いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(471)「主にある自立」

2015年02月15日 | 聖書からのメッセージ
「詩篇」46篇1節から11節までを朗読。

1節「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。

このお言葉のとおりに私どもは本当に神様を心から信頼し、それを力とし、その神様を避け所とし、住まいとする、これが最高の恵み、神様に造られた人として生きる最高の生き方であると思うのです。

3月11日は私たちにとって忘れられない大きな出来事の日でありました。昨年、ちょうど1年になりますが、東日本大震災、それに続いての原子力発電所の事故と、これまで私たちの経験したことのない大きな災害に遭ったわけです。この出来事を通して恐らく日本中、世界中の人々がいろいろと考えさせられ、思わされることが多々あっただろうと思います。中には「こんなになったら大変だから、今の内に何か蓄えておかなければ……、非常食を用意しておこうか」とか、「水を早く確保しておこうか」という話になるかもしれない。あるいは「防災用具を用意しよう」とか、「今までやっていたことよりも、もっとあのことを、このことを」と、災害に強い町造りをしようとか、あるいは個人的にもそういうことが起こった時に、家庭で「ああしよう」「こうしよう」と、恐らく皆がそういう反省を含め、いろいろなことを考えさせる出来事でした。皆さんもそういうことを考えられたに違いないと思います。「あんなことが起こったら、私の場合どうなるだろうか」、「昼間だったらいいけれども、夜中だったらどうなるだろうか」、「玄海原発があのようになってしまったら、北九州まで放射能が来るかしら、50kmを超えているから、まぁ良いか」とか、いろいろなことを考えます。一つの出来事を通してそれぞれに神様が教えようとしてくださること、あるいは、何かそこで語っておられることがあるに違いないのは事実であります。それはそれぞれ一人一人に違う内容であると思います。一概にこういうことを神様は語っているのだというわけにはいきません。

私自身もいろいろなことを考えさせられますが、今度のことを通して私自身がいちばん教えられることの一つは、幾つかある中の一つですけれども、それは人が何を頼りに生きるのか、ということです。家が流され、生活の場が失われます。そして救援物資を頼りに生きることになります。避難所生活、それから仮設住宅での生活という事態に陥って行きます。なるほど食べる物、三度三度のおにぎりや炊き出しをしてもらったりすることによって生活を上手くやって行く。あるいは避難所に入り、また仮設住宅に入って雨露をしのいで、取りあえずその時期を過ごす。こういうことは確かに必要なことでありますし、またそれを用意しておくということは大切なことかもしれません。ところが、いろいろなニュースや報道を見ておりましたときに、もう一つ教えられることは、確かに食べたり飲んだりする、いうならば、パンが必要である。生活を支えるために必要な物が確かにありますが、もう一つは心の問題です。そういう災難に遭う、あるいは被害に遭う。失う物がたくさんあるその中で生きる力、それは一人一人の内なるもの、広く分かりやすく言うならば、精神力であります。というのは、『絆(きずな)』という言葉が昨年大いに流行(はや)りまして、普段聞いたことのない言葉で「いったい絆って何や」と思いますが、助けあうとか、人と人とが支え合うという意味でしょう。それを求める結果、人が自立することができない。何か人に甘えるといいますか、甘えるというと語弊(ごへい)があるかもしれませんが、誰かにしてもらわなければできない。誰かにそこにいてほしい。それは物が不足しているからそれを補ってくれる人というばかりでなくて、慰めてほしいとか、励ましてほしいとか、ああしてほしい、こうしてほしいと求める。そういう様子を見ながら、本当に人が生きていくには、何が大切なのか?

