いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(463)「祈りの答え」

2015年02月07日 | 聖書からのメッセージ
 「エレミヤ書」33章1節から9節までを朗読。

 3節 「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。

 エレミヤは、イスラエルの代表的な預言者の一人です。神様に仕える人でありました。エレミヤが生きていた時代は、イスラエル、ユダの国がバビロンという大国に滅ぼされようとする時代です。長年にわたってバビロンから攻められ、だんだんと領地が取られてしまう。そういう苦しみの中に置かれました。イスラエルやユダの民は神の民としての特権といいますか、選びの民として、誇り高い民族でありました。アブラハムを父祖として神様がご自分の栄光のためこれを仕立てた(イザヤ 43:7)、とまでいわれて、神様の広告塔としてイスラエルの民が地上に置かれていたわけであります。ところが、イスラエルの民はまことの神様を信じなくなるといいますか、信じないわけではないが、世の中の様々な偶像に心を引かれて天地万物の創造の主でいらっしゃるまことの神様を軽んじてしまったのです。そのため神様は度々警告を与えられました。次々と預言者を送って「神に帰れ」「主に立ち返れ」と伝えますが、一向に聞こうとしない。しかも次々と立てられる王様は、初めは一生懸命に神様に仕えて行こうとするが、やはり自分の力が増してきますと、神様を離れてしまう。神様は忍耐してこられましたが、とうとう、イスラエルの民をこの地上から消し去ってしまうといいますか、取り除いてしまおうと、ご計画をされました。しかし、これはイスラエルの民に懲罰を加えるといいますか、苦しめてやろうというのでは決してありません。エレミヤを通して神様はお語りになっているように、「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」と、「それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ29:11)と言われます。神様はイスラエルの民を決して捨てたわけではない。いやむしろその民を憐れみ、また愛してくださって、何としても正しい道に立ち返ってほしいと。これは神様の切なる願いであり、また私たちに対する愛の御思いでもあります。

 親でもそうだと思いますが、我が子が道を外してとんでもない道を歩んでいると、それはもうたまらないに違いない。何としても正しい道に帰ってほしい。そのためにはいろいろな手段といいますか、厳しいことも言うでしょうし、つらいことも要求するでしょう。そうやって何とかして正しい道に帰ってほしい、それはその子にとって幸いな道だと親は思うからです。まして神様は私たちに対してもそうであります。神様が人を造ったのは、ご自分の栄光のため、私たちを通して神様の力をあらわし恵みを明らかにしようとするためであります。造られた私たちが造り主でいらっしゃる神様を忘れて、ただ自分の欲望、欲情といいますか、思いのままに歩み、神様を離れて勝手な道を行く。それは決して幸いな道ではないと、神様は私たちに警告してくださる。いろいろなことをもって私たちにそのことを教えようとしてくださるのです。私たちはこの世にあって試練といわれる困難や苦しみ、つらいことに出会いますが、しかしどんなことも神様の御業、神様が私たちに求めておられることです。それが私どもは分かりませんから、「苦しい」とか「つらい」とか「悲しい」と言って嘆いていますが、しかし、神様は私たちを苦しめ、悩ませ、悲しい思いにさせるのが目的では決してありません。

