いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(247)「主の日に備えよ」

2014年07月02日 | 聖書からのメッセージ

 マタイによる福音書25章1節から13節までを朗読。

 

 13節「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」。

 これはイエス様が弟子たちにお話になられたたとえ話ですが、実は24章から続いている話です。24章には、世の終わりの時、終末がいつ来るか、あるいはその時、どういう状況、どういう事が起こるかを、イエス様が話された記事があります。すべてのものは始まりがあれば、必ず終わる時が来ます。例外はありません。私たちの住んでいる地球にしても、大宇宙にしても、始まりがあったわけですから、当然終わる時がきます。それがいつであるかは分かりません。しかし最近よく言われるように、地球の温暖化であるとか、いろいろな問題が山積して、いよいよ世の終わりではないか、終末ではないか、などと言われる時代でもあります。恐らくそう遠くない将来のこととは思いますが、いつそういうことが起こるのか、それは分かりません。終末の時にはどういうことがあるか、一つには天も地も燃え溶けて消え去ってしまうと、記されています。同時に、その時になると、主イエス・キリストが天から私たちのために再びこの世に下ってくださる。そのことを「再臨」と言います。「臨」(りん)とは「のぞむ」という意味で、来られることです。「再び」と言うのですから、初めはいつであったか。それはご存じのようにクリスマスの出来事を通して、イエス様が初めてこの世に来てくださった。神なる御方が人となって、この世に住んでくださったのです。そのことを初めての降臨と、「初降臨」という言葉を使いますが、その次、イエス様は十字架にご自分の命を捨てられて三日目によみがえった後、40日間にわたって弟子たちや多くの人々にご自身のよみがえりを証してくださいました。その後40日目に弟子たちが見守るうちに天に携えられて行きました。天を仰いであ然としている弟子たちに向かって御使が、「あなたがたが見ているように、同じように主は再びこの地に来てくださる」と約束された。

 

最初のイエス様がこの世に来てくださった目的は、私たちの罪を赦す御方として、私たちの罪のあがないのいけにえとなるために、神様から遣わされてくださいました。その後、「恵みの時、救いの日」(Ⅱコリント6:2)と、今イエス様の救いにあずかる門が開かれている。「さぁ、どうぞ、いらっしゃい」と招かれている時代です。ところが、やがて再びイエス様が来てくださる世の終わりの時には、主は「さばき主」として来てくださるとあります。そのとき、私たちすべての者がその仕業に応じてさばかれ、永遠の滅びか、永遠の命かに定められると記されています。ですから、そのさばきに会わないうちに、今救いの門が開かれている時こそ、早くイエス様のところへ立ち返るようにと、神様は長く忍耐しておられます。

 

ペテロの第二の手紙3章8,9節を朗読。

 

9節に「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない」とあります。そのすぐ前に3節から読みますと、「まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、4 『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』と言うであろう」とあります。世の終わりの時が来て、すべてのものがさばかれるという神様の約束ですが、しかし、多くの人々が、今に至るまで「そう言うけれども、一向に起こらないじゃないか」と言う。「世の終わりだ」「終わりだ」と言いながら、何千年と経っているではないか。神様はいったい何をしているのだ、約束と言いながら、約束を果たそうとしないではないかと、そのようにあざける人々が出るであろう。ところが7節に「しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである」。確かに今はその終わりの時、神様の約束、終末のさばきの約束が実行されていないように見えるけれども、やがてその約束が実行される時が必ず来る。更に続いて8節に「この一事を忘れてはならない」と。必ず神様はその事を行われるというのです。ただ9節に「主は約束の実行をおそくしておられるのではない」。神様の御思いは「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。今は神様が忍耐しておってくださる、耐え忍んで、待っていてくださる時なのです。それは「すべての者が悔改めに至ることを望み」とあるように、神様の御思いは人を滅ぼすこと、人を罰することではない。いや、むしろすべての人を救いにあずからせてあげたいという、切なる主の御思いがあるのです。私たちは非常に冷酷なところがありますから、自分さえ救われるなら早くほかの者を滅ぼしてください、神様、早くあの連中を滅ぼしてくださいと言いかねません。

 

