いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(448)「霊の実を育てる」

2015年01月21日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネによる福音書」15章1節から8節までを朗読。

 5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。

 これはイエス様が「父なる神様」、「子なるキリスト」、そして、その救いにあずかる私たち、三者の関係がどんな関係であるかをたとえで語った記事であります。今朝は一つ、ここから教えられたいことがあります。「実を結ぶ」という言葉が繰り返されています。これはどういうことなのか? いま神様が求めておられるのが、このことであるというのです。今、時あたかも収穫の秋と言われて田畑は実り、稲は刈り入れの時を迎えています。また様々な果物、いろいろな作物が豊富に出回っている季節であります。殊にぶどうはいろいろな種類のものが手に入るような時代に変わっていますから、豊かな果実といいますか、実を楽しむ季節でもあります。

イエス様は、新約聖書の中で繰り返し「実」について語っておられます。私たちがイエス様の救いにあずかったことには目的がある。よく申し上げることですが、私たちは自分の都合で神様を求める。よく“苦しいときの神頼み”と言われるように、悩み事に遭い、悲しいことや辛いことに出会って、何とかそこから安心立命を得たい、救われたいと信仰を求めることがあります。だから、皆さんも一度や二度そういうことを尋ねられたに違いない。「あなたは毎週日曜ごとにどこかに出掛けているけれども何しているの」と。私の知っている方は、教会に行っているとは言いにくいものだから、「ちょっと、ボランティアに」と誤魔化して、隠れクリスチャンになってしまう。なかなか「私は教会に行っています」と言いづらい。なぜ言いづらいかというと、そうすると、皆が期待する目がある。「え!あなた、教会に行っていたの」と驚かれる。また、そうなると、それらしい人間にならねばならない、期待に応えたいというおかしな衝動が生まれて、非常に息苦しいというか、窮屈な思いをする。そんな思いがすぐに来る。だから、「いや、私はあんたが思っているような立派なクリスチャンではないよ」と否定する。それは大きな間違いであります。日曜日ごとに教会に行くと、周囲の人から「あんた、えらい宗教心に富んだ信心深い人やね」と「何か、心配事でもあるの? 」と尋ねられるのです。「そんな宗教に一生懸命にならねばならないって、何か悩みごとでもあるの」と、尋ねられる。「いや、何もない」「何もないのに行くの、え!あんた奇特な人やね」と、変人扱いされたりします。とかく世の中の人々は信心するとか、信仰に入るというのは、自分の悩みや苦しみや悲しみや、そういうものから逃れる手段として、宗教にすがろう、信心を求めようとするのです。私どももそういう意味でイエス様のところへ来る。時にそういうことがあります。「教会にしばらく通わせてください」。聞いてみると、家庭の悩みがあったり、子供についての悩みがあったり、あるいは自分自身の健康の問題であったり、人間関係のことで悩んだりしている。そこから何とか救われたいと、そうやって教会に来る。なるほど、初めの切っ掛けは確かに私たちに求めるもの、必要な物があるから、ということです。確かに求めるものに応えてくださる神様であります。事実、皆さんも体験したとおりで、一生懸命に励んで苦しい中を主に祈り、御言葉に支えられて悩みを通り抜いて、思いも掛けない神様の恵みにあずかって事は解決し、問題が取り去られて、やがて、広やかななめらかな道に立たせていただいて、万々歳、大喜びということがあります。大抵そこで「教会よ、ハイ、さようなら」、「神様、またそのうちに」という形になりやすい。幸い皆さんはそのまま居付いてしまったというべきか、捕らわれてしまった。それには大きな深い目的がる。神様の側のご計画があるのです。私たちは自分の都合で自分の立場から神様を求めたはずでありますが、実は、神様のほうは別のご計画を持っておられる。そのことが「エペソ人への手紙」の初めに語られています。私たちがやがて神様の所へ来るに違いないと時を定めてくださっていた。「天地の造られる前から」と、つまり私たちがこの世に姿も形も何もなかった時に、私たちがやがて神様の許(もと)に来てイエス様の救いにあずかるべき者であると神様が定めてくださった。だから、自分の悩み事で来たはずですが、もうひとつ神様の側には神様のきちんとした目的があった。それは私たちを救い出して神様の栄光のために、神様の御業をあらわすためである、と聖書に語られている。「神様は私をご計画のうちに選んでくださった。そして私に期待していることがある」。なるほど、そうなのだと思う。ところが「神の栄光」と言われた途端に、何のことか分からなくなる、そういう思いがするでしょうが、「神の栄光」とはもっとはっきりした事柄であります。雲をつかむような、霧の中のような話ではありません。神様が私たちを選んでこのイエス様の救いにあずからせてくださった。それは私たちが「実を結ぶ者となる」ためです。