 このときのイスラエルに対してもそうであります。バビロンという大国を興(おこ)して、それを神様の道具として用いてくださる。イスラエルの民にもう一度神様に立ち返るようにと悔い改めを促(うなが)すものとなったのです。そのためにバビロンという大国が繰り返してイスラエルやユダの国を攻めてまいりました。ところが、イスラエルの人々は「自分たちには神様が付いている」、「負けるはずがない」と。相手であるバビロン帝国のカルデヤ人たちは異邦の民である。「あの連中に負けるはずがない。私たちには神様が付いていらっしゃる」と。だから「戦う」と言う人もいました。しかし神様は「それは御心ではない。この戦いには負けなさい」と言われています。「バビロン帝国に白旗を上げて降参し、捕えられてバビロンの地に移されなさい。国が消えてしまう。それでよろしい」。ところが、イスラエルの人々にとっては自分の国がなくなるという、そんな不名誉な話はないし、誇り高いイスラエルの民は「自分たちは神の民だ」、「選びの民だ」と自慢してきた民が「消えてしまった」としたら、これは面目が潰(つぶ)れてしまう。「何としても」という思いが先立つ。ところが、神様のご計画はそうではなかったのです。たとえイスラエルの国が消えることがあっても、その民を全く滅ぼし尽そうというのが神様のご計画ではない。あなた方が捕囚となってバビロンの地に連れて行かれなさいというのです。そこで70年間生活をしなさい。しかも神様が求められたのは、結婚し、田畑を耕し、家庭を築いてそこで子供を育て、生活をしなさい、とお命じになりました。でも、イスラエルの民は満足できません。「そんな馬鹿な話はない。神様が付いていてそんなことになるはずがない。そもそも負けること自体があり得ない」と言い張る人たちが多かったのです。ところが、エレミヤは神様から「そのように語れ」と言われまして、「いや、この戦いは戦ってはいけない。早く降参しなさい」とエレミヤは言ったのです。そのために彼は国賊、いわゆる非国民とされたのです。「とんでもないやつだ」ということで何度となく捕えられて、口封じといいますか、しゃべらせまいとされました。

 このときもそうでありまして、1節に「監視の庭に閉じ込められて」とありますが、これは捕えられている状態であります。そのときに「主の言葉はふたたび彼に臨んだ」とあります。神様の言葉がエレミヤに届いたのです。エレミヤはどうやって神様のお言葉を聞いたか。神様が大きな声で語るのを聞いたわけではないと思います。神の霊、御霊がエレミヤの内に宿って、神様の御思いを彼に明らかにしてくださったのです。それがこの2節以下です。神様がこのように仰せになったと。「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる」。まずここで神様はご自分がどういう御方でいらっしゃるかを明らかにしておられます。ここに「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主」、いうならば、創造の神ということです。万物の創造者でいらっしゃる御方、「その名を主と名のっておられる者」、しかもその御方が全てのものの中心、根源、始まりとなり給う御方。いうならば、この神様がいらっしゃって全ての事が出来てきた。これは「創世記」のいちばん最初に語られていることでもあります。その神様が3節「わたしに呼び求めよ」と言われます。神様に呼び求めなさいと。先のご礼拝でも教えられましたが、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」(詩篇121:2)と。「天と地を造られた」、いうならば、創造の神です。万物を創り、全てのものを堅く立たせられておられる。いうならば、神様はお創りになった全てのものをきちんとご自分の御心のままに導き給う御方。この2節の文語訳を読みますと「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)エホバ」と訳されています。すべてのことを起こす御方、それを始められる御方、そしてそれを導き給う御方。ですから、創造の神という言い方は、ただ単に天地万物の創造者、かつて、いつであったか、それは到底想像の及ばないほどの遠い昔に神様は何もない闇のような中に「光あれ」と言って光を創り、また天を創り、地を創り、海を創り、その中に生きとし生ける森羅万象をお創りになった。その昔の話かというと、もちろんそうですが、それから後も「堅く立たせられた」方です。言い換えると、常にその創造の御業を続けてくださる。私たちも地上に命を与えられたのは、この御方です。私たちは神様によって造られ、創造され、地上に命を与えられたわけです。しかも「堅く立たせられた」というように、私たちの今に至るまでの人生を神様はご自分の御心に従って導いてくださった。神様の御業の中で私たちは持ち運ばれているのであります。

