いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(79)「喜びに満ちあふれて」

2013年12月09日 | 聖書からのメッセージ
ヨハネによる福音書16章16節から24節までを朗読。

24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。
これは、イエス様が十字架にかかられる前、過ぎ越しの祭りの食事を弟子たちと共に過ごしたとき、語られた言葉の一節です。16節には「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」とイエス様は言われました。私どもはイエス様のその後の出来事、苦しみ、そのようなことを知っていますから、この言葉を聞いても別に驚くことはありません。しかし、このときの弟子たちの立場に立ってみると、この言葉は意味不明、何か不吉な言葉です。なんとなく謎めいた言い方です。イエス様は、それまで弟子たちと24時間365日、一緒に生活をしていました。イエス様とお別れすることは考えられません。イエス様が70歳も80歳も年取っている人ならば、まもなくお別れするときがくるに違いないということがわかりますが、イエス様は30代ですから、まだそんな年齢でもない。弟子たちもイエス様以上に年を取っているとも思えませんから、自分たちが死ぬということもないでしょう。このままこのような生活が続くと期待をしていたと思います。イエス様はどこへ行かれるのだろう、私たちを置いてどうするのだろうと思いました。その後に「しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。会えるのだったら行かなければいいのです。イエス様の言われることがよく分からない。

だから、17節に「弟子たちのうちのある者は互に言い合った」とあります。また「わたしの父のところに行く」と。父のところって、イエス様のお父さん、ヨセフはもう死んでいました。何が原因で死んだのかわかりませんが、いずれにしても、イエス様が成人したときには、この世にいなかったようです。ヨセフのことについては述べられていませんから、恐らくそうだろうと思います。だから「わたしの父のところに行く」とは、一体何のことだろうというのです。でも、このとき弟子たちは、イエス様の真(まこと)の父は神様だと、まだはっきりと理解していない。ですから18節に「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。別に、イエス様は外国語でしゃべったわけではないでしょうから、「しばらくすれば」という言葉がわからないはずはありません。言葉としてはわかるのですが、イエス様が意図している、言わんとしている内容が、もうひとつ、よくわからない。

イエス様は、弟子たちの疑問、疑いを理解なさって、もう一度詳しくお話しになったのですが、それでもわかりません。19節に「『しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろう』と、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか」。そのとおりです。イエス様がおっしゃったことで、みんなで、ああではないのか、こうではないだろうかという話になっていたのです。ところが、イエス様は説明しようしますが、20節に「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう」と。これでわかるかな、イエス様も弟子たちの思いを知りながら、またして謎です。でも、今は、私たちにはわかります。この言葉は、何のことかよくわかります。さらに、「女が子を産む場合」と出産の例にたとえて話されますが、一体何の関係があるだろうかと、弟子たちには訳がわからなかったと思います。しかし、この21節以下を読むと、イエス様はよくこんなことまで知っているものだと思います。イエス様は女性の子どもを生む経験なんてしたことがありません。しかし、子どもが生まれるとき、それまでは不安でならないけれど、生まれたら喜びがあると。イエス様が十字架の苦しみを受けることで、多くの人々は悲しむけれども、よみがえった主が現れてくださるときに喜びに変わる。まるで、妊婦が出産間近で不安と恐れの中にあるが、生まれると喜びに変わるのと同じだという。イエス様のこの例えは、今考えてみると、これほど素晴らしい、的確な例えはあり得ないと思います。イエス様の十字架の死とよみがえりを、赤ちゃんが生まれるときの母親の気持ちに例えて、弟子たちにその気持ちを理解させているのです。しかし、今、私たちにはよくわかりますが、弟子たちにはさっぱり訳がわかりませんでした。