 15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり」とありますが、ここに「あなたがたがわたしを選んだのではない」と言われます。いま申し上げましたように、私たちは自分が選んだように思っています。私がこの神様を求めて来たのだと。ところが、そうではないのです。神様のほうが私たち一人一人を選んでくださった。いま私たちは自分でここに導かれて来た、と思っています。私が選んで来たのだ、と思っているかもしれませんが、そんな思いは捨ててください。神様のほうが「お前を選んだ」とおっしゃる。もう逃げられないのでありますから、諦(あきら)めて、金輪際死ぬまで神様と一緒だと覚悟を決めてください。さらに、「そして、あなたがたを立てた」と。私たちを「立てる」というのは、生活をさせてくださる、持ち運んでくださるのです。神様が私たちの後ろ盾となり、スポンサーとなって、私たちをきちんと生きる者としてくださる。これが「あなたがたを立てた」と言うことです。なぜそんなにまで神様は私たちを選び、立てて下ったか。「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである」と。ここでもまた「実」、「実をむすぶ」ことにつながってきます。「『実をむすぶ』と何度も言われるが、いったい、その実とは何だろうか」。15章1節以下はぶどうの木のたとえでありますから、これは明らかにぶどうの木にはぶどうの実が実るはずであります。ぶどうの木を植えながら他の果実、柿がなったとかいちじくが実ったのでは困ります。その木には、植えた人の目的があるわけです。ちゃんとその実を求めるわけです。

 「ルカによる福音書」13章6節から9節までを朗読。

 これはあるぶどう園の持ち主、経営者が自分はいちじくの木をそのぶどう園の一角に植えたというのです。土地が空いておったから何でもいいから植えておいたというではない。「実を捜しにきた」と6節にありますから、いちじくの実を得たいと思ったのです。はっきりした意図があり、目的がある。だから、あえて自分のぶどう園の一角のいちじくを植えたわけです。ところが、3年間も来たけれども、7節に「わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない」と。いちじくの木を植えて、その実を得ようとするのだけれども、なかなか実らないじゃないかと。それはそうです。偶然そこに生えておったというのではなく、はっきりとした意図があって、目的があってそれを植えたのですから、その結果が出ないことには意味がありません。だから、この持ち主の主人は「こんなものは切ってしまえ」と「土地をむだにふさがせて置くな」と言う。確かにそうです。ぶどう園ですから、少しでもぶどうの収穫を増やしたほうが得策です。実らない木を茂らせても、何の役にも立たない。観葉植物なら別でしょうが、いちじくの木を実もないのに眺めている人などいません。だから主人が「こんなものは切ってしまえ」と言うのは、理にかなったといいますか、当然のことであります。
そのようにこの実を得るためにこの木を植えるのだ、というのが、目的であります。神様は「わたしがあなたがたを選んだ」と言われ、「あなたがたが行って実をむすび」と期待して下さる。「実をむすぶ」ことが求められている。「え!私が実を結ぶのか。こんな年になって、もう子供は産めないし何が実だろう」と。実を結ばなければならないと言われて、「とんでもない宿題だな」と思われるかもしれませんが、いずれにしてもそれは神様が期待していらっしゃる事です。私たちがこうしてイエス様の救いにあずかって、神様を信じる者とされた。それは確かに私にとって、皆さん個人としての安心立命、平安、あるいは救いの喜びは確かにあります。イエス様のご愛と恵みに感謝して日々喜んで生きることができます。「それだけではいかんのか」と。もちろん、それはそれで幸いなことでありますが、しかし、神様が求めているのは、もうひとつその先です。ここが私たちにいつも問われる事、私たちがすぐに忘れてしまいやすいことでもあります。

ぶどう園を守っていた管理人はご主人に(8節以下)「ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」と執り成します。これはイエス様の十字架のあがない、主の赦しのたとえでもあります。しかし、実が実ることを神様は私たちに期待してくださる。そうなると私どもはつい考える。「私の実とは何だろうか」と。先ごろ秋の叙位叙勲というのがありまして、新聞に文化功労者を筆頭にしていろいろな人々の業績がたたえられました。勲章をもらうのです。「あのようになるのが実を実らすことか」と、私どもはそういう業績、結果を実だと思っています。イエス様もそういうことを言っておられるのでしょうか? 私たちに「頑張って働け」とか、「もっと人をあっと驚かせるような、何か奇抜なことをやれ」とか、あるいは「後世に名を残すようなことをせよ」と「神様が期待しておられるんだ」と。そういうことでしょうか? 実は、そういう意味ではありません。私たちに神様が期待してくださる実とは何か?