 イエス様が荒野の試みをお受けになったときに「人の生くるはパンのみに由るにあらず」とおっしゃいました。「の口より出(い)づる凡ての言(ことば)に由る」と(マタイ4:4文語訳)。本当に生きるということがどういうことなのか?が問われた事態であります。人々の普段何気なく生活している、当たり前であった生活の場が壊れてしまう。それが失われてしまう。そうするととにかく住む場所、食べる物、着る物、そういう物が優先されるから、それで人が生きるかのように思いますが、避難所が与えられ、食べる物が与えられても、何かそれで満たされないのです。
多くの人の意見を聞いているとそのようです。感謝ができない、喜べない、まだ不足している。それを自分の心の弱さといいますか、より所が失われているゆえに、それを物で補おうとするのです。本人は気づいていない。多くの人々は自分がそのように心が空洞化してしまっている、萎(な)えていることに気づかないがゆえに、その埋め合わせを人に求める。あるいは、支援物資やいろいろな物をもらうのは良いのだけれども、まだ足りない、これは思いどおりに行かない。あれもしてくれていいじゃないか。自分たちはこんな被害者なのだ。同情されて当然だ、という広い意味での甘えの構造、そういう中に落ち込んでしまう。そういう姿を見ながら、日本人の広くはそうなのだろうと思うのです。生きることに対する自分自身の力が欠けている。いうならば、一人一人が人として自立する。自分で立つことです。それは別に援助を請わないとか必要としないという意味ではありません。いろいろな人から助けられたとしても、それは物質的なことであります。食べること、飲むこと、着ること、あるいは生活の場、そういうものを公の団体や機関が用意するでしょう。ところが、その備えられた物を本当に感謝ができる、それはもちろん限られたもの、十全なもの、思いどおり豊かにあふれるばかりというわけではない。必要最小限の物資や物しか届かないに違いないけれども、その中で感謝することができる、あるいは、与えられ備えられたものをもって自分自身が充足する心。パウロがそう言っているように「足るを知る」ことです(Ⅰテモテ 6:6)。自らが「今この時期、これだけのものがあったら、これで私は十分です」と言える精神力といいますか、力です。これが多くの人々に欠けているのではないか。これからだっていろいろな災難とか災いといわれるものはいくらでもあります。それは外側から来た大地震であるとか、大津波であるとか、あるいは山崩れだとか、大洪水であるとか、そういう天変地変ばかりでなくて、もっと身近な私たちの生活の場にあってもそうだと思います。思い掛けない事態や事柄に当たったとき、誰かが何かをしてくれやしないだろうか。自分のこういう哀れな状態をなぜみんなが同情してくれないのだろうか、と人により掛ろうとする思い。実は私たちが普段何をよりどころにしているかが、もろに現れるのです。東日本の大震災などを見ていると、生活の場が全部失われます。着る物も食べるものもなくなり、住む場所もなくなる。普段それを頼りにしている人にとっては、生きる術(すべ)がないのです。より所がなくなります。そういう意味で、人が何を生きる支えにしているかがもろに出てきた出来事だと思います。

それは他人事(ひとごと)としてではなくて、翻(ひるがえ)っていま私たちは幸い憐れみを受けてそういう災害に遭わないで生活させていただいていますが、私たちももう一度そのことを考えなければいけない。自分は何を大切なより所としているだろうか。というのは、人は何かに頼らなければ生きられないように神様が造っておられるのです。人が人に頼ってみたり、物を自分のより所としてみたり、地位や名誉、世間では様々なものをもって自分の力とし、それにすがって立とうとしています。しかし、それが失われるときが必ず来ます。普段の生活の中で、健康第一にしている人は健康を失ってしまう。あるいは、家族を第一にしていても、家族がそれぞれ自立して行って外に出てしまう。あるいは主人を頼りにしていたら、突然召されてしまう。「自分にはこれだけの蓄えがある」と、経済力を頼りにしていると、今のように時代が変われば一気に価値がなくなったりします。「では、私はいったい何が私の力であり、そういう中でいちばん身近な私のより所はどこにあるか? 」をはっきりさせるべき時が今ではないかと思うのです。

 いま読みました詩篇46章1節に、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」とあります。ここで「私のより所、避け所、力の源は人ではない、事情や境遇、問題、事柄でもない、周囲の生活の条件によるのでもない。私の避け所、また力は神様、あなたです」と言い得る。これが本当の意味の人の自立です。これがないものですから日本の社会にそういう問題が起こったときにすっきり潔い解決が得られない。「復興」「復興」と言いながら1年たっても、はかばかしくない。11日を挟(はさ)んでテレビは盛んにいろいろな報道をしています。それを見ていると、「あれをしてくれ」「これをしてくれ」「こうもしてくれ」と要求ばかりです。「いま与えられているその中での自分たちが成し得ることは何なのだろうか」という話はあまり出てこない。もっとも報道は偏(かたよ)りますから、声の大きい人ほど報道されますから、そういう要望が多く聞かれるのだろうと思いますが、問題はそこにある人たちが何に頼って生きて来たか? の証です。私たちにいま神様が求めておられるのは「あなたは何によって生きているのか? 何を自分の力としているのか? 何か事が起こったときにいちばん身近なもの、これがあるから、と言えるものはいったい何なのか? 」と問われているのです。

