いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(26)「思い煩うな」

2013年10月17日 | 聖書からのメッセージ
ピリピ人への手紙4章4節から7節までを朗読。

今朝は、6節に「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。「何事も思い煩ってはならない」と勧められています。確かにその通りでありますが、現実の私たちは、「はい、そうです。じゃ、思い煩いを止めましょう」とはいきません。それにしがみついているのではありません。誰だって思い煩いたくないと思います。心配のない不安のない生活を送りたいと、四苦八苦しているのです。何とかして安心を得たい。平安でありたい。苛立ったり、怖れたり、暗い日々を送りたいなど、誰一人思っていません。ところが、なかなかそれが達成できない。それで苦しんでいます。ですから、「何事も思い煩ってはならない」と言われると、素直に「ああ、そうですね」と言える人もいるでしょうが、「なにさ!そう言われたって、そう簡単にいくものか」と、思われる方があると思います。確かにイエス様は、繰り返し、繰り返し、「何事も思い煩らうな、心配するな、心を騒がせるな」と、仰っています。ということは、そこから逃れ難いと言いますか、非常に厄介なことなのです。なかなか治らない病気に取り付かれたようなものです。だからこそ、イエス様は、繰り返して言われるのです。

イエス様はご親切に、私のことを考えて、「心配するなよ」と言ってくださる、「有り難いことだ」と。しかし、それだったら、イエス様でなくても、周囲の家族から言われるでしょう。娘さんなどから、「お母さん、そんなに心配ばかりしなくていいよ」と…。しかし、それは親を慰める言葉だけです。費用も掛かりませんし、別に害は有りませんから、「心配しなくていいよ」と言っておけばいいわけです。娘が「お母さん、心配しなくていいよ」、ご主人が「お前、そんなに心配するな」と言ってくれても、何も出来ないのです。気休めに過ぎません。

常にそういう気休め、口先だけの慰めで騙され続けたので、私たちは素直に受けられなくなっています。イエス様が「何事も思い煩うな」と言われると、「どっこい、そういくものか」と思って、思い煩いから離れようとしない。いや、むしろそれを楽しんでいるかのごとき様相があります。時には思い煩う事がなくなった途端に、「私は何のために生きているのかしら…」と、生き甲斐を失う人もいます。思い煩いを楽しめる間はいいのですが、愈々となると、楽しむわけにはいかない問題や悩みの中に置かれます。

イエス様は、何故「思い煩うな」と言われるのでしょうか?これは口先だけで言ってくれる慰めとは違います。本来、人は思い煩う必要がないからです。まず、私たちは自分の力で生きているわけではありません。神様が力を与え、知恵を与え、また食べる物、着る物、住む場所を備えてくださって、今、ここに生きている。自分はこの年まで生きるだろうなどと計画した人はいません。先ず、生まれた時そのものがそうです。いつこの地上に生まれようかなど、前もって計画した人は誰もいません。ましてやこの両親の所に、この家に生まれようと、自分で選んだ方がおられたら、是非知りたいと思います。選ぶことが出来たならば、この親の下ではなく、あの人のような親がよかったと。

では、誰が決めてくださったか。神様が、「よし」と仰って、そこへ置いてくださった。これは神様を認める第一歩です。若い高校生に話をする機会がありますが、先ず話するのは、この事です。私たちは自分で生きているのではなく、また自分で選んでこの親の下へきたのでもない。というのは、若い方々は、特に高校生くらいになると、その事をひしひしと感じる。それまでは両親が憧れの的でした。小学校の頃は皆そうです。「僕はお母さんと結婚したい」などと、幼稚園の子は言います。お母さんはもう嬉しくて舞い上がりますが、しかし、高校生くらいになると「何だ、このくそ婆!」となるのです。それは成長ですから止むを得ません。ある時期、女性の理想であったお母さん、或いは、男性の理想であったお父さんが、やがて、その偶像が壊れていく時が来る。そこからもう一度、親を評価し直さなければならない。駄目親父や駄目なお母さんと思っている中高生、大学生の思春期から、それを通り抜けて、もう一度、自分の親を別の形で受け入れていかなければならない。そのプロセスがなかなか難しいのです。大抵、そこで挫折してしまって、親子関係が壊れるケースが多い。

