いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(390)「川の流れのように」

2014年11月22日 | 聖書からのメッセージ
 「ペテロの第一の手紙」5章6節から11節までを朗読。

 6節「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自(みずか)らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう」。

 5節には「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」とあります。神様は「高ぶる者」、高慢な者を退ける、受け入れることをなさらない。逆に「へりくだる者」、謙遜なる者に恵みを与えてくださると。これは神様から恵みを頂く大原則でありまして、例外はありません。神様はへりくだる者にこそ恵んでくださる御方でありまして、高ぶる者に恵んでくださる御方ではない。

よく言われますように、恵みとは、高い所から低い所に注がれるものです。神様は高い所に居給う御方、だから、私どもが低くなると、まるで水が上流のほうから下流へ流れるようなものです。下流から上にはいかない。そのように神様の恵みも、神様のほうから私たちのほうへ注がれてくるものであります。ですから、私たちが下に受け皿を持ってくれば入ります。水道でも、蛇口をひねると水は下に落ちてきますから、その下に手を添えるとたまります。ところが、蛇口より上に手を上げていると、いくらやっても水が入らないのは当たり前であります。神様からの恵みを頂きたいと思うのでしたら、神様の前に自分を低く置くことです。これしかないのであります。ところが、私どもは案外気がつかないうちに神様よりも自分を高くしている。まるで神様がいないかのごとく振る舞う。あるいは、たとえいらっしゃると信じても、まるで召使か、あるいは僕(しもべ)であるかのように思っている。それは、まさに高慢なる者、心高ぶる者、思いの高ぶった者であることに他なりません。

 「イザヤ書」40章12節から19節までを朗読。

 18節に「それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか」といわれています。あなた方はいったい神様を何と比べようとしているのか、どんなものだと思っているのか? と問われているのです。12節以下には、神様がいかに大いなる御方でいらっしゃるか、いかに力に満ちた御方であるかが語られています。海をはかり、また地のちりを枡(ます)に盛っててんびんで計るという、そんなとても大きな神様の前に人はいったい何者なのか? ここがいつも私たちに問われる問題です。ところが、私たちは気がつかないうちにだんだんと人の力で、人の業で、自分の計画、自分の知恵で何か事が進んでいるかのように思い上がる。神様を無き者にしてしまう。あるいは、もっと低い者に変えてしまう。だからといって、人が何でもできるかというと、できないことだらけですから、勢い、“苦しい時の神頼み”で自分の都合のいい時だけ、利用できる時だけ神様に求めることになります。それでは本当にへりくだった者、砕けた者とは言えない。神様を神様として尊び、敬うことがなければ神様からの恵みを頂くことはできません。だから、18節に「それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか」と言われる。ましてや、神様を銅像だとか、木像だとか、いろいろな物に刻んで「これが神だ」と言うようになってしまったら、これほど神様を虚仮(こけ)にするといいますか、力なき者、あるいは、むなしい者に変えてしまっていると言うしかありせん。私たちはどんなことがあっても、神様よりも低い者であり、造られた被造物にすぎない。神様は造り主でいらっしゃるという関係を決して忘れてはならないどころか、神様から恵みを頂く大原則であり、またそれ以外にないのであります。

 「詩篇」8篇3、4節を朗読。

 この表題には「ダビデの歌」と記されています。イスラエル王国の二代目の王となったダビデでありますが、彼は常に神様の前に自分を低い者、小さな者、取るに足らない者であると認めていました。ですから、ダビデは神様によらなければ何にもできない、一歩も半歩も動けない自分であることを常に言い表し、そのように神様の前に自分を置いていたのであります。4節に「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧(かえり)みられるのですか」と。これは神様が何と大きな恵みをもって顧みてくださっているかと思い返すとき、そのような恵みを受ける値打や価値がどこにあるだろうか? そういう驚きを、感謝をこめて歌ったものではないかと思います。「人な何者なので」、人というものが神様にとってどういう値打があり、価値があり、大切な者なのでしょうか? しかも「み心にとめてくださる」、神様が心を注いでくださる。こんな驚くべきことはないではないか。誠にそのとおりであります。神様にとって私たちは何の価値もない、値打もない、それどころか、邪魔であり、また神様の名を汚すような者でしかありません。そういう者になお今日も目を留めてくださっている。3節に「あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います」とあります。神様が森羅万象(しんらばんしょう)、ありとあらゆる一切のものを創造して、その中に人を造り、人を顧み、生きるための全ての必要な命と力と、着る物も食べる物もことごとくを神様は与えてくださっておられる。私どもはそれに感謝をしないどころか、不足を言い、つぶやくことばかりです。それでは神様の恵みを受けることができません。ダビデは「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧(かえり)みられるのですか」と神様の恵みに深く感動し、感謝しています。神様が目を留めてくださり、心を向けて、今日も全ての必要を備えて生きる者としてくださっている。私たちはこれを忘れてはならないし、常に神様の前に自分を低くすることです。これは、恵みにあずかる大原則、ルールであります。

