いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(572)「恐れを克服する秘訣」

2017年08月01日 | 聖書からのメッセージ

 「ヨシュア記」1章1節から9節までを朗読。

 

 9節「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。

 

 イスラエルの民はエジプトでの奴隷の生活から救い出されて、神様が与えると約束されたカナンの地を目指して、荒野の旅路をたどってまいりました。ところが、その旅の途中で神様から心が離れて、神様の怒りを引き起こすような事態となったのです。そのために、カナンの地を目の前にしながら、更に40年という長い間、荒野の旅路をたどることになりました。その間モーセはイスラエルの民の指導者として彼らを導いてまいりました。やがて神様の約束の時が来まして、ヨルダン川を越えて、カナンの地へ入る所まで来たとき、神様はモーセを「わたしの所へ帰って来なさい」と、天に引き上げられてしまいました。考えてみると、モーセにとっては痛恨の極み、まことに残念であっただろう、と思います。ミデアンの地にいたところが、80歳にして“燃えるしば”に出会って、神様からとんでもない使命を与えられた。波乱に満ちた人生に引きずり込まれたのです。

 

私たちも時にそういう事態に遭遇することがあります。自分が考えたように、計画したように、思ったような人生を歩んでいるわけではありません。例外なく「こんなはずではなかった」と思っています。「いつどこで、どう間違ったのだろうか」と、いい意味でも悪い意味でも、思います。それは人が計画してそのことを進めるものではないからです。いや、たとえ計画しても人の力ではできないことです。私たちを、受けるべき問題、悩み、様々な思い掛けない事柄や事態に引きずり込んでおられるのは神様です。

 

神様はモーセに「イスラエルの民を約束の地カナンにまで導け」とお命じになりました。それは彼にとって到底想像し難い人生の大転換でした。彼はやむなく、神様から迫られて、断るに断りきれなくて、とうとう引き受けざるを得なかったのです。神様は私たちをそういう事態の中に置かれます。やむなく、仕方なしにと、受けなければならない状況に組み込まれる。今までの人生を振り返って、自分はそう思わなかったのだが、仕方なしにこんな人生になって、こういう事態、事柄を選ばざるを得なかったと思うことが多々あると思います。そのとき私たちが思うことは、目の前のあの人が、この人が、こういうことがあったからと、そこに原因を求めようとしますが、それは間違いです。すべては神様によるのです。だから、全ては神様から始まっているのです。そこで神を認めるということが大切です。「今この事態に神様が私を引き入れておられる」と。モーセも神様にいろいろとへ理屈を並べて断ろうとしたのですが、全部塞(ふさ)がれてしまいました。断りようがなくなった。神様は万事万端を整えて、モーセが引き受けざるをえないように、それしか道がないように整えてしまわれました。それからのモーセは、覚悟を決める。「こうなったら、神様、あなたと一蓮托生(いちれんたくしょう)、行く所まで行きましょう」と、これがモーセの神様に対する信頼です。私たちとモーセの違う所はどこか? その覚悟がない。なぜなら、逃げ腰になるからいけないのです。今、この問題、悩みの中に、誰が引き入れたか、神様です。「じゃ、神様、私はあなたとトコトン行きますよ」と腹をくくればいいのですが、それができない。どこかで、逃げ腰になって、「何とか逃れる道はなかろうか」と、あちらに走り、こちらに走りするからいつまでたっても安心が得られない。

 

私はいつもそこを問われるのです。思い掛けないことに出会います。殊にこうして牧会伝道をしていますと、いろいろな事態が突発的にも起こってきます。自分の思わないような、願わないようなことももちろんあります。でもそういうときに、「ここはいま主が働いてくださるとき」、「いま神様がこのことを始めていらっしゃる」と、そこにいつも立ち返ります。そうしますと、心がぶれない。思いが定まるのです。モーセもそういう思いをもって、神様からのとてつもない使命を受けることになります。それからの40年間、80歳から120歳に至るまで、イスラエルの民を導いて行きましたが、それは平坦で順風満帆な歩みではなかったのです。場所は何と荒野でありますから、いま私たちが生活する文明の利器に囲まれた旅路ではありません。ましてや百万近いイスラエルの民を率いて行くのです。その間、「出エジプト記」や「民数記」に語られているように、様々なトラブルが続きます。苦労に苦労を重ねて、やっと40年たって、いよいよカナンの地、モーセとしてはひと目、一歩でも踏み入れたいと、また周囲の人もそう思ったことでしょう。「モーセのこれまでの苦労を考えたら、抱えてでもヨルダン川を渡ってやりたい」と思ったでしょう。ところが、神様はモーセに「もうお前の使命はそこでおしまい。わたしの所へ帰って来なさい」と、天に帰らせなさいました。

