「ローマ人への手紙」8章12節から17節までを朗読。
14節「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。
私たちは、目で見るもの、手で触るもの、耳で聞くもの、いわゆる五感といわれるものを通して生活しています。ともすると、目で見て手で触るもの、これらで全て完結していると思いやすいのです。ところが、日々の生活にはそれだけではどうしても満たされない、満足できない思いが心にあります。よく世間では“衣食足りて礼節を知る”といいます。“衣食足りる”、言い換えると、生活の条件が整う、豊かになる、そういう社会になるならば、人は皆、立派な人間に成るといわれたわけです。そういうことを願って、多くの人々は戦後の物資のない廃墟となった国土に、何とかして国を建て、幸いな生活を造り出そうと懸命に働いたのです。高度成長期を経て現代に至るまで、身を粉にして働き続けて、何とか定年退職を迎えたのが、今の私たちです。確かにそういう努力と働きによって日本の社会は高度に成長しました。まことに物は豊かで、あふれるばかり。いろいろな面で何不自由のない社会になったと言う他はありません。「いま何か欠けているものがあるか? 」と言われると、「何だろうな? 」と思ってしまいます。だから「これからの若い人は大変だろう」と思うのです。夢が持てませんから。皆さんもそうだと思いますが、子供の頃はまことに物がない時代であります。生活そのものがどれをとっても労力が必要な生活でした。
水一つとっても、水道がまだ普及していませんでしたから、井戸水で生活をする。私はこの教会に生まれ育った者でありますが、当時井戸がありました。今では電動ポンプで吸い上げて植木などにかけていますが、隣の方と共同の井戸がありました。水を汲むだけでも朝から手押しポンプを押す。それをバケツに入れて、ちょっと離れた台所に運ぶのです。これは子供たちの朝いちばんの日課でありました。それから煮炊きが始まる。その煮炊きするにしても七輪です。「七輪」が分からない若い人もいますが、いまではキャンプ用の道具だと思われています。炊事用の火は一つしかありませんから、みそ汁を作りながら、別のものを作るという同時進行はできません。お味噌汁ができたら今度は魚を焼いて、その次に煮物をしてと、だから時間が掛る。だから母親は朝早く、5時くらいから起きて準備しますが、2時間ぐらい掛って何とか7時8時に食事ができるようになる。ご飯はかまどですが、火を熾さなければならない。それが炊き上がるまで火の様子を見る。そういうことが毎日繰り返される。子供ながらに「もっと生活が楽になったらな」と思いました。表通りまでは水道の本管がきていたのですが、家まで引き込まなければならない。引き込む費用はそれぞれの利用者が負担しなければならなかった。その費用がなかったから井戸水を使っていました。やっと水道が引き込まれて、井戸水を汲まなくてもいい、またお風呂に水を入れることもしなくていい。お風呂に井戸水を入れるためにはバケツで運び込むのですが、兄と私の日課でありました。それは大変な労苦でした。ところが水道が引かれると、蛇口をひねると水が出てくる。これだけでも、「文明の利器とはこんなに素晴らしいものか」と思いました。洗濯もそうです。昔はたらい桶で、洗濯板の上でガシガシと、しかも大きな固形石けんで洗う。またそれを絞るのが大変でした。冬物など特に大変でした。6人家族でしたから、母は毎日毎日繰り返しです。洗濯だけでも2時間3時間は掛る。そしてそれを干す。干すはいいけれども、製鉄所の沢山な煙突からもうもうと煙が出る。その煙の煤が洗濯物に付く。風向きにもよりますが、ひどい日には午後乾いたと思ったらしみが付いていますから、夕方それを取りあえず水洗いして、また家の中で干す。そんな生活をして、「いつまでこの労働が続くのか」と思いました。そのうち洗濯機なるものが出たのです。これは革命的な物です。初めのうちは洗濯槽がジェット墳流のように回るのを私どもは飽かず眺めていました。それが早く仕上がり、また絞らなくていいのです。二つのローラーがありまして、その間に洗濯物を挟んでぐるぐると回す。そうすると、シャツもズボンも煎餅(せんべい)のようになって出てきます。そういう生活でした。皆さん、もう一度思い出してご覧なさい。洗濯、掃除、それから照明器具です。これも昔は白熱灯の裸電球でしたが、これが切れやすい。