そして、22節に「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」。イエス様は弟子たちの疑問にストレートに答えていません。こう言われても弟子たちにはわかりません。私はここを読むときに教えられるのですが、イエス様は絶えず私たちに先のことを語られます。ところが、そのときにはわからないのです。あれこれと詮索しますが、弟子たちが不安になったように、イエス様の語った意味がわからないことは、私たちが聖書を読んでいて度々経験することです。ところが、「のちこれを知るべし」とイエス様は言われます。いろんな具体的な生活問題や事柄に出会ってみると、わからなかった御言葉の深みを悟るのです。イエス様は、そのような答え方をなさる。

イエス様は、ゲッセマネの園にお祈りしに行くが、そのときにローマ人が来てわたしを捕らえ、それからああなって、こうなってと細かく言わない。言ったら、それで疑問は解決するかというと、そうでもない。それどころか、人はますます不安の中に落ちていくに違いない。聞けば聞くほど、だから“知識が増せば、悩み多し”と聖書にあります。弟子たちが、ここで求めていたのは、「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」と、また「その憂いは喜びに変るであろう」と言われたことの具体的意味でした。しかし、いくら細かく具体的な例をもって、これから起こることを言ったとしても、弟子たちは「そうですか。それではわかりました。安心しました」とはならないでしょう。わたしは十字架にかかって死ぬから、その後はよろしく。しかし、三日目によみがえるから、なんて言われたら、弟子たちはもっと訳がわからなくなります。

信仰とはまさにそのようなことなのだろうと思います。言葉で説明し尽くし得ないのが信仰の世界です。皆さんもご経験があると思いますが、そんなに熱心に教会に行って何をしている、何を勉強しているのか、分厚い本を読んで、あなたは賢くなりそうやね、と言われるかもしれない。そして時には、疑問を投げかけられます。「神様って?」「信仰とは何なのか」と尋ねられます。尋ねられると、つい、一生懸命になってこうだ、ああだと説明をしようとしますが、相手には通じなくて、もどかしく思う。時には、けんか腰になって、こんなのがわからんの!となりますが、実は、わからないのが当たり前です。イエス様も、ここで説明しているようで説明ではない。だから、とりあえず、どのような恵みの中に置かれるかを語っているのであって、具体的なことには一つも触れていません。十字架にかかるとか、あるいは、ピラトの法廷で裁かれるとか。あるいは、あなたたちは、わたしを残してみんな去って行ってわたしだけが……、という、細かいことをイエス様は既に知っていたと思います。でも、そんなことをいくら言ってみても、彼らが抱いている不安や心配を取り除くことはできない。だから、むしろそのことは一切言わないけれども、包括的といいますか、イエス様がこれから体験し、その結果生まれる事態の中心点、精髄、エッセンス、その部分だけをきちっと彼らに語っているのです。それは、不安から喜びに変わるという約束です。イエス様はこれを私たちに絶えず与えようとしてくださっているのです。

ですから、ここで妊婦が赤ちゃんを産むときの、生みの苦しみと共に喜びに例えています。イエス様がこれから体験しようとしていること、また弟子たちが出会う不安と恐れ、それは決してそれで終わらない。喜びが伴うことを知っておきなさいと。これさえ知っておれば大丈夫だと。細かな具体的なことが、ああなって、こうなってということより、むしろ、土台、根本であるイエス様が与えようとしてくださっているものを、彼らがつかんでほしい。これは今も変わりません。明日どうなるのか、明日何が起るのかを知りたいと思いますが、そんなことは決して私たちに平安を与えるものではない。それどころか、不安と恐れをいよいよ増幅させます。

皆さんが体の変調を感じてお医者さんへ行きます。そしていろいろと説明を聞きます。そのときは、ああそうかと納得したようですが、すぐ次の瞬間から、ではその先はどうなるの?次から次へ、不安や恐れがわいてくるのです。むしろ聞かなかったほうが良かったとなります。イエス様も、そのような不安や恐れを起こすことを知っていましたから、何も言わない。むしろ、大切なことは、22節に「このように、あなたがたにも今は不安がある」とおっしゃいました。「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる」との言葉によって、引き起こされた不安と恐れ、それをきっちりイエス様は理解してくださいました。受け止めてくださいました。そればかりでなくて、「しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。わたしは決してあなたがたを離れていない。必ず会う、「そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう」。大丈夫、喜びに満たされるのだから、心配しなくてよろしい。これはイエス様の言葉を信じる以外にないのです。イエス様は「喜びに満たされる」と言われたことを、弟子たちは素直に受け入れる以外にないのです。