 

聖書に語られていますが、その前に一つの出来事がありました。イスラエルの民の「水がない」という不平に対して、モーセが「何というかたくなな民であろうか」と、思い余って、神様が「岩に命じなさい」と言ったのに、持っていたつえで岩をたたいて水を出した。以前レピデムという所で神様が「岩を打って水を出させなさい」(出エジプト17:6)という経験もあったのですが、今度は「岩に命じなさい」(民数記20:8~)と言われたのに、腹立ち紛(まぎ)れに岩を打ってしまった。「モーセは神様の聖なることを現さなかったから」と神様から責められます。その結果、この大事業の最終仕上げで、そこに出られないことになった。神様は命じた言葉どおりに忠実に従う者を求められたのです。モーセが従わなかったことを責められたのは確かであります。しかし、モーセが元気でヨルダン川を渡ったら、恐らく多くの民は「モーセがこのことをしてくれた」と、全ての誉れがモーセに行ったでしょう。モーセの銅像の一つや二つは建てられたでしょう。だから神様はそれを壊されたのです。神様のわざであることを明らかになさるために、あえて天に引き上げなさいました。神様は、ご自分の義を、神様の神たることをあらわそうとしておられる、ということが一つであります。

 

それともう一つは、神様はモーセの労苦をねぎらうために「お前はそれでよろしい」と、天に召されたのだと。モーセがヨルダン川を渡って民の称賛や誉れを得ることは彼にとって幸いかというと、そうではなくて、むしろ御国に帰ってそこで神と共に生きる者となるほうが、はるかに願わしいことであると思います。パウロも「わたしがこの地上に残っているよりは、私は早く主の御許に帰りたい。そのほうがわたしにとって幸いなのだ。しかし、なおこの地上にわたしがいなければならないとするならば、どちらを優先させるべきか、わたしは分からない。しかし、神様がとどまれ、とおっしゃるならば、この地上に残らざるを得ない、でもわたしとしては早く神様の所へ帰りたい」(1:21~)と、そういう意味のことを「ピリピ人への手紙」に語っています。モーセも恐らくそうだったと思います。確かに「自分の大事業の総仕上げ、最終場面を見たい」と思ったに違いないが、しかし、神様の御許に携え上げられて、神と共に生きる、新しい永遠の御国の生涯に入れていただけることは幸いであります。

 

私たちもそうでしょう。恐らくそうだろうと思います。中には「いや、一日でも、一秒でも長くこの世におりたい。孫の行く末を見たい。ひ孫の一人も見たい」と思うかもしれませんが、そんなことをしていたら、私たちは神様の前に道を全うすることはできません。それよりも私たちは「早く御国に帰りたい」と、思わないですか? 思いますよね。私はそう思う。「神様の使命を果たし終えたら、いつでもこの地上の生涯を終わりたいものだ」と思います。

 

それでモーセは神様の御許に帰って行きました。その後に残ったのは、1節に「主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、2 『わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい』」。今度はヨシュアに対して、「あなたをモーセに代えて民の指導者とする。あなたがこれから民を率いて約束したカナンの地へヨルダン川を越えて入りなさい」と。このときヨシュアは「してやったり」と思ったはずはない。大変な使命を負わせられる。それまではモーセの従者として、モーセの指示に従えばよかった。ところが、今度はヨシュアが矢面に立つといいますか、先頭に立たなければならない。神様から与えられたこの民にヨルダン川を渡らせ、カナンの地へ導き入れよと。しかもそこは探ってきたように、沢山の先住民が既に住んでいる。それを戦い取っていかなければならない。様々な悩み、困難が、想像するどころか、目に見えているわけであります。そんな所に出掛けて行くこと、しかも付いて行けばいいのではなく、自分が先頭に立って、それらに立ち向かっていかなければならない。ヨシュアは怖じ気付くといいますか、なすすべがなかったと思います。

