いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(534)「共に死に、共に生きる」

2015年09月07日 | 聖書からのメッセージ

 

 ローマ人への手紙」6章1節から14節までを朗読。

 

 8、9節「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである」。

 

イエス様が十字架におかかりになられた意味、これは先週のご礼拝でも教えられたように、私たちの罪を清める、罪のあがないとなる。私たちが支配されている罪を十字架の上にご自分が負うてくださって、神様からの呪いと刑罰を受けて私たちの身代わりとなって死んでくださった。それを信じることによって私たちも主と共に死んだ者となることを、聖書は伝えています。また、私たちはそのことを信じています。だから「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント 5:17)とあるように、イエス・キリストを信じることは、取りも直さず「私はイエス様と一緒に死んだ者です」と認めることです。パウロが「ガラテヤ人への手紙」で「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(2:19)と告白しました。私たちもその十字架を信じて、そこに死んで、罪とは縁のない者としていただいたのです。

 

先日、福岡の老人ホームでお話をするようにと依頼されました。先週の金曜日でありましたが、さて、どんなお話をすべきかとしばらく前から祈っておりました。そのとき与えられたメッセージが「イザヤ書」の「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した」(44:22)との言葉です。「これはなかなか理解しがたいかな」と思いました。ここにいらっしゃる皆さんよりも4,5年年配の方が中心です。しかも記憶の障害をもっておられる方が多いのです。三十数名の方々が集まりました。そういう方に共通してお話しすべきことは何か? 祈っておりましたときに、与えられたのがこのお言葉です。罪・とがを全く拭(ぬぐ)い取ってくださる。時まさに受難週、レントの期間でありますから、これは神様が「語れ」といわれたのだと確信しました。この御言葉を与えられて、繰り返し自分の内で味わっておりましたとき、実は全ての人、年齢・人種、障害のあるなしに係わらず、共通するテーマはこれであると思いました。しかし、私は一抹の不安を覚えながら、その場所へ参りました。いろいろな状況の方がおられ、全く上の空の方もいますし、時折、合いの手で奇声を発する方もいます。話の途中でふらふらっと動かれる方もいる。ところが今回はそうではありませんでした。私は「人はそれぞれ罪を負って生きてきた者である。私のたちの心に罪がある」と話しました。その罪は刑罰を受けるような、刑務所に入れられるような罪ではもちろんない。しかし、長年生きてくると、「あんなことをしなければ良かった」、「あの子にあんなことをしてしまった」と、取り返しがつかない悔み、そのように引きずっているものが、私たちの心にあると。

 

殊に日本人はそうですが、ご存じのように「水子供養」というものがあります。せっかく与えられた命でありながら、いろいろな事情や問題のためにやむなく日の目を見ずに失ってしまう命。殊に母体である母親にとって決定的な、消すことのできない大きな悔みです。だから、それを解決しようとして古来水子供養というものを繰り返ししてきたのです。では、そうすることによって余程心が晴れるかというと、決してそうではありません。そういうお話をしました。そこにいた方々は静まり返って、真剣に聞き入って、ある方はポロッと涙をこぼされる。やはり人には罪がある、ということを……、これは共通した話題です。それはどんなに年を取っても、いやむしろ年を取れば取るほど、それが心に重く沢山積み重なってきます。私たちは様々な罪の重荷を引きずりながら生きている。といって、それは人には言えません。ただ「このまま、棺桶に持って行く」と思っていることがあるでしょう? 「絶対これは知られないように私の心の中だけにとどめておこう」と。ところが、知っている御方がおられるのです。私たちの心の全てを知り尽くしている神様がいらっしゃる。神様にはどんなに隠そうとしても隠しきれない。私たちの心の思い、その重荷を全部知り尽くした上で、神様は私たちをとがめ立てなさる御方ではなく、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(34:6)と出エジプト記に語られています。神様は私たちの人知れず抱いている罪の重荷を全部知り尽くしている。「私一人が……」と思い込んでいますが、そうではありません。神様が全てを知ってくださって、「あなたの罪を赦した」と宣言して下さった。それが十字架です。だから「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(Ⅰコリント 1:18)と。 神様は、人知れず抱いている、言うに言われない、棺桶まで、天国までも、その先にまで持って行かなければ、と思っているそのことを知った上で、「あなたのその罪のためにイエス様が死んでくださった」と言われる。これが十字架の意味です。だから、私たちはいつもどんなときにも絶えず十字架を見上げて行く。そこに私がその罪のために死んだのです。なぜならば、死ぬことによって初めて人は罪から解放されます。