そういう若い人にお話しするとき、私は子供が親を選べないと同時に、親も子供を選べないのだと言います。考えてみたらそうですね。皆さんでも、育てたはいいけれども、こんな子供に育てた覚えはないと思うでしょう。「うちの親は何とか…」と言われたら、「私だってそうよ、あんたみたいな子供を生んだつもりはない」と言い返せばいいわけですが、それでは水掛け論ですね。

先ず、自分が神様によってここにあると認めること。これがなければ、根本的な解決にはなりません。親子関係の根本は、親も子供も神様を前にして、初めて正しい関係が成り立つのです。何故ならば、神様がこの家庭に子供として与えてくださった、「神様の業」だから尊いのであって、掛け替えのないものだということがはっきりするのです。ただ単に偶然そうなった。或いはコウノトリが持ってきたとか、コウノトリが運び間違えたのかもしれないなどとごまかすわけにはいかない。一人一人が親として、また子供として、その家庭に生まれ育ったということ自体が、他ならない神様の力、御計画によってここにあるのだと認めることから全てが始まるのです。この地上に命を与えたのは神様です。だから神様が私たちを養ってくださる。神様が命を与え、健康を与えて、日々、御手によって導いて、育ててくださっている。力と命の根源である方が、私たちに全てのものを備えておられる。ここがイエス様の「思い煩うな」と言われる根本の理由です。何故ならば、あなたが幾ら心配したからといって、また思い煩ったとて、あなたの寿命を僅かでも延ばすことが出来るかとイエス様は問われました。その通りなのです。私たちがあれこれ心配してみても、何にも出来ないのです。それでいて心配すると言うのは、神様を蔑ろ(ないがしろ)にしていることです。私たちが心配する、思い煩う、悩んでいるのは、神様を離れた結果だからです。神様に立ち返りさえすれば、何にも心配要らないのです。だから、イエス様が「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われたのです。私たちがあれこれ心配するかわりに、まず神様を求める。神様を第一にする。神様が今日ここに置いていてくださっている。神様がこの問題に、悩みの中にも、私を置いているのだと信じるのです。

イザヤ書45章にあるように、「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」。私たちは神様によって造られた被造物に過ぎません。そして神様はなに一つ無駄になる事のないように、全てを備えてくださっている。しかし私たちはその神様を信頼しないで、自分で何とかしよう、ああしよう、こうしようと思い煩っているのです。思い煩う必要はないとイエス様が言われるのは、私たちが神様から離れているのを悲しんでおられるからです。いろんな事で、ああ成ってくれたら、こう成ってくれたらいいな、こうでなきゃ嫌だと悩む事があるならば、「今、私は神様を離れているのだな」と自覚しましょう。この年頭に与えられましたように、「アルパであり、オメガである」、始めであり終りである方が全てを知っている。しかも、知った上で尚、私たち一人一人に、今問題や悩みを与えていらっしゃる。それは決して無駄な事ではない。また、私たちを苦しめるためではない。神様はそう仰いました。あなた方に対していだいている計画は私が知っていると。神様は私たちの事を全部知り尽くしています。だから安心しなさいと。それでも安心できないというのは、私たちが神様を信じようとしないからではないでしょうか。だから夜寝ていて、心配で目が覚めたなら、「そうか、私は神様を信じていないのだな」と思い起こして、神様を信頼するように努めようではありませんか。

