いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(107)「恐れに打ち勝て」

2014年01月06日 | 聖書からのメッセージ
マタイによる福音書14章22節から33節までを朗読。

27節「しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』と言われた」。
この記事のすぐ前に、イエス様が不思議な業をなさったことが語られています。ガリラヤ湖畔、ゲネサレ湖とも言いますが、大勢の人が集まってイエス様のお話を聞いていました。ところが、日が暮れて、食事をするときになった。近くには食事をするところがありません。弟子たちがイエス様に「群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」と申し出ましたが、イエス様は「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われ、弟子たちは「パン五つと魚二匹しかありません」と答えると、「それをここに持ってきなさい」と言われました。すると、イエス様はそれを手に取って祝福して 、成人男子で五千人以上、恐らく女性や子供を入れますと、その倍以上はいたかもしれませんが、皆が食べて満腹をしたという奇跡が行われた。
それから、湖を渡って向こう岸へ行こうとしました。22節に「群衆を解散させておられる間に」と、たくさんの人が集まっていますから、解散するといっても、1分や2分で「はい、さようなら」と言って別れるわけにはいかない。教会の近くで毎年花火大会があります。毎年40万人近い人たちが集まりますが、皆が去って行くまで1時間ぐらいかかる。周辺の道路は大渋滞します。このときも恐らく一万人以上の人々が徒歩で去って行くのですから、時間がかかる。イエス様は、その間に「しいて弟子たちを舟に乗り込ませ」ました。
23節に「そして群衆を解散させてから」、イエス様は独りそこへ残って、中にはイエス様に個人的に話がしたいと申し出た人、病気の人で癒して欲しいと祈りを求めた方もいたでしょう。そのような人々の世話をなさったイエス様は、その後「祈るためひそかに山へ登られた」。イエス様はどんなに忙しい中にあっても、人を離れて、ただ独りになって、父なる神様との交わりのために「山へ登られた」。山に登ると言うのは、人を離れて隔絶するという意味です。別に町の中だって、家の中だってそれは構わないが、どうしても家の中にいると、時間をとって自分だけ静まろうと思っても、家族の者からすぐに声を掛けられる。あるいは何かちょっと用事が心に思い浮かぶと、それを先にしてからとなる。ところが、山に入ってご覧なさい。そんなことを思っても、下りていくわけにはいかない。そのような意味で日常から離れることは幸いだと思います。日常生活の中でも、短い時間であろうと、神様との交わりを持つのは大切です。忙しい生活の中でこそ、イエス様はあえて山に登って、父なる神様との交わりを持つ。「ただひとりそこにおられた」とありますが、これでうるさい連中から離れて、やれやれと、一休みしたのではない。父なる神様との親しい交わりを持っていた。

弟子たちにとって、ガリラヤ湖は自分たちのホームグラウンド、生まれ育った所でまた漁師でしたから、状況はよくわかる。彼らは船を出して向こう岸へと渡っていく途中、突然「逆風が吹いていたために、波に悩まされて」とあります。進む方向から風を受けてしまって、なかなか前に進まなかった。今のように動力があって、エンジンひとつで向かい風であろうと、どんどん進んでいくような道具はないから、帆を張って、あるいは櫓(ろ)をこぎながらですから、これは並大抵のことではない。しかも、ガリラヤ湖には突風が吹きやすいようです。ほかにもそのような記事がありますが、突然天候がガラッと変わる。だから、彼らは予測がつかない。いくら長年の漁師であっても、急激な気象の変化を見分けることは不可能です。それで彼らは逆風に悩まされてなかなか前へ進まない。時間がたって「夜明けの四時ごろ」になり、周囲が明るくなり始めたころだと思います。すると「海の上を歩いて彼らの方へ行かれた」。イエス様は海の上を歩いて難儀している弟子たちの所に近づいてきました。ところが、弟子たちは26節に「イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた」。明け方、まだ周辺は暗かったでしょう。そこへ向こうから波の上を歩いて近づいてくるかすかな人の影が見える。長年の漁師ですから、体格はよかったでしょうが、肝っ玉は小さい。「幽霊だ」と思って、そして「恐怖のあまり」、あまりにも恐ろしくて、「叫び声をあげた」。想像すると、笑えてしまいますが、人ごとではありません。私どもでも恐らくそうだと思う。予期しない、人が来るはずがない波の上を歩いているのです。だから、それを見て弟子たちは、びっくりして驚きました。そのときに、「イエス様は彼らにすぐに声をかけて『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』」。恐怖、恐れ、これは私たちにとってなじみ深い、ごく身近な事です。