いろいろな日常生活の具体的な問題に出会います。子どもがどうしたとか、あれがどうしたとか、これがこうだと、私たちの生活の中で細かい具体的な問題を与えられます。聖書を読んで、その問題にピタッとくる、心を励ましてくれる言葉がないかしらと思って、あちらをめくり、こちらをめくりします。しかし、そのような言葉に出会わない。それよりももっと大切なのは、神様に信頼して、神様の手の中にあることを信じる、聖書の約束の言葉を信じていく。それが目の前の事柄とピシャッと合うような言葉ではない。何か漠然とはしているけれども、私たちに大丈夫だとささやいてくださる主の言葉を確かなこととして信頼する。信じるとはそこなのです。このときに弟子たちに、イエス様の言葉をきっかけに不安と恐れが生まれましたが、そのことに直接何も答えないのは正解です。正しい事です。私たちも今、聖書の言葉を通してそのようなもどかしさ、弟子たちが感じたような不安と恐れがあると思います。しかし、後になって喜びに満ちるよといわれます。22節に「そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう」と。

では、具体的にどのようなことで喜ぶのだろうか。イエス様は何もおっしゃいません。わたしたちの喜びは、もの自体や事柄がどうこう変わるから喜ぶのではなくて、神様に信頼しきったときに味わう喜びがある。22節に「そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」。その喜びにあふれたら、その喜びをあなたがたから奪うものは何もない。事実そうだったのです。イエス様が十字架にかかられたとき、弟子たちはみなイエス様を捨てて逃げ、不安と恐れの中に置かれました。その大騒ぎになったエルサレムの町でひっそりと身を隠しました。ところが、それから三日目の朝、よみがえってくださったイエス様は、隠れ潜んでいた弟子たちの所に現れました。「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。大きな喜びにあふれたのです。それから後40日にわたって、イエス様は数々の証拠をもって、ご自身がよみがえったこと、主が今も共にいらっしゃることを弟子たちに具体的に体験させてくださいました。それから、イエス様は天にお帰りになりました。まさに、見えなくなった、いなくなりました。でも、イエス様はエルサレムにとどまって父の約束したものを待ちなさいと命じ、やがて10日目、五旬節の日、ペンテコステの日に彼らに聖霊が注がれました。イエス様が、よみがえった主が、具体的に弟子たちと共にいて、真の喜びの生活へ変えられました。そして再び、彼らの喜びを奪い去るものは何もなかったのです。ペテロもヨハネもみな聖霊に満たされて、キリストにある新しいいのちに生きる者となりました。

前もってそれを知っていたらと思いますが、例えそうなるのだと聞いていても、安心にはならなかったでしょう。事実、その後体験したときに、なるほど、イエス様があのときああ言っていたのは、このことだったのかと、そこでますます喜びが倍加していきます。神様はそうやって私たちを導いてくださっています。私たちの生活の問題や事柄を通して、不安の中に置かれますが、主の約束の言葉を信じていくとき、具体的に神様が働いてくださいます。問題を解決してくださるばかりでなく、私たちと主が共にいてくださるという、大きな喜び、神様が私を顧みてくださったその喜びに満たされると、その喜びを奪うものはなくなります。今度は何が起こってきても、更に深く主を信頼する者となるのです。

