いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(557)「成功の秘訣」

2016年03月22日 | 聖書からのメッセージ

 歴代志下」20章20節から23節までを朗読。

 

 20節「彼らは朝早く起きてテコアの野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立って言った、『ユダの人々およびエルサレムの民よ、わたしに聞きなさい。あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう』」。

 

 ユダの王、ヨシャパテ王はアサ王の息子であり、その跡(あと)を継いで王となりました。アサ王は神様を大変畏(おそ)れ敬い、その道に歩んだ王様でありました。ところが、彼も晩年は高ぶったために、神様の御前からそれてしまい、ついに非業の死を遂げるといいますか、不本意ながら生涯を終わります。その跡を受けて立ったヨシャパテも父親に倣(なら)って信仰深い王様であったようであります。

 

 「歴代志下」17章1節から6節までを朗読。

 

 ヨシャパテ王は、父の跡を継いで若くして王様となりましたが、神様は彼と共にいてくださった。3節に「主はヨシャパテと共におられた」とあります。それはヨシャパテ自身が神様を畏れ敬い、神様を求めたことに他なりません。そのヨシャパテに対して神様は豊かな恵みを、富も誉も増し加えてくださったのであります。それだけに彼はいよいよ心を励まして国内にある全ての偶像や神様に背(そむ)くものを取り除いて清め、神様の前に正しい民としてユダの国を導いたのであります。4節に「イスラエルの行いにならわなかった」とあります。イスラエル王国とユダ王国は、かつて一つの民、アブラハムを父祖とする神の選びの民でありました。サウル王がイスラエルという国を造りましたが、その後ダビデ王、ソロモン王と続いて大変恵まれた国になったのであります。ところが、ソロモン王が亡くなった後、この国が二つに分かれてしまうのです。一つはレハベヤムというソロモン王の息子が王に就きますが、この王に従いたくないという反乱分子がヤロベアムという人を頭(かしら)にして、たもとを分かったのです。イスラエルは12部族ありましたが、そのうちの10部族がサマリヤの町を中心にしてイスラエル王国を建国しました。彼らはどちらかというと、まことの神様を軽んじるといいますか、神様からそれた歩みをするようになりました。ですから、その後のイスラエル王国の王は、神様を恐れない王が次々と立てられます。その代表格がアハブ王です。アハブ王は神様から愛された人物でもありましたが、しかし、そのなすところは神様の心を痛めるようなことばかりでした。その後の王たちも同じような道を歩んでしまいます。一方ユダの国はベニヤミン族とユダ族とが一つになって造られました。エルサレムを中心にした国でした。その国はレハベヤムというソロモンの息子が跡を継ぎ、それに引き続いて王が立てられますが、この国はダビデ王の信仰にならって、神様を大切にする王が比較的続いています。その中にアサ王もヨシャパテ王も含まれています。神様を畏れ、その道に歩む、神様の備えられた道を大切に守ることによって、神様からの祝福をいただきました。

 

 ヨシャパテ王様もそうでありまして、神様が共にいて彼らを大変恵んでくださった。5節に「それゆえ、主は国を彼の手に堅く立てられ」と、神様がヨシャパテ王様の信仰に応えてこの国を堅固にしてくださった。そのために周囲の国々からヨシャパテ王様は恐れられていました。「この王様に敵対することは得策ではない」という。それどころか、何とかこの王様と仲良くしたいと、いろいろな人々が彼の所へくるのであります。

 

