いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(419)「聖霊の力」

2014年12月21日 | 聖書からのメッセージ
 「使徒行伝」1章6節から11節までを朗読。

 8節「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

 イエス様が十字架におかかりになり、墓に葬られました。しかし、三日目の朝、墓からよみがえられました。主のよみがえりは、大変ショッキングな出来事であったと思います。誰一人死んだ者が生き返るなど考えもしない、想像もできないことでしたから、中には疑う人たちも多くいたに違いありません。しかし、イエス様はそれから40日間にわたって、数々の確かな証拠をもってご自身がよみがえられたことを証詞してくださいました。40日が過ぎまして、弟子たちが見守っているうちに、イエス様は天に携え上げられてしまい、気がついたらもうそこにはいらっしゃらない。全く見えなくなってしまいました。そのとき白い衣を着た御使いが弟子たちのそばに立って、「あなたがたはどうして天を見上げているのか。やがてイエス様はあなた方が見たように、今度は逆に天からこの世に再び来てくださるであろう」と言われました。これでイエス様の地上における全ての使命が終わられたわけです。弟子たちにとっては誠に寂しいといいますか、残念至極であっただろうと思います。三年数か月の間、誠に密な、濃厚なイエス様との交わりでありました。寝食を共にして、苦楽を共にする、そういう生活を続けていましたから、イエス様がある日突然十字架にかけられ、死んで墓に葬られて、失望落胆していました。しかし、よみがえられて40日間彼らの許(もと)にご自身を現わしてくださいまして、少しは「やれやれ良かった」と思ったでしょうが、またしてもイエス様は彼らの目から見えなくなってしまう。これは弟子たちにとって誠に心細いことだったと思います。しかし、天に帰られることによって、イエス様は大変大きな事をしてくださったのです。イエス様がこの地上にとどまって、私たちの目に見える形で、いわゆる肉体をもっていつまでも生き続けていることは、不可能であります。もちろん、神様のなさることですから、それもできないことはないに違いありません。でも、そうだとしたら、もう2000歳以上になられます。年齢を聞くと大変な高齢者と言うべき御方です。だから、私たちと同じ肉体をもった救い主、イエス・キリストは弟子たちの見ている前から天に携え上げられたのです。罪のあがないの神の子羊として十字架にご自身をささげてくださるという、救い主としてのご使命を全うしてくださった。これがイエス・キリストの全てであります。ところが、神様はイエス・キリストをそれで終わりにしたのではなく、新しい始まりとしてくださった。それは、イエス様が以前から「私が父の許へ帰るならばそこからあなたがたのために助け主、真理の御霊を送る」と弟子たちに約束したことです(ヨハネ15:26)。これは父なる神様の約束であり、願いでもあります。「真理の御霊」「聖霊」「神の霊」を私たちに注いでくださる。