23節に「その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう」。確かに、もうよみがえってくださいましたイエス様を目の当たりにしたとき、何も言うことはなかったのです。事実、あのトマスですら、そうです。私は信じないと言いきっていたトマスも、イエス様が彼に現れてくださったとき、イエス様の傷跡に手を触れたいどころではない。もうそのまま、即、おお主よ!もう本当に理屈抜きです。説明は要らない。そこにありますように「その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう」。トマスも、イエス様、どうしてこうなったのか、その訳を話してください、私はまだ信じられません、とは言わない。目の当たりに見ているからです。

そして、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」と。イエス様が十字架の苦しみを受けてよみがえってから、「わたしの名によって求める者」は「わたしの名によって下さるであろう」。祈りなさい。求めなさい。ですから、24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった」。そうです。これまで、イエス様が十字架におかかりになって、あのペンテコステの霊が注がれるまでは、神様にお祈りすることはできなかったのです。旧約聖書の時代は、祭司の所に行って執り成してもらう。祭司に取り次いでいただく以外にないのです。そのためには、犠牲や供え物を持って行って、罪祭、燔祭、素祭、愆祭(けんさい)、それぞれの問題や事柄に応じて、ささげる物が決められていましたから、その法則にのっとって、祭司の所へ行って、祈ってもらう以外になかった。ところが、ここでイエス様は、「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった」。そのとおりです。主イエス・キリストの名によって祈ることは、それまでにはない。イエス様がよみがえったからこそ、また、よみがえって天にお帰りになったからこそ、いつどのようなときにでも、私たちははばかることなく祈ることができる。そして私たちの祈りは、主イエス・キリストの名によって、応えていただけるのです。

24節にあるように「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」。「求めなさい」とおっしゃいます。それまでは、恐らく弟子たちも、年に一回か二回か、あるいは毎月か知りませんが、宮に詣でてささげ物をし、持ってきた祈りの課題を祭司に述べて、執り成してもらう。そのようなことだったと思います。ところが、イエス様は、これからは「わたしの名によって求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」と。そうすれば、父なる神様は、必ず応えてくださいます。どうぞ、私たちも、このイエス様の約束を信じていこうではありませんか。また、そのとおりに主を信頼していきたいと思います。「求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」。

求めなければ駄目ですよ。祈らなければそれを得ることはできません。祈らないけれども、神様は知っていてくれるのではないかと。事実、神様は何もかもご存じです。しかし、私たちが求めるのを待っています。なぜなら、求めない先から、何もかも与えてくださるのではない。すでに求めない先から、神様はいろいろなものを与えてくださっています。なおかつ、求めるものがあるならば、人に求めたり、誰かに求めたりするのではない。神様に求めなさい。求めるものがあると、人に頼みます。あの人この人に、ああしてほしい、こうしてほしいと言いますが、私たちは素晴らしい約束をいただいているのです。「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい」。どうぞ、家族に求めたり、あるいは、誰か友人知人に求めたりするのではなくて、神様にまず求める。主に求めて行こうではありませんか。そのときに、神様は私たちに応えてくださいます。そこにありますように「与えられるであろう」。

事実そうだと思います。私たちがお祈りしないで、あの人にちょっと頼んでおこう、この人にお願いしてと、いろいろな人に頼んでそのことが実現しますか。良かったと、うまくいった、思ったとおりになったと。世の中のやり方は人手を介して、あの人この人を通してことをすすめる。そうでしょう。あちらの有力者に頼んで、こちらの実力者に頼み、こちらの人に話を通じてと、あれこれしながら、自分の思いを実現していきます。それがうまく事が進んで良かったと喜びます。しかし、その喜びはその瞬間で消えてしまいます。私たちは人に頼らないけれども、神様だけに頼って、祈って、主を求めて、応えられたときの喜びは、事実、事がうまく言ったという喜びもありますが、主が私に応えてくださった。神様が私と共にいてくださる喜び。主の臨在と共にある喜びは消えません。それはいつまでも残っています。

