「エレミヤ書」17章5節から8節までを朗読。
7節「おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである」。
この5節から8節の間にはっきりと二つのタイプの人について語られています。5節には「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人」、これは神様を信じようとしない、神様よりも肉なるもの、人間の力や知恵や業を誇りとし、それを頼りとするということです。もう一つは、7節に「主にたより、主を頼みとする人」、神様に全面的に委ねきって生きる、信頼しきる。このときは、肉なるものはありません。ただ、神様だけに心と思いを委ね、また全てのわざが神様の御手の中に握られたものと信じる信仰。信仰によって生きる人と言い換えてもいいかもしれません。
こういう二つのタイプの人、あるいは生き方と言ってもいいでしょう。これは右か左か、「私はどちらかしら? あの人は7節の人かもしれない。5節の人はこの人かな? 」とか、人をそのカテゴリーにあてはめてしまうことはできません。なぜなら、これら双方とも私たちにあるのです。私たちの内に、そういう肉を頼みとし、人を頼み、心が神様を離れるときがある。そういう人になりきってしまう。また、気が付いてみたら、神様を信頼して揺るがない信仰に立っているときもある。どちらも実は私たちなのです。こちらの人は良い、こちらの人は駄目という切り分けではなくて、この両方が私たちにある。何かというと、肉を頼みとするほうへ傾斜しやすい。目に見えるグラフのようなものがあって、「今あなたはだいぶん肉のほうへ寄っていますよ」と、見えるものがあれば、もっと分かりやすいのかもしれません。残念ながら、自分の状態は他の人には分かりません。神様がご存じであること以外、本人しか分からないのです。だから、人様が外側から見て、「あの人は、主に信頼するさいわいな人かな」と思いきや、案外と本人は肉の塊であったり、分かりません。だから、他人のことはさて置いて、まず自分自身が常にどちら側かを選ばなければならないのであります。いろいろなことにあたって、「人を頼みとし肉なる者を自分の腕」としようとするのか、あるいは「主にたより、主を頼み」としようとしているのか?願わくば、常時「主にたより、主を頼みとする者でありたい」と願います。しかし、いかんせん、この世にあって肉をもって生きている私たちは、全てがそうとは言い切れないのです。
現実問題として日々の生活の中で、右にするか、左にするか、どうしたら良いか訳が分からないとき、いろいろな情報を得て、そこから判断をし、決断をし、そして実行して行きます。私たちの選択と決断といいますか、日々の生活の歩みの中に「主にたより、主を信頼する」ことが、限りなく多くなることが願いであります。そのために私たちはこの地上に置かれているのです。私たちはこの地上にあって、肉なるものに傾斜しやすい、それに引っ張られやすいということは否定しようがありません。「だから、仕方がない」ではなくて、常に「主にたより、主を頼み」とする者になって行きたい。なぜならば、それこそがここにあるように「さいわい」な生涯だからです。確かにそのとおりであります。悩みがなく、思い煩いがなくて何もかもが思いどおり、願いどおりに事が進むことが幸いではありません。私たちが神様を信頼しきって揺るがない信仰に立って行くこと。周囲にどんなことが起こってきても、それを越えて常に平安であり、望みを持つことができ、喜んでいることができる者となる。それには神様に頼り、信頼すること以外にないのです。私たちはともすると肉なるものに頼りたくなります。それは目の前に見ているし、五感をもって常に触れることができ、知ることができる状況が目の前にあるのです。だから、問題が起こったとき、悲しいことやつらいことがあると、そちらのほうに思いが行きます。あの人を頼み、この人に……、あるいは自分の過去からの経験に基づいて「右にしよう」「左にしよう、これなら大丈夫」と、決めて掛かります。あるいは「お金があるから大丈夫、これさえあれば」と、一生懸命そのことに心を向けるでしょうか。あるいは、病気になると「あの医者がいいだろうか」、「ここが良かろうか」と、医者を頼りとする。こうして肉なるものに心が引っ張られ、神様から離れて行く。5節に「人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人」、神様から離れてしまう。私たちの心にある思いが、自分の思いばかりになってしまう。
