いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(490)「神に求める」

2015年03月06日 | 聖書からのメッセージ
 「マタイによる福音書」6章5節から8節までを朗読。

 6節「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。

 信仰生活の要(かなめ)といいますか、命はまさに祈ることに尽きます。もちろん御言葉を通して神様の御思いを知り、御心に触れることができます。御言葉を抜きにしても、もちろん信仰は成り立たないものです。しかし、御言葉だけでいいかというと、そうではなくて、もう一つ祈ることが大切であります。御言葉と祈りは、まさに信仰生活の両輪でありまして、どちらも同じ様に大切なことであって、両方がなければ私たちの信仰生活は充実したものとなりません。御言葉は神様が私たちに向かって語ってくださる言葉であります。いうならば、神様の御思いを私たちに伝えてくれるものが御言葉であります。それに対して祈りは、私たちから神様に向かって求めて行く、あるいはいろいろな思いを知っていただく、いうならば、私たちの側から発信して行く行為であります。ですから、神様から聞くことと、また神様に応答して行く、これが信仰生活に不可欠なものであります。

殊に、今日は祈ることについて教えられたいと思います。お祈りをすること、これは誠に恵みといいますか、幸いなことであります。しかも神様は聖書を通して一貫して私たちに祈れと求めてくださっている。お祈りをしなさい、私たちの声を神様に聞かせなさい、とおっしゃってくださる。

「ヨハネによる福音書」15章16節を朗読。

この後半に「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」とあります。「わたしの名によって」、主イエス・キリストの名によって祈る祈り、願いに、父なる神様は必ず答えてくださる。「父に求めるものはなんでも、父が与えて下さる。応答してくださる」と約束してくださいます。だから「求めなさい」、「祈りなさい」と、イエス様は勧めておってくださいます。

「ヨハネによる福音書」16章23、24節を朗読。

ここにも「父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さる」とイエス様は約束しておられます。しかも24節に「わたしの名によって求めなさい」と勧めてくださいます。これはイエス様が「最後の晩餐」といわれる、十字架におかかりになる前、弟子たちと食事を共にした席でのお話であります。イエス様はご自分が間もなく彼らの目から消えてしまう。見えなくなってしまう、死んでしまうことをご存じでありました。しかし、そのことを弟子たちは何も知りません。去年と今年、全く同じような思いをもっていました。ですから、やがてそういう想像も付かない事態に陥ったとき、彼らが当惑するに違いない、慌(あわ)てふためくであろうことをイエス様はご存じでした。だから、「ヨハネによる福音書」14章1節に「あなたがたは、心を騒がせないがよい」と、くぎを刺しておられるのです。それはご自分がこれからどういう事態に直面するかをご存じでおられたから、弟子たちに前もって警告したといいますか、アドバイスを与えてくださったのです。そのことが14、15、16章と語られています。そこでいろいろなことをイエス様はお話しになったのであります。ご自分のこの地上での生涯がいよいよ終わろうとしているときに、どうしても伝えたかったこと、それは「求めなさい、父が答えてくださるよ」ということです。
いまイエス様は弟子たちの目の前に肉体をもって立っていますが、この姿が見えなくなってしまう、消えてしまう。しかし、それでもなお父なる神様はあなたがたの祈りを聞いてくださる。求める願いを聞いてくださる。だから、何も心配をするな、とおっしゃいます。「神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)と言われるように、父なる神様が必ずその祈りを聞いてくださる。ですから、16章23節に「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さる」。しかも、父なる神様が私たちの願いに応えてくださるには、それなりの根拠、理由があるのです。それはなにか? 「わたしの名によって」とあるように、イエス・キリストが私たちの祈りを保証してくださる。執り成してくださっているということです。だから、「わたしの名によって求めなさい」とイエス様はおっしゃいます。