夜、使おうと思ったら切れている。それをしょっちゅう取り替えなければならない。しかも薄暗いのです。やがて蛍光灯というものが出ました。この棒状のものが光る、これにはびっくりです。しかも明るい、これも革命的です。だから、私はこれまでの70年ばかりの生涯を振り返って、誠に幸せな時代だった、変化に富んだ、驚きの連続の人生だった、と思う。これからの時代は恐らく失望の人生?がっかりする人生かなと思います。若い人にそういうことを言うと、「先生はそうやって悲観的になるが、先生、世に恨みでもあるんですか」と言われたことがありますが、別に恨みはありませんが……。
このように「衣食住が足りていけば、人は満足するに違いない」と思ったのです。ところがどうですか? いま日本の社会はどこを見ても物があふれている。何一つ不自由のない時代になっていながら、人の顔にいのちが消えている。若い人たちの意欲が無くなる。今は人の力では処理ができない引き籠(こも)りであるとか家庭内暴力であるとか、あるいは生活力を失って、生きることができない。何が欠けているのでしょうか?根本は心、魂の問題です。それは目には見えません。物質的な物は、あれが足らない、これは十分だということは、明らかによく分かります。私たちの内なる人、いわゆる魂が枯れてしまう。「そんなものあるか」と思われるかもしれません。「あるか」と言われても、見えませんから、またレントゲンやCTで写しても、人の心なんて分かりません。魂であるとか、霊魂であるとかいうものが、目に見えないからと言って否定しますが、実際にそれが力を失ってしまうと、生きる喜び、望みを持てなくなります。また生きがいといいますか、生きることに満足できないのです。目に見えないもの、私たちのいちばん奥底にあって、人を生かしているものは何か? これがいま私たちの社会には欠けている。だから新しい政権になると、人が「これから教育勅語を復活させよう。道徳教育を徹底させよう、そうしたら人が変わるに違いない」と言いますが、教育で人が変わるぐらいだったら、とっくに変わっています。そもそも人は何によって生きているのだ? 人というもの、自分というものの原点を考えなくてはいけません。
それがこの聖書です。この聖書のいちばん最初に人が創られたことが語られています。
「創世記」1章26、27節を朗読。
これは天地創造の記事です。天も地も何も無かったとき、ただ神様だけがおられた。「地はかたちなく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(2節)とあります。そのときに神様は大きな新しいわざを始められた。それは天と地を創造することです。まず「光あれ」と神様はお命じになられたとき、闇の中に光が輝き出た。そして闇と光を分け、昼と夜とをお創りになったと記されています。それから二日目、三日目と、六日間にわたって森羅万象、ありとあらゆるものを創造してくださった。創造の最後、六日目に、26節「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」と、人を造ることをご計画してくださった。人をお造りになるとき、「われわれのかたちに、われわれにかたどって」と繰り返されています。神様のかたち、神様の姿に似るものとして、その姿を写すものとして人を創ろうと。それまでに創られた空の鳥や水の中の生き物、またあらゆる動物を創られたときも、神様はこのようなことはひと言もおっしゃらない。ただ人をお創りになるときだけ、「われわれのかたちに」と、神様のご性質に似るもの、神に近い者として私たちを創ってくださった。27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」。26、27節に繰り返して「かたち」という言葉があります。これはイメージ、いわゆる感覚像、神の“像”という言葉でもありますが、私たちに神の姿を置いてくださったと。これが人の魂です。