今朝、皆さんにお送りいたしました「日々の聖言(みことば)」に、「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない」(詩篇16:8)とありました。常に主を前に置く、言い換えると、いま私の心の中心に何があるのか? どういう思いがいつもあるのか? 「あの息子のことが心配」、自分の将来のこと、「明日はどうなるかしら? 」と、いつもそういうものが心の中心にあって、主を思う思いがない。これはここにあるように、「その心が主を離れている人」です。ダビデは「常に主をわたしの前に置く」と、いうならば、自分の心の思いの中に主を思う思いが絶えずあるのです。これは以前から繰り返し申し上げるように、訓練するといいますか、自らがそれを努(つと)めなければ、そのように成り得ないのです。ダビデは「常に主をわたしの前に置く」と言ったのは、ただ格好をつけて言ったのではなくて、事実、彼はいろいろな事の中で常に主を覚えたのです。小さなことでも、大きなことでも、どんなことにあたっても、そこで「主よ、これはどうしたらいいのでしょうか」と、ことごとく祈りました、主を求めました、主に問いました。それほどに、いつも主を思う思いを持ち続けたのです。だから、パウロがそう言うように「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)と。イエス様のことをいつも思うことによって、心が主につながっていることできます。だから、イエス様のことをいつも思うことが、「これがわたしの福音である」とパウロは語っています。いつも、どんなときにも「イエス様」、「イエス様」と、イエス様のことを口には出さなくても、もちろん、口に出してもいいのですが、心のうちに「イエス様、これはどうしましょうか」と、いつも主を思う思いを持ち続ける。これが主に信頼することであり、心に主を前に置くということです。
こういう話をある所でしましたら、神妙に聞いてくださった集会の後で、「先生はそう言うけれども、そんなにしょっちゅうね、イエス様のことを覚えていることもできないしねー」、「そうよ、そうよ、それは無理よね」という話でした。「何のために聞かれたのかな」と思いました。そうであるかぎり駄目です。朝、目覚めたときから、いつも主を思う思いに、どんなときにも、道を歩いていようと、何をするにしても、いつも思いが主に向いている。時々それを忘れることがある。何かに夢中になって、うれしいことや悲しいことやつらいこと、あるいは憤るようなことがあると、「ガーッ」となって、我を忘れる。我を忘れるどころか、もっと悪いことに神様を忘れてしまう。そして自分の思いばかりが盛んになり、そのとき主を思う思いが消えて行く。
ダビデは、我子アブサロムに謀反(むほん)を起こされて、大急ぎで命からがら逃げ出します。そのときに「ざまぁ見ろ、それ見たことか……」と、先王サウロの身内、シメイがダビデを呪いました。ダビデの家来アビシャイが「許しておけん、殺してやる」と言ったとき、ダビデは「のろわしておけ、神様が彼をしてのろわしておられるのなら、誰がそれをとどめることができようか」(サムエル下16:5~)と。アブサロムが謀反を起こしたこと、そこにも神様が働いておられると彼は信じていたのです。彼は主を信頼しきっていますから、そのことも神様の手の中のこと、だから自分を呪ってくるその人も神様が許して、そのことをさせておられる。徹底して主に心を向けてしまうのです。
これが私たちの最も大切なもの、まさに福音です。これをいただくには常に私たちが心掛けて、主を思うことに努めて行く。買い物をするときでも「主よ、これを買いましょうか? 」、「主よ、このことはどうしたらいいでしょうか? 」、「このことは何と言えばいいでしょうか? 」と、家族団らんの中でも、いつもそのことに心を向けて行く。イエス様が「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20 )とおっしゃるじゃないですか。いつもそこにいらっしゃる主を覚えて、語り掛け、主の御声を求めて行く。これが「主にたより、主を頼みとする」ことです。それを努めて行きますとき、肉を頼みとする私たちが、おのずからそれを離れて行くことができるのです。
「ガラテヤ人への手紙」5章16,17節を朗読。
16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」とありますが、この「御霊によって歩く」ことが、「主にたより、主を頼みとする」、神様に信頼して行くことであり、また、心にいつも主を覚えて行くことに他なりません。そうしなければ「肉なるものを頼みとし、その心が主を離れる」ことになります。そうならないために、いつも主を思う思いを絶えず持ち続ける。言い換えると「御霊によって歩く」ことです。「御霊によって歩く」、それはどうすることか? これは簡単であります。いつもイエス様のことを思うことであります。「これは主の御心だろうか」、「イエス様、これはあなたが導かれることなのでしょうか」、「これは神様が備えられたことです」と逐一どんなことも、神様のみ思いを求めます。そうしますと、その後に「そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」とあります。