今読みましたピリピ人への手紙4章6節に「何事も思い煩ってはならない」、はっきりと「心配してはいけない!」と、極めて厳しく言われています。思い煩うことは神様を悲しませることです。思い煩う事によって、神様を蔑ろにしてしまうことです。親がいながら、幼稚園の子供があれこれ心配して御覧なさい。親は悲しくなりますよ。「どうして私を信頼してくれないの」と。主喜君が今週から幼稚園に入園することになりましたが、子供が幼稚園に入園するとなると、親はいろいろと心配し、準備をします。ご両親は、何ヶ月も前から幼稚園にやろうと思って、祈って導かれ、前もっていろいろと準備があります。私は見せてもらいましたが、結構費用も掛かる。制服が幾ら、帽子が幾ら、教材費が…、クレヨンがどうとか、粘土、「粘土なんて今使っているのでいいのではないの」、『自宅にあるものは持ってこないように』と書いてある。「うまいこと買わせるな」と思います。しかし、親は喜んで一生懸命です。当の本人はけろっとしています。親は新しい制服を着せて喜んでいますが、子供は何を着せられても平気です。何もかもおんぶに抱っこです。ところが、主喜君が「お母さん、僕の着て行く洋服はあるだろうか。買ってくれただろうか。夕べは心配で眠れなかった」なんて言って御覧なさい。親としては、これは感心な子供だ、親に代わって心配してくれて、ついでにお金も稼いでくれという話にはならない。寂しいですよ。親は一生懸命に心配して、寝ないで作り物をして、持っていくものを用意します。ところが、当の本人は園から帰ってくるなり、高価な帽子をそのへんにポーンと放り投げて、「あらっ」と思うけれども、本人はけろっとしています。必ず親が自分の事をやってくれると知っていますから、心配しません。私たちは親(神様)を差し置いて、自分で心配して、何とかしようとするから、苦しいのです。出来ないくせに心配するから、イエス様は繰り返して「何事も思い煩うな、何にも心配ないではないか」と。

じゃどうすればいいか?その後に、「ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。ここにちゃんと思い煩わないで、何をすべきかがかかれています。思い煩う代わりに、「事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ」、「事ごとに」、小さなことから大きなことまで、どんなことでもと言うのです。なんでもいいのです。子供は親に向かって、どんな事でも言います。決して隠し事をしません。私たちは神様に向かってどんな事でも申し上げる。そこにありますように「感謝をもって祈と願いとをささげ」と。先ず感謝して、神様に求める。感謝するっていうのは、これは当然だろうと思いますね。何故ならば、神様が私たちに全てのものを与えてくださっているのですから。

お祈りする時、「感謝して」と言うことは、もう一つピンとこない。「感謝出来ない事もあるのになぁ」と思ったのです。「感謝する事は出来ないのだけれども、そこを我慢して感謝するのかなぁ」と思ったのですが、実はそうじゃないのです。神様を信じて感謝する。だから、何か病気になって、風邪をひいたりして、私も先日、風邪をひいて咳が出たりしましたが、そういう時にお祈りをする。「天のお父様、こうして風邪をひきました。どうぞこれを癒してください」と。それをもう一つ踏み込んで、「天のお父様、あなたがこうして私に風邪を与えてくださったことを感謝します」と祈る。あるいは、「主よ、風邪をこじらして今こうやって熱が出て苦しんでいますが、あなたはこれを癒してくださることが出来ると信じて感謝します」と祈るなら、感謝できないことはありません。

どんな事でも、感謝しようと思ったらできます。特にお祈りする時に、「私はこれがこれですから、神様、こうしてください、ああしてください。どうか、ああしてください。こうしてください」と感謝のない祈りをします。「今、感謝ができん」と思ったら、「神様、こうしてください、ああしてください」と言った後で、「主よ、あなたはこれらを出来る事を信じて、感謝します」と祈るのです。そうすると感謝に変わります。私たちはどんな事でも最後に「感謝します」と付け加えて言って御覧なさい。そうしたら、今まで思い煩っていた事が、瞬時に、しょうもない事を心配していたなと、心が変えられるのです。「感謝をもって祈と願いとをささげ」とあります。感謝がないと、いつまでも、ああしてください、こうしてください。これをこうしてください、まだ出来ていません、まだなっていません。まだです、まだです」と言い続けて、信仰が先へ進まない!いつまで経っても、「まだ風邪が治りませんから、癒してください。風邪が治りませんから、癒してください」と言い続けている。じゃ、いつ感謝出来るのか。「いや、まだ治ってないみたいだから、まだお祈りをしとかないかん、まだ…」とやって、いつまでも信仰にたてない。そうではなく「癒されたと信じて感謝します」。「癒してくださることを信じますから感謝します」と祈れたら、私たちは勝利です。