 「ガラテヤ人への手紙」5章16節から24節までを朗読。

 ここに「肉と霊」という二つのことが語られています。16節に「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」とあります。霊と肉、私たちは生まれながら肉に付ける者でありました。神様のことを知らず、イエス・キリストとも縁もなく、生まれながらの自我性といいますか、自分の中にある情欲、情動、そういうものに従って自分の気ままな思い、わがままに過ごして来た者であります。その結果、様々な問題に遭い、悩みに遭い、苦しみに出会う。それは聖書で言う罪といわれている事でもあります。私たちが神様から造られ、神様の命の息を吹きいれられて人は生きるものとなったはずでありますが、神様を忘れて自分勝手な、自分の思い、自分の計画、自分の損得利害といいますか、自分の感情に任せて生きた結果、様々な悪しき結果を生みだしてくる。19節以下に「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである」。極めて抽象的な言葉が羅列されていますが、これは罪の結果、肉の働き、肉の実を結ぶということです。いうならば、神様の御思いとは違う、造り主でいらっしゃる神様、創造者であられる神様の願いとは違うものとなる、これが肉の働きであります。神様は人に命の息を吹きいれられ、人が生きるものとなったとき、今読みました19節以下にあるような罪はなかったのです。エデンの園で人は清いものとなり、神と共に生きることができるように創られたのですが、罪を犯した結果、神様の御心に従うことができなくなってしまった。そして、人が自分の我がままな思い、自己中心な思いに生きる結果となった。そうであるかぎり、神様が求めている実を結ぶことができない。神様が人をお創りになったとき、既に人を造った目的があったのであります。それは私たちが神様の御心にかなう実を結ぶ者となることでしたが、その目的が果たせなくなった。それは人の罪の結果です。

だから、16節に「御霊によって歩きなさい」と勧められているわけです。「歩く」とは、生活する、生きることです。「御霊」とは、キリストの霊、神の霊という意味であります。神様からの力、神様から私たちに注がれて来る霊、「それはいったいなんだろうか」と、思われるかもしれませんが、それは目で見ることも手で触ることもできません。「そんなものはないじゃないか。そんなものはあるはずがない」と。否定すればそうかもしれない。聖書には、神様が後の世に全ての人にわたしの霊を注ぐ、神様の霊を与えると約束してくださっています。その具体的な証詞としてペンテコステの日に弟子たちに聖霊を注いでくださいました。その御霊が全ての人に今も注がれていると聖書は語っています。
私たちが聖書のお言葉を信じて、いま私にも神の御霊が宿ってくださっているのだ、と信じる人にはそのとおりなるのです。「でも、どう考えても、私のような者に神様の霊が宿るなんてあり得ないわ」と言う人には、注がれません。大切なことは、信じるのか信じないのか。だから、私たちがいま「そうですか。こんな者ですが、神様の霊を宿すなんて滅相もないような自分ではありますが、神様、あなたがそうおっしゃってくださるなら信じます。ありがとうございます。あなたの霊が私に宿っておられます」と信じる。たったこれだけです。
そうしたらどうなるか。そう信じて、その御霊によって歩く。霊が私の内に宿ってくださっているから、御霊、私の内に宿ってくださる霊は私を導いてくださるから、従って行こうと心を決める。ただこれだけです。「御霊に従って歩く」には、どうやったら歩めるのか? 実に簡単なことです。御霊が私の内にあって一つ一つ日々の生活の、右にするか左にするか、進むかとどまるか、絶えず選択と決断を迫られる事柄の中で絶えず「しばし、待て」と、一瞬待って、御霊の導きを求める。そして、私にいま御霊が宿ってくださるというのだったら、その御方、御霊なる神様が何とおっしゃるか、神様の御心はどこにあるかを求める。これが御霊によって歩くことです。私たちのこれまでの生活は何か事があると右から左、右にする、左にする。たったと走り出す。あれいい、これ好き、これ嫌いと、瞬時に選んでいたと思いますが、その瞬間、一瞬です。ちょっと待つ。そして神様の御心はいかにと問う。 主はここで何を教えて、何をせよとおっしゃるだろうか。ここは右にするべきでしょうか? いったん立ち止まって神様に問う、聞くのです。「いや、聞くったって、相手がいないのに」と思いますが、とにかく祈るのです。「神様、今こういうことがありますが、どうしましょうか」。今まではそんなことは一つもしない。そして「私好き」とか「私嫌い」とか。感情に任せて「ああ、疲れた。今日はやめておこう」とか、自分の気の向くまま、風の吹くままパーッとやっておった。ところが、そうではなくて「御霊によって歩く」という。神の霊が私たちの内に宿って私たちを導いてくださる。だから、どんなことでも「ちょっと待って」、祈る、一瞬。「主よ、これはどうしましょうか」。