 「ペテロの第一の手紙」5章6節に「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」。この御言葉は私どもがよく聞く御言葉でありますが、ここに「神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」とあります。謙遜(けんそん)になれ、「へりくだる者に恵みを賜う」と、誰に対してへりくだるのか? 神様に対して自らを低くする。「自らを低くする」とは具体的にどうすることなのか?「神の力強い御手の下に」なんて言うと、分かったようで、どうも分からない。「神様の御手はどこだろうか」と、そんな話になってしまいますが、これは美しい文学的な表現、比喩(ひゆ)的な言い方でありますから、「手」というのは、自分の手よりもっと大きな手があるという話ではありません。「神様の力強い御手の下に」というのは、神様の力を信じる。神様がオールマイティーでいらっしゃると認めることです。

 マリヤさんが、御使いガブリエルから「恵まれた女よ」と言われて、受胎告知をされました。そのときマリヤさんにとっては、決してうれしい話ではありません。それどころか、彼女にとってはとんでもない大災難です。悲しみの極(きわ)み、不幸のどん底にたたき落とされたような事態だったのです。だから「どうして、そんな事があり得ましょうか」と、彼女は恐らく何度となく拒んだと思います。「そんなことは嫌です」と言い続けたのです。その最後に御使いが「神には、なんでもできないことはありません」と言われたでしょう。まさにこれが「神の力強い御手」です。「神には、なんでもできないことはありません」、それを聞いたとき、マリヤさんは「わたしは主のはしためです」と、へりくだりました。これがまさに「神の力強い御手の下に、自らを低くする」ことです。マリヤさんは神様の大能の下に自分をはしためとして、僕として、低き者として置いたのです。これが恵みにあずかる大原則です。