 これはヨシャパテ王様だけではなく、今の私たちにも求められていることだと思います。つい私どもは人の歓心を買い、また人からの称賛や誉を得ようとして努めます。そういうと、必ずしも良い結果が出てきません。むしろ軽蔑(けいべつ)されたり、疎(うと)んじられたりします。つい人は相手の歓心を買い、誉を得ようとして卑屈になりますし、またへつらう者になっていきます、また、相手はどうしてもそれを見抜きます。自分は称賛を受けているようであって、裏側では軽蔑されるという事態に陥(おちい)ってしまいます。神様を畏れることは、人の歓心や誉や称賛を求めるのではなくて、神様から喜ばれる者となることです。だから、パウロも「ガラテヤ人への手紙」で、「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」(1:10)と語っています。まず神様を第一にする。「マタイによる福音書」にありますように「まず神の国と神の義とを求めなさい」(6:33)。言い換えると、神様の前に自分を正しく歩む者としなさい、ということです。神様を畏れ敬い、神様に喜ばれることを努めていく。そうしますと、おのずから周囲の人々もそれに恐れをなす。恐れというか、驚きといいますか、ある種の尊敬を必ず受けるようになります。どっち付かずで、あの人にもこの人にも喜ばれたいと思うと、二またも三またも心が千々に乱れてしまうから、結局何一つ良い結果にならない。だから、私たちの最善の道は何かというと、神様だけを見てそこに全てを懸けるといいますか、その御方の前に常に自分を置く生涯、これが幸いな恵みにあずかる道であります。そうしますと、神様のほうが私たちを恵んでくださるのです。

 

 ヨシャパテ王もそうでありまして、4節に「その父の神に求めて、その戒めに歩み、イスラエルの行いにならわなかったからである」とあります。「イスラエルの行い」というのは、先ほど申し上げたように、サマリヤを中心にしたイスラエル王国、この国は父祖ダビデの信仰に倣うよりはこの世の思いに重点を置いていたのであります。だから、この後にも歴代志や列王記を読みますと、「ヤロベアムの罪にならい」という表現が出てまいります。彼は二つに分裂したときのイスラエルの始まりとなった人物であり、彼は神様を畏れるより、人の力や人の知恵、そういうものに頼ったのです。そのため神様からの祝福を受けることができなかったのです。しかし、ヨシャパテ王様は「イスラエルの行いにならわなかった」とあります。「それゆえ」、5節に「主は国を彼の手に堅く立てられ、またユダの人々は皆ヨシャパテに贈り物を持ってきた。彼は大いなる富と誉とを得た」と。神様の前に道を正し、自ら主に喜ばれる者としての歩みを整えたので、神様は彼を祝福してくださった。全ての面で豊かな恵みを頂くことができた。その結果、さらに神様の前に道を清め、正して行く。良い意味でよい循環になって行く。彼は国を治めていく大変優れた王の一人として神様は立ててくださったのです。

 

その後18章にアハブ王とヨシャパテ王の記事が語られています。アハブ王は、イスラエル王国の王であり、何度となく神様に背いて、繰り返し神様から叱責(しっせき)を受けた人物であります。この時ヨシャパテ王とアハブ王は一緒になって戦いに出掛けます。これはヨシャパテ王に神様が一つの教訓を与えられたのだと思います。ヨシャパテ王はアハブ王を通して、神様に仕える道がどういうものであるかを体験することになったと思います。

 

「歴代志下」19章4節から7節までを朗読。

 

実に模範的な優れた王様で、彼はもう一度各地を巡って「先祖たちの神、主に彼らを導き返した」と4節にあります。まことの神様に立ち返るようにと彼らを導いたのです。そして司法制度をきちんと整えました。「裁判人を置いた」とあります。それまでどのような裁判が行われていたか分かりませんが、この御言葉から推測すると、わいろを取るとか、いい加減な裁判が行われていたに違いない。ところが、彼は裁判をするときも神様がちゃんと見ているのだから、正しい裁判をするように、7節「主を恐れ、慎んで行いなさい」と勧めています。彼が何を第一にし、何を大切にしていたか、このことを通してよく分かります。ヨシャパテ王はそうやってどんなことにも神様を大切にして、神様の喜ばれる道を選び取ったのであります。

 

そういうときに、一つの出来事が起こりました。

 

「歴代志下」20章1節から4節までを朗読。

 

何事も順調に進んでいるように思いますが、そのときユダの国に一つの出来事が臨みます。「モアブびと、アンモンびとおよびメウニびとらがヨシャパテと戦おうと攻めてきた」と。三つの国が連合してユダの国に戦争を仕掛けてくるのです。このユダの国はまことに小さな国で、数も少なく、軍隊も力がない。むしろイスラエル王国のほうが人口も多くて大きい。相手に立ち向かうことなど不可能です。ただあるのは神様を信じる信仰だけです。だから、3節「そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けて助けを求め」と。「主に顔を向ける」のがヨシャパテの真骨頂といいますか、幸いなところです。