どうぞ皆さん、騙されたと思って、今晩から感謝してください。「天のお父様、今日一日こんな苦しい、辛い事ばかりありましたが、しかしこれもあなたの恵みである事を感謝します」と祈ります。何でもいいのです。どんな事でも、最後に「感謝します」と付け加える。そうしたら、気がつかない内に、心が感謝に変わってくる。神様は、実によく見通していらっしゃる。感謝をもって祈りと願いを捧げて御覧なさい、もう求めることはなくなる。感謝しちゃったら、求めようがないのです。お祈りすることの一番素晴らしいのはここだと思います。ところが、「感謝します」と言えないで終った場合は、祈りが繰り返されます。いつまでも、「ああしてください、こうしてください。この事がまだですから、まだですから…」、そう言っている間、神様も、まだだと思っているなら、もうちょっと待とうと…。ところが、先に「感謝します」と言われて御覧なさい。「これは急がなければ」となります。別に、神様を騙そうというわけではありませんが、先ず感謝することが大切です。だからどんな事でも、先ずお祈りをする時に、「主よ、今日もここまで恵んでいただいて感謝します。この事も感謝します。その事も感謝します」。嫌だと思う事も感謝する。「嫌な辛い事がありますけれど、これも神様、あなたが私によしと仰ってくださるならば感謝します」と、そうやって感謝の祈りを捧げる時に、私たちの心に、神様に信頼する信仰が芽生えて、成長していくのです。

確かにそうだと思います。生活にいろいろな問題や悩みが幾らあっても、そこでお祈りする中に、祈る度毎に、感謝に変わっていくことが出来たら、私たちは成長します。いつまでも、何か神様に要求することはないかしら、あれも頼もう、これも頼もう、もう頼むことばかりで、どうか、どうか、どうかとですね。「金貨」がないとよく言われますけれど、「銅貨」ばかりで終ってしまいます。「どうか」が減って、感謝が増えていくといいですね。そういう祈りをしたいと思います。

だから6節に「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって」、事ごとに、どんな事をも一つ一つです。つい十把一からげで感謝する。お祈りする時間がない。あまり細かいことを言っておれないから、「神様、今日一日ひっくるめて感謝です」と祈る。ひっくるめては駄目ですよ。「事ごとに」とありますから、何が感謝であったか具体的に一つ一つ神様の前に言葉に出して申し上げる。と言うのは、そうする事によって私たちの心が整えられるのです。纏めて、ひっくるめてお祈りしてしまうと、私たちの信仰が消えていきます。「あの事はあの人がしてくれたから、この人がこうしてくれたから」と、目に見える事柄にばかり心が奪われて、神様に繋がることが出来ません。纏めてひっくるめてお祈りしたのだから良さそうに思うけれども、しかし「運が良かった」とか、「いいタイミングだった」とか、「あの薬が効いた」とか、「あの医者に行ったから良かった」とか、そういう事で終ってしまって、神様にいかない。ところが「事ごとに」と、一つ一つ事柄を挙げて祈っていきますと、その事に付いてはっきりと、これは主がしてくださった。本当に神様がこのように道を備えてくださったと、信仰をもって言えます。ボヤーッと曖昧に何もかもひっくるめて、神様に感謝している間は、私たちの信仰がはっきりしません。いつまでも霧に閉ざされたような、有るか無いか分からないような信仰状態が続きます。

ですからここに言われているように「事ごとに」って、これは非常に大切な事柄です。どんな小さな事でも、具体的に神様の前にそれを持ち出して祈り、そしてその事について感謝していく。そうすると、私たちの思いが整えられ、確信が与えられる。はっきりと主がこの事をしてくださったと、証しする事が出来る者に変わるのです。そして何とありますか。「あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。私たちが求める事は、どんな事でも神様に申し上げる。詩篇に「あなたがたの心を注ぎだせ」と勧められています。心を空っぽにする。何もかも申し上げるのです。神様にお話をしてしまう。人にではない。家族にではない。娘や息子や、或いは誰かに打ち明けなくても、神様に私たちは申し上げる事が出来る、祈ることが出来る。これは大いなる特権であります。