 「水戸黄門」という長寿番組がありますが、必ず話の最後に「この紋所が目に入らぬか!」と言うでしょう。そこでみんな「は、はー」と、悪代官も、また善良な民も一斉にひれ伏すでしょう。あれが実は「神の力強い御手の下に、自らを低くする」ことです。「この紋所が目に入らぬか!」と、神様はおっしゃるのです。私どもがいろいろな問題に当たって、それが見えないから七転八倒しているのです。だから、マリヤさんに対して神様は「この紋所が」とは言いませんが、その代わり「神には、なんでもできないことはありません」と宣言したのです。それを聞いてマリヤさんは「あぁ、わたしは主のはしためです」、「は、はー」と、そこにひれ伏したのです。それが大きな恵みなのです。そこから彼女の人生が大転換して行くのです。その後、彼女は大変な喜びに満たされました。だからといって、受胎告知が取り消しになったわけではありません。自分が受けなければならない事態は一向に変わらない。問題はまったく変わらないけれども、自分の思いが変わってきます。神様の恵みはそこにあるのです。そして、その中でマリヤさんは喜びに満ちあふれるのです。感謝・賛美に変わって行きます。つい先ほどまでは、嘆いて、悲しんで、自分の不幸を悔んでいた彼女です。何をして彼女がそのように変わることができたか? それは、紋所を見たからでしょう。「神には、なんでもできないことはありません」「ああ、そうでした。これもあれも、私を含めてこれは神様がここに置いてくださったこの事態は、この事柄は神様が起こしておられることです」と。これを私たちが認めることが「へりくだる」ことです。だから、私どもはへりくだるのに時間が掛ります。何とか逃げよう、逃げようとして、あちらにこちらにと無駄な抵抗をするものですから、神様はいつまでも待っておられる。マリヤさんもすんなりと「あ、そうでしたか。はい、分かりました」と言えば良かったのですが、なかなか言えなかったのです。だから、「ルカによる福音書」の記事は短いスペースに書かれているので、まるで一瞬に事が進んで行ったように思いますが、決してそうではなかったと思います。恐らく一ヶ月か二ヶ月か三ヶ月か知りませんが、しばらくの間悶々(もんもん)と悩み続けたに違いない。その度に繰り返し、繰り返し御使いが彼女に語りかけてくれる。けれども、心は変わらない。まだ変わらない。しかし、最後の最後に彼女は降参したのです。神様の力強い御手の下に自分を低くしたのです。そのときに彼女の心が喜びに満たされ、神様の恵みが注がれたのです。だから、神様からの恵みというと、私たちはつい目に見える物を期待します。病気が治るとか、問題が解決するとか、手品師がハンカチをはとに変えるごとく、目の前の苦しいつらい嫌な問題がパッと一瞬にして「あ、夢だった」となりたい、それこそが恵みだ、と思いますが、そうではない。いや、もちろんそういうことも神様は成し得たもう御方です。福音書の記事を読みますと、一瞬にして病の人が癒され、足のなえた人が立ち上がって……、という話もありますし、三十何年も寝たきりの人が床を取り上げて歩きだした、瞬時にして癒されることはもちろんあります。しかし、上手い具合に願うようにかなうように、思うように事が行くことを神様はしてあげよう、というのではなくて、私たちが神様の前にへりくだった者となることによって、神を神として尊び敬い、神様のご支配の中に、御手の中に私たちがすっかりとはまり込んでしまうこと。このことを求めておられる。それを願っておられるのです。というのは、私たちが神様の御手に握られ、神様のご支配の中に自分が置かれることこそが、私たちのいちばん幸せなことであります。その事を神様はよく知っていらっしゃるのです。神様は私たちの造り主ですから、私たちのどんな状態が最も人としてふさわしいか、神様の作品に似つかわしい状態であるかを神様はよくご存じです。それは私たちが神様と交わりを持つ関係、エデンの園での祝福と恵みに満ちた神様との交わりに私たちが立ち返ること、回復すること、これに尽きるのです。ところが、私どもは、神様が与えようとしてくださる大きな恵みよりも、どちらかというと、目の前の、目先のあれが良くなった、これがこうなった、ということだけを一生懸命に追い求めます。それでは、神様の御思いから離れてしまうのです。ですから、神様は繰り返し、繰り返しいろいろなことを起こして、私たちをご自分の所に引き返らせようとしてくださるのです。

 だから、6節にありますように「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」と。これは私たちが絶えず心に問いかけて行くべき事柄であります。私たちがいま誰の力によって立っているのか、誰がこのことの主でいらっしゃるのか、そしてその御方はオールマイティー、できないことのない御方、「神には、なんでもできないことはありません」と、このことにいつも思いを向けて行く。これが、私たちが恵みにあずかる秘けつであります。

 「エレミヤ書」32章26節から30節までを朗読。

 27節に「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」。これはエレミヤに対して、ご自分をあらわしてくださった言葉でありますけれども、このときはどんな時であったかというと、イスラエル、ユダの国が風前のともし火で、国が消滅しようとしていたのです。神様の民でありながら神様に従わず様々な偶像に仕えるようになってしまって、神様はいったんこの民を清算するといいますか、きれいに造り変えることを決めました。そのためにバビロンという大国を起こして、この国を攻めさせたのです。だから、バビロンという国は神様の道具だと聖書には語られています。神様がイスラエルを打つためのむちとして使われたのです。ですから、このバビロンとの戦いは負け戦です、初めから。神様は、戦うな、とおっしゃったのです。それどころか、早く降参してバビロンに連れて行かれなさい、捕虜になりなさいと。ところが、イスラエルの民にとってそれは屈辱(くつじょく)的でありますから、到底受け入れられない。しかし、神様は必ずあなた方を放っておかない、70年たったらもう一度この国を新しく造り直してそこにあなたがたを移してくださる、と約束してくださいました。このことを預言者エレミヤはイスラエルの人々に語ったのです。でも、70年先の話をどうして信じられますか。いま目の前に国が滅亡しようとしている。これがやがて70年後にはバビロンの国から独立して、解放されて自分たちの国が出来るなんて、そんな夢物語ですから、「そんな馬鹿な話があるか」というのが、イスラエルの人々の思ったことです。だから、民はエレミヤを非難する。エレミヤもだんだんと心が揺らいで、「神様はそんな事を言うけれども、本当にそうなるのかな」と疑問に思う。そのとき神様は「お前がまず率先垂範(すいはん)、模範を示せ」と言われた。「そのために、あなたはいとこのハナメルという人から土地を買え」と言われたのです。国が滅亡しそうですから、皆自分たちの土地を投げ売りといいますか、早く手放して逃げ出そうとしている。だから、いくらでも土地は買うことができるのです。今から敵の手に渡る土地なんて買う人はいないでしょう。でも、神様はお前が買っておきなさい。70年後にその土地はたくさんの人から羨(うらや)ましがられ、欲しがられる土地になるからと。いうならば、先行投資です。神様は大した投資家だと思うのですが、そう言って勧めたのです。エレミヤはそんなことを言われても信じられません。なけなしのへそくりを使ってそんな役にも立たない土地を買ってどうする?そのうちバビロンに取られてしまって、自分のものではなくなってしまう。だから、彼としてはどうもふに落ちない。しかし、預言者ですから、従わないわけにはいかないから、契約をして土地売買をし、証人を立てて、その売買証書を手に入れたのです。しかし、エレミヤは「これで自分は70年後にこの土地を売って大もうけするぞ」とは思えなかったのです。一応その売買の手続きは全部成立して終わりました。そのとき彼は神様に祈ったのです。