 

問題が起こったとき、何としてもそれを解決しようと思います。私たちは神様の恵みにあずかって日々主の御手に支えられ、導かれていますが、思わないことや願わない問題に突然出会います。そうすると、まずうろたえます。何とかこの事態から逃れようともがき、様々な手立てを考えます。自分の持っているいろいろな力、経済力でしょうか、人とのつながりや政治力もあるでしょうか。いろいろな力をもって、何とかこの問題を解決して安心を得ようと努めます。ところが、現実の自分を見ると、そういう事態に対処できる力が何一つないのです。年を取るとますますそういうものが欠けてしまいます。仕事を退職して、そういうことに力を振るうことができない。そうすると、ますます事態を恐れ、力を失い、沈んでしまいます。

 

ヨシャパテはどうしたか? 彼も自分の国が弱い国であり、軍備も何もないことを知っていました。ただ彼には神様を信頼する堅い信仰がありました。だからこの3節にありますように、「そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けた」。もちろん彼は生身の体をもつ人間でありますから、恐れないわけではありません。「大変なことになった」と彼は恐れたに違いない。しかし、だからといって、沈んでしまって力を失い、失望落胆したというのではなくて、そこから「主に顔を向ける」、神様の前に出て行く。神様を求める。これがヨシャパテ王様のただ一つの力の源だったのです。

 

私たちも今この恵みの中に置かれている者であります。自分の持っているものを見るなら、お金もない、健康もない、年を取って、かつての若かった時の力はもはや消え去ってしまった。しかし、次々と襲ってくる問題の中に私たちは立たせられます。そのとき、私たちが何をより所とし、頼りとして行くのか?主に向かって顔を向けること、私たちにはそれしかないのです。他に何かありそうに思うから、「まだ、神様を求めるほど落ちぶれていない」とか「行き詰ってない」と思いますが、初めからないのでありますから、まず主に顔を向ける。そして「主の助けを求めた」とあります。神様の助けを求める。

 

この時ヨシャパテ王は「ユダ全国に断食をふれさせた」。非常事態宣言であります。そして何をしたかといいますと、「皆が来て主を求める」。4節に「ユダのすべての町から人々が来て主を求めた」。彼らは主の宮にやって来まして、そして神様を求めたのであります。

 

「歴代志下」20章5節から7節までを朗読。

ここでヨシャパテ王は、神様の前に祈るのです。「あなたは万物を力ある御手をもって握っておられる御方、異邦人すらもあなたが御心のままに統べ納めておられるではありませんか」。そして先の12節に「われわれの神よ、あなたは彼らをさばかれないのですか。われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」と。「神様、あなたはすべてのことを統べ納めておられます。この度のアンモン、モアブ、メウニびとらが連合して私たちを攻めてくることをあなたは許すのですか。どうぞ、彼らを裁いてください」と。ここに「われわれの神よ」とあります。「われわれの神」、他人の神様ではない。誰かの借り物の神様ではない。外国の神様ではない。あなたの神、私の神です。「あなたは彼らをさばかれないのですか」。「攻めてくる異邦人、神を恐れない民をあなたはそのままにして置かれるのでしょうか」。「またいかになすべきかを知りません」と彼は告白しています。「私たちはこれに当たる方法も手段も全くない」。「ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」。神様、あなたを待ち望んでいます。これはヨシャパテ王の祈りです。

 

私たちはここまで自分を投げ出して、裸になって神様に求めて行く。これが恵みにあずかる秘けつです。つい私たちは「神様を信じます」と言いながら、どこかで「でも、あれもあるし、これもあるし、ひょっとしたらこっちがいいのじゃないだろうか」とか、「あれがいいのじゃないだろうか」と、人を見、事情や境遇、目の前の事柄に望みを見出そうとしやすいのです。そうであるかぎりなかなか「あなたを仰ぎ望むのみです」とは言えない。「あなたを仰ぎ望んでいますが、こちらはどうなのでしょうか、あちらはどうなのでしょうか」と。そうなると、どうしても力が欠けてきます。もう逃れ道がない所に自分を置くことです。「神様、あなたを仰ぎ望むのみです」と、「あなただけが私の力であり、また私の頼むべき御方です」と彼は告白したのです。そのとき、ヤハジエルという人に神様は霊を注ぎまして御心を語らせました。