私たちは普段お祈りをするとき「主イエス・キリストの名によって」と締めくくり、父なる神様に祈ります。ですから、そこをはっきりと信じてください。なぜイエス・キリストの名によって祈るのか? それは、イエス様は私たちの祈りを父なる神様に取り次いでくださる御方だからです。大祭司となり給うた御方、私たちと父なる神様との間を執り成してくださる、結びつけてくださる御方だからです。そのことをしっかりと信じて祈りたいと思うのです。神様が私たち人の祈りを聞かなければならない理由はどこにもありません。また、神様には聞かなければならない責任も義務もありません。神様は造り主、創造者でいらっしゃいます。ご自分の意のままにどんなことでもお出来になる御方です。ましてや、神様を軽んじ、ないがしろにし、侮(あなど)って傲慢(ごうまん)に振る舞って来た私たちを、神様は忍耐をもって忍んでくださっておられる。そんな私たちの祈りをどうして神様が聞かなければいかないのか。親だってそうです。自分の血を分けた子供であっても、親に対してさんざん不義理している者が、少し風向きが変わって「ちょっとお母さん……」と、何か頼み事をしてくると、「いままでどうしとったね!聞いてやるものか」と思います。神様だってそうですね。私たちが「神様、こんなですから……。あんなですから」と言うと、神様から「わたしの知ったことではない」、「自業自得だ」、「お前が今までそんなことをしたのだから仕方がない」と言われてしまうに違いない。「そんなものは聞いておれん」と断られて当然であります。ところが、そのような私たちの祈りを聞いてくださる。何ゆえに聞いてくださるのか? それはご自分の愛するひとり子でいらっしゃるイエス・キリスト、イエス様が私たちの罪のため、命まで捨ててくださった。父なる神様の御心に徹底して従いなさったイエス様が、父なる神様に「この者の祈りを聞いてやってください」と持ち出してくださる。執り成してくださるから、私たちのいのりを聞いていただける。それゆえに「これは父なる神様が必ず応えてくださる」と信じることができるのです。もしそれがなかったら、私たちは常に不安であります。「私はこんなに神様のために尽くしたから、このくらいのことは聞いてもらわなければ……」と思って神様にお祈りをしても「これで十分だったろうか。ちょっと足りないのではなかろうか」と、気になって仕方がないでしょう。確信が持てません。しかし、神様が祈りを聞いてくださるのは、私たちの祈りが立派だから、あるいは行いが立派だから、私たちの何かが神様の役に立つから聞いてやろう、というのでは決してないのです。そもそも神様は私たちの祈りを聞かなければならない理由は一切ない。では、どうして神様は私たちに「祈れ」と言われるか。それは私たちが弱い者であり、欠けた者であり、罪なる者であるがゆえに、また神様は私たちを愛するがゆえに、私たちの思いを知り、願いに答えようとしてくださる。しかし初めから「では、お前の言うことを何でも聞くよ」と言うわけにはいかない。私たちは神様に罪を犯した者であり、神様の前に不義理を尽くした人間でありますから、その罪を赦す御方としてひとり子を遣わし、それによって私たちの罪を赦して、そればかりでなくて「求めなさい」「祈りなさい」、「その祈りを聞くよ」と言われる。それはただ御子イエス・キリストのいさおしによって、そのご犠牲のゆえに、私たちの祈りを聞いてくださる。これで神様は聞かないはずがない。イエス様が執り成してくださる祈りを、父なる神様が「そんなのは、俺は知らん」と言われるはずがない。なぜなら、死に至るまでも徹底して従順に従い抜いてくださったイエス様に、父なる神様は「すべての名にまさる名を彼に与えた」(ピリピ 2:9)とおっしゃる。それ程神様は大切にしているひとり子イエス様の求める所に応えないわけにいかない。いや、それどころか大いに応えてくださる。だから、どんなことがあっても「聖名によって祈る、キリストの名によって祈る」こと、これが私たちのより所であります。