 「エレミヤ書」32章16節から18節までを朗読。

 彼は事が終わった後、お祈りをいたしました。「そうでした。神様、これはあなたがしてくださったこと。あなたにできないことはありません」と。「天も地もお造りになって、そして、いつくしみを施し、父の罪を報いる公平な裁きを成し給う御方、義なる御方でいらっしゃる」。「あなたは全能の神でいらせられ」と18節にあります。「あなたはオールマイティー、どんなことでもおできになります。その名は万軍の主と申されます」と。立派な信仰ではありませんか。エレミヤはこんな信仰を持っているから余程喜んだかと思いきや、これはあくまでも建て前でありまして、そういう神様ではあるけれども「でも、大丈夫かいな」と、そのことが最後の所に記されています。

 同章24,25節を朗読。

 このすぐ前までは、エレミヤは非常に格好のいいお祈りをしたのです。「神様、あなたは全能の神です。どんなことでもおできになります。ご覧のとおりこうなりました」と。25節に「主なる神よ、あなたはわたしに言われました、『銀をもって畑を買い、証人を立てよ』と」、ここまでは神様に従ったのです。でも本心を言うと「そうであるのに、どうしてやろう。町はカルデヤ人、敵に取られ、私のお金は無駄になりそうだ」と。明らかにエレミヤは内心忸怩(じくじ)たるものがあるのです。ところが、神様はエレミヤのその心をちゃんと見抜いていらっしゃる。そして、言われたのが27節に「見よ、わたしは主である、全て命ある者の神である」。「わたしは主である」と、「どんなことでも全てのものはわたしによって事が進んでいるのだ」とおっしゃるのです。そして「命ある者の神」、全て生きとし生けるものの神でいらっしゃる。「わたしにできないことがあろうか」と。「神には、なんでもできないことはありません」。御使いガブリエルが語ったことと同じであります。彼は一応頭では理解はしていたのです。「全能の神でいらっしゃる。どんなことでもおできになる御方です」とは思ったが、目の前に現実が進んで行く。そして、自分の手に持っているものが減って行くのですから、こんな危うい気持ち、不安な思いはなかった。その不安を打ち破って神様を信じて立つ。ここがエレミヤを訓練するための神様の大きな試練、神様の御愛の御業でもあるわけです。だから、イスラエルの民に対して神様がなそうとすることは確かに大きなご目的が一つあるのですが、その事柄の中で一人一人を訓練して清めようとしているのです。だから、エレミヤは神様に仕えてどこにも非の打ち所のない預言者かというと、そうではなくて、彼もイスラエルに対する神様のなさりようの中で、神様のわざの中で彼自身も信仰を問われ、その思いを練り清められて行くのです。彼も成長して行くことでもあったのです。このとき、エレミヤがそうやって神様には言いにくい不安を抱えておったとき、神様のほうから「わたしにできない事があろうか」。「神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」、本当に神様を信じなさいと勧められました。これに尽きるのです。神様はいつもこの事を私たちに求められるのです。いろいろなことが起こるとき、ああしようか、こうしようか、どうなるだろうか、ああなるだろうか、右往左往する。そうではなくて、そこで早く「この印籠が目に入らぬか!」と言われるから、「は、はー、そうでしたか。全能者でいらっしゃる神様、できないことのない御方です」と、神様の手によっていま事が一つ一つ進められているのだと信じて行く。そして、早く神様の前に降参することです。