 

 どんなに大きな借金をしてもその人が死んでしまったら、その負債はゼロになります。もちろん相続人がいますけれども、相続人はそれを引き受けるかどうかは自由ですから、「そんなものは、私は知りません」と言えばそれでおしまいです。遺産相続の権利を放棄すればいいのですから。本人が生きていれば、執(しつ)ように借金取りは追いかけます。ところが、その人が死んでしまったら、死んだ本人の負債はゼロです。

 

 私たちにとって十字架はまさに全てをゼロにしてくださる。これが十字架のあがないです。だから、私たちはこの十字架なくしては、心が休まらないのです。どうぞ、この十字架を信じて、「私のために罪を赦してくださった主がおられる。もう誰も私をとがめる者はいません」と信じましょう。姦淫の現場を捕えられた女に対して、イエス様は「あなたを罰する者はなかったのか」と問われました。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない」(ヨハネ8:10~)。いま私たちはこの大きな神様の赦しの恵みに生きている者であります。赦されていることを絶えず自覚しておきたい。しかし、肉体をもって生きているかぎり、常に過去のいろんなことが、チクリチクリと執ように私たちの心を責めてくる。サタンが働くことがあります。しかし、そのときも常に十字架を見上げるのです。「私をとがめるこの思いはすでに十字架に終わっている」と。イエス様が「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)、「全て終わった、完了した」と宣言してくださった。これを私たちはいま信じているのです。

 

 それともう一つぜひ皆さんに知っていただきたいのは、「十字架は全ての罪の終わりであり、今度は新しいいのちの始まりだ」ということです。だから、十字架は人の罪を裁くための印(しるし)であると同時に、今度は私たちがその十字架を通して新しいいのちに入る入り口でもあるのです。

 

 そのことが今お読みしました「ローマ人への手紙」6章4節に「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」と言われています。ここに「バプテスマ」という言葉が語られていますが、これは5章から語られている「罪からの解放」ということです。パウロが語っている主要なテーマでもありますが、皆さんも既にバプテスマの恵みにあずかったのであります。イエス・キリストを信じて、信仰告白をし、「私もキリストの赦しにあずかった者です」、「イエス様が十字架に死んでくださったのは、私が死んだのと同じですから、私もイエス様と一緒に十字架に死にます」と証しするといいますか、自分の具体的な行為をもって言い表すのがバプテスマです。バプテスマはご存じのように、水の中にザブンと完全に浸されて水没します。いうならば、「死」です。「イエス様と一緒に私は死にます」ということの証しです。だから、皆さんはすでに死んだはずです、何十年か前に。ところが、死んだはずの私がよみがえる。つい私たちはそうなるのです。確かに死んだ者がよみがえるのでありますが、この4節に「彼と共に葬られた」と。イエス様が十字架に死んだ後、そのとき、間もなく安息日が始まろうとしていたときでありました。金曜日の夕方、ユダヤの習慣では日没と共に次の日が始まります。今では夜中の12時をもって日付が変わりますが、その当時は日が沈んだら、もう次の日が始まるのです。安息日が始まる備えの日でありましたから、急いでイエス様を十字架から取り下ろして墓に葬りました。応急的にそこに葬ったのでしょう。それから次の日、またその次の日と、そして三日目、安息日の次の日、今で言う日曜日ですが、この日の朝早くにイエス様は墓からよみがえってくださった。その日、弟子たち、殊に女の弟子マリヤさんたちが、朝早く安息日が終わりましたから、イエス様をきちんと埋葬しようと、埋葬の手続きに従って整えようと思って、朝早く墓へ参りました。ところが、なんとその墓が空っぽであった。イエス様はそこにはいらっしゃらなかった。御使いがそこにいて「あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、6 もうここにはおられない」(マタイ 28:5~)と言われる。

 