 

「歴代志下」20章15節から17節までを朗読。

 

神様はヤハジエルという人に霊を注いで、神様の御思いを明らかにしてくださいました。このとき、15節「この大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである」と神様の御心を語ったのです。自分たちの軍と攻めて来る者の力を比べてみると、まことに無きに等しい、ゼロであります。「こんなもので勝てるはずがない」事態、相手はそれほどの力をもって攻めてくる。つい恐れます、おののきます。おじ気づいてしまいます。ところが、神様は「これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである」。言い換えると、「あなた方が戦うべきことではなく、わたしが戦う」と神様はおっしゃる。ヨシャパテ王は真剣に神様を求め、国中の人々を神様を畏れる者へと清め整えました。そんな信仰深いといいますか、神様にとってこれほど忠実な僕はいないと思われる彼の国にどうしてこんな災難や悩みが起こってくるのだろうか?

 

「私はこんなにお祈りもし、そして熱心に教会にも通って、聖書を毎日読んで、何か神様の前に罪を犯しはしないかと戦々恐々と身を清めて慎んで歩んでいるのに、どうしてこんな目に遭わなければならない」と、ときどき言われます。「私の何が悪くて、神様はこんな意地悪をするのでしょうか」と。確かに、私たちはどこが悪くてこんな目に遭わなければいけないと疑問に思う。恐らくヨシャパテ王様もそう思ったに違いない。「こんなにまで一生懸命神様を大切にし、神様を第一にしてきたのに、どうしてこんな目に遭わなければいけない」と。だから、彼は祈ったのです。「あなたは神を恐れない人たちがこんなに攻めてくるのに、それを放ったらかしておくのですか。あなたはそんなことを勝手にさせる御方ですか」と。ヨシャパテ王のちょっとした不平不満がなかったとは言えないですね。しかし、それでも彼は「わたしはあなたを仰ぎ望む以外に他に方法がありません」と、神様の手に自分を完全に明け渡してしまうのです。それに対して神様は、実はこの事が起こったのは、神の神たることをもう一度明らかにするためです。15節の後半に「これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである」とあります。主の戦い、神様がこの戦いを起こして、そこでもう一度ヨシャパテ、及びユダの国の人々の信仰を堅くしようとしていらっしゃるのです。

 

 私たちの信仰は、何か問題があることによってはじめて成長します。事がなかったらいつまでたっても成長しません。だから、悩みや苦しみや悲しいことが次々と起こってくる。それは大きな恵みです。神様がその人を愛すればこそ、そのようになさるのです。聖書にもあります。「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル 12:11)と。また「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(ヘブル 12:6)とあります。クリスチャンだから問題がない、悩みがない、私は熱心に神様を求め、信仰に励んでいるから事もなく順調に行くということは、あり得ません。いや、むしろ熱心になればなるほど、返って問題や悩みが次々ときます。それはその中で私たちの信仰をいよいよ堅くするためです。

 

 このときもヨシャパテ王に「主の戦い」、神様が万物の主であること、この戦いの中にあってもこれは神様がなさるわざであるよと、明らかにする。確かにヨシャパテ王は神様を畏れ敬い、神様を信頼する人物でありましたが、しかし、徹底してどこまで本当に神様を信じていたのか? これが問われます。いやそれどころか、もっと徹底して神様を信頼する者に造り替える。それは神様のご愛に基づいた願いです。

 

 だから、私たちに対しても神様はそう願っておられるのです。私たちに何としても神様をもっとはっきりと信じる者となってほしい。もちろん皆さんはいま神様を信じているに違いない。「信じる」とは本当に短い言葉ですが、具体的にどこまで信じ、どういうふうに信じるのか、実際の問題の中で、事に当たって真剣に神様と取っ組み合いをするといいますか、神様を求めて行かなければ確かになりません。だから、「神様を信じましょう」、「はい、信じています」と言うのは簡単です。ところが、いま目の前に起こっている出来事が「主の戦いです」といい得るかどうか。これも神様が起こされたこと、「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)」(エレミヤ33:2)とおっしゃる。「わたしは初めであり、終りである」御方(黙示録1:17)がこのことを握っておられると信じているか?