ある時、イエス様は弟子たちと一緒にサマリヤ人の町を通って行かれました。町の人たちはイエス様に対して冷淡だったのです。その時、弟子たちが、「イエス様、この連中はもう生かしておいても意味がないから、天から火を下して焼き滅ぼしてもらいましょうか」と言った時、イエス様が「馬鹿なことを言うな」といってたしなめられた記事(ルカ9:51~)があります。人というのは案外そうです。人の不幸を喜ぼうとするところがありますから、自分が救われたら、「私は救われてよかった。これで安心だ。神様、早くみんな滅ぼしてやってください」と言いたくなる。これは私たちの罪の姿です。

 

しかし、神様は愛なる御方です。今読みましたように、「すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。今は神様が忍耐しておってくださるのです。ですから、今の時を軽んじてはいけないと言われます。「今は恵みの時」、その恵みを無駄にしてはならないと。今神様が長く忍耐しておられるのですから、その主の御思いに答えなければならない時でもあります。10節に「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」。「主の日は盗人のように」と、いつやってくるか、これは分からない。「しかし、その事は必ず臨む」とおっしゃるのです。

 

マタイによる福音書25章1節以下に、イエス様はその時のことを一つのたとえをもって語られます。それは「十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て来た」というたとえ話です。その当時、結婚式が夜行われていました。今の私たちにしてみれば、どうして夜なのだろうと思います。日本で結婚式と言うと、昼間です。午前か、午後かの早い時間ですが、しかし、日本でも昔はそうではありません。田舎の結婚式だとか、葬儀も、時には農作業が終わってからですから、夜、結婚式をするのは大体一般的な考え方です。イエス様の時代もやはり夜行われる。それは昼間に宴会なんかしている暇がない。農作業が厳しいですから、ひと時も休めません。だから、夜の時間を使います。この時も夜のことですから、あかりを手にして十人のおとめが出てきました。ところが「花婿の来るのがおくれた」と5節にあります。花婿がいつ到着するのか、その村からなのか、どこから来るのか、遠く離れた所から来るのでしょうから、いつごろ着くという大体のめどはあったかもしれませんが、その通りに事は進みません。今のように携帯電話があるわけではないから、いつ来るともなく待っていました。待っているうちに居眠りをしてしまった。ところが夜中になって、6節「『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」と。ハッと気がついて、おとめたちが目を覚ました。そうすると、自分の持っていたあかりが消えかかっていた。“ともし火”とは、最近ではあまり見ませんが、菜種油か何かをお皿の上に置いて、ひもの端切れをそれに浸して火をともすものです。その油がなくなって火が消えかかっている。そこで8節「ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』」。気がついてみますと、明かりが消えかかっている。5人の思慮深い女の人たちは自分たちでちゃんと予備の油を用意していた。だから、ハッと目が覚めて、急いでそれに継ぎ足してあかりを輝かした。ところが、思慮の浅い女の人たちは、まさかそんなに長くなるまいと、予備のものを持たなかったのです。大慌てで隣の人に、「それじゃ、貸してください」と言ったのですが、9節「すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう』」。「そんな、あなたの分まではないよ」と言うのです。やりたくてもやれない。だから、「店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう」と勧めた。5人の人たちは急いで買いに行ったのです。ところが、出かけた留守の間に花婿が到着した。10節「彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた」と。「そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた」。5人しか残っていないところへ花婿がやってきた。大喜びで花婿を迎えて、「さぁ、これから結婚式だ。宴会だ」と婚宴の部屋に入った。その後、「戸がしめられた」とあります。戻って来た5人の人たちが、11節「ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください」と声をかけます。それは当然ですね、遅れて来たけれども、「開けてください」と。ところが、その時、12節「はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない」と答えられました。考えてみたら、馬鹿な話ですね。知らないはずがないでしょう。10人が最初に出てきて、5人足らないのだから、当然主催者というか、その家の人はあと5人いると分かっているはずですが、ここではっきりと「わたしはあなたがたを知らない」。これは、終わりの時、神様の前に私たちがどれほど厳しい取り扱いを受けるかということのたとえでもあります。皆さんを脅かしているわけではありません。ただ聖書にそう書いてあるのです。知り合いだからとか、以前こうしていたから、ああしていたからという義理や人情は通用しないのです。いよいよ終わりの時になって、「神様、私は以前教会学校に行ったことがあるから、ちょっとそれを思い出してください」と。それでは何も役に立たない。扉は閉ざされている。開けてもらえません。

 