そして、2章7節に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」と。しかも、神様は地のちりを集めて、人をかたち造ってくださった。だから見える私たちの体はいうならば、土で出来たもの、土の器にすぎないと聖書にもあります。私たちの身体はちりで出来たものです。ですから、どんなにお化粧をしてきれいに見えようと、元はちりですから、年を取るとそれがはげてくるのです。そして本城の斎場に行って、結局は灰になるのです。では、私たちはそれで消えておしまいかというと、それだけではなく、ここに「命の息をその鼻に吹きいれられた」とあります。私たちの内に備えられている神のかたちは消えません。これは霊のかたちである魂であって、「霊はこれを授けた神に帰る」(伝道 12:7)と約束されています。やがて肉体を脱ぎ捨てて、魂は神様の所へ帰って行く。その魂が絶えず生き生きといのちにあふれていなければ、人は真の意味で生きることができないのです。先ほど申し上げたように、物質的な生活条件が整って豊かになりますが、問題は魂です。魂が養われず、放ったらかしになって、どんどんしおれて行く。(講壇の花瓶を指して)こういう草花でも水をやらなければすぐに枯れます。私たちの肉体もそうです。今朝も食事をして来られたに違いない。お昼も食べ、夜も食べる。どうして一日に三度も食べるのだろうと、私は以前思ったことがありますが、一食・二食抜かしてご覧なさい。力がなくなり、青息吐息でしょう。病気でもして食欲がなく、二日ぐらい経つと、足がフラフラになるでしょう。食べないと人は力を失う。ところが、私たちの肝心な魂、心を何によって養うのかがわからない。「それは高尚な音楽を聴く」、あるいは「西洋美術を鑑賞する」など、趣味や教養で心が満たされると言います。しかし、そんなものは何の役にも立ちません。人生で大きな悩みに遭ったとき、私たちの心はなえてしまう。体は健康体そのものですが、不安や心配、思い煩うことが心に溢れてご覧なさい。力を失い、元気をなくします。
私もよくそういう経験をします。時々言われます。「今日は何かあったの? えらく沈んでいる」、「いや、沈んじゃいない。私は元気だ」と言うけれども、なんだか気が付かないうちに気持ちがなえるのです。そして「あれはどうなるだろうか」、「これはどうなるだろうか」と悩みの中に自分が浸(ひた)り込んでしまう。それは自分の内なる人、魂が弱っているのです。それを力付けるのは誰によって、また何によってでしょうか? いま読みました2章7節に、「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とあります。神様から命の息を吹きいれられ、神様からエネルギーを頂かなければならない。車でもガソリンを入れなければ走りません。私たちもそうです。神様からの命の息をいただかなければ、神になぞらえられた私たちのうちなる神の姿は見る影もなく痩(やせ)細って、しおれてしまい、青息吐息になってしまう。その神様の命の息は神様から直接頂かなければならない。「神様は私たちにそれをどうやってくださるのだろうか? 」と思いますが、そのために神様は聖書を与えてくださっている。聖書のお言葉を私たちが心に信じていくとき、神様からのエネルギーといいますか、力が注がれてくるのです。私たちは聖書を絶えず読み続けていきます。皆さんにもお勧めしていますように、一日一章、旧約、新約を読んで行きましょうと、一日一日の御言葉を読んで行くとき、物質的な目に見える生活環境ではない魂のことに思いが向かう。そして御言葉から注がれてくる光に照らされ、力を、エネルギーを頂くのです。その御言葉によって、「そうだ。今日もこの悩みがあるけれども、望みを持って生きよう」と、生きるエネルギーによって押し出されます。また、皆さんにいつも「日々の聖言(みことば)」をパソコンや携帯にお送りしています。毎日それを頼りにしていらっしゃる方がおられるのです。時々そういうメールを頂きますが「今日の御言葉は励まされたお言葉です。いま私は悩みの中におりますが、 “どうしようか”と思ったとき、今朝この御言葉を頂いて本当にいのちを頂きました」と。こちらはその人のことは何も知りませんが、聖霊が働いて下さいます。それによって生きる元気が与えられるのです。「生きる元気がないのなら病院に行ったら」という話になりがちですが、それとは違います。病院に行っても「どこにも悪い所はありません」と言われます。健康体ですが、魂が弱っている。それを生きるものにするのは神様から頂く力です。神様の力を私たちに注ぐチャンネルといいますか、道筋は聖書のお言葉です。だから私たちは聖書のお言葉を信じて、時に応じて与えられるお言葉の力をくみ取って行く。そうしますと、心に神様の力、いうならば、神の霊、聖霊が注がれてくる。それは御言葉を通してであります。私たちがお言葉を信じて、「神様がそうおっしゃってくださるから大丈夫です」とお言葉に思いを託す。それを信じて行くときに、文字どおり神様が力を与えてくださる。