だから23節に「その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」と。「わたしの名によって下さる」のであります。24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい」と。キリストの名によって求めなさいと言われるのです。「そうすれば、与えられるであろう」という約束であります。聖書は一貫して形を変え、言葉を変えながら、神様は私たちに迫ってくださるのであります。これは誠に恵み深い事です。

この世にはいろいろな神と称するものがたくさんありますが、そこまで私たちのことを思って、「わたしの所へ来て祈れ、求めよ」と言われる神様はいません。日本には八百万(やおよろず)の神といわれるぐらいたくさんの神々がいますが、どこの神様が自分のひとり子を私たちのために十字架の死にまで追いやって、なおかつ「お前の祈りを聞くから来て祈りなさい、また求めなさい」と言ってくださるでしょうか。このことをどれほど有難いこと、恵みであると感謝しているでしょうか?ですから、遠慮せずにどんなときにでも祈り求めるのです。神様に祈るのです。これは私たちの大きな特権、恵みであります。「ダニエル書」でも、ダニエルがそのように祈っています。「わたしが父なる神様に祈ることができるのはわたしの力、功績によるのではなくて、ただあなたの憐れみによるのです」(ダニエル 9:18)と。そのように一方的な神様のご愛と憐れみによって、恵みによって、祈りを聞いていただくことができる。祈りは本当に素晴らしい恵みであります。
私は自分の人生を振り返ってみて、子供の時からこの祈ることを教えられたのは、誠に幸いな恵みでした。子供の頃は訳が分かりませんから、牧師の家庭に生まれ育ったので、自分の好むと好まざるに関わらず、神様を信じさせられたという、被害意識が強くて「どうしてこんな家に生まれたのだろうか」と、出生を呪い、「これなら生まれなかったほうが良かったのではないか」と思うようなところがありました。「いつも神様、神様、目の上のこぶのごとく、そんなものを恐れなきゃいけないのだろうか」と思っておりました。ところが、その中で一つだけ自分にとって良かったのは「お祈りをする」ことを教えられたことです。物心が付いた頃から祈ることを教えらました。子供の頃の祈りはたわいのない祈りです。夜寝るとき「泥棒が入りませんように」とか、「おねしょをしないように」とか、そんな祈りです。朝起きると「今日も一日楽しく過ごせるように」という簡単な祈りでしかありません。しかし、食事のたびごとに家族で祈りますし、常に祈る。気がつかないうちに身に付いて、祈らないと何かが抜けてしまったように思える。これは幸いな恵みだったと思います。だから、ある意味でお祈りをするのが習慣になることも必要です。惰性で祈ることは何の意味もないと言われ、確かにそうだとは思います。しかし、ある程度習慣的に身に付けること、自分の習性のようなものに祈りがなってしまう。あるいは体にしみ込んだものになる。これはある程度訓練しなければそうはなりません。初めのうち私たちは意識する。