 

私たちもそういう事態によく会います。自分の思わない、願わないような事態に引き出されるといいますか、立たせられる。「お前がそれをせよ」と神様が私たちをそこに置かれる。いま皆さんが受けているいろいろな事柄は、神様があなたに「それを負え」と、重荷を与えてくださる。ヨシュアに対して神様が「この民を率いてヨルダン川を渡って、カナンの地へ導き入れよ」と、これがヨシュアに与えられた使命であります。「私はヨシュアじゃないから」と思うかもしれませんが、私たちはいま神様がこの世に命を与えて生きる者としてくださって、80年か90年の旅路を導いてくださる。それはただ単に「好き勝手をせよ」と生かしておられるのではない。私たちに使命を与えておられる。「私の使命は何だろうか? 」、皆さんがこの地上に生きて、日々出会う事を通して、神様の栄光をあらわす、神の神たることを証しする神の証人としての使命を与えられているのです。

 

神様はヨシュアに対して「この民を導き入れよ」とおっしゃいます。見えるところの条件は、イスラエルの民を、ヨルダン川を渡って導き入れて、カナンの地にそれぞれ土地を得させて、安住の地を作り出してやる。これが目的ですが、実はこの事業を通して神様が求めていることは、その事業の中で神の神たることを証ししようとするのです。ヨシュアが自分の力や知恵やいろいろな人々を集めて委員会を設け、組織を作って、それで民を動かし、神様の約束であるカナンの地を自分たちのものとし、安住の地に仕立て上げていくことが目的ではない。それはあくまでも神様のなさることです。その仕上げていくプロセス、経過の一つ一つの中で神様が生き働いていらっしゃることをあらわすのが使命だった。

 

私たちもそうです。みなさんが今引き受けている問題、解決しなければならない事柄、それを何とかやり遂げようと、親の世話であったり、子供たちの世話であったり、あるいは自分自身の病気や、老後の不都合な事態の中で、「ああしようか」、「こうしようか」としているその一つ一つ、それを解決することが目的ではない。神様が私たちを生かしていらっしゃるご目的は、問題を解決していく中で、あなたが神様とどう向き合って、神の神たることをどのように証ししていくか、それが求められているのです。だから、私たちがこの世のことを何とかうまくやり遂げて、見える形での結果を出そうとするのは、私たちの目的ではない。結果は神様が出してくださる。だから、私たちは一つ一つの事柄の中で、祈って神様の力を求め、神様が知恵を与え、神様に従うことを通して、「私ではなくて、神様がここに働いているのです」と、あらわすのが私たちの使命です。その結果がどういうふうに仕上がるのか、これは神様が出される。いうならば、付録であります。その使命が終わったら、神様は「人の子よ、帰れ」と私たちを御許に引き上げなさいます。だから、私たちのすべきことは常に問題や事柄に出会う中で、神様を信頼していくことです。

 