 以前にもお証詞したと思いますが、四国におられた伊藤栄一先生、この教会にも来られたことがありますが、先生が大阪かどこかで集会に講師として招かれて行かれたのです。集会にいつも同じネクタイだから、ちょっと新しいのを付けて行こうとデパートに行った。そしてネクタイを買おうと、売り場に行くと店員さんが寄って来て「どれにしましょうか」「似合いますね」と、いろいろ言う。先生もあまり買い物をしたことがなかった。時間を掛けながらやっと何とか候補が決まった。二つほどになったのです。店員さんが「どちらもお似合いですよ。両方買われたら」と。でもそれほどお金はないし、どちらにしようかと悩んでおった。そのとき先生は「ちょっと待ってください」と言って、先生は二つのネクタイを手にとって「天のお父様、いま二つのネクタイをあなたが備えてくださっておられますが、どちらを私が選べばいいのでしょうか、あなたの御心を教えてください」と、声を出してお祈りをしたのです。店員さんはそのままジーッと待っている。お祈りしまして、もう一度二つの物を見ると「右側のこれが、神様が私に備えてくださった物です」と、即座に「じゃ、これにします。これを頂きます」と買って帰る。大変嬉しかったと、私もご本人から伺ったことがあります。まさに「御霊によって歩く」とはこのようなことです。普段、「安い」「高い」とか、そちらで決める。しかし、私どもは祈る。そして「主よ、どちらがあなたの与えようとしてくださる……」、「これはいま私がすべきことでしょうか」などと祈る。そして「御霊によって歩く」。そうすると、そこにありますように「決して肉の欲を満たすことはない」。そうするならば、私たちの肉の欲、生まれながらの自我性は消えて、よろこんで、神様に従って行く。

その結果、22節以下に「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」と。これまた極めて抽象的な言葉で何のことかよく分からない。しかし、これは私たちの内に造り出されてくる性情性格であります。「愛」、私たちには愛がありませんが、御霊が私たちに働き掛けてくださるとき、愛に生きることができる。愛を私たちは受けることができる。肉親とか利害関係を愛する人は多い。そうでしょう。親が子を愛するのは、やはり肉親だから愛するのです。他人を愛するのは、愛しても後は何の見返りもないという……。だから子供を愛するのは、「子供には私は期待しておりません」と言うけれども、案外、親はやはり子供に将来何とか、何もかも全部報われるとは思わないけれども、少しぐらいはちょっと……、と期待がある。そういうかかわりがあるがゆえに、愛することはありますが、それはあくまでも本当の意味での愛にはなりません。ところが、私どもが御霊の導きに従う。御霊によって歩く、言い換えますと、どんなことでも一つ一つ祈りながら「あの方が困った状態にいらっしゃるから……」、祈っているうちに神様が「お前がこのことをしてやれ」と迫って下さる。「そうでした。これは神様、あなたが求めておられることならば、私がさせていただきます」と踏み出して行くと、相手に対する愛を神様は注いでくださる。これは素晴らしいことです。そうしますと、何の利害もない、いや、むしろ利害関係が相反するような人に対しても広やかな心を持つことができる。御霊の導きに従って行くとき、自分の感情を超えて行くことができる。自分の憎しみや敵がい心や、自分の損得利害、自分の利益を超えて他者を愛する力はどこから来るか?それは御霊の力です。御霊によって歩くことによって、私たちになかった愛が与えられて喜びに満たされる。思いも掛けない良いことに会うとか、子供が何か買ってくれたとか、旅行に行ったとか、ごちそうを食べたとか、何か楽しいことがあったら喜びます。そういう喜びは、確かに喜びではありますが、本当の意味での喜びではない。そういうのは事が終われば消えます。食べたら無くなるでしょう。元へ戻ります。ところが、何があっても消えない喜び、「そんなものはあるか」と思われるかもしれませんが、あるのです。それは御霊の導きに従う喜び、御霊に従う者に与えられる喜び。これはどんな事情や境遇、事柄の中にあっても消えることのない喜びです。「イエス様、あなたの喜ばれるところに従うことができた」、「神様、あなたが私に求めておられることを果たすことができました」という感謝と喜びの実は私たちの本当の喜びです。だから22節に「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実」、こんなものを自分の力で実現しようとしてもできません。「寛容」になろうとしたって三日坊主です。まぁ、一日坊主ですか。「今日は怒らないで仏様みたいに何を言われてもジッとしておこう」と、一日やってご覧なさい。次の日はくたびれて倍して怒ります。だから、これは自分の力ではできないのです。ところが、御霊に導かれて……。