 「イザヤ書」30章15節から18節までを朗読。

 これもまた皆さん、良くご存じの聖書の記事でありますが、15節に「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。まさにこれこそが「神の力強い御手の下に、自らを低くする」ことです。「神には、なんでもできないことはありません」。「ああ、そうでした。わたしは主のはしためです」と、マリヤさんが言ったのは、まさに「主に立ち返って、落ち着いて、穏やかにして信頼した」のです。へりくだるとはそこです。ところが「あなたがたはこの事を好まなかった」とあるように、私どもはそこに行き着くまでに七転八倒するのです。無駄な抵抗は早くやめましょう。ああやないやろうか。こうなったらどうしようか。ああしたらこうなるに違いない。これはこうしかなりようがない。きっとこうに違いないとか、いろいろなことで悶々(もんもん)と悩むことは神様の前に罪を犯すことに他なりません。神様がいらっしゃるのにそれをないがしろにしている結果でありますから。神様が「思い煩ってはならない」とか「心を騒がすな」とおっしゃるのは、神様を私たちが捨ててしまうからなのです。私どもは神様を捨てたつもりはありません、神様をないがしろに軽んじたつもりはありません。自分は心配だから心配している、と思いますが、まさに神様を信じないから思い煩いが際限なく、無くならないのです。どんなときにでも、まず「強い御手の下に、自らを低くして」。そうなるまで神様は待っておられるのです。18節に「それゆえ、主は待っていて」と言われます。神様は私たちを恵みたくてたまらないのであります。だから、早くその恵みを受ける体制が整うことを待っておられるのです。私たちが「神様、本当にそうでした。あなたはどんなことでもおできになります」と、そこに早く立ち返って行く。

 ヨブもそうです。ヨブが神様から大変な試練を受けまして、持ち物も失い、財産も失い、また奥さんも家族もいなくなって、自分の健康も失って苦しみの中におりました。その時でも、どうしてなのだろうか、と悶々として、なかなか神様の前に自分を低くできなかった。ついに神様がヨブに問われました。「お前はどうしてだ、何で、と言うけれども、じゃ、お前は何もかも知っているのか」「あれはどうだ、これはどうだ」と次から次へと質問をされました。そのとき、ヨブは何にも答えられない。「ただ手を口に当てるのみです」(ヨブ記40:4)。「僕(しもべ)は愚かなことを申しました」と。それでも神様は手を緩(ゆる)めないで次々と質問をする。彼はとうとう神様に降参したのです。「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」(ヨブ 42:2 )と言ったのです。いうならば、オールマイティー、「神には、なんでもできないことはありません。いま自分が受けているこの悩みも神様、あなたが与えられているのでしたら、何にも文句を言うことはありません」と、そこに行くまでヨブは苦しみ続けるのです。

 皆さんも第二のヨブにならないで、早く神様の大能の手の下に自らを低くする。そして、ヨブが「私は誠に愚かな者、知恵のない者、悟りの鈍い者であります」と言って、神様の前に低くなったとき、神様はヨブをして豊かに恵んでくださった。祝福を与えてくださった。私たちに求められることは、私たちが大能の御手の下に自らを低くしていくことです。

 「ペテロの第一の手紙」5章6節に戻りますが、「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう」。ここに「時が来れば」というこのひと言が大切です。神様が全ての時を握っておられる。「伝道の書」に「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(3:11)とあります。この「神の時」があるのです。だから、マリヤさんがエリサベツさんの所へ来たときに「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」(ルカ 1:45)。またザカリヤさんに御使いが「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから」(ルカ 1:20)と言ったのです。一つ一つ神様の主権、神様のスケジュールが必ずあるのだから、それを信じなさいと。私たちは自分のスケジュールを立てて、「神様、このときこうなっていますから、こうしてください。ああしてください」と要求しますが、私たちは僕でありますから、神様のスケジュールに従うのです。自分のスケジュールはないのであります。「時が来れば」と、その時までしっかり主の御前に自らを低くして、主の御業を待ち望んで行きたい。「時が満ちて」とあるように、神様はそのとき時に応じて必要なことをきちっと全うしてくださる御方であります。

 どうぞ、神様の力、全能の力を徹底して信じて、そこに安らいで行きたいと思う。神様の大能の手の下に自分を低くして、主の時、主が備えてくださる時を、報いてくださるその時を待ち望んで行きたい。高くしてくださるとは、そういうことでしょう。神様が答えてくださる、報いてくださる時を信じて待ち望んで行きたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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