「ローマ人への手紙」8章12節以下に、「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」。ここに「果すべき責任を負っている者であるが」とありますが、確かに私たちは自分の好むと好まざるとに関わらず、ある日、ある時、地上に命を与えられて、「人の子よ、生きよ」と、この世に生かされております。この世で生きるためには着る物もいるし、食べる物もいるし、生活する場所もいる。あるいは、働かなければいけないし、世間というものの中に生きています。そこには神様の霊が働く場所がない。人は生まれながらにそういう肉の力、肉というのは霊によらない物質的なもの、またそれを求める人の生まれながらに持っている我欲、自我性、そういう情欲によって生きている。これが肉によって生きている姿です。
かつて神様を知らないときはそういう生き方ばかりをしておったのです。自己中心で自分の利益を求め、自分の損得利害ばかりを考えて欲得で生きている。ところが、そういう生き方は確かに素晴らしい物質的な社会を造りだす。利益追求で日本の企業は世界中に出て行って、どんどんもうけて、日本の社会はこんなに豊かになった。それは強欲の塊であります。その欲の結果がいまの私たちの快適な社会を築いてきたと言えばそのとおりです。では、それが善いことだったかというと、果たしてそうであったかどうかは分からない。いやそれどころか、むしろそれは決して人のいのちには関わらない。
12節に「果すべき責任を負っている者であるが」とあります。ところが「肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない」と。私たちが生まれながらに持っている生存欲といいますか、そういう神様を認めず、魂のいのちを軽んじて、それをないがしろにして人が勝手に自分の力で生きようとする生き方、それを求められているのではない。「肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない」というのは、そういうことです。私たちが生まれながらのこの世での生き方、それだけを追い求めるために生きているわけではない、ということです。13節に「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら」、そういう物欲的な、あるいは人間の持っているそういう生まれながらの自我性、それだけに支配されて生きるのであるならば、「あなたがたは死ぬ外はない」。「死」、これは肉体の死というばかりでなくて、生きながらにして魂が死んだ者となる。これが私たちのいま直面している問題です。日本の社会がいうならば、死んだ社会、いのちが消えてしまう。それは魂がしおれてしまっている。気息えんえん、いつ死ぬか分からない窒息しそうな状態になってしまう。それをもう一度生きるものとする。それが私の中に神様が神の霊を注いでくださる。それは神様のお言葉によって、その約束によって私たちに与えられるものであります。
13節の後半に「しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」と。「霊によってからだの働きを殺す」という言い方は、何か非常に厳しい言い方のようですが、神様から注がれる霊に、神様の力に、私たちが従って生きるならば、真に生きる者となる。私たちの肉よりも、そういう物質的なことよりも、私たちの魂、霊、神様から頂くその力に従って生きていくならば、ということです。生まれながらの情欲によってではなくて、神様から与えていただく力によって、聖霊によって、私たちが生きていくならば、私たちは生きる者となる。もう二度と死ぬことはない。これが神様の私たちに与えてくださっている大いなる祝福と恵みであります。だから14節に「すべて神の御霊に導かれている者」、神様が私たちに与えてくださる霊、神の霊に絶えず導かれて行く。その霊、エネルギーが私たちの内に満ちてきて、私たちの心と思いを支配してくださる。そのとき神の御霊は私たちに神様の思いを伝えてくださる。