ノアの時の記事にもそうあります。ノアが箱舟を作りまして、やがて大雨が降り、地の源が開いて、大洪水になりました。その時、ノアとそのすべての生き物が箱舟に入りました。その後、神様が箱舟の扉を外から閉ざしたのです。ノアが自分で内側から「もういっぱいだ。これでおしまい」と閉じたのではなくて、ノアは何もできなかった。ただ、神様が箱舟の扉を閉ざしてしまったのです。二度とそれは開けられなかった。そこへ入ることはできなかったのです。大洪水が引いた後に、新しい天と新しい地に彼らは移されました。これは私たちに対する神様の約束でもあります。ノアの箱舟はイエス・キリストのことです。イエス様の救いの中に早く入って、終わりの時、扉が閉ざされる時が来る。それが今、ここの12節「しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』」言われた時です。私たちはどうなのでしょうか?今日、もし主が終わりの時、再臨の時が今、来たならば、私たちは御前に立つことができるでしょうか。これが、今という時に生きる一つの尺度と言いますか、目標でもあります。だから、13節「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」。いつそのような終わりの時が来るか、私たちには分かりません。

 

マタイによる福音書24章35節から39節までを朗読。

 

36節「その日、その時は、だれも知らない」。まず第一に覚えておくべきことは、終わりの時、主の来臨の時はいつであるか分からないということです。だから、明日であろうか、来年であろうか、10年後であろうか、あるいはもっと先、50年後であろうか、これは分かりません。分からないのだったら、仕方がないよ。準備のしようがないじゃないかと。オリンピックのように、「開催まであと何日」とかカウントダウンしてくれたら、それに合わせて準備の仕様もある。ところが、神様はそれをなさらない。いつであるか分からない。36節に「天の御使たちも、また子も知らない」とあります。神様のそばに仕えている御使すらも知らない。ましてや神のひとり子でいらっしゃるイエス様も知らないと。では、誰が知っているか。「ただ父だけが知っておられる」。父なる神様だけが「その日その時」を知っておられる。

 

最近新しい首相になって、自民党が選挙に打って出るかどうかということのいろいろな憶測がありまして、10月中ごろぐらいだろうか、11月だろうかと。ところが最近になって風向きが変わってきた。いつになるか分からない、首相が「私が決める」と言ったのです。だから議員たちは、今まで準備しようと思ったが、先延ばしになりそうだとちょっと気を抜いたら、ある日、突然首相の気が変わって「明日やるぞ」なんて言われたら、大変です。だから、議員達は戦々恐々です。いつなるだろうかと。選挙ですらもそのくらい真剣になる。

 

私たちはどうしているでしょうか。終わりの時は選挙どころの話ではありません。永遠の滅びが待ち受けている。その終わりの時がいつ来るか分からないから、「いいじゃないか、その時まで、なった時よ」なんて言っておられない。「その日その時」が私たちには分からない。イエス様すらも知らない。では、どうするのか。こうなったら毎日真剣勝負です。いつ終わりの時が来てもいいように、常に備えていくほかありません。

 

だから、25章13節に、「だから、目をさましていなさい」というのです。「目をさます」とは、絶えず緊張していることです。絶えず意識しておくことです。眠っている人は何をされても分かりません。年を取ると、あまり深寝入りができなくて、小さな物音で起きたりしますが、若い人は爆睡して、何があっても目覚めません。若い人など、朝の10時でも12時でも、時には午後2時くらいまで延々と眠ります。私はうらやましいんですね。そのくらい眠ってみたいと思うのですが、いかんせん2時間おきぐらいに目が覚める。眠っている時は自覚がない。これが第一の特徴です。

第二は何も感じることができない、これが特徴的な状況。日常生活では目が覚めて生きているつもりです。今、居眠っている方はいらっしゃらない。毎日の生活で、自分が今どういう時に当たっているか。今私がしなければならないことは何であるか、私が生きるうえで何が大切か、今日、この年になって何が必要なのかという、そういう自覚と言いますか、はっきりとした意識を持って生活しているか? これが私たちに求められていることです。だから13節「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」。いつ終わりの時が来るか分からないから、毎日、毎日、地上にある一日一日を、明日終わる時が来ても大丈夫と言えるようにしていなさいというのです。

 