 私も時々そういうことがあります。家内と意見が違って「もう、口なんかきいてやるものか」と思って、一日頑張って物も言わないでおこうとすると、くたびれるのです。「人の怒りは神の義を全うするものではない」という聖書のお言葉が胸に響いてくる。「そうでした。神様、ごめんなさい」。自分の義を立てる、自分が正しいと言い募(つの)って相手を打ち負かそうとするのは間違い。そうやって腹を立てたり怒ったりしているとき、教会の方が「先生、情けなき者にも従え、とありますよね」と言われる。「え!私のことを聞いていたのかしら」と思うようなタイミング。その方は私に「亡くなった榎本先生からこんな風に教えられました」と言いたくて、それを言ったのですが、私には違うものが胸にありますからカチンッと来る。「え!この人は私に説教をしやがって」と、ところが、「情けなき者にも従え」と、まさにそのとおりです。御霊の声なのです。私たちが御霊によって歩くこと、これが私たちに最も大切なことです。

 ですから、「ヨハネによる福音書」15章5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。イエス様がぶどうの木で私たちはその枝なのだよ、というのです。それで「枝はぶどうの木につながっていなければ、枝だけでは実を結ぶことができない」。それはそうです。枝を切ってご覧なさい。切った枝は、しばらくは元気そうに見えます。講壇のこの切り花でもそうですが、水の中に入れていても、これはすぐに枯れます。枝だけではどうにもならない。「つながる」とはどうすることか? それが「御霊によって歩きなさい」ということです。御霊によって歩くことがキリストにつながることです。これが私たちの実を結ぶ秘けつであります。「その人は実を豊かに結ぶようになる」。そうしますと、私たちの実とは何かということです。それは私たちが神様の御心に従って、主のためにと生きた歩み、これが実なのです。
先ほど申し上げたように勲章でももらったり銅像でも建てられるたりするような、後世に名を残すような事業とか、あるいは特異な事をするとか、人様の役に立つようなことをするのが「実」というのではありません。聖書が語っている実は、私たちが主のために、キリストの御心に従う。御霊の導きに従って歩むこと、その従った事柄がどんなに小さなことであっても、これが実なのです。日常生活で普段何の気なしにしていることの一つ一つを、祈って御霊の導きに従うことです。だから、一日を終わるとき「今日も主よ、あなたの御心に本当に従うことができました」と感謝する。それが実なのです。その実は「天に宝を積む」とあるように、これは天国に蓄えられる。「ペテロの第一の手紙」にありますように「あなたがたのために天にたくわえられている、朽ちず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者としてくださった」(1:4)と。
私どもは今この地上にあって実を豊かに実らせる、その実はどこにあるか。天国銀行に全部積み立てられているのです。やがて、地上の旅路を終わって天国に帰ったら、そこから「はい、あなたの蓄えたものですよ」と、実を頂く。頂くというか、それを神様にお返しする。だから、タラントの記事にあります。10タラントを受けたものは10タラント、5タラントの者は5タラントをもうけた。やがて主人が帰って来たときに清算をいたします。
私たちもそうです。やがて地上の旅路を終わって御国に帰ったときに、皆さんの口座がちゃんと天国銀行にあるのです。「榎本和義」……少ないねと。「あなたどうしていたの、長い間」と問われる。キリストの霊に従った分だけが貯えられるのです。キリストのために、主のものとして生きた時間、主のためになした業などです。それは日々の生活でもそうです。自分のためにしているのではない。生きること自体が主のために生きる者となっているわけです。だから、朝から夜まで主のものとなりきって、一つ一つ祈りつつ主の導きを信じて「今日もあなたの御心に従う」。「これも主よ、あなたがこれをせよとおっしゃるから、させていただきます」と、感謝して過ごす。その一つ一つが「実」なのです。御霊に従って歩んで行きますときに、日常生活の何の取り柄もない、取り立てて言うべき値打も価値もないような日々のさ末なことであっても、御霊に導かれているうちに、私たちの内に「ガラテヤ人への手紙」で読んだように「御霊の実、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実」というものが、だんだんと私たちを造り替えて行く。そのために私たちを神様は選び召したのです。

 どうぞ、今もう一度、私たちが選ばれ召された使命をはっきりとわきまえて、5節にありますように「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」人生を生きたいと思います。どうぞ、実を結ぶ生涯を全うしましょう。

  ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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