ですから、私は教会学校の小さなお子さんたちにもそのことをとくに勧めるのです。お祈りをすることを教えてやってほしい。子供たちに何か残すといって、神様は祈りを聞いてくださるのだよ、と教えてやる、身に付けさせてやることは、英会話や水泳が上手になるよりも幸いなことです。ですから、教会では教会学校の子供たち一人一人に祈りのノートを渡している。それは「お祈りをしなさい」と言っても、どんな祈りをしたらいいか分からない。大人でも分からない。だから、教会に来られる方に「お祈りしてください」と言うと、「いや、私はできません」と言う。「日本語はしゃべれるでしょう」、「しゃべれるけれどもお祈りはできません」。そのとおりで、お祈りするというのは、普段生活で言葉をしゃべれるから祈れるかというと、必ずしもそうではない。やはり信じなければ祈られない。ところが、信じていても祈られないという場合があります。それはどう祈ったら良いか分からない。
教会にはクリスチャンホームの子供たち、三代目、四代目ぐらいの人がいます。親は自分で祈りますが、なかなか子供に祈りを教えられないのです。それでノートを作りまして、祈りの言葉を書いてあげました。「朝起きたときの祈り」「学校へ行く前の祈り」「食前の祈り」、それを「天のお父様……」と短い文章を幾つか、いわゆるひな型です。お祈りのお手本を作りました。それを皆に持たせています。教会学校で礼拝後献金をします。子供たちは大喜びで御用をさせていただこうと、献金袋をもって回ります。最後に「では、感謝のお祈りをしてください」と言うと、子供たちは尻込みをする。「どう祈ったらいいか分からん」。それで「献金の時のお祈り」というのを書きまして、「これを読んでください」と。そうすると、2,3回見て祈っていると思ったら、その次から完全にそらんじて、見ないでもお祈りをするのです。子供は早いですね。若い子供たちはすぐに覚える。そして真剣に、信じて祈るのです。
私はその子供の姿を見ながら、神様のわざは素晴らしいと思いました。本人たちが信じてお祈りをするから、見えないけれども神様はいらっしゃると、逆に信仰が与えられるのです。これはいい意味での循環です。神様を信じることができれば祈る。祈ればまた信じることができる。どんどん信仰が深まって来る。だから、皆さんのお孫さんに親がどうであってもそんなことは関係がなく、そっと呼んでお祈りを教えてやる。というのは、私自身がそうだったのです。
先ほど申し上げたように、物心が付いた頃から既に祈ることを教えられていました。小学校、中学、高校、子供は子供なりの悩みや心配や失望落胆を感じる時が常にあります。その度に一人で部屋の隅に行ってお祈りをする。そうして祈ると心が安らぐ。ホッとするといいますか、そういう経験を積んでくる。自分の気持ち、心配な気持ちとか、あるいは寂しい思いを親には言えないわけです。あるいは友達に言ったら馬鹿にされるかもしれない。「こんなことを親に言ったらまた何か言われそうだから」と、子供なりにプライドがある。だから、多くの子供たちはストレスがたまるのだろうと思います。そういうとき、独り布団をひっかぶって「天のお父様……」と、親しく呼び求めて祈ることができ、心を軽くする。これは私自身の大きな恵みでありました。高校時代から、やがて家を離れて社会に出て行ってから、祈りは大変大きな力でした。世の中に出て行くといろいろな問題に遭います。そういうときに何がいちばん身近な助けとなるか。もちろん御言葉も大きな力であります。しかし、それ以上に祈ることが自分にとって幸いな恵みであったと思うのです。今もそれは変わりません。どんな時にも、歩いていようと何していようといつも祈る。これは私たちの大きな恵みでありますから、どうぞ、皆さん、ジッとしている時でも何をしている時でも、いつも心の中で祈り続けるのです。これが許されています。

