが、「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。もう一つは「永遠の命を得るため」。永遠の命を得る、と言うと、「これは死んでからのことかいな」と思います。死んでも生きるように、そのための永遠の命? そうではありません。私たちはいずれ死ぬのであります。これは肉体が衰えて、消え去っていきます。これはどんなことをしても抵抗できません。アメリカでは変わった人がいて、そのうち治療法ができるまで自分を冷凍保存してもらう、というのがあるそうです。死んだ瞬間にマイナス何十度という温度で体を冷凍して、そのまま100年後に解凍すれば、そのころ自分の病気を治療する方法があるかもしれないと思っている人がいる。そのために何億円と払う愚かな人がいますが、いくらそんなことをしても、自分が冷凍されて、100年後自分が解けて目が覚めた瞬間、地球はとっくに消えてしまっていた、ということにならないとも限らない。どちらが早く駄目になるか、これは分からない。世の終わる時が来ると、イエス様がおっしゃっているとおりです。だから、私たちの肉体も必ず終わるのです。では、永遠の命とは何なのか?「終わってから天国に行くことやろうな」と思います。確かにイエス様がそうおっしゃるように、「私たちはこの地上の肉体を脱ぎ捨てて、そして、その霊はそれを授けた神に帰る」。神様の所へ帰っていきます。しかし、またそこで「最後のさばきを受けるときがくる」。「第二の死が待ち受けている」と「黙示録」には記されています。私たちにとって「永遠の命」とは、死んでから先のこと、それももちろん大切なことですが、まずもっていま生きている私たちにとっても永遠の命なのです。その永遠の命というのは何なのか?これは「ヨハネによる福音書」17章3節に「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」と語られています。いうならば、イエス様は神でいらっしゃること、イエス様を神の子と信じること、これが永遠の命だ、と言われています。イエス様がわたしたちの内に宿って、キリストによって生きる者となること。イエス様が私たちの命となってくださること。それは具体的にどうすることなのか?説明としてはよく分かるけれども、具体的なところはもう一つピンとこない。イエス様と共に生きる。だから、クリスマスの物語のなかで、ヨセフさんに御使が現れて言ったときに「その名はインマヌエルと呼ばれる、神われらと共にいます」と。イエス様は私たちに神と共に生きることを得させてくださる。生きる者と変えてくださるのです。神様がいつも私たちと共にいること、いうならば、私たちの生きる命が肉体による命から神様の力によって生きる者と変わっていくことです。そのことを具体的に証詞した人がパウロであります。「ガラテヤ人への手紙」に、「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり。最早(もはや)われ生くるにあらず」(2:20文語訳)、私が生きているのではないと言っているのです。でも、まだ生きているじゃないかと。それはキリストが私の内にあって私を生かしてくださる。キリストによって生きている私だ、と言っているのです。それで「わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」と、更にその続きに語っているのです。私たちはイエス・キリストを信じることによって生きる者となる。イエス様が私たちを生かしてくださっていることを絶えず覚えていくこと。これが永遠の命なのです。それでもまだちょっと分かりにくいと思われる方に、もう一つ申し上げると、永遠の命とは、自分が何のために生きているかを問いかけて、今日キリストのために生かされているといえるなら、永遠の命があるのです。パウロはそのように言っているのです。「私は自分のために生きているのではなくて、キリストのために生きている」。キリストによって生かされているとは、取りも直さず、今日一日のすべてがキリストのものであり、イエス様のために生きているのです、ということです。これが永遠の命の生涯を生きる具体的な生き方であります。私たちは気がつかないうちに自分のために生きている。大部分がそうです。自分のためのお金であり、自分のための時間であり、自分のための健康であり、自分のための何かです。事ごとに自分が、自分が、自分のために、と思います。あるいは愛するご主人のためであったり、奥さんのためであったり、あるいは子供や孫のためであったりするかもしれません。でも大部分は自分のためです。ところが、私たちに大切なのは、自分のためではなくて、私のために死んでよみがえってくださったキリストのものとなっていく。主のために生きている。会社で働いていようと、家庭で主婦として役割を与えられていようと、そこでキリストのために生きているかどうか、これが永遠の命の生涯なのです。16節「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちはこの永遠の命の生涯を生きようではありませんか。
先ほどの「エペソ人への手紙」に、神様は、「私たちを神の子とするために愛のうちにあらかじめ選んでくださって、それは御旨のよしとすることである」と、神の子になることは取りも直さずキリストの者となることであります。いうならば、キリストのために生きる者と変わることです。どんなことでも、常に私のために死んでよみがえってくださったイエス様、私のために神の位を捨て、世に下って、愛のゆえに神様が私たちに遣わしてくださったキリストのために生きる者となるとき、初めて日々の生活が喜びと感謝と望みに変わっていくのです。いつも自分のため、自分の生活、自分の何かを求めて、自分の都合のために生きている限り、そこには命がありません。それはやがて消えていきます。だんだんと年を取ってきまして、いろいろなことが不自由になったり、できないことが増えたりします。そうなると、ますます生きるのは自分のためのように思いますが、そうではありません。私たちは主のために生かされている。だから寝たきりになろうと、認知症になって訳が判らなくなろうとも、私たちはキリストのために生かされている。キリストのために命が与えられていることを信じるのです。
神様がまず私たちを愛してくださっている。そしてご自分の尊いひとり子を世に遣わしてくださった。そのキリストを私たちが信じて、キリストのために生きる生涯に変えられていく。自分のためでも世のためでも人のためでもない、ただキリストのために。このクリスマスを迎えるにあたって、主が私たちに開いてくださった永遠の命の生涯を生きる者となっていきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。