ヨシュアは突然、神様から与えられた大事業を受けざるを得なかったのですが、そのとき神様は5節に「あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」と約束なさいます。これから入っていくカナンの地、そこで出会ういろいろな出来事、想像の付かないような事態や事柄、その中で「わたしは、あなたと共におる」と約束しているのです。「共にいる」とは、「わたしがするのだ」ということです。神様が「わたしがそのことを導くから、あなたはわたしに従ってきなさい」。「あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」と。神様が先立って、このことを導かれる。だから、ヨシュアのすべきことは何か。共にいてくださる神様と共に歩もうと努めること、共にいてくださる神様の思いを実行する、御心に従うことを努める、これ以外にないのであります。事柄や事態をどういうふうにしていくのか、あるいは、どういう結果に導くのか、それは神様が決めなさる。時々刻々、一つ一つの事柄の中で、神様がここにいてくださるのだと認めて、神様を第一にしていく。これがヨシュアに求めていらっしゃることです。だから5節の終わりに、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」。エジプトの地からイスラエルの民を救い出して、40年の荒野の旅路も常に神様が導いてくださった。確かにモーセは指導者ではありますが、しかも目に見える形での指導者ではありますが、しかし、モーセもその旅路の全てにあって、神様に従ったのです。神様の求めるところ、神様の「よし」とおっしゃるところに、徹底して従った。イスラエルの民に「お前たち、今度はどうしたらいいのか? 」、「何がいいのか? 」と民のご意向を伺い、ご機嫌を伺いつつ、モーセが指導したのではない。モーセは徹底して、共にいてくださる神様に向かって語りました。神様に求めました。神様はそれに応えられました。神様の御思いを民に伝えました。これがモーセの40年間旅路を歩んできた歩みです。

 

この時のヨシュアに対しても、「わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」と。イエス様が「 見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)と約束されました。イエス様が今日私たちと共にいてくださって、なすべきこと、私たちの知恵となり、力となり、神様の御心にかなうように、思いを導いておられるのです。私たちも今ヨシュアのように、共におられるイエス様の、主の御声に従うことがなすべき全てです。これから先どのようになるのか、あるいは事態や事柄、いま目の前の私がしなければならないこのことに付いてどうしたらいいのかと思い煩いますが、どうしたら、こうしたらもない。ただ「主よ、今この状態ですが、どうしましょうか? 」と、主に聞くことしかありません。主が教えてくださるところ、主が語ってくださる御思いに従う。神様はヨシュアにこのことを求められました。

 

 6節以下に、「強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである」と語っています。ここに「ただ強く、また雄々しくあって」とあります。神様が「わたしがあなたと共に行くのだ。あなたを見放さない、捨てない。だからどんなことがあっても「強く、また雄々しくあれ」と。

 

 私たちはここがちょっと弱いのです。イエス様が「わたしはあなたと共におる」と言われるのに、私たちは見える状態、人の言葉、肉に付ける思いに引きずられて恐れを抱く。この「恐れ」が、私たちの一番の弱みであります。人は恐れると弱くなります。「箴言」にも「人を恐れると、わなに陥る」(29:25)と語られています。私たちは弱くなる。だから、神様は私たちに「強く、雄々しくあれ」とおっしゃる。これは「恐れるな」ということです。なぜなら、「私が共にいるのだから」と。

 

 7節に「ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない」と。「律法を守れ」といわれると、「十戒から始まった律法を一字一句、忠実に守らなければいけない」と思います。そして「律法は新約聖書で語られていることとちょっと違うではないか」と思われるかもしれませんが、実は「わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない」と言う、この意味ははっきりしています。簡単に言えば、「イエス・キリストに従いなさい」ということです。イエス様はご自身が「わたしは律法の終わりであり、完成者である」とおっしゃいました。だから、イエス様が来られてから、旧約時代のモーセの律法の書は、もはやイエス・キリストによって全うされた。だから、私たちがイエス様を心に信じて、イエス様の語るお言葉に絶えず耳を傾けていくことが、実は律法を守ることです。だから、ここにいわれている「わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い」というのは、「イエス・キリストの言葉に従って、イエス様から右にも左にも離れたり曲がったりしてはいけない」ということです。「それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである」。「イエス様と共に歩め」とここで言っているのです。ヨシュアの時代はまだイエス様の到来以前の話ですから、律法のことについて神様はお命じになりました。しかし、いま私たちは、この律法はイエス・キリストによって全うされた、完成されたものです。イエス様のお言葉に従うこと、聖書の御言葉を通して主の御思いを絶えず求めて、そこで神様に従っていくこと、これが律法を守っていくことです。「それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである」。そうです、私たちがどんなときにも絶えずイエス様を第一にして、主の御声を求め、主の御思いを求めて、神様に信頼する。神様の導かれる所に従って行くとき、必ず勝利を得させてくださる。私たちに望みと安心と力を神様はあらわしてくださる。

 