私たちは絶えず恐れに支配される。考えてみますと、最初は心配や不安が心に生まれてきます。次に、不安が高じて恐れに変わります。自分を考えてみてください。何か不安なことがポッと起こる。あれはどうなるだろうか。どうなるだろうか、と考え始めると、どんどんと高じていく。凝縮され、濃縮されて、恐怖に変わる。

何かちょっとした、しようもないことだけれども、これは一体どうなるだろうかと思う。殊に健康についてはそうですね。体の調子など、今日はどこかちょっとおかしい。どうしてだろうか。なんでこんなになったのだろうか。原因がわからない。そのときはまだ不安の状態。それから今度は、ひょっとしたら、あれではないかと、想像のつかない病気を自分で考えだす。きっと、これに違いない。そうすると途端に、不安から恐怖の段階に入ってくる。じっとしておれなくなる。これが人生の厄介な邪魔者です。人生でこの不安から恐怖へ、恐れがなかったら、どんなに幸いだろうかと思います。ところが、なかなかそれを消し去ることが出来ない。。

このときの弟子たちは、つい先ほど、五千人以上のたくさんの人々が、たった魚二匹と五つのパンで満腹したという、驚くべき事柄を体験したのです。体験していながらも、何時間もたたないうちに、不安と恐怖に陥ってしまう。あのときの経験は一体なんだったのかと思います。何の役にも立たなかった。このような経験をしたら、二度と同じような失敗はしないだろうと思いますが、人は浅はかで愚かです。私たちは過去に同じような経験をしながらも、まだ不安があり、恐れがあります。このときの弟子たちも、あんな大きな体験をしたのだから、余程、イエス様を信頼して、神様を信じて、揺るがない信仰に立ったかと言うと、そうではない。目の前に見る状態や事柄で恐れが生じてくる。だから、イエス様はその後に「信仰の薄い者よ」と言われました。

このときイエス様は「すぐに彼らに声をかけて、『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』」と言われた。イエス様が言われるとおり、「恐れることはない」のです。なぜなら、私たちはイエス様の命をもってあがなわれ、神様のものとされて、神様が今日も私たちを握ってくださっている。それを信じられない、信頼できない。だから、このときペテロは「主よ、あなたでしたか」と。そうだったら何も恐れることはない。そうだった、幽霊ではない。イエス様だ。ペテロは早速「では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエス様は、29節に「『おいでなさい』と言われた」とあるでしょう。ペテロは、勝手に自分から飛び出して行ったわけではない。イエス様が「おいでなさい」と言われたのです。その言葉を信じて、船から一歩、波の上に足を置いた。イエス様が「おいでなさい」と言われたのだから、行けばよかったのですが、「風を見て恐ろしくなり」と。ここでまた恐怖に襲われる。22節から33節までの記事の中で、繰り返して「恐れ」というテーマに繰り返されています。このときも、風を見るといっても、風は見えませんから、波を見たのです。ペテロは風によって、波立っている荒々しい波を見たときに、「え!自分はどうしてこんな所にいるのだ。波の上にいたら沈む」と、自分でそう思い込んで、イエス様の言葉を忘れた。主が「おいでなさい」と言われたのですから、沈むはずがないとペテロは信じられなかった。むしろ、目の前の状況を見て、彼は恐れを持った。恐れを持ったときに、おぼれていく。

不信仰になるときは恐れがある。何かを恐れるとき、人を恐れ、事情境遇や、物事を恐れたとき、ペテロのようにイエス様の言葉から離れている、神様から離れているときです。しかし、おぼれかけたペテロは「主よ、お助けください」と、主を呼び求めました。これは幸いなことです。そばにイエス様がいらっしゃる。イエス様はまだ波の上に立っている。ペテロがイエス様だけを見ていればよかった。ところが、波を見たために沈みかけた。恐れが生じたのです。「主よ、お助けください」と、そばにいるイエス様を呼ぶことができました。イエス様はすぐに手を伸ばして彼をつかまえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。神様を忘れると言いますか、意識しないうちに、イエス様を疑い、神様を疑うのです。これが不信仰です。どのような状況の中で、私たちは信仰を離れてしまうか、よくよく警戒したいと思います。殊に、恐怖は私たちの一番の天敵です。あまり恐怖と仲良くならないように……。イエス様の救いは私たちをそこから救い出してくださるのです。イエス様がこの地上に来てくださったのは、恐れに支配された奴隷の生涯から解放してくださるためです。