御霊によって主を思う思いに心が常に満たされてくると、気が付かないうちに肉から離れることができるのです。自分の肉なる心、神様から離れる悪い心を何とか消してしまいたい。「いつも神様の霊に満たされる者になるために肉の思いを捨ててやろう。これは肉の思いに違いないから、これを清めて……」と、難行苦行をして頑張って肉なるものを清めようとしても、自分の力で清くなるはずがないのです。じゃ、どうするか?肉が働くことは多々ありますが、まず、私たちが常に御霊によって歩くこと、言い換えると、「主にたより、主を頼みとする」ことを努めて行く。常にそのことを渇き求めていると、心が肉なるものから離れて、主の思いにいよいよ占領され、覆われてくる。やがて気が付かないうちに自分の思いが変わる。私たちの生活が変わってくる。大切なのはここです。いつも主を思う、このことを努める。だから16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」と言われる。肉の力が私たちから取り去られる。それは御霊が私たちの内にいよいよ広がるといいますか、行き渡ってくるからです。「なぜなら」と17節に「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる」。肉の思いと霊の思いがいつも私たちの内でぶつかるのです。いま申し上げたように、御霊によって歩こうとするけれども、常に肉の思いが私たちを強く引っ張ってしまう。一つの問題が与えられ、右にするか、左にするか、あるいは、何かの決断を迫られるとき、つい肉の思いが働きます。「ああしたらこうなるし、こうなったらこうなるし」、「こうなったら私は楽になるし……」、自分の肉の思いで思い巡(めぐ)らす。ところが、静まって祈っていると、どうもそれは神様の御心ではないと思う。「さて、どうするかな? 」と思う。そこが信仰の戦いです。そこで、まず主に従うという道を選び取る。
それは本当に小さなことです。たった一歩の始まりです。しかし、同時にいろいろな肉の思いがワーッと嵐のごとく襲ってくる。そこですぐに決断しないで、「しばし待て」ですね。祈って主の御声を待つ。神様は「そうではない、こちらの方にわたしの思いはあるよ」と、私たちは知ることができる。しかし、すぐには従えない。そのとき100パーセント従おうとしても、無理ですから、まず目の前の一歩を従う。「じゃ、この事だけはさせていただきましょう」と、神様に従う一歩を踏み出す。そうすると、次の一歩がもっと楽に踏み出せる。気が付かないうちに神様の御思いに従い通すことができる。それが16節、「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」です。その最初の「主に従います」という決断と、まず一歩を踏み出すことが大切です。
イエス様を信じて救いにあずかって、まだ1年そこそこの方がいます。ご家族は早くに救いにあずかって、その方のために一生懸命に祈って、その方が信仰に導かれた。初めは周囲から言われながら教会に来て集会に出ていました。自分自身にも生活上いろいろな問題がありましたから、渋々とイエス様を信じるほうへと追い込まれて行ったのです。ところが、不思議なようにその方はイエス様を信じてから、ガラッと生活が変わったのです。そして、喜んでイエス様のことを聞くことを楽しみにする。また、何としてもイエス様に従って行きたいと願う。それまでの彼の生活はイエス様とはほど遠い生活をしていました。だから、その頃の仲間がいるのです、ところが、彼はそういう人たちから「何だ、お前、クリスチャンなんかになったのか」と言われようとも、彼はクリスチャンになったということを皆に言い回る。「俺はクリスチャンだから……」と。先だってもそういう話をしておりました。「先生、何でも最初の一歩が肝心ですよ」と。最初に「僕はイエス様を信じているから……」「クリスチャンだから」とひと言言ったら、後はいろいろなことが楽になるのです。「日曜日? 自分は教会に行くから」と、「礼拝があるから」と言う。「不思議ですねー」と言われる。私は多くのいわゆる“隠れクリスチャン”を知っていますから、言うに言われず隠れていらっしゃる方がおられますが、惜しいと思うのです。早く一歩のひと言、「私はこうして教会に行っています」と言えれば、後はズーッと楽になるのです。「御霊によって歩く」とはこういうことです。だから、「神様の御心って大変や。あれもこれも、これもあれも全部従わなければならないのか」と、100パーセントを求めようとしますが、神様の求めておられるのは最初の一歩、「ただ一つのことをまずやりなさい」。後は神様のほうが次、次と、肉の力を押しやって、陣取り合戦といいますか、神様の御思いが私たちの心のすべてになる。
「コロサイ人への手紙」3章1,2節を朗読。