 ですから、1章4節に「そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい』」と、お命じになりました。父の約束とは、神様が終りのときに全ての人に神の霊を注いでくださる、という約束であります。ですから、その霊を受けるまで「あなたがたはエルサレムから離れないで、そこにとどまってその聖霊を待ちなさい。満たされることを待ちなさい」と言われたのです。弟子たちはイエス様が天にお帰りになった後、12節以下に語られていますが、エルサレムへ戻りまして、一つの家に集まりました。「120名ばかり」と15節には記されています。彼らはそこで、14節「ひたすら祈をしていた」と記されています。絶えず祈って神様の約束の御霊を求め続けた。果たして聖霊というもの、神の霊がどういうものであるか、彼らははっきりと知っていたわけではありません。しかし、ただ、イエス様が言われた言葉を信じて「きっと何か神様から与えていただくものがあるに違いない」。それを聖霊、御霊と言うべきでしょうか。そういうものを彼らは信じて待ったのです。ここがひとつの信仰のあり方、歩みでもありますが、彼らはどういうものを神様が下さるか分からないが、それが与えられるまで待ちなさい、と求められました。そして、その求めていくべきもの、神様が与えてくださるものは聖霊、神の聖い霊であると。霊と言われても手で触ることもできない、目で見ることもできない、聞くこともできないのです。あるのかないのか定かではない、実に心もとない話です。しかし、聖書には、神の御霊、聖霊が私たちのうちに必ず働いてくださることを語っています。いうならば、そのもの自体を私たちは知ることができません、見ることもできません、手で触ることもできません。しかし、霊が働いてくださる結果は見ることができるとイエス様は語っておられます。ニコデモ先生がイエス様の所へ来たときに、イエス様はそのことを語りました。「あなたがたは風が吹いていることを見るではないか。しかし、風自体は見えないけれども木が揺れたり、草木がなびいたりすることを見て、今風が吹いているな、と結果で分かるじゃないか。聖霊の働き、御霊もそれと同じであるよ」とイエス様は語っておられます。ですから、私たちは聖霊の何たるか、それがどういう御方であるか、あるいはどんな姿形をしたものであるかは分かりません。イエス様だったら、人となり給うた御方でから、私たちと同じ形をしておられます。だから、きっとこうであるに違いない、こんな風であるに違いない。年齢的には何歳ぐらいでとか、イエス様についての具体的なイメージ、姿形を想像することができます。しかし、聖霊についてはさっぱり分からない。時にそういう事を尋ねられます。「先生、聖霊とはどんな御方でありましょうか。どういう顔かたち……」「そんなのは分からない」「じゃ、無いのですか」「いや、聖書にはちゃんと聖霊が注がれる。また聖霊が私たちのうちにあって働いてくださる、と語られているから、それを信じる以外にないのです。そして、信じていると、結果として具体的な事柄が現れてくる。目に見えるものとなってくる。これは確かです」。そうお話をすることがありますが、まさに弟子たちにとってもそうでありました。

 エルサレムに戻りまして、ひたすら心を合わせて祈って10日程たちました。

このことが2章1節以下に記されています。「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった」。毎日彼らは集まってひたすら祈っておったのです。イエス様は「約束のものを待ちなさい」と言われる。「待ちなさい」と言われて「いつまで」とは言われていないのです。「聖霊が注がれるであろうから、それまで待て」と。「それはいつで、何日間待ちなさい」という約束はないのです。明日であるか、1ヶ月であるか、あるいは来年であるか、全く分かりません。ただ、弟子たちが素晴らしいのは、イエス様のお言葉を信じて待ち続けたことです。結果として、10日目ですが、「10日ならそれは待つであろう」と思うかもしれませんが、いつまでか分からないままで「待て」と言われてご覧なさい。せいぜい1日ぐらい我慢して待つでしょうが、いい加減焦ります。「あと何日?」「あと何日?」と、カウントダウンできなのです。それが分からないのですから、待つ以外にない。まさにこれが弟子たちの信仰の試練です。イエス様の約束の言葉を信じて、成就するのを待つ。それがいつであるか分からない。しかし、それが成就することを信じていくこと、これが彼らの信仰だったのです。やがて10日ほどたちまして五旬節の日、50日目という意味ですが、過越の祭りから計算して50日目であります。その日にいつものように彼らは集まっておりましたとき、2節に「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった」。突然突風といいますか、激しい風がゴーッと吹くような音が天から起こってきた。そして、彼らの家いっぱいに音が響き渡った。こう言われても、具体的にどんなことなのかさっぱり想像がつきません。ただ言えることは、普段と全く違った、驚くような事象といいますか、現象が起こったというのです。しかも3節に「また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった」。「炎のように分れて」「舌のようなものが」と、これはことごとく「ような」「ような」と比喩(ひゆ)であります。たとえでありまして、「舌」ではないのです。「炎」でもありません。「ようなもの」と、それが一人一人の上にとどまったと。これも分かったような分からないような……、「いったい何のことやろうな」と思われるでしょうが、これはこれとして、こうしか言いようがないのであります。というのは、神様のなさること、神様のわざを言葉で言い尽すことは不可能であります。言葉のほうがはるかに規模が小さい、容量が小さいのであります。神様のなさるわざはとてつもなく大きいのです。だから、いくら言葉を費やしてみてもそれを全部すくい取って語りつくすことはできません。まさにチョコッと小さな手掛かりのようなものを言葉にするにすぎないのです。だから「炎のように」「舌のようなもの」というのも、これは単なる神様の驚くべきわざの一つの印(しるし)をチョコッと言葉で言い表したにすぎません。ですからこういう表現に敢えてこだわるといいますか、それで「何か、よう分からんな」というように悩むことはいりません。「何か驚くようなこと、普段と違う現象、そういう事態が彼らの上に起こったんだな」というくらいの理解でいいのです。