マタイによる福音書10章28節から33節までを朗読。
28節に「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と。ここでもイエス様は「恐れるな」と、繰り返し語ってくださる。「恐れ」は私たちを神様から引き離して、別のものの支配に置こうとする力です。サタンの支配に私たちを引き入れようとする。そこに「恐れ」が働くのです。だから、恐れのために人はとんでもないこと、思いもかけないことをやってしまう。
近頃のニュースを聞いていますとそのような話がたくさんあります。前にもお話したと思いますが、奈良でしたか、息子さんが、自分のお父さんが憎いためにとうとう家に放火して、お母さんと弟や妹を殺してしまう事件がありました。お父さんがお医者さんで厳しくて、自分の息子にもそのような生涯を期待したのでしょう。そのときも成績が思わしくなくて、学校から帰ったら、お父さんから厳しく小言を言われるという恐れがあったのです。そんなに行き詰ることはいらなかったはずです。避ける方法はいくらでも考えられます。しかし、少年にとっては、目の前はお先真っ暗、恐怖だけです。恐れに支配されてしまったとき、人はとんでもないことを思いつく。お父さんからしかられる、厳しく言われる。過去にそのようなことが続いたからだと思いますが、恐れが少年を逃げ道のない袋小路に追いやったのです。
私はそのニュースを聞きながら、やるせない気持ちになります。もっといろいろな道があるだろうにと思います。ところが、恐れがいったん心を支配すると、とりこになってしまう。その奴隷になる。そして、正しい判断、神様が語ってくださる御霊の声に従うことができなくなる。神様が語りかけてくださる良心の言葉を、心の正しい言葉を聞き損うのです。周囲に起こる最近の事件を見ていると、生活苦でやむなくどうしてもこうせざるを得なかったというものではない。かつて、戦後いろいろな事件があったときは、大抵、犯罪者ではあるが、どこか本当に気の毒な、そうならざるを得ない、ほかに道もないということがありました。ところが、最近の事件はもっといろいろな方法、手立てがあるのに、その人自身の心の問題から生まれてくる事件が多い。しかもそれは恐怖です。恐れを抱く。そこから思いもかけないことに発展していく。
28節に「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。もっと恐れなければならないものがある。確かに、罪を犯した少年にとっては、お父さんが自分の心の恐れ、恐怖の大王になっている。だから、それをなきものにしようとしたに違いない。しかし、実は、もっと恐れなければならない方がいる。それを知らないのです。今の社会の中で、一番の欠陥はそこです。恐れなければならないものを知らないで、恐れないでいいものを恐れるから、とんでもないことになる。28節に「魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。お父さんがどんなに怖い人であっても、厳しくしかられて、ひょっとしたら命を失うかもしれなくても、神様はお父さんよりもっと怖い方です。神様を、永遠に滅ぼす力のある御方を恐れているならば、少々自分の体がどうなろうと、神様に従うことの方がはるかに幸いなことです。
ですから、28節にありますように「むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」。私たちが何を恐れているのか、何を大切にしているか、これが問われるのが今の時代です。神様を第一にして、神様を畏(おそ)れ、尊び、敬うことが根底になければ、私たちの信仰は成り立ちません。ですから、このときもイエス様は、29節に「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」と言われます。すずめはありふれた鳥です。すずめが飛んでいても見向きもしないし、気にも掛けない。しかし、そのすずめですらも、父なる神様の許しがなければ、一羽も落ちないというのです。