度々申し上げるように、誰でもお祈りが出来るわけではありません。世間には沢山の人がいますが、その中で誰が…、どれだけの人が祈ることが出来るでしょうか。なかなかいません。別に特殊な言葉を使うわけではありません。日本語で祈っているのです。しかし、それとても私たちは信じなければ祈れないのです。主が許してくださらなければ、祈る言葉が出てきません。だから、初めて教会に来られた方、まだ日の浅い方に「お祈りしましょう、一言お祈りしてください」と言うと、「先生、申し訳ありません。私はお祈りが出来ません」と言われる。「どうしてですか。日本語が喋れるじゃないですか」「いや、喋れるけれども、どう祈ったらいいか分かりません」「いや、お祈りは、こうこうこうやって…、天のお父様と呼びかけて、そして感謝して、後は自分の願う事を申し上げて、そして、主イエスの名によって祈りますと言えばいいですよ」「いや、なかなか、それがいえません」と。それは信じないからです。だから、皆さん、祈ることが出来るのは大きな特権だと、旧約聖書には記されています。私たちが祈ることが出来るのは、ただ主のあわれみによるのだとあります。ですから、この大いなる特権をしまい込んでは駄目ですよ。絶えず祈ろうじゃありませんか。「あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。神様に何もかも聞いていただく。7節に「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が」とあります。申し上げてしまったら、神様の平安が、しかもそれは「人知ではとうてい測り知ることのできない」平安。人では経験し得ないような神様の平安が与えられるのです。確かにそうです。私もそのことは度々経験いたしました。心の思いを一切神様に祈り尽くした時、本当に「アーメン」と感謝して祈った時に、心に言いようのない喜びと平安があります。そして先に向かって、希望が湧いてくるのです。「大丈夫。もう、主に全てを委ねたから…」。この「申し上げる」と言うのは、空っぽにするのです。

先だって、私は一人の方から相談を持ちかけられ、お話を伺いました。聞くっていうのは嫌ですね。というのは、相手の心配をこっちが受けるのですから、こっちが心配するのです。言った本人はけろっとして喜ぶのですが、聞かされたこっちは、「どうなるだろうか、こうなるだろうか。ああなったらどうしょうか」と、心配を負わせられるのです。私は幸いお祈りしますから、その事もこの事も何もかも、神様にまた押し付けるのです。だからどうぞ、「先生に言ったらまた、心配するかも分からん、私は黙っときましょう」と言わないで、何でも言ってください。私は直ぐに神様に持っていきますから、私の所には残さない。「求めるところを神に申し上げるがよい」。申し上げるってことは、相手に全部渡してしまうのです。いろんな人のお話を聞く時、「あんたの心配は聞きたくない。あんたの心配を聞くと後で私が眠れなくなるから、聞かせないで」と言っちゃ駄目です。私たちは直ぐに神様に執り成してあげる責任がある。これは私たちの特権でもあります。何故ならば、先ほど申し上げたように、お祈りができる人は、ここにいらっしゃる方だけですから、限られているのです。私たちは、人の思い煩いを執り成してあげることが出来る。だから自分の思い煩いを打ち明けるばかりでなくて、まだ神様を知らない人たちの重荷や悲しみをも、主に取り次いであげることが出来るのです。私たちは祭司としての務めを、皆さん一人一人が与えられています。