そのとき一つの大きな事が起こりました。4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。そこに集まっていたのは、ガリラヤ出身のペテロやヨハネ、本来漁師であった人たち、学問や知識、そういう教育など受けたこともない。恐らくほとんど学校らしいものはその当時なかったに違いない。そういう人たちが集まっていた。ところが、驚く事態が起こったときに、一人一人に変化が起こったのです。それは、聖霊が一人一人の内に宿って、今度は御霊が語らせるままに、神様の霊が一人一人の内にあって語り出す。しかも他国の言葉で、いうならば、外国の言葉で話をするようになってしまった。これまたびっくりするようなことです。「いったい、外国の言葉……、どこで習う。そんなに簡単に学べるのだったら、こんな楽なことはない。御霊に満たされたら……」と、私は子供の頃、教会学校でこの話を聞いたとき思いました。「いいな、これで勉強せんですむのに」と。「英語など、すぐペラペラとしゃべられるようになる。御霊に満たされるといいな」と思ったことがあります。しかし、ここで言っているのは「外国語がしゃべられるようになる。語学学校へ行かなくてすむ」という話ではありません。言葉は、一つの力です。力をあらわすことです。そもそも権力者というのは、昔からそうでありますが、言葉を操ることが人を支配する大きな力なのです。だから、言葉が滞りますと力を失くします。人でもそうですが、子供たちの成長を見ていると、生まれたばかりの赤ちゃんは、おぎゃー、おぎゃーと何も言いませんが、その間は何とか笑顔を作って抱かれようとします。大人も赤ちゃんの笑顔を見て可愛いから抱きますし、抱けば連れて回るし、赤ちゃんは自分で動かないでもいくらでも動けるのです。ところが、成長して片言をしゃべり出します。言葉が身に付いてくる。そうすると、なかなか抱かれたり人の思うように言うように動かなくなる。自分の力を持つ。顔つきが変わります。言葉を発し始めると、幼児が言葉を獲得して言葉をしゃべり始めると力を持つのです。体力的な意味での力ではありませんが、自分がいわゆる意志といいますか、はっきりとした力を発揮するようになってきます。だんだんと大人になって、自在に言葉を操ります。それによって人を動かすこともできますし、どんなことでも……、力があるのです。ところが、時に病気で言語を失うことがあります。失語症に陥ったり、半身不随などで言葉の機能を失ってしまう。そうすると、途端に弱くなります。半身不随の状態でも言葉が残るケースがあります。言葉には支障のない、その方はほとんど変化がありません。言葉というのはその人の力になる。ところが、言葉を失いますと、たとえ五体満足でもある意味では魂が抜けたような者に変わってしまう。