「その名を主と名のっておられる者」、いうならば、全てのもの根源でいらっしゃる、その御方が「わたしに呼び求めよ」。その神様に呼び求めなさいとおっしゃいます。これは大きな私たちの慰めと喜びの約束であります。私はよく思いますが、新年を迎えて初詣だと言って、多くの人々が神社仏閣へ出掛けて行って、「今年も家内安全、無病息災」と言ってお祈りをしますが、その祈られている神様は迷惑しているのではないかと思います。「『わたしの所へ来て祈りなさい』と言った神様がいるのかしら」と思います。そんな話はあまり聞いたことはない。ただ勝手に人が「これは神様だ」と祀(まつ)り上げて、そこへ出掛けて行って、「さぁ、私の願いを聞け、聞け」と押しつけがましく祈っているだけのことではないかな、と思います。しかし、聖書には、万物の創造者でいらっしゃる神様は、繰り返し「わたしに呼び求めよ」「私に祈りなさい」「私の所に来て全てのことを言いなさい」とおっしゃっているのです。これは最高の素晴らしい恵みではないかと思います。「わたしに呼び求めよ」「そうすれば、わたしはあなたに答える」。しかもその呼び求めるべき御方、「わたしに」とはどんな御方か? まさに天地万物の創造者、造り主でいらっしゃる。だから、私どもが「神様、ひとつこれをよろしくお願いします」と行って、「それは今ちょっとできんね。ちょっと他の所へ行ってくれよ」という話にはならない。主でいらっしゃいますから、この神様によらないものは何一つない。造り主でいらっしゃいますから、この御方にできないことはない。イエス様がおっしゃるように「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ 10:27)。オールマイティーな御方です。どんなことでもおできになる御方、その御方が「わたしに呼び求めよ」とまで言ってくださる。これを私たちはつらつらっと軽く読み飛ばさないで、しっかり握って「神様は私に呼び求めよとおっしゃってくださる」と確信して祈る。しかも「そうすれば、わたしはあなたに答える」と言われます。呼び求めるならば、わたしはあなたに答えるとおっしゃいます。必ず答えてくださる。なかなかこんなことを言うことはできません。皆さんでもそうでしょう。「私の所へ来なさい。何でも言いなさい、私は答えてあげるからね」とは、到底言えません。「できるだけ来ないでくれ」と。家族から、子供たちから電話でもたまにあってご覧なさい。「え!何事か、何かの要求の電話か……」と思って、ちょっと身構えてしまうでしょう。神様はそんなことをおっしゃらない。「わたしに呼び求めよ」と言われる。だから、私どもはつい人に求めたり、あるいは諦(あきら)めてしまったり、「こんなことを言ってもどうにもならない。当たるも八卦、当たらぬも八卦、とにかく祈っておけば何とかなるかもしれない。あちらの神様、こちらの神様……」と。しかし、そんな心もとない話ではないのです。ちゃんと神様はここに「わたしに呼び求めよ」とおっしゃいます。

 「ヨハネによる福音書」16章23,24節を朗読。

 イエス様が十字架におかかりになる前、弟子たちと過越の食事をなさいました。これはその席での言葉であります。しかし、ここでイエス様がおっしゃったのは23節に「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」と。イエス様の父とは、大工ヨセフではありませんで、父なる神様です。万物、天地創造の神様、この御方をイエス様が父と呼んでおられますが、「父に求めるもの」、父なる神様に求めるものは「わたしの名によって下さる」。「イエス様のゆえに必ず聞いてくださる」と言われるのです。しかも24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」。しかも「わたしの名によって」と、イエス様は「わたしが父なる神様の御許(みもと)に帰るからわたしの名によって祈りなさい」と。確かにそうです。しかし、いくら神様が私たちに「祈れ、祈れ」と言われても「こんな私のような者が祈って大丈夫でしょうか」、「聞かれるかしら」と、つい自分を見ます。自分が汚れたる者であること、罪なるものであることをよく知っていますから、「ただわたしに祈りなさい。求めなさい」と言われても「本当に聞いてくださるのかしら」と思ってしまいます。

ペテロはガリラヤ湖でイエス様から「沖へこぎ出し網をおろして漁(りょう)をしてみなさい」と言われました。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから網をおろしてみましょう」と彼は網を下ろしました。そのとおりにしたところが大変たくさんの魚が取れた。その瞬間彼はイエス様の前にひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言っています。彼は思い掛けない奇跡といいますか、自分では到底考えられない事態、というのは、彼がそもそも生まれ育ったガリラヤ湖で自分の庭のような所、隅から隅まで知り尽くしている。前の晩も夜通し漁をしたけれども何も取れなかった。それなのにイエス様はひと言「網をおろせ」というそのお言葉に従って下ろしたところ、大変たくさんの魚が取れた。そのことでペテロはショックだったのです。全くのずぶの素人(しろうと)であるイエス様がどうしてこんなことができる? そこに神様の力を感じたのです。そのときに彼は「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言っています。こんな驚くような出来事を自分が体験するにはふさわしくない。自分の弱点を知り、欠点を知り、罪を知っているのは誰かと? 本人です。自分のような者がこういう出来事の中に置かれる。神様の業、神様は聖なる御方、義なる御方であって私がそこにおること自体はばかられるといいますか、とんでもない、大変なこと、神様から呪われるに違いない。こんな汚れた人間が神様の驚くべきわざの中に置かれていることを……、しかもまさにそのことをなし給うたイエス様のそばに自分がいることは到底できない、と思ったのです。