 4節に「彼と共に葬られたのである」。私たちがバプテスマを受け、水死といいますか、完全に水没します。それは古き私たちがイエス様と一緒に死ぬのです。その後、水から上がって、もう一度私たちは生きる者とされました。肉体は同じであり、何も変わりはありませんが、もはや私たちは自分が生きているのではなくて、新しいいのち、墓からよみがえったイエス様が私たちを新しく生きる者としてくださる。これが4節にいわれている「わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」と言うことです。彼と共に葬られる。私たちがイエス様を信じて、キリストと共に十字架に死んだ者となる。そして私たちの罪が赦される。ところが、その死は終わりではなくて、実は新しいいのちの始まりです。罪を赦された私たちに、今度は罪を犯さないで正しく生きる道筋を与えてくださるために、神様はあえてひとり子を死の中からよみがえらせてくださったのです。主がよみがえらなかったのなら、確かに十字架によって罪を赦された喜びはありますが、それで罪を犯さない人生を歩めるかというと、私たちにはそれができません。弱い肉体をもった者でありますし、また昔と同じように罪の中に落ち込んで行くに違いない。いや、違いないどころか、必ずそうなります。そうならないために神様は私たちに新しいいのちを与えてくださる。罪を赦し清め、そこに新しいいのちを注いで、今度は神と共に生きる。罪を赦された者としての生涯を歩ませてくださる。これが4節に語られている「死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」と言うのです。私たちも新しいいのちに……。

 

 今私たちはイエス様のいのちによって生かされている者であります。ですから、5節に「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」と。ここに大切なことが語られているのです。「新しいいのちに生きるためには、必ず死ななければならない。死なないままに新しいいのちにあずかることができない」。これは絶対的な条件です。だから、先ず死ぬということが大前提です。「私は50年前にバプテスマを受けて死にました」と言われる。それは確かにそうです。けれども、それから新しいいのちにズーッと生きて来たかと言われると、新しいいのちがどこかで消えてしまって、自分の古いいのちが盛んになっている。そんな私たちです。キリストと共に死ぬことは、実は、ただ一回だけのことではなくて、継続されていくことです。死に続けていかなければ、死んだ者になれません。それはそうですね。死んだ者は何度も死んだり生きたりしません。死んだらズーッと死にっ放しです。私たちはイエス様と共に死んだのでありますが、その死は私たちの古き肉体がまだ残った状態で新しいいのちに生かされていますから、どうしても古い自分、古い己、古い自我が絶えず起き上って来るのです。だから、パウロは「わたしは日々死んでいるのである」(Ⅰコリント 15:31)と語っているのです。毎日、毎日「イエス様の十字架によって今日も死んだ者です」と認めて行く。これがなければ新しいいのちが留まれない。死ななければいのちにあずかることができない。イエス様の十字架の死を信じて「今日も、イエス様、あなたの十字架によって死んだ者」です、「私は、イエス様、あなたと共に死んだ者であって、今日、あなたのいのちによって生きています」と、主のいのちを日々頂いて行く。これが日々のいのちです。

 