だから、4節「御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」というのは、言い換えますと、彼らが今まで知らなかった、持っていなかった新しい力を神様が彼らに与えてくださったのです。これが聖霊です。5節以下にありますように、彼らは大胆に神様のことを語るのです。2章11節に「ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。弟子たちは今まで人を恐れて隠れ潜(ひそ)んでいました。ただひたすらにイエス様のお言葉を信じて聖霊に満たされることを願って待ち続け、祈り続けていました。そうしますと、突然驚くような言葉に表せないようなひとつの事態が起こって、彼らの中に聖霊が注がれました。それと同時に彼らは新しい今まで知らなかった神様の力に満たされた。その力は隠れていた彼らをそこから外へ導き出して行くのです。今まで人を恐れていました。ひょっとしたら自分たちもイエス様と同じように迫害に遭うのではないかという恐怖心にかられていました。ところが、聖霊に満たされた時、彼らは力を受ける。新しい言葉を語り出す。神様のわざを、恵みを、神様のことを証詞する者と変わっていく。11節に「神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。今までは彼らはひそかに隠れていた。イエス様の弟子であることもはばかられ、隠していたに違いないけれども、神様の霊に満たされた時、彼らは人を恐れず大胆に神様の大きな働き、神様の恵みを語り出した。

その典型が14節以下に「そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。『ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。15 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない』」。更に、23節以下に「このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」。何と大胆な言葉ではないでしょうか。誰が語っているのでしょうか? ペテロであります。ご存じのようにイエス様は十字架に掛られる前、ピラトやカヤパに屋敷で裁きを受けました。カヤパの屋敷でイエス様が取り調べられているとき、ペテロは遠くから眺めていました。たき火にあたっていたときに一人の女中さんから「あなたも彼の仲間でしょう」と言われた時、「いや、滅相もない、そんな人は知らない」と、三度も拒んだ彼であります。そしていちばん小心者であり、イエス様を裏切ったことでみじめな自分であることをよく知っていました。このときもイエス様が天にお帰りになった後、仲間の者と一緒に隠れ潜んでいたのです。そのペテロが、このときは真っ先に率先して人々の中に出て行って語り掛けたのであります。14節に「そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた」。これだけでも大胆なものであります。彼はもはや人を恐れなくなってしまう。その力はどこから来たのでしょうか?あの弱虫ペテロ、イエス様を裏切ったペテロをして、今度は大胆にイエス様を証詞する者と変えてくださった。しかも先ほどお読みいたしました23節以下にありますように、大胆であります。「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した」と言い切っているのです。「あなた方がその張本人だ」と、こんなことを言おうものならどんな反発を受けるか分からない。でも、彼はもはやそんなことを恐れないのです。まさにこれが聖霊の注がれた証詞であります。彼はどこかで山籠り(ごもり)して修業をしたというわけではありません。自分の弱い、卑きょうな性質、性情、性格、「本当に軟弱な自分だ。俺は駄目や、ここはひとつしばらく修行に出よう」と言ったわけではない。何をしたか? イエス様が言われるように、「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受ける」。「力を受ける」とおっしゃいました。「力に満たされよ」と言われたその力をペテロは待ち望んだ。その力が臨んだとき、彼は人を恐れない。大胆にイエス様のこと、神様のことを証詞することができる。これは今も変わることのない神様の力であります。私たちはいろいろな意味で力がないことを嘆きます。知力がない、財力がない、体力がない、家柄も学歴も何もない。力がない、だから自分は弱い人間だと嘆いています。しかし、たとえ世の力がなくても、神様の力に満たされるなら、大丈夫です。

使徒行伝1章8節に、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて」とあるように、是非ここの所にしっかりと線を引いて、「聖霊がくだる時」何を頂くか、「力を頂くのです」。しかも、その力は私たちが求めるような肉の力ではありません。この世の人々が言うような意味の力、経済力があるとか、あるいはあの人は政治力にたけているとか、そういう意味の力ではありません。神様から頂く御霊が私たちの内に宿ってくださると、私たちの内側から造り変えて神様の御心に従う力を与えてくださる。私たちはその力がありませんから、かつては罪に捕らわれていた者であり、パウロがそう言っているように「よいと思いながらそれをすることができない。これはしてはいかん、やめるべきだ、と思いながらついやってしまう」のです(ローマ7:19~)。しかし、そういう罪の奴隷となって神様の御心に従えない、自分の弱さのゆえに人に引っ張られ、世に惑わされ、様々なことにおびえながら、人の顔色をうかがい、事情、境遇、事柄の何かに恐れを常に抱きつつ生きている私たちです。そういう肉の力に縛られていた私たちを解き放って、今度は新しい力に私たちを満たしてくださる。これが今与えられている聖霊であり、神様の霊が私たちの内に宿ってくださるのです。この力を日々求めて行こうではありませんか。実は旧約時代から既に神の力がそそがれる時、どんなことが起こるかを語っています。