 だから、8節に「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」と。ここに「この律法の書をあなたの口から離すことなく」と、言い換えると、イエス様を心に信じて、「昼も夜もそれを思い」、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(Ⅱテモテ 2:8)とパウロは語っています。「イエス・キリストを、いつも思うこと」、これが律法を守り行うことに他なりません。「そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」と、私たちに神の神たることをあらわして、私たちを辱(はずか)めることなく、神の民として、神の栄光をあらわす者として、用いてくださるのです。

 

 9節に「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」と。私たちは何か事が起こると、ハラハラ、ドキドキと、「ああなるのではないだろうか」、「こうなったらどうしようか」と、人を恐れる、病気を恐れる。痛い所があると、「どうなったのだろうか」、こうなったら「いつ死ぬのだろうか」と、焦りうろたえます。私たちが徹底して主に信頼するのでなければ“恐れ”が湧いて来ます。本当に弱いですからね。私たちはすぐに恐れます。そのときにいつも御言葉に立ち返り、律法の完成者でいらっしゃる主を見上げて、「ここに共にいてくださる」と信じて、よみがえりの主と共に生きる者とされていることをもう一度確認することが大切です。

 

 「歴代志下」20章20節を朗読。

 

 これはヨシャパテ王の時代でありますが、彼は敬虔な信仰を持った王様でありました。ですから神様は彼の治世、大変恵んで幸せな時代を過ごしました。あるとき、アンモン、モアブ、セイル山の人たちが戦争を仕掛けてきました。大軍が攻めて来るということで、ヨシャパテ王様は怖じ気づくのです。自分たちに戦う力がなかったのです。それでどうしたかというと、彼はまずユダの人々に神様を求めることを命じました。

 

 「歴代志下」20章3,4節を朗読。

 

 大軍に攻められて滅びようとする瀬戸際に立っていた。それに対して戦う力も何にもないのです。だから、ヨシャパテ王様は国中にお触れを出しまして、「断食して神様を求めなさい、お祈りをしなさい」と言ったのです。すると人々が皆集まって神様を求めました。その時ヨシャパテ王様も自分の近くにある神様の宮に出掛けて行って、その前にイスラエルの会衆と共に神様に祈りました。その祈りが5節以下に記されています。

 

12節に「われわれの神よ、あなたは彼らをさばかれないのですか。われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」。このときヨシャパテは神様に自分の思いを投げ出します。恐れが生じる。弱いですから、恐れが必ず付きまとう。どんなに強くあろうと思っても、すぐ恐れます。恐れないでいたいのですが、どうしても恐れる。これはある意味で幸いなことです。恐れるとき、「主を求めなさい」という神様からの呼びかけだからです。私たちが神様にピタッと密着しているとき、恐れはありません。少しずれますと、その隙間に恐れが忍び込んできます。恐れるとき、大抵私たちの心が、神様でなくて他のものに向いている、いろいろなことに思いが乱れているときです。だから、恐れを覚えるとき、これは幸いな恵みの時で、そのときすぐに「神様……」と、神様を求めることが大切です。こんなに自分が弱くて、いつも戦々恐々と恐れてばかりで、「私はもう駄目です」と言う、それは間違いです。恐れてもそこですぐに神様を求めることです。このときヨシャパテ王様も神様に求めました。「われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません」と。神様の前に今の自分の状態を全部さらけ出すのです。格好をつけない。「当る力がない!」、「いかになすべきかを知りません!」、「知恵もありません」。恐れるときここまで居直らなければなりません。神様の前に格好をつけて、「神様、ここまでやりますから、足らないところは助けてください」と、「この辺がまだですが、こちらは大丈夫ですから……」と、そんなことをぐじゃぐじゃ言っている間は駄目です。「私は何にもできませんから、神様、あなたに頼る以外に他にないのです」と、これが恐れを克服する秘けつです。ここでヨシャパテは「われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません」と。「神様、私は何にもできません」、「ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」。心に恐れが湧(わ)いてきたとき、不安になったとき、神様をどこまで信頼しているのか、どれほど私は全てを神様に投げ出しているか。他につかんでいるものがあるか。ここをつかみ、あれを握り、「それだけでは不安」だから、「もう一つ神様、保険の代わりにお願いします」と。それでは駄目です。それだといつまでも恐れは消えません。「知恵もない、力もない、考えるところもない、人もない、何もない、私にあるのは、神様、あなただけです」と、心から主に信頼し、主を呼び求めてください。そうすると、神様は必ず応えてくださる。神様は神の人を通してヨシャパテに一つの答えを出してくださいました。