 

 イエス様がエルサレムへ行く途中でいちじくの木を枯らしてしまった記事がありますが、そのときペテロが「先生、見てください。いちじくの木が枯れています」と言ったとき、イエス様がひと言、「神を信じなさい」(マルコ11:22)と言われた。ペテロも神様を信じているはずですが、いま目の前に見ている、理解できない、納得できない事態や事柄であっても、そこで本当に神様を信じているか? これは私たちがいつも問われていることです。習慣として普段の生活の中でも神様を信じて祈ることを欠かさない。しかし、いよいよ問題が起こったときに、「どうしてこんなことになったのだろう。原因はあの人かな、この人かな?」と悩む。そこには神様がいらっしゃらない。「いや、これは主の戦い。神様が事を起こして、そこで神の神たることを証してくださる」と信じる。

 

 このときもそうです。「これは主の戦いです」。「じゃ、神様がなさることだから、“果報は寝て待て”、自分は昼寝しておこうか」という話ではない。その後にありますように、「今から出て行って戦いなさい」と言われる。「戦え」と言われたって、自分たちには相手に勝つだけの力が何もない。「自分たちのない力でいいから、それを持って戦いに行け」と言われる。16節以下に「あす、彼らの所へ攻め下りなさい。見よ、彼らはヂヅの坂から上って来る。あなたがたはエルエルの野の東、谷の端でこれに会うであろう。 17 この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない」と。「この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。でも戦いに行け」と言われる。何か矛盾したような話です。「戦わなくていいのなら、行かなくていい」と自分の都合のよいように解釈しますが、神様は無駄と思われるようなことも求めなさいます。「どうして、私は今こんなことをしなければいけない。こんなことになるのだったら、あんな苦労はしなくてよかった」と。いや、そうではない。無駄な骨折りと思われるそこにも神様を信じる。神様の求め給うことがある。だから、彼らは戦いに出掛けていくのです。

 20章20節に、「彼らは朝早く起きてテコアの野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立って言った、『ユダの人々およびエルサレムの民よ、わたしに聞きなさい。あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう』」。戦いに行く前、テコアの野に民が皆集まりました。そこで王様は立って彼らに一つの励ましを与えたのです。この中で特に今日教えられたいことは、「あなたがたの神、主を信じなさい」、私の神様、私たちを造り、今日も生きる者としてくださっている御方、しかも天にいらっしゃる私たちのお父さんであります。「この御方を信じなさい」と言われる。「もう私は信じています。これ以上何を信じるのでしょうか? 」と、反論されるかもしれませんが、本当に神を信じているのか? 今日ある出来事、思い掛けない事柄や事態にしろ、何にしてもそこで神を信じて「これは神様から出たことです」と言い得ているのか?

 

 その後に「あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる」と。揺るがない者となることができる。不動の者となる。ついいろいろな物事を見る、おとずれを聞きますと、心が動揺します。まるで吹きすさぶ風に揺れる林の木のように私たちの心は千々に乱れます。そうならないために、多くの人々は何とかして自分を堅くしたいと思って、ああもし、こうもし、いろいろなものを蓄えます。この世のものをもって、目に見える事情や境遇を何とか整えて、襲ってくる悩みに打ち勝とう、堅く立とうとしてお金を蓄え、友人知人を沢山もち、人脈を築き、政治力や経済力をもち、いろいろなことをもって「これで、安心だ」と自分を納得させようとします。しかし、そういうものは時とともに消えていくのです。必ずそれは失われて、裏切られます。

 

 私たちが頼りとするものは、はかないのです。年金だってそうでしょう。「私は年金があるから生きている間は大丈夫」。日本経済を見てご覧なさい。もうそろそろシリアで戦争が起こって、蓄えなんてアッと言う間にインフレで消えてしまいます。イザヤ書28章には「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。神様はすべての物を大水のごとく押し流してしまう」(17節以下)と。私たちの心の動揺をとどめてくれるものはいったいどこにあるのか?