イエス様が、24節に「そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」と、また22節に「その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」とは、まさに、そのことです。私たちの喜びは、主に祈って導かれました、神様がこのように応えてくださいましたという、その確信を体験することです。その喜びは消えません。たとえ具体的な問題や事柄が、思いがけない方向に展開していったとしても、また、祈ることができる。主が私と共にいてくださることを体験する。ですから、24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。イエス様は、そうやって私たちに今日も求めなさいと言われます。

ローマ人への手紙8章31節から34節までを朗読。

31節以下に「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。神様が私たちの味方となってくださっている。私たちの思いを知り、なんとしても恵んであげようと、私たちの祈りに応えようとして待ち受けてくださっている。ただ、問題は、私たちが神様を信頼して、イエス様が勧めてくださる言葉を確かなこととして、信仰をもって祈ること、求めることをしなければ得ることができない。神様は、まさに、私たちを恵もうとしてくださっている。32節にあるように「御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。ひとり子であるイエス様を惜しまないで、わたしたちのために死に渡された方です。だったら、惜しむことがほかにあるでしょうか? イエス様をすら惜しまなかった神様がわたしたちの求めるところ、健康であろうと、経済であろうと、何であろうと、惜しむはずがない。

そして34節に「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し」てくださって、「わたしたちのためにとりなして下さるのである」。この言葉は大きな励ましです。わたしたちは自分に力がなく、神様に受け入れられる何ものもありませんが、ただ、イエス様のいさおしによって、今日も神の子としていただいています。祈りに見事に応えられるのです。この素晴らしい大きな特権を放ったらかしにするわけにはいかない。信仰をもってみことばを信頼して、祈ろうではありませんか。求めようではありませんか。ともすると、つい考えるでしょう。こんなお祈りをしても、私は出来が悪いし、神様には罪ばかり犯して、私の祈りなんか聞いてくださらないかもしれない。この小さいほうは聞いてくださるだろうが、大きいほうはちょっと無理かもと、そんなことを考えます。それが「だれが、わたしたちを罪に定めるのか」という意味です。自分の中でそうやって、このくらいのお祈りなら聞いてもらえるかもしれない。あの方だったら、あのくらい大きくてもいいだろうと、自分で自分を「罪に定めていく」のです。「罪に定める」とは、そのように自分を責めるのです。あるいは、自分をこのような者だと決めてかかろうとする。それが「罪に定める」ことです。私たちは初めからゼロであり、何も取り柄のない者、罪の塊、パウロの言うように「罪人のかしら」です。私たちの功績によって祈りが聞かれるのではなく、今日も執り成してくださるイエス様がおられるから、この人の祈りを聞いてやってくださいとイエス様が執り成すから、父なる神様が応えないはずがない。そのことをしっかりと確信して日々祈り続けたいと思います。いつどのように神様が応えてくださるか、それはわかりません。それは神様の手にあることです。しかし、私たちは祈るということを通して、神様から与えられる喜びにつながることができます。

もう一度、ヨハネの福音書16章24節「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」。この言葉を素直に、ハイ、と信じて御覧なさい。もうすでに、そこから喜びがわいてきます。安心になります。ところが、ここを読みながら、そうねー、そうなればいいけれども、まぁ、……と、どこかで疑っている。それが良くないのです。私どもが、素直に幼子のごとくに信じることが大切です。

24節に「そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。チョボチョボの喜びではない。「満ちあふれる」のですから、顔から喜びが輝くのです。この喜びを味わうために、まず、信仰をもって、みことばを信じ、祈りましょう。主が与えてくださる喜びを日々味わいつつ、歌いつつ地上の旅路を進んで、やがて神様の御前に立つとき、いよいよ輝いて「栄光から栄光へと主と同じ姿に」造り変えてくださいます。その喜びに満たされるには、ただ、「求めなさい」、わたしの名によって祈りなさいと言われます。この約束を信じて、主を求め、主と共に生きる日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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