1節に「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから」と、私たちが生きているのは、イエス様のよみがえりのいのちによって生かされている。主が私たちの内に宿って「生きよ」と生かしてくださっている。その主が世の終わりまでいつも共にいてくださって、絶えず私たちに声を掛けてくださる。
いま生きているのは私が独りで生きているのではない。孤独ではないのです。イエス様がいつも私たちと共にいてくださる。だから「上にあるものを求めなさい」、神様を思うのです。「上にあるものを求めなさい」と、主を求めること、神様を常に信頼し、主を頼みとして行く。この2節に「あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」。「心を引かれてはならない」のです。地上のものがいらないというわけではない。確かに、生活する以上、肉体を養うために生活の場も必要、食べる物、着る物も必要です。しかし、それは全部神様が備えてくださるのであって、それに心を引かれる、思いを捕らわれるのはよくない。「上にあるものを求める」、イエス様のことをいつも思っている。一つ一つ備えてくださったことを、主に感謝して生きる。ところが「自分の力で、自分の努力で、自分の才覚によってこれを得て来た。このことを実現した」と思うと、それが心を引かれる原因となる。全てを主にささげて、言い換えると、「主がこのことも備えてくださった」「今日も食べる物を与えてくださった。住む所、着る物を備えてくださる主がおられる」ことにいつも思いを向ける。
3節に「あなたがたはすでに死んだものであって」と、私たちはもう死んだ者である。死んでいるのです。「あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」。私たちのいのちはキリストと一つになった。もはや、この地上のものではないのです。だから「地上のものに心を引かれてはならない」。いつも御霊の導きに従う。常に肉なるものから心を切り離して、「おおよそ主にたより、主を頼みとして」、3節にありますように、「あなたがたはすでに死んだもの」、既に死んでいるのです。いま生きているのはよみがえった主が、いのちとなって私の内に宿ってくださる。そのことを、「キリストと共に神のうちに隠されている」と語っている。私たちの本当のいのち、永遠のいのちであるキリストは私たちの内に宿っておられる。 4節に「わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう」。やがてイエス様がこの世に来り給うとき、世の終わり、終末のとき、私たちもキリストと同じ栄光のかたちに、いのちに変えられるのです。
「エレミヤ書」17章7節以下に、「おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。 8 彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない」。今はまさに猛暑の真っ最中で、「暑い」「暑い」と口癖のように出ます。「暑い」と言っても、何も変わるわけではないけれども、言えば涼しくなる感じがします。けれども、大切なのは私たちの外側の暑さではなくて、私たちの心が、ここにあるように、暑さに遭う。いろいろな問題の中に置かれることに他なりません。その人生にあって猛暑のような事態、事柄の中に私たちが置かれてもいのちが絶えずみずみずしく水にあふれているとき、それを乗り越えて行くことができる。そのことが8節に「根を川にのばし」とあります。日照りの日が続きますと、街路樹もどんどんと勢いを失います。まだ枯れるほどでもありませんが、元気がない。確かに水のほとり、川辺だとか、池の周囲に植えられた木は、そこからの水を得て、日照りに遭えば遭うほど、むしろ青々と茂っていのちに輝いています。それは何故(なにゆえ)かというと、命の水に絶えず潤(うるお)されて満たされているからです。私たちのいのちはどこから来るか。「主にたより、主を頼みとする」、神様に信頼する、全面的に思いを委ねる。そのとき私たちはどんなことがあっても恐れない。そこでしおれて、うなだれて、枯れてしまうことはあり得ない。これは確かです。私たちがいつも主を思う思いに満たされて、肉なるものから離れて、肉の思いを捨てて、霊の思いに満たされて、神様の臨在と共に生きる者となるとき、いのちが輝いてきます。常に新しい命の水が私たちの内にあふれてくるからです。
7節にありますように、「おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである」。徹底して主の御手に明け渡し、委ね、主の御手にしっかりと握られた者となって行きたいと思う。そのための今日なのです。また明日が備えられる。どうぞ、私たちは肉なるものを離れて、そしていつも主を思う思いに満たされ、神様の永遠の御腕の中に落ち込んで行きたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。