しかも、16章23節にありますように「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」と。神様が私たちの祈りを必ず聞いてくださる。だから「求めなさい」と勧めてくださる。

「マタイによる福音書」6章6節に「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」。いうならば、神様と1対1になることです。お祈りをするとき、声を出して祈ります。だからと言って、人に聞かせるのではありません。もちろんこういう公同の礼拝とか集会のときに祈る祈りは、声を出して多くの人の中で祈りますから、会衆は聞いています。その祈りは大切な祈りであります。と同時に、独りで密室の祈りをします。なぜそうするかというと、私たちの祈りを人に聞かせると、そこに肉の思いが働くからです。それが神様と私たちの間を妨げてしまう。だから、そういう妨げになるものを一切取り除く。その意味で「戸を閉じて、隠れた所においでになる」といわれているのです。幸いだんだんと独り暮らしになって来ますから、家の中で、どこでお祈りをしても誰も聞かれない。いつも密室であります。これは幸いな恵みですが、しかし家族がいるときはなかなか声を出して祈りにくい。そういうときは、トイレの中などでお祈りをする。

以前、父がお証詞していましたから、皆さんも記憶していることだと思いますが、修養生の頃、「霊感賦」を買いたいと思ったそうです。ところが、修養生はただで食べさせられて、寝る所を与えられて、「それで感謝せよ」ですから、自分の小遣いなどなかったのです。何とか楽譜付きの「霊感賦」が欲しい。その当時、全員が使うのは歌詞だけが書いてあるプリントを使っていたようです。それで父は何とか楽譜付きの物を欲しいと思った。あるときそのことをお祈りしていた。すると、それを聞いた人が「榎本さん、誰も聞いていない所で祈ったって答えられんよ。あの奥さんの横に行ってお祈りをしたら、ちゃんと翌日答えられる」と言われ、父は憤慨して「この人はいったい何を信じているんだ」と思ったそうです。案外、人はそうなのです。この人の横に行ったら、あれしてくれる。あの人はきっとお金があるから……と。だから6節に「戸を閉じて」といわれているのです。人はそのようについ肉の思いが先に立つのです。そうではなく、神様と私という、この関係をしっかりと築いて行くことができたら、これは鬼に金棒です。私と神様、これは離れられない関係です。そのように結び付く秘けつは密室の祈りです。だから6節に「隠れた所においでになるあなたの父に」と、隠れているというのは目には見えないけれどもそこにおられる、存在していらっしゃる、ここにおられると信じるのです。だから、気休めでも、単なる独り言、つぶやきでもありません。祈りはいまちゃんと聞いてくださる御方がおられるのだと。だから「隠れた所においでになるあなたの父」、しかも「私たちの父」であります。肉親の父だって私たちの求めるところを何とか答えようとします。

「マタイによる福音書」7章7節から12節までを朗読。

7節に「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう」と語られています。その先の9節に「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか」と、父なる神様はましてや……、人の親ですらも、11節に「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をする」と。「あなたがたは悪い者であって」とはっきり言われている。私たちはそもそも悪い者です。しかし、それでも「自分の子供には、良い贈り物をする」と、そのとおりです。

クリスマスのプレゼントを買いに行くとき、教会学校の先生たちと一緒に行くのです。そうすると、自分の孫のプレゼントだけはどういうわけか値段が高くなる。本人は気がついていないのです。人の親は、やはりそういう気持ちが働くのです。どの親でもです。だから、ここにあるように「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をする」。その後に「天にいますあなたがたの父はなおさら」と、「なおさら」ですよ。余計に「求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」。神様が私たち求める者に「良いものを下さる」。私たちは自分で考えて「これがいちばん良いことです」と思って求めますが、神様はそれを聞いてなお良い物を与えようとなさる。ところが、私どもは「え!どうしてこんなになった。願っているのはこちらなのにどうしてこんな物が来たの。頼んでもないのに」と、神様に文句を言う。ところが、後になって分かる。「なるほど、この日この時このことのためであったか」。だから、神様に祈っていると、神様は「それは御心ではない」と教えてくださる。

お祈りしていて聞かれないと、時々不平を言われます。「先生、いくらお祈りをしても聞かれないのですが、どうしてなんでしょうか?」「それは神様がいま必要ないとおっしゃる」「いや、そんなことはありません。私はこのためどうしても必要です」「いや、あなたは必要だろうけれども、神様は『今いらないよ』とおっしゃる」「そうでしょうか」と。「お祈りしたならわかるでしょう」、応えてくださる御方がそれをとどめておられると、神様のはっきりとした意思表示です。だから、お祈りをすると神様の御思いを知ることができる。

「マタイによる福音書」6章6節に、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」。私たちは「天のお父様」と言うとき、まさに「私のお父さんに今このことを伝えているのだ」。続いて「すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。父なる神様がそれに応答してくださる、答えてくださる。しかも、その応えてくださるのは、先ほど「ヨハネによる福音書」で読みましたように「わたしの名によって父に求める」、御子が私たちのために執り成してくださるのです。