ましてや、私たちはすずめよりも優れた者、神様の許しがなければ、私たちの肉体を損なうものは何もないのです。神様の手に私たちは握られている。神様を恐れて、神様だけに、思いと心を向けていくとき、人がどうしようと、人が何か危害を加えようとしたって、主の許しがなければそれは起こらない。世の中の生活のことで、あれがこうなったらどうしようか、これがこうなったらどうしようか、私の生活は大丈夫だろうか、私の蓄えで何とかやっていけるだろうかと、老後のことを心配したりする。そうすると、つい恐れがくる。もっと明日から節約をしなければと、あちらの電気を消し、こちらの電気消してと、そして気がついてみたら、翌日死んでしまって、残ったものは誰のものになるか。それを聞いた途端、それじゃ、これからぜい沢をしましょう、あるだけ使おうと。しかし、長生きしたらどうしようと、これまたわからない。先のことがわからないから、わからないものを恐れる。正体がわからないからいよいよ不安になる。しかし、そうではなくて、一日一日、神様を畏(おそ)れて、神様を第一にしていくとき、私たちに生きる喜びと命を与えてくれます。29節に「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ」と。神様の許しがなければ何一つ起こらないのだと、しっかり信じていく。あるいは神様が許してくだされば、明日にだって天に帰ることになります。そこまで信頼していくことです。神様を信じること、神様を畏れ敬うことは命を懸けなければ、命を神様の手に渡さなければ、信頼することになりません。自分をこちらに置いて、このことだけ、あのことだけと、部分的に神様を頼ろうとしても、恐れは消えません。根こそぎ神様のものですと、ささげきって、自分を神様の手に置くことです。
だから30節に「またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」。神様は私たちのことを全部知り尽くして、髪の毛の一本一本、何本あるのか、全部知っている。私たちは自分の体でありながら、知っているでしょうか? 今朝10本抜けたから、あと残りは何本と……。鹿児島の出水(いずみ)という所に、冬に鶴がやって来る。私は一度、そこへ行ったことがありますが、ただいま鶴が何羽いますと掲示される。9233羽と一桁の数字まで書いている。最後の3羽はどのようにしてわかるのだろうか、今飛んでいったけれども、どうなるのだろうと思ってしまいます。しかし、神様はもっと細かく、リアルタイムに私たちのことを全部知っている。だから、恐れなくていいのだよと。31節に「それだから、恐れることはない」と。今、不安がありますか。不安が高じて、段々恐れへと変わりつつあるならば、「恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」との御言葉に立ってください。どんなものよりも優れているではないか。確かにそうです。私たちは万物の霊長などと、偉そうなことを言うではないですか。それでいながら、すずめやその辺の動物よりももっと劣った生き方しかできない。よく人をけなす言い方に、“犬畜生”と言ったものです。しかし、今はそんなことは言えません。犬の方が迷惑をする。あんなひどい人間と私を比べないでくれと言われるでしょう。私どもは恐れに支配された生き方をしています。私たちの生活、自分の生活ばかりでなく、周囲を見てご覧なさい。すべてが恐れからです。ひょっとしたら地球が終わるのではないだろうか。環境が悪くなって、また食料が足らなくなるに違いない。段々と中国が力を持ってきて、資源をドンドン吸い上げていって、そのうちガソリンが高くなっていく。電気も使えなくなるのではないだろうか。政府の役人たちは、いつも心配と不安と恐れで、ああしようか、こうしようか、右往左往しています。日本中がそうです。恐れに囲まれた生活。北朝鮮が核実験をするらしい、ミサイルを飛ばした、ただそれだけで国中が右に左に揺れる。何を恐れるのですか。そこにありますように「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。北朝鮮であろうとなんであろうと、神様の手に握られている。今、神様が許して私たち一人一人を生かしている。その神様の手を信じなければ、恐れを取り除くことはできません。