 「どんなことでも神様は祈れ、とおっしゃるから、祈ったらいいですよ」と勧めます。「え!私のような者でもお祈りしていいのでしょうか」と尋ねられます。「あなたは駄目だ、と聖書のどこにも書いてないのだからいいと思いますよ」「でも、本当にいいんでしょうか。こんな私のような者……、聞かれるはずがない」と、つい自分の状態を見て、いろいろなことを考える。いくら神様が「わたしに呼び求めよ」と言われても「そりゃ、結構な話やけど、でも私のような者がね」と、心にブレーキをかけるものが常に働いてくる。ところが、それに対してイエス様は24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」。私たちの祈りを聞いてくださるのは、私たちが出来がいいからとか品行方正であるとか、あるいは何か世のため人のために役立っているから、「お前の努力の結果聞いてやるよ」とおっしゃるのではないのです。自分を振り返ると、こんな身勝手な祈りを神様が聞いてくださるとは、到底信じ難い現実があるのです。しかし、私たちの罪のいけにえとなり、犠牲となって十字架に命を捨ててくださったイエス様が、神の御子でいらっしゃるイエス様が「わたしの名によって祈りなさい」と言われる。「天の父はあなたがたの求めるところに答えてくださる」。イエス様のいさおしによって、イエス様の執り成しのゆえに必ず聞いてくださる。これは確かです。私が勧めたから神様が聞いてくださるのではない。イエス様がそうおっしゃるでしょう。私たちのために命まで捨ててくださったイエス様が今は父なる神様の右に座してくださって絶えず執り成してくださる。

 「ローマ人への手紙」8章33,34節を朗読。

 34節に「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」とあります。イエス様はいま私たちの目に見える姿かたちはありませんが、既に天にお帰りになった主は私たちのために御霊、聖霊を送ってくださって、よみがえり給うた主が常に私たちと共にいてくださる御方となっておられる。その主は私たちの祈りを父なる神様に取り次いでくださる。だから、神様は私たちの祈りを聞かないはずがない。ご自分の愛するひとり子、イエス様が「どうぞ、この者の祈りを聞いてやってください」と執り成してくださる。これが私たちの祈りのより所であります。私たちが美辞麗句を並べて、神様を何とか口先で上手いこと言わなければという、そんなことも何にもいらない。御霊が、聖霊が私たちと共にいてくださる。キリストが私たちのために執り成してくださる。

 ですから、少し前の所、8章26節に「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。ここに私たちはどう祈ったらいいのか分からないが、御霊が私たちのために執り成してくださる。常に私たちの祈りを聞いていてくださるのです。その後27節には「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。これは心強いですね。
私たちは神様の御心にかなう祈り、神様が喜んでくださる、受け入れてくださるにはどういう祈りがいいのか、これはさっぱり分かりません。分かっているのは自分の心ばかりです。だから、私どもは身勝手な、と思える願い事ばかりを並べたてるかもしれない。しかし、どんな祈りでも私たちの心の思いを知ってくださる御霊は、父なる神様の御心にかなうものへと執り成してくださる。だから、私たちは遠慮しないで祈ることができる。そして祈ったことに付いて「これは聞かれるだろうか。ちょっと要求が多すぎたから……」と勝手に考える。人にものを頼むときそうですね。「こんなにまで言ったら厚かましいだろうから、一つぐらい減らしておこうか」と。「頼むんだったら2回ぐらいに分けとこうか」とか、いろいろなことを考えます。それと同じように神様に対してもそのように思うのだったら、これは間違い。私たちは勝手な祈りしかできないけれども、それを御心にかなうものへと執り成してくださる主がおられる。
御霊は私たちと共にいて必ず御心にかなうものにしてくださる。だから、遠慮しないで祈れと。しかも「わたしの名によって求めなさい」。イエス様の名によってです。だから、お祈りするとき最後に「主イエスキリストの名によってお祈りします」、「主イエスキリストの名によってお願いします」と祈ります。それはこの祈りが、イエス様が祈れとおっしゃってくださったから祈っていることである、そのように信仰を持って祈るのであります。だから、お祈りをするとき、「主イエスキリストの名によって」と、「この祈りをイエス様が執り成してくださった」と信仰を持って祈ろうではありませんか。それに対して神様は必ず答えてくださる。先ほどの「ヨハネによる福音書」にもありましたように、「求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」です。必ずそのように答えてくださる。