 そのことが今お読みしました7節以下に、「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」。そのとおりです。だから、イエス様のよみがえりというのは、毎日のことです。2千年前にあった出来事をこうやって記念はしますが、それは昔の話で、今は関係がないというのではなくて、今日も主のよみがえりのいのちによって、私たちは生きている。だから8節に「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら」とあります。死ななければ駄目ですよ。キリストと共に死ぬのです。私たちは毎日このことを自覚して行きたいと思います。「イエス様、今日もあなたの十字架で共に死にます」と、イエス様の十字架がそこに立てられる。「もはや私が生きているのではありません。イエス様、あなたと共に死にます」。そう言って自分を、自我を捨て去って、今度は「今日よみがえってくださったイエス様、あなたに結び付いてあなたのものとなって歩みます」と。これが新しいいのちに生きることです。そのとき、私たちの内にキリストが宿ってくださる。キリスト、それは神の霊、キリストの霊、聖霊が私たちの内にあって私たちをしっかりと握ってくださる。だから、キリストと共に生きるというのは、御霊が私に宿っていろんなときに、事に応じて絶えず語り掛けてくださる。イエス様が「これが道だよ、これを行きなさい」、「そこは危ないからやめときなさい」、「これは駄目だよ、こちらの方が良いよ」といろいろなことを教えてくださる(イザヤ30:21)。その一つ一つに従う。これが新しいいのちに生きる道です。新しいいのちに生きる、イエス様によって生きると、言葉では分かるけれども、実際どうするかというと、毎日の生活の中で神様の御霊に導かれることです。だから、「ガラテヤ人への手紙」に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」(5:16)と語られています。「肉の欲」、言い換えると罪の支配に陥(おちい)ることがない。今日よみがえってくださったイエス様、これをただ過去の出来事としてではなくて、今日もよみがえったイエス様を目(ま)の当たりに感じ取る、そういう日々を生きる者となりたい。その秘けつは8節に「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら」と言われるように、自分に死ぬことです。日々の生活で自分の思わないこと、願わないこと、いろいろなことで、「何でこうなったんだろうか」、「どうしてだろうか」とつぶやくとき、「あら、私はまだ自分が生きとるわ」と自覚する。そこで十字架を見上げて、死んだ者となる。「死んだ者が煮てくれとか、焼いてくれとか、何も言わん」、これは父からよく言われたことであります。「献身者、身をささげた者は、私を煮付けにしてくれ、焼き魚にしてくれ、そこは切らんでくれと、そんなことを言っとるわけにはいかん」と。本当にそうです。私たちはすぐ「もうちょっとこうしてほしい」、「あそこが良い、ここが良い」と言う。もはやそんなことを言わない。己に死ぬ、キリストと共に死ぬ場所は日々の生活の中です。私たちのゴルゴダの丘は皆さんの家庭であり、あの台所であり、またテレビを見ている居間です。「ああ、面白いテレビ、もうちょっと見よう」、「寝なさい」と神様がおっしゃるのに「いや、寝られん、これを見なきゃ」と、己、自分があるから、御霊の声が聞けない。それで翌朝は「ああ、何でこんなに眠いのだろうか」と力をなくす。時には電話が掛ってきたりすると、「こんなに朝早く6時から電話なんか掛けてきて」と腹立たしくなる。それは自分が、己が生きているからです。私たちはいつも十字架の主と一つとなって死んだ者となる。「主がそうおっしゃるならば、はい、そうします」、「御心ならばここに従います」と、そこで徹底して主のいのちにつながる。そのためには私たちが死ななければならない。8節に「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」。ここです、キリストと共に死んだことを自覚してください。「イエス様、私はあなたの十字架で死にます」と、イエス様の十字架を自分のものとして信じて己を捨てるとき、今度はよみがえりの新しいいのちに満たされることを実感します。新しいいのちを確かなものと信じることができる。これは事実です。「主がこうせよとおっしゃるから、イエス様、あなたに従って行きます」と、「私はここで自分を捨てます」と、イエス様を信じて死ぬとき、今度はイエス様のよみがえりのいのちが私たちを新しくしてくださる。心に力を与え、喜びを与え、安心を与え、望みを与えてくださる。十字架のだいご味はここです。イエス様の十字架は私たちの死んだ所であり、それと同時に私たちの新しいいのちが始まる場所でもあります。

 

 だからクリスチャンにとって、十字架が全てで、これなくして私たちの信仰はあり得ません。だから、いつもどんなときにもこの十字架を見上げて……。それこそすぐ忘れそうだったら、家中に十字架を張り付けて…、それでも構いませんが、皆さんの台所や居間、家庭や職場や、あなたが置かれた所、そこがゴルゴダであり、またそこが主の葬られた墓です。そこにイエス様と同じように、私の十字架が立てられている。イエス様と共に死ぬとき、今度は主のいのちが私たちの内に新しく注がれてきます。

 

これを体験することが復活を信じることです。ただに聖書に語られている過去の出来事として、「イエス・キリストはよみがえったそうだ。それは結構な話だけれど、私は知りません」と、私と掛け離れてしまうから、イエス様のいのちが消えてしまう。私たちは何によって生きているのか? 9節に「キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである」とあります。イエス様は二度と死ぬことがない、永遠のいのちの主となってくださった。だから、私たちがイエス様を信じて、よみがえりのいのちに日々満たされて、「主よ、今日もあなたが生きよとおっしゃってくださる。命を与えてくださったから、今日、主よ、あなたに従います」と、よみがえってくださった主を信じて、毎日を歩んで行くと、やがて年を取って、死の時を迎えても、私たちのいのちは肉体の死によって終わらない。いや、その肉体を脱ぎ捨てて永遠の御国を目の当たりに見ることができる。これが永遠のいのちの生涯です。イエス様が日々共におられることを信じて、よみがえりの主と共に生きる、これこそが復活を信じることに他なりません。8節に「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」。キリストと共に死んで、よみがえってくださったイエス様によって私は生かされている。

 

パウロはそのことを「キリストが、わたしのうちに生きておられる」(ガラテヤ 2:20)と言いました。「生きている」と言いながら「イエス様、勝手に生きてください。私はこちらで生きます」では駄目です。私の内に生きてくださるイエス様と一緒に、私も十字架の道であろうと、どこであろうと、主よ、あなたと共に行きます。もう死ぬことがないのでありますから、死を恐れずに大胆にイエス様のいのちに生かされて行きたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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