はじめの「マタイによる福音書」14章26節に「弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い」と。「幽霊」という、実体がない、まだなんの具体性のないものを恐れるのです。恐れの原因を考えてみると、そのように決まったわけではない、そのように言われているわけでも、定められているわけでもない。具体的に目の前に起こっていることではない。言うならば幽霊ですよ。形のないもの、はっきり存在しないものを、私たちは恐れるのです。これが聖書にいうところの「世の主権者」あるいは「悪の霊」と言われているものです。私たちの心に形のないもの、まだありもしないものを恐れさせるもの、そのような力が働いてくる。「だから、信仰に堅く立ってあなたがたの救いを全うしなさい」と勧められています。信仰のよき戦いを戦えと言われる。いくら恐れまいとしても、恐れを引き起こす霊、サタンの力が私たちに働きかけてきます。そのとき、戦わなければなりません。戦うといっても、私たちには武器が無い。しかし、幸いなことがある。「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われるイエス様がいるから、イエス様に求めるのです。これが恐れを取り除くただひとつの武器です。
ペテロが、イエス様を「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白しました。すばらしい信仰に立ったときに、イエス様は喜んでくださいました。ところがその後、イエス様がやがて律法学者や指導者たちから捕らえられて、十字架にかけられ、三日の後に死んでよみがえることを話したとき、ペテロが、イエス様、ちょっとこちらへ来なさい。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言っていさめた記事があります。そのとき、イエス様は「サタンよ、引きさがれ」と叱りました。ペテロはイエス様がそんなことになったら大変だと、不安と恐れを感じたのです。サタンが、せっかく「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白したペテロの信仰を砕こうとしてきたのです。それに対してイエス様が「サタンよ、引きさがれ」。決してペテロをしかったのではなくて、ペテロの中に働きかけてくる闇(やみ)の力をイエス様が追い払ってくださったのです。私たちも自分の力では恐れに打ち勝つことはできません。しかし、イエス様にはできないことがありません。27節にありますように「しっかりするのだ、わたしである」、「わたしである」とイエス様は言われます。イエス様は、皆さんが恐れの中にあるときにも「わたしである」と細き御声をもって、呼びかけてくださる。そのとき、「主よ、あなたでしたか」とペテロが答えたように、「イエス様がいらっしゃる」ことに心を向けるならば、恐れは消えていきます。ペテロはイエス様だと知ったとき、今まで恐怖の声を上げていたペテロでしたが、途端に元気になる。そして信仰に満たされる。「わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」、「おいでなさい」。それで歩んでいけばいいのに、風を見て、サタンに心を奪われて、恐れが生じた。途端に引きずり込まれていく。
私たちの生涯は、波の上を歩いているようなものです。いつでもサタンは私たちを波の中に引き込もうとします。しかし、その度ごとに「主よ、お助けください」と絶えず呼び求めて、主が引き上げてくださる救いの手にすがっていく。救ってくださるのはイエス様ですから、イエス様に絶えず手を伸ばしていくこと。これがサタンに打ち勝つただひとつの道です。私たちを救うためにイエス様は神の位を捨て、この世に来てくださいました。いろいろなことで不安が押し寄せてきます。サタンが私たちに不安な思いを投げ込み、それを恐怖へと造り変えようとします。そのときに、私たちは絶えず「わたしである」と言われるイエス様がそばにいるのですから、「主よ、お助けください」と、主に声を掛け、呼び求めて、主の確かな手を握っていきたいと思います。これが私たちの救いです。せっかくイエス様が、救い主として来てくださったのですから、救い主はイエス様ですから、「イエス様!」と主を呼び求めて、イエス様の力にすがっていこうではありませんか。
「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」。もう恐れることはいらないよ、とおっしゃいます。イエス様に目を向けて、イエス様の手を握って、イエス様に引っ張られて、助けられて歩む日々でありたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。





















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