 「エレミヤ書」33章3節に「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」。神様は私たちの祈りに必ず応答してくださる、答えを出してくださるのです。つい神様に祈ったら自分の思うように願うように考えたように事が行くと思いがちですが、そうではありません。神様に祈る、しかもその相手は万物の創造者でいらっしゃる。どのような方法や手段を用いてでもなし得給う御方です。その御方が私たちに必ず答えてくださる、応答してくださる。それは時に私たちの思うことや願うことと違うことがあります。私はよくそう思うのですが、親はその子にいちばん善いことしようとしますが、子供は分かりませんから、目先の今、それが欲しいと、泣いたりわめいたりします。私はそれを見ながら「私たちも神様に対してこういう態度ではないだろうかな」と思う。親は子供が遊んでいるおもちゃでも、危険だと思ったら取り上げます。そうすると、がむしゃらにそれを欲しがるのです。ところが、親はそれをちゃんと知っていますから、危険でない別な物を与えます。ところが、もらうとパッと捨てたりするのです。親の思い、親はその子の求めているものに答えようとしているのだけれども、その子供は自分の求める物だけをひたすら要求します。それが本当に自分にとって幸いであるか、危険でないか、安全な物であるかを知っているのは親です。だから、それに代わる物を与えます。神様もそうです。私たちが祈り求めることに必ず答えてくださる。ただ、私たちはともするとそれが自分の予期したような、願ったような結果ではないとつぶやきます。それはまるで子供が駄々をこねているようなものであります。よく振り返ってじっくりと思い返してみると一つ一つのことがなるほど、祈り願ったよりももっと素晴らしい結果を神様は備えてくださっておられる。

だから、よく申し上げるように、お祈りするとき「祈りのノート」を書いておいてください。お祈りした事柄、それを忘れないためにメモしておいてください。お祈りしていることを忘れているのです。「神様、お祈りしていても聞かれておりません」とつぶやきますが、祈っていたあれはこうなっている。これはこうなっている。「あなたはこんなことを悩んでいたのに今はどうですか」と尋ねたら、「ああ、なるほど、それはそうですね」と言われる。もっと感謝しなければいけません。忘れているのです。だから、きちんと一つ一つ祈ったことを忘れないために、どれが今問題になっているのか? 私がいちばん神様に求めてしきりに祈っている事が何であるかをノートしておいてください。3年たち、5年たって、もう一度見直してください。驚くような神様の結果が、足跡を見ることができるのです。私たちは視野が狭いというか、目先のことしか分かりませんから、過ぎ去ってしまうと忘れていますから、神様に申し訳ない。

3節にありますように「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」。神様は私たちに答えてくださる。「そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。答えてくださる神様は私たちの知らない想像がつかない、思い及ばないことをもって答えてくださる。だから、私たちは、こう考えてああなって、こうなってくれたらこういう道があって、「幸せな結果につながる」、「こうしたら安心だ」と思う事柄がありますが、果たして本当に安心なのか、これは神様しか分からない。私たちは自分の浅はかな、ない知恵を絞って「これがいちばん良いに違いない」と思っていますが、神様はそれよりももっとはるかに大きな素晴らしいことをしようとしておられる。「あなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」と、「あなたに示す」とは、必ずしも前もって「こうするからね」「ああするからね。これでいいかね」と神様がきちんと計画表や行程表を見せてくれるという話ではない。「大きな隠されている事を、あなたに示す」、言い換えると、具体的にそのことを味あわせることです。だから、それまでは分かりません。その時にならないと、神様のなそうとしていらっしゃることは分からない。しかし、その時になったら「なるほど、神様はこの日、この時、このことのためにこんなことをしてくださった」と、「わが為すことを汝いまは知らず、後に悟るべし」です(ヨハネ13:7文語訳)。後になって分かる。だから、前もってそれはよく分かりません。どんなことを神様が備えてくださっておられるか。しかし、一つだけ言えることは、4節以下にもありますが、神様は私たちを喜ばせ、楽しませ、私たちを輝く者としてくださる。主を褒めたたえる者としたいのです。