 

 20節の中ほどに「あなたがたの神、主を信じなさい」。これです。あなたがたの神、主を信じて、神様が今も生き働いて、全能の力をもって、今このことを起こしていらっしゃる。このことを結論に至らせるのも神様。私どもは神様の業を横で見ているだけです。なぜなら、「この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない」。ここに「主の勝利を見なさい」、神様が出される結論、神様が与えてくださる結果、その勝利の結果を私たちがただ見るだけです。問題が起こったとき、戦いに出ないわけではありません。そのことに対処しようとします。成し得ることをします。それは当然でありましょう。しかし、その結論を導かれるのは神様でいらっしゃることを信じるのです。神様が必ずこのことについての結論を出してくださる。

 

 ですから、20章20節の終わりに「主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう」。神の御言葉を信じなさい、ということです。この時、ヤハジエルという人に神様は霊を注いで神の言葉を語らせなさいました。ヨシャパテ王はその言葉を信じたのです。神様の御言葉として信じました。そのように私たちが聖書の言葉を信じる。これ以外に成功する道はありません。

 

 私たちがいま堅く立つ道、日々の生活の中で「このことも主のなさるわざです」と、神様を畏れ信じる者となっていきたい。21節以下にありますように、「彼はまた民と相談して人々を任命し、聖なる飾りを着けて軍勢の前に進ませ、主に向かって歌をうたい、かつさんびさせ、『主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない』と言わせた」。これは不思議な戦いであります。戦争に行くのに軍隊の前に聖歌隊を並べる。「聖なる飾りを着けて」神様の前に主を賛美する、礼拝の姿勢を整えること。そして「主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と、神様を褒めたたえる。神様を喜び、感謝する。「そんなことをして何の役に立つ」と人は思います。「そんなことをしているぐらいだったら、鉄砲の一つでも造れよ」と、そのようになりやすいのですが、そうではない。神様の前に私たちが姿勢を整えて感謝、賛美をすることが第一です。だから、悩みに遭ったとき、まず感謝するのです。

 

 一人の方が火事に会われた。夕方5時ごろ、台所仕事をしているときに火事を起こした。それで教会の先生に「火事になりました!」と連絡しました。その家は全焼してしまった。連絡を受けた先生がその方を訪ねて、焼け跡にたたずんでしょんぼりしている姉妹に「良かったですね、感謝ですね」と言った。すると、かんかんに怒って「それでも牧師か!」と、大変叱(しか)られたという話を聞きましたが、なるほど、焼け出されて、「何が感謝できる」と、確かにそう思います。しかし、それでは神様を信じると言えません。火災も、災いも神様が与えておられる。主でいらっしゃる御方、全てのものの根源でいらっしゃる御方が、そのことを造り出して導かれる。やがて、その火災をきっかけに、思い掛けないかたちで周囲にご家族の家ができたのです。息子さんたちが戻ってきて、その家が再建されました。後になって考えてみたら「あの火災に遭って良かった」。その後、姉妹は大変悔い改めて、「あのときあのように先生に暴言を吐いてしまった。申し訳なかった。本当にいま思うとあの火事があればこその感謝です」と。私たちはすぐに、近視眼的に結論をつけようとしやすい。神様が働かれる結果は、「もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む」(ハバクク 2:3)とおっしゃる。神様は「わたしの戦いである」と。確かにその火事の跡始末など、しなければならないことはあるでしょうから、それはそれで僅(わず)かな力で一生懸命にやる。しかし、神様はそれにも増して、倍にも3倍にも何倍にもして、力を注いで勝利を見させてくださる。

 

 今も変わることのない神様は、生きて働いてくださる。どうぞ、私たちはまず感謝し、賛美して、神様を褒めたたえましょう。22節に「そして彼らが歌をうたい、さんびし始めた時」、「さんびし始めた時」です。「主は伏兵を設け、かのユダに攻めてきたアンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられたので、彼らは打ち敗られた」。彼らは戦いに行ったのですが、戦わないままです。ただ賛美して、神様を褒めたたえ、感謝する。そうしているときに、神様のほうが事を全うしてくださる。いま、問題があるならば、感謝しようではありませんか。悩みがあるならそこで喜ぼうではありませんか。そしてもうひとつ心を神様に向けて、「主の戦い」、「神の戦い」、神様が「私がする」とおっしゃるのですから、その御方のなさるわざを高みの見物といいますか、見せていただこうではありませんか。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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