「ローマ人への手紙」8章26、27節を朗読。

ここに「わたしたちはどう祈ったらよいかわからない」とありますが、確かにそうです。「こんなお祈りしていいのやろうか」「こんな勝手な祈りをしていいのだろうか。自分の我がままな祈りで申し訳ない。聞かれなくて当り前」などと不信仰に陥りやすいのですが、私たちにそもそも神様の御心に沿う祈りなどできようがない。弱い私たちです。神様のことを知り尽くすことはできません。何も分からない無知蒙昧(もうまい)なる者、愚かなる者にすぎません。そういう者が神様の眼鏡にかなう、御思いにかなうことは到底不可能です。となると、私たちは絶望かというと、そうではなくて「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」と。私たちの祈りを取り次いでくださる御方、御霊なる御方が助けてくださる。聖霊が常に私たちを助けて、祈りを父なる神様に届けてくださる。これなら聞かれないわけはない。しかも27節に「御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さる」と。身勝手な訳の分からない祈りをしていますが、しかし、その祈りすらも御霊なる御方は父なる神様の御心にかなうように執り成してくださる。だから、信じて行こうではありませんか。たとえ私の祈り方がどうであっても、言葉足らずであろうと、身勝手なことばかりであろうと、どんなことであっても「大丈夫、イエス様が、御霊なる神がこの祈りを取り次いでおってくださる。“よし”としてくださっておられる」ことを信じて祈っているのです。

「ヨハネの第一の手紙」5章14、15節を朗読。

14節に「すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」と。若いとき、私はこの言葉を聞いてがっかりしたのです。「神の御旨に従って願い求めるなら」という条件でしょう。「自分の祈りは神様の御旨にかなっているのだろうか、どうだろうか」と、そのことが気になって、しばらく悩んだことを今でも忘れられません、しかし、後になって初めて先ほどの「ローマ人への手紙」にある、御霊なる神様は私たちに「神の御旨にかなうとりなしをして下さる」と知って、これでひとつピタッとくっ付いたのです。「なるほど、神様は御心にかなう祈り、御旨に従って願い求める者に答えてくださる。その御旨にかなうようにと御霊を送って私たちの祈りを取り次いでくださっておられる。神様は懇(ねんご)ろです、行き届いています。「お前はここが足らないだろうから、これを置いておこう」「ここはこうだから、お前にこのことをさせてあげよう」、神様のほうがありとあらゆる手立てを全部し尽くして、ただ私どもが御言葉を信じてそこに従いさえすれば、すべてが開けて行くように整えておられる。だから「願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」。となると15節に「そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば」、神様は私たちの願いを御心にかなうものとして受け入れてくださるのだから、これは確かに聞かれる。だったら、「神に願い求めたことはすでにかなえられたと信じなさい」。「すでにかなえられた」です。もう大丈夫、「得たりと信ぜよ」(マルコ11:24文語訳)とあります。「神様はかなえてくださいました」と信じて、一切を神様の手に委ねる。そこに平安があり、安心があります。私たちはこの素晴らしい神様の賜物、祈りを決して欠かさないように、どんな時にも常に祈り続けたいと思うのです。

 「マタイによる福音書」6章6節に、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださる」。神様は必ず祈る祈りに答えてくださる。これまでもそうでありました。いろいろなこと、数えきれないくらいに神様は祈りに答えてここまで、今ここに置かれているのです。

 どうぞ、この祈りを絶やさないで、喜びの時も、悲しみの時も、つらい時も、うれしいときも、どんな時にも主に祈る。この祈りは父なる神様との交わりであります。その祈りを味わい知るといいますか、自分の身に付けて行くことは取りも直さず、神様と絶えず共に歩む秘けつです。この約束を信じて、神様の答えを、神様の取り扱いを感謝して受けて行こうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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