そのためには、まず今日、命を与えられて、今日の一日24時間をどう生きるか、どう使っていくか、そのことについて真剣に神様のみ声に従うことを努める。今、終わりの時が近づいている。天地万物の終末の終わりの時が早いのか、あるいは私たちの地上の命が終わるのが早いのか、これは分かりません。しかし、いずれにしても終わる時が来ます。しかも、その終わる時がいつであるかは分かりません。私たち自身の肉体の命が終わる時すらも誰も知りません。だから、どちらにしても、絶えず備えていかなければならない。若いから、自分はそういう肉体的な死、いわゆる世の中で言う人生の終わりはまだ先だから、自分は終末に会うかもしれない。でもその終末はいつになるか分からないと、若い人は思うかもしれませんが、「だから大丈夫」とは言えません。若い人だっていつ肉体の死が訪れるか、これは分かりません。最近は事故もあります、天然災害もあります。もちろん病気もありましょう。必ずしも、私たちは肉体の命がいつまでも続くとはかぎりません。人生をだいぶ生きてこられた方にとっては、「自分はそう長くはない」と思っている。思いはするけれども、「でもあの人よりも」と思っている。この人よりももうちょっと長く生きる。だから「私は老い先短いから、あと幾ばくもありません」と言う人でも、「あれが必要」「これが大切」「これもしておかなければ」「あれもしておかなければ」と意欲旺盛です。

 

先日もある方が、自分も老い先短いからいつでも死ぬことができるように、死んだ後で家族の迷惑にならないように、「まず、家の片づけをしたい」と言われた。「それは良いこと。心がけてまだ元気なうちにやったほうが良いですよ」とお勧めしたのです。しばらくして、「どうですか、進んでいますか」と聞くと、「いいえ、一向にはかどりません」と言う。「どうしてですか」と言ったら、「いや、見るとあれも欲しい、これも欲しい。倉庫の物を見ると懐かしくて、ついつい時間が掛かって、でも、もうしばらく私は生きると思いますから」と言われる。「いえ、それはないよ」と言いかけたのですが、ちょっと息を飲みまして、「ああ、そうでしょうね」と答えました。私は家内の父のことを振り返ると、大変潔(いさぎ)が良かったと思います。義父なんか老人介護施設に入りましたら、その段階で「家を全部処分せよ」と、娘である家内に言いました。義母も施設にもちろん入っていたので、二人とも自分の家に住むことは不可能であったことは確かですが、義父は格別そうでした。それまでにほとんど家財道具も大抵の物は処分していました。だから、倉庫を開いてびっくりした。ほとんど空っぽだったのです。義父が「残すな、一つも残すな」と言うので、家を全部取り壊してしまうことになり、家財道具を全部産業廃棄物処理業者にお願いをしました。すると、4トントラック一台分ぐらいで終わったですかね。2階建ての家だったのですが、タンスだとかはありましたが中身はほとんど半分ぐらい捨てられていましたから、大変楽でした。費用もかからなかった。家も取り壊す予定にしていました。土地が借地だったものですから、取り壊して更地にして地主に返す予定でした。しかし、地主さんが家を見て、「壊すのだったら、ただでうちにくれないか」と言うから、「じゃ、あげましょう」とあげました。だから、家は残りましたが、他人の手に渡ってしまいましたから、自分たちとは関係がありません。北九州は何十年と住み慣れた、生まれ育った所ですから、義父が福岡のホスピスに移るときに、私はちょっと気になりまして、「お義父さん、ちょっと家がまだ残っているから外側からだけでも見て行きますか」と言ったのです。すると「いや、和義さん、そんなもの見んでもいい。もうわしは先へ行くから」と、もうそれっきりです。近くまで行きたいとか、ちょっと遠目にでも見てみたいとか、そんな思いは一切ない。私は今、振り返ってみて、よくそこまで踏ん切れるなと思う。先だってもある方が、「でも、お義母さんは心残りではなかったのですか」と。ところが、義母も自分の着物だとかいろいろな物を置いていたのですが、一切関心を示さないというか、捨てたのです。娘である家内に「全部処分しなさい」と。それも全部まとめて捨てました。先だって、義母に「いろいろ思い出すことがあって懐かしくない?」と言うと「そうでもないよ」と言う。「自分は後ろを振り返らないたちだから」と。なるほど、そういう思いがあるのかと、自分自身改めて教えられました。

 