「士師記」14章5節から6節の前半までを朗読。

これは“大力”サムソンといわれる人物の記事であります。この頃士師の時代は、神様がサウル王様を立ててくださる以前の時代のことであります。その時代は、神様が指導者として人を選び、神の霊を注いで、指導者に立ててくださったのです。サムソンも神様が選んでくださって、この者をイスラエルの民の指導者となそうとして霊を与えてくださった。サムソンは父母と一緒にぶどう畑に出掛けて行きましたときにししといいますか、ライオンが彼を襲ってきた時、6節に「時に主の霊が激しく彼に臨んだ」と、神様からの霊が彼をつかんだ。彼のうちに満ちあふれた。そのとき、襲って来た凶暴なライオンをまるで子ヤギを裂くがごとくに武器も持たずに素手でもってそれを引き裂いてしまう。世にも乱暴な話で「私はそんな力はいらんよ」と思われるかもしれませんが、これは一つのたとえです。神様の力が望むとき、どんな恐れをも乗り越えることができる。敵に打ち勝つ力を与えてくださるのです。神の霊が臨まなければ駄目です。

その先15章14,15節を朗読。

このときサムソンはペリシテ人に捕えられて縛られていました。がんじがらめで身動きならないようにされていたのです。ペリシテ人が彼を殺そうとして近づいて来たとき、14節に「主の霊が激しく彼に臨んだ」と。神様の力が彼に注がれた。そして縛りつけていたなわめが全部ほどけてしまった。そして、何も武器を持っていませんでしたからふと見るとそこにろばのあご骨があった。それを握って襲って来たペリシテ人一千人を打ち殺した。ろばのあご骨はそのように人を殺すほどの力のあるものではありません。もろい物に違いありません。しかし、神の力が注がれているサムソンのゆえにそのロバの骨をもってすらも敵を打ち破る力を現わす。これが神の霊に満たされることです。サムソンはどんなものにも打ち勝つ力を神様から与えられたのです。やがて彼は一人の女性を好きになります。ペリシテ人が何とかしてサムソンの力の秘密を探ろうとします。とうとう彼は誘惑に負けてその秘密を明かしてしまいます。自分の髪の毛を切ったら力を失うということを言ってしまった。彼はナジル人という特別に神にささげられた者でありましたから、髪を伸ばしておくべきであったのです。とうとう自分の髪の毛が短くなって力を失いました。そのとき彼はたわいもなくペリシテ人に捕えられ、いとも簡単に目をえぐられてガザに引っ張られて行き、そこでうすをひく、動物に代わってズーッとうすをひく奴隷となって捕えられていたのです。そもそも彼には力がないのです。大力サムソンと人々は言いますが、彼は生まれながらに大力だった、相撲取りのような、レスラーのような格別力があったというのではありません。今読みましたように、時々神様がご自分のわざをなさせるために、霊を注いでくださる。力をドーンと注いでくださる。そのとき彼は自分の想像を超えて、自分にもなかった力を発揮する。これが聖霊、神の霊、霊の働き、神様の力です。そして、神様の力は神様の御心にかなう者へと私たちを造り変える力です。私たちのうちに神様の霊が臨んできますと、罪に打ち勝つことができる。私たちのうちに神様の霊が宿ってくださるとき、人を愛せない自分が愛する者に変わって行くことができる。これは神様の御霊によらなければできない。サムソンをしてこれ程の大きな力を発揮させ、業をさせることのできる神様は、今も私たちにこの力を注ごうとしておられる。私たちが求めている力は何でしょうか? 徹夜しても病気にならない健康の力、あるいは財力でしょうか、あるいはいろいろな人の力、政治力でしょうか。そんなものをいくら持ってみても私たちは自分を造り変えていくことはできません。この世の力は、人に向かって働きかける力ではありますが、自分に対しては無力であります。力のない本当に弱い者であって、これはしなければいけない、これはこうあるべきだ、と思いながらできない。自分に打ち勝つ力は経済力でも何でもない。実は神様からの力によるのです。だから、「聖霊に満たされなさい」とイエス様が求められるのはそのためです。神様の力に満たされるとき、自分が変わるのです。サムソンが変わるのです。神様の力に満たされるとひ弱で小さなサムソンが大きな力を頂いて神様の御旨にかなう者となり得るのであります。これがいま私たちに約束されている聖霊です。