マルコによる福音書5章25節から34節までを朗読。

これは、長年病気で苦しんでいた女の人、やるべき事は全部やり尽くして、財産も失うような酷(ひど)い目に遭ったのです。ところが、その時イエス様が来られると聞いて出て行きました。何とかして、イエス様の衣の裾にでも触ったら、癒していただけるのではないかという信仰をもって、群集を掻き分けてイエス様に触った。触った瞬間にその女の人は癒されたのです。ところが、イエス様はその時立ち止まってしまった。「誰かが私を触った」。弟子たちは、これだけ沢山な人がいるのだから、誰が触ったってわからない。誰かが触ったでしょうが、そんなものを詮索するわけにはいかない。ところが、イエス様は一向に動こうとしない。とうとう、困ってしまった女の人は、自ら名乗り出たのです。ですから33節に「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた」。この女の人は不安だったと思います。「病が癒された。イエス様から叱られるかもしれない。何か言われるかも知れない。或いは幾らかお金を要求されるかも知れない」。びくびくしていたのです。本当に不安だったと思います。ですから、女の人は黙っていたのでしょうが、とうとうたまらなくなって、出てまいりました。33節に「みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた」のです。この女の人は、それまで自分が担ってきた重荷を、心の思い煩いの一切を、イエス様に全部打ち明けたのです。その時、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と、イエス様は大変喜んでくださいました。

イエス様はどんな事でもありのままに全てを打ち明ける事を喜んでくださるのです。何故ならば、イエス様は私たちを親しく知っていらっしゃる方、イエス様は私たちにとって他人じゃない。皆さんを全て知り尽くして、尚、私はあなたと共におると仰ってくださいます。皆さんお一人お一人の内に宿っているイエス様に、心を閉ざすのはどんなに悲しい事か分からない。この時も女の人はそっと触って消えてしまって、良かったかも知れない。しかしそれだったら、イエス様は本当に悲しい思いがしたでしょう。イエス様には誰がさわったか分かっていたのです。本人がそれを自分から言い出すのを待っていた。進み出て、イエス様に申し上げた時、この女の人とイエス様は、一つ思いになっていくのです。イエス様も喜んでくださるのです。どうぞ、私たちも思い煩いをイエス様に打ち明けて空っぽになって、心を委ねていこうではありませんか。

ヨハネによる福音書16章23、24節を朗読。

ここ23節の後半に「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」と。私たちが父なる神様に求める、神様に祈る事の全ては、イエス様の名の故に、父なる神様が必ず応えてくださる。確かにそうだと思います。私たちが頼んだからと言って、神様は聞いてくださるとは限りません。いや、それどころか、こんな罪人の言う事なんか神様は聞いてくださらないに違いない。けれども唯一つ、イエス様が十字架に自分の命を捨ててくださって、今日も父なる神様の右にあって、私たちの祈りを執り成してくださっている。だから私たちが、「主イエス・キリストの名によって」と、イエス様の名によって祈る事を、父なる神様が拒むはずがないのです!これほど確かなことはありません。神様は、自分の愛する御子、イエス様が、自分の命をたずさえて、「この者の祈りを聞いてやってください」と執り成してくださるのですから、神様が拒む筈がない。だから私たちは確信をもって祈る事が出来ます。どんな事でも、イエス様の名によって祈る祈りを父なる神様は聞いてくださるのです。

だから、その後にありますように、24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」。必ず神様はそれに応えてくださいます。「そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。神様の喜びを私たちに満たしてくださる。私たちを喜ばせるために、神様は私たちの祈りを必ず聞いてくださいます。どうぞ、私たちはいつも、祈る時にその事を感謝して、確信をもって、大胆に父なる神様に求めて行こうではありませんか。

ピリピ人への手紙4章7節に「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。私たちが祈る一つ一つの祈りに、神様は必ず応えてくださる。それは、何ゆえ応えてくださるのか? だた、一つだけ、イエス様が執り成して下さるからです。イエス様の名によって祈るからこそ、父なる神様はそれを放っておくことが出来ない。だから、信仰をもって、確信して、「得たりと信ぜよ、さらば得べし」と約束されていますから、「そうです。必ずその通りになります」と堅く信じて、神様に一切を委ね、任せ切って、喜びと感謝を主に捧げる者となりたいと思います。これが私たちに求められている事です。何事も思い煩う事を止めて、感謝し、喜ぶ事を主は願っておられるのです。どうぞそのために、ことごとく感謝して祈り、主に求める所を申し上げて、心の一切を神様に委ねてあけ渡し、喜びと感謝が心に溢れる者とかえられたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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