目をさましていなさい」というのは、どんな時にでも、ここから主の許(もと)に帰るのだと、絶えず備えをしていくことです。といって「持ち物を処分せよ」と勧めているわけではありません。それが必要な方もいますから、皆さん一人一人です。ただ「目をさまして」、心をしっかりと、今日一日を神様の御心に従って生きることに全力を懸けていくことです。これが「目をさまして生きること」。毎日、昨日の今日、今日の明日、惰性になって、生きているやら生きていないやら、眠っているやら起きているやら、夢うつつのごとく過ぎていく。今年も残りわずかです。間もなくクリスマスが来て、お正月です。あれよあれよと、瞬(またた)く間に過ぎて、気がついてみたら「え!この1年、私は何をして来ただろうか」。夢の中のような1年を過ごして、地に足が着いていない。これでは悔いが残ります。どうぞ、そうならないために、「目をさまして」、今日も神様によって生かされた者となって、主が備えられた一つ一つのわざをはっきりと「これも主のためにさせていただく」、「神様に従ってこのことをします」と自覚していくことです。夢うつつの中で、夢か何か分からない、心ここに在らずという生き方をしては駄目です。絶えず一つ一つはっきりと意識して、自覚して、「これは、神様が私に求められることです」と、神様とのかかわり、そこに自分を置いていくこと。これが「目をさまして」です。だから、13節にありますように、「その日その時が、あなたがたにはわからないからである」。いつ主が来られるか分からないから、絶えずそれに対して備えていく。どう備えるか。「その終わりの時にどう備えるべきでしょうか」と言われますが、それは実に単純で簡単なことです。毎日を絶えず「神様と私」、いま神様が私に何を求め、何をさせようとしているか。今日、命を与えてくださる神様の御心はどこにあるだろうか、私がすべきことは何だろうか。神様が私に求められることは何だろうかと、自覚すること以外にありません。だから、朝起きて、「今日はあれをしよう。これをしよう」と思う時に、もう一度一つ一つ、神様の前に持ち出して「私は今日これをしますが、どうぞ、力を与えてください」、あるいは「これは神様、あなたの御心でしょうか。ならば、私にそのことをさせてください」と、神様とのやり取りと言いますか、取引と言いますか、言葉としては誤解を招きやすいけれども、神様とのかかわりの中で生きること。これが備えていくことです。そうしておきますならば、ある日突然のごとく、主が私たちを「人の子よ、帰れ」(詩篇 90:3)と招かれた時、「イエス様、あなたのところへ帰るんですね」と喜んで、心置き無く、神様のところへ帰っていくことができる。ところが、自分の感情や、自分の好き嫌いや、自分の損得利害、得するとか、楽するとか、そういうことばかりで生きていると、どれほど神様とかかわってきたかが消えていく。それが失われてしまうと、いよいよの時に不安になります。頼るものがなくなる。

 

だから「今は恵みの時、今は救の日」なのです。こうして健康でいる時、そう言われると、「いや、私はそんな健康じゃありません。あそこも悪い、ここも悪い」と、悪いところを誇りになさるかもしれませんが、でも、それだけ悪いところがあっても、なお元気であるということは感謝ですから、それを感謝して、神様の御心に従って生きる。ただ人並みの、世間の生き方に倣(なら)って、水の流れに押されるがごとく、ダラダラと「気がついてみたら1年たっていた。来年はどうなるだろうかしら」と、当てのない生き方ではなくて、私たち一人一人が今日も神様の手に握られ、今日も備えられて、神様が「生きよ」と生かされている自分であることを自覚して、「神様の求め給うところに従って歩んでいます」と言い得ることが大切です。そういう日々を積み重ねていく時、エノクのように歩んで、「これを移し給ひたれば見出されざりき」(ヘブル11:5文語訳)とあるように、ハッと気がついた時、終わりの時を迎えているに違いない。

 

 ですから、「いつ終わるだろうか」、「いつなるだろうか」、戦々恐々と身を縮めて恐れたり、心配したりして生きるのではなくて、「今日一日を力いっぱい神様に従って生きます」と定め、そして一日を終わる時、「今日召されても悔いがない」、そう言えるように、きちんと一日一日を神様の前に整えて歩む者でありたいと思います。今年ももうしばらく残っていますから、残された年月を最後まで、年末を迎えられるかどうか分かりませんが、いずれにしても今日、明日、一日一日をしっかりと目を覚まして、神様のものとなりきっていきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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