 

15節に「ヤハジエルは言った、『ユダの人々、エルサレムの住民、およびヨシャパテ王よ、聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられる、「この大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである」』」。ここで神様は「この大軍が攻めてきたのもわたしのわざであり、これを打ち破るのもわたしがするのだ」。私たちが恐れを抱いて、「神様、私の望みはあなた以外にありません」と、徹底して自分をさらけ出し、神様にしがみつくと、そのとき初めて悟るのです。「そうでした、このことは全て神様のわざで、神様が戦う主の戦い。私が戦うのではない」。私たちが与えられている問題を乗り越えていくとき、いろいろなことを考えます。あれがない、これが足らない、こうなるかもしれない、ああなったらどうしようと、そういう不安のためにどんどん恐れが深まって行く。これは主が起こされたのだ、という思いが消えているからです。

 

ですから17節に「この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい」とおっしゃるのです。私たちの信仰をここに置いて行きたいと思います。神様の戦い、「恐れてはならない。おののいてはならない。あす、彼らの所に攻めて行きなさい。主はあなたがたと共におられるからである」と。負け戦と分かっていても、「そこで踏み出して行け」と。これが私たちには少ない。私たちは手の内を計算して、「これだけあるから、これくらいはできるかもしれない、これはちょっと……」と、そうであるかぎり信仰に立てない。「神様が『行け』とおっしゃるのだったら、はい、何もありませんが……」と、「持てる力を持って行け」とおっしゃる。

 

ギデオンに対しても神様はそうおっしゃったのです。「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい」(士師記 6:14)と、ギデオンは「わたしには力がない」と言うとき、神様は「大丈夫、何もない力で行きなさい」と、有りのままで出なさいと。だから、恐れないで、どんなにでも私たちを支えてくださる神様が共にいてくださいます。お金であろうと、健康であろうと、時間であろうと、人であろうと、どんなことでも与え給う御方です。だから、いま与えられている問題を逃げないで、それをしっかりと見て、「戦いに出て行け」とおっしゃるのです。

 

「歴代志下」20章20節に、「彼らは朝早く起きてテコアの野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立って言った、『ユダの人々およびエルサレムの民よ、わたしに聞きなさい。あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる』」。私たちはいろいろなことで恐れを抱く。財布の中を見ても、ないわけではない。「こちらにはあるのだが、これを使うと後がどうなるか分からん」と言って、「目の前のこのことにはちょっと出せないし、どうしよう」と悩む。そのときないわけではないから、今あるものを持って出て行けばいいのです。「でも、後が困る」と思う。「後のことは神様がご存じだ」と、そこまで信仰に立てるかどうかです。神様が空っぽになれば、また備えてくださる。力がなければ、力を与えてくださる。「いま与えられたものを持って、主よ、出て行きます」と、決めればいいのです。ところが、失いたくないと、いつも握っているものがあるから、すっきりしない。信仰のだいご味といいますか、まさに神様の戦い、主のわざを目の当たりに見ようではありませんか。

 

「ヨシュア記」1章9節に、「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。何か恐れることがありますか、あるいは不安を覚えることがありますか、もう一度、そこでしっかりと見つめ直して、いま自分はどこに立っているのか? 神様の前に信仰に立って歩む道はどこにあるのか? ヨシャパテ王様のように、「主よ、あなたが私の全てです。あなた以外に他に何も頼るものはありません」と、しっかりと神様にすがり付いて、私たちが立って行くとき、力が与えられる。神様はご自身の力、神の勝利をあらわしてくださいます。神様の与えてくださる結論、結果を共に喜ぶ者となりたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


最新の画像もっと見る