使徒行伝1章8節に「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて」とあります。いつその聖霊が私たちに与えられるのか? 今です。もう既に神様は私たちに聖霊を注いでくださっておられる。「では、私にはどうしてちっとも力がないんでしょうか。人を恐れたり、あれをしたりこれをしたり、自分は弱い人間です。どうして私は力がないのでしょうか」。それは私たちが求めないからです。聖霊を求める。だから、「ルカによる福音書」にイエス様は語っておられます。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。(11:13)「求めないから得られないのだ」と。聖霊がどんなに尊いものであり、またそれが私たちにとってどんなに大きな恵みであるかを知らない。忘れてしまっていますから「聖霊を頂くのもいいけれども、早くこの問題を何とかしてほしい」、「聖霊もいいけれども、しかし、早くこの病気を癒してほしい」。そちらのほうを願う。でも神様は私たちに「いや、どんなことよりもまずあなた方が聖霊に満たされること、これが最善の道、恵み豊かな生き方である」と願っておられます。

どうぞ、このことをしっかり心にとどめておきたい。日々の生活の中で「しまった。何でこんなことになったのだろうか」「どうしてこんなことに、私が足らないから、私がもうちょっと頑張ればよかった」と、自分を責めたり、自分の足らなさを嘆いたり、その挙句、人を恨んでみたり、事情、境遇を呪(のろ)ってみたりしますが、いちばん肝心なのは自分自身の内に神様の力を持とうとしないからであります。

どうぞ、私たちは「この御霊によらなければ私は力がないのです」とはっきり告白して行こうではありませんか。「神様、あなたの力によらなければ、聖霊によらなければ、私はあなたの思いを知ることもできません、信じる力もありません」。そうです。私たちは神様のことを知ることも、神様を信じることも、これは御霊によらなければできないのであります。自分の努力や、あるいは自分の業によって神様を知ることは不可能です。ましてや、神様と共に生きようと、自分を清くして神様の前に罪なき者となることはできません。ましてや、イエス様の十字架のあがないを自分のものとして、自分の性情、性格、隅々に至るまで新しく造り替えられるわざは人の力ではできない。「神の御霊、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受ける」。この聖霊の力に私たちが満たされること。そうしますと人を恐れず、事情、境遇を恐れることなく、また、自分の内に欠けているものを神様は教えてくださる。そればかりか、私たちに力を与えて神様に従う道を歩ませてくださる。

どうぞ、聖霊、御霊に満たされること、これこそが私たちのいま求むべき大切なことであります。8節に「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。「わたしの証人」、イエス・キリストの、神様の証詞人として、神様の恵みに生きる者と私たちを造り替えてくださる。この聖霊は今日も注がれている。私どもは心を低くして、謙遜になって聖霊を求め、満たされて、神様の御思いに従うものとなりたい。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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