万物の創造者、造り主でいらっしゃる神様から私たちに対する思い、神様の御心を教えてくださる。私たちはこの地上に命を与えられ、生きていますが、何のために神様が造ってくださったのか? 私たちがこの地上ですること、なすことの一つ一つは何のためなのか? 私たちはただ自分の情欲に従ってのみ生きてきたのですが、神様の霊に結び付いて行くとき、神様からの力を頂くとき、神様のご計画、神様が私たちに抱いてくださる御思いに従って生きる者と変わります。これが本当の意味で人が生きることです。だから、私たちにとって神様の霊が絶えず注がれることがなによりも大切です。御言葉を通して、また、求める者に与えてくださるという約束ですから、求めていきますと、御霊は私たちの内に来てくださる。私たちは力にあふれて、その力は私たちを生きる者としてくださる。何をどうしたら良いか、知恵を与えてくださる。思いを整えて、神様の御心にかなう者に造り替えてくださる。
それが「すなわち、神の子である」ということです。私たちを神様の子供に変えてくださる。神様から愛される子供になる。そもそも、創世記にあるように、神様は人をご自分のかたちにかたどって創ってくださった。それは取りも直さず私たちをご自分の子供のような者として創ってくださった。私どもは神ではありません。私たちは被造物、造られたものにすぎませんが、しかし、人をして神に最も近いものとして造って、神の子供のように愛の対象として造ってくださったのです。だからエデンの園に人を置いて神様は神様の創造物全てのものを管理する、治(おさ)めるようにと託してくださった。これがそもそもの目的であります。ところが、人は神様の御思いを捨て、肉によって生きる。霊の世界、神様のことを忘れ、身勝手なことをして生きてきたのです。その結果がいま直面している死の世界であります。ところが、そこにもう一度、神様は霊を注いで、神の命の息を注いでくださった。私たちが神様の御思いに従って生きる者となるように、新しく神の子としてくださいました。これはすごく大きな恵みと祝福です。そして私たちが神様の御心に従って生きる者となるように、聖霊を、神の力を、御霊を求める者に与えてくださる。そればかりか、御言葉を信じて生きる私たちの内に豊かに備えてくださる。御霊は私たちに一つ一つ神様の御思いを教えてくださる。
「コリント人への第一の手紙」2章10、11節を朗読。
10節に「御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである」とありますが、御霊、神の霊が私たちの内に宿ってくださるといいますか、注がれてきますと、御霊はいろいろなことを悟らせてくださる。啓示というのは、ただに知識として納得するとか理解することを越えて、ある意味での“悟り”です。私たちに言葉を越えた、説明のつかない思いを注いでくださる。これが「掲示してくださる」ということです。自分では考えなかった、気が付かなかった、どんなことをしてもこんなになるはずがないと思う事柄を、私たちにちゃんと教えてくださる。これは御霊の働き、神様からの力です。10節の後半に、「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめる」と。神様の霊は神様の御思いの隅から隅まで、ことごとく全部を知り尽くしておられる。その御霊は私たちに神様の御思いを移してくださる。神様が私たちに何を願っていらっしゃるか、いま神様が私に何をさせようとなさっておられるか、何が私にとって幸いな道であるかを、御霊は全部教えてくださる。これは素晴らしいことです。神様の霊は私たちの知らないことも教えてくださる。だから、私たちが御霊に満たされていくとき、たとえ大学を出ていなくても、勉強をしていなくても、すべての真理をわきまえる知恵を与えてくださる。人にだまされたとか、裏切られたとか、何とかしたとか、そんなことに遭わない。なぜなら、何が危険であるか、どこに何があるかを神様は全部ご存じですから教えてくださる。だから、学校に行って万巻の書を読むよりも、聖書を読んで神の御霊に満たされてご覧なさい。生活の隅から隅まで何もかも教えられ、悟ることができる。この御霊、聖霊という力は神様が私たちの魂に宿って、私たちがどんな困難や悩みに当たってもへこたれない、つぶされない、行き詰らないように、絶えずご自分の力をあらわしてくださる。そればかりか、神の知恵、知識を必要な時に必要なだけ与えてくださる御方です。神様が願っていらっしゃることは何なのか? 私の思いと神様の御思いがずれますから、これを早く一つにしないといけない。自分の思いを清算して、空っぽにして、「神様、今年は私に何をさせてくださるでしょうか」と、神の霊に導かれて行きたい。それが神の子の生き方です。