だから9節にありますように「この町は地のもろもろの民の前に、わたしのために喜びの名となり、誉となり、栄えとなる。彼らはわたしがわたしの民に施すもろもろの恵みのことを聞く。そして、わたしがこの町に施すもろもろの恵みと、もろもろの繁栄のために恐れて身をふるわす」。これは何のことかといいますと、いま目の前で起こっている、バビロン、カルデヤ人たちがやって来て町を略奪し、廃きょとなった姿を見て、「これでイスラエルの民、神の民は滅びてしまった」という現実が目の前にあるけれども、しかし、神様はそれを立てなおして豊かな繁栄と安全をもたらし、健康と癒しを与える、とおっしゃるのです。そんなことは想像もつかないことです。いま目の前に見ている現実は到底それには程遠い姿です。私どもだってそうでしょう。「こんなのだったら、もうおしまいだ。諦めるしかない」と、見える状態はそうです。ところが、神様はそうではない。そういう絶望と思えるような中からでも、「わたしのために喜びの名に変える」と言われるのです。その町を造り替えて、この廃きょとなった、死体で満ちたこの町が、今度は神様の喜びの町としての名に変わる。そういう町に造り替えてくださる。これは神様が私たちに約束される「知らない大きな隠されている事」です。これは素晴らしいですね。私たちは失望することはいらないのです、祈ればいいのですから。主に求めて行くときに神様のほうが必ず私たちを喜ばせようとなさる。いや、それどころか、それ以上に神様はそのことを通してご自分の名が尊ばれ、その神様が畏(おそ)れられる御方となる。このことを願っておられる。だから9節に「この町は地のもろもろの民の前に、わたしのために喜びの名となり、誉となり、栄えとなる」と。神様にとっての誉れであり、栄光となるのです。私たちもいま神様によってご自分の栄光の民として誉れをあらわす者と選び召されたのです。そして、廃きょと思われる、死の町であるような私たち、死んだ者であった私たちを造り変えて、私たちの想像もつかない考えも及ばない神様の御業をしようとしていらっしゃる。だから、私たちに悪いことをなさる、あるいは私たちを苦しめ、悲しませ、悩ませる御方では決してない。神は愛なる御方でいらっしゃる。私たちに善にして善をなし給う御方であります。だから「わたしに呼び求めよ」。神様に呼び求めて行く。3節に「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」。これは約束であります。神様のほうがそうおっしゃるのでしょう。「そしてあなたの知らない」、私たちの到底考えもしない思いも及ばないことを「あなたに示す」。私たちの具体的な生活の中にそれを体験させてくださる。味あわせてくださる。

 日々の生活の中で祈りつつ、祈りつつ主に求めて、主の応答、答えとして、日々の生活を味わって行きたいと思います。「ここにも主が祈りに答えてくださった」「なるほど、神様は私の思いも掛けない、こういうことを起こしてここから更に神様の恵みを味あわせてくださる」と、神様を褒めたたえる者に私たちをしようとしてくださるのです。万物の創造者でいらっしゃる、この御方が「私たちを助けてくださる」とおっしゃる。そして「祈れ」とおっしゃる。「求めなさい」とおっしゃいます。求めなければ駄目です。「黙っていても分かるだろう」と言うわけにはいきません。もちろん神様は何もかもご存じですが、私たちがへりくだって謙遜になって主を求めて行くとき、祈り求める、それを待っていらっしゃるのです。ですから、どんなことがあっても、絶えずこの御方に祈って求めて、この御方の答えを、その応答をしっかりと受け止めて行きたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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