「ローマ人への手紙」8章14節に「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。御霊に導かれることこそが神の子の資格です。「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である」(Ⅰヨハネ 3:2)と宣言されています。私たちは神の子である。もうすでに神の子なのです。そして、私たちに御霊を注いで、神様が手取り足取り、日々の旅路を導いてくださる。どこに危険があるか、どこを避けるべきか、何をすべきか? 私たちは時に思います。「これをしたらいいと思うのだが、私には健康はないし、力はないし、またお金もないし、こんなに年も取ってきたし、あれもできん、これもできん。これはやめとこうか」と考えるだけで、具体的に踏み出せない。だから、神様が「いや、あなたがこれをしなさい」と迫ってこられるとき、「いや、神様の思いは分かるけれども、どうしようかな、やめとこうかな、逃げ出そうかな」と躊躇します。そのとき神様は「そうではない」と私たちを押し出してくださる。「さぁ、あなたがしなさい」。そういうとき、私たちはそこでへりくだって、心を低くして、「私は何もできませんが、神様、あなたがこれをせよとおっしゃるなら、させていただきます」と、踏み出すのです。そうすると、健康も知恵も力もどんな物も神様は必要な時に必要なだけ、そこで備えてくださる。これは確かですから、どうぞ、神様を求めていただきたい。
いろいろなことで自分の思わない、願わないような事態や事柄の中に置かれて、「どうしようか、早く逃げ出そう」と思うとき、そうではなくて、そこで「主よ、どうぞ、憐れんで力を与えてください」と御霊に従う。聖霊の導かれる所に私たちが「従います」と、謙遜になっていくとき、神様は私たちをして素晴らしい力をもって主の栄光をあらわす御業を明らかにしてくださるのです。その秘けつは神の御霊に導かれて行くことです。だから大きいことも小さなことも、どんなことも、そこで神様が何とおっしゃるか、聴こうではありませんか。これが秘けつです。「神様、今このことがありますが、どうしたらいいでしょうか」。朝起きてから夜寝るまでです。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな」(マタイ 6:31)とおっしゃるでしょう。「わたしに聞きなさい」と言われる。そうやっていつも私たちが御霊に聞いて、満たされることが大切です。「どうしようか?」と思ったら、主に聞くのです。それが神の子ですから。神の御霊に導かれている者です。
何があっても神の子ですから、御霊の導きに従う。初めての方でもいいのです。初めてだろうと何十年来の人であろうと神様の前には一つですから、どうぞ、お祈りをなさってください。神様に呼び掛けてください。「神の霊が私たちに注がれている」とありますから、それを信じて「神様、私はこの心配があります。どうしたらいいでしょうか」とお祈りをすると、今まで自分の思わなかったことを神様がちゃんと教えてくださるのです。そして私たちに安心を与えてくださる。
神様のご目的は私たちが喜び、感謝し、輝いて生きることです。なぜならば「感謝が満ちあふれて、神の栄光となる」(Ⅱコリント 4:15)とあります。神様の栄光をあらわすのは、そんなに大それたことではない。私たちが喜んで感謝していることなのです。私たちはいつもニコニコ笑顔でおりたいと思うのです。いつも輝いていく秘けつは御霊に導かれて行くことです。
神様は私たちにそのように明るい喜びに満ちたバラ色の人生を備えてくださいます。この御言葉にあるように「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。どうぞ、この神の子としての生涯を歩む者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。