 1節に「神はわれらの避け所また力である」。神様こそが私の避け所、この神様の所に私は逃げ込むことができる。また力を神様は私に与えてくださる。これを信じていくことです。これは誰に頼るわけでもない、人に頼るわけでもない。これが私たちの人生を貫いて徹底して行かなければならない大切なことであると、もう一度教えられるわけです。ともすると、あの人、この人、この問題、この事柄がと、そこに力を求め、慰めを求め、また助けを求めようとします。しかし、それでは本当に助けにならない。自分がみじめになって行くだけのことです。

 ですから、2節に「このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中(まなか)に移るとも、われらは恐れない」と。「このゆえに」というのは、神様を避け所とし、自分の力とし、またいと近い助けとして信頼しているからこそ、「地は変り、山は海の真中(まなか)に移るとも」、まさに大津波です、あるいは大洪水、地震です。3節に「たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない」。津波が押し寄せて来る映像を見ていますと、山が海の真中(まなか)に移る。それどころか、水が鳴りとどろいて壁のように押し寄せて来る。10メートルを超える高さですから、大きなビルがそのままに押し寄せて来るような波。そのような中にあっても「われらは恐れない」と、恐れがない。これは素晴らしい強い生き方です。私たちはそういうものを見るとすぐに恐れます。それは自分の頼るものが頼りないからです。この家があるからとか、あれがあるからと、事情や境遇、事柄に頼っていますが、そんなものはすぐに、それこそ何かが来たら一瞬にしてついえて行きます。壊れてしまう、失われてしまう。そのとき「いったい私はどこに立っているのだろう? 」と思っている。イエス様がたとえておられえるように……。

 「マタイによる福音書」7章24節から27節までを朗読。

 イエス様が洪水にたとえて、嵐の中にあってどこに土台を置いているか? と問われます。「砂の上」これはまさに頼りない……、昨年の大地震の結果、東京湾周辺の埋め立て地で「液状化現象」というものがあった。浦安という高級住宅街です。土地を区画して分譲したでしょう。一つの家が何千万円とする。その当時、出来た頃は皆「浦安に住みたい」「住みたい」と、人気の場所です。最先端のモダンな住宅街でありました。ところがどうですか? 大地が揺れただけで地面が全部液状化して泥水状になってしまった。それで家は傾く、道はひん曲がる。とんでもない姿になりました。昨日もある方と話していたら、その土地を動かない土地にするには1軒分だけでも何百万円という土地の改良費がいる。だからといって、自分の土地だけかっちりと固めてみても道路がひん曲がったり、他の家が崩れたりしていますから、まず町全体がきちんとならなければいけない。ところが、何百軒とある町内全部を地盤改良などは、とんでもない話です。見た目は埋め立ててきれいな街並みになったかもしれないけれども、いかんせんそこは砂地と同じで、持って来た土を置いているだけですから、ちょっと揺れたら一気に流れ出てしまいます。

 まさにこの言葉のとおりであります。26節に「わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう」。「愚かな人」ですよ。じゃ、我が家はどうかと、皆さん急いで帰って、自分の家の土台を調べる、「それをしなさい」と言っているのではないのです。ここには「これらの言葉を聞いても行わない者」と、「これらの言葉」とは誰の言葉かと? イエス様のお言葉です。神様のお言葉、聖書のお言葉を聞いて、ただ聞きっ放しでそれを行おうとしないならば、砂の上の家です。お言葉に自分を懸けて実行する。これをしないかぎり、その人は砂の上に家を立てたようにもろく、何か事があるとすぐに崩れていってしまう。それに対して24節に「これらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」と。イエス様のお言葉を信じて、お言葉に自分を委ねていく。これが「神を避け所とし、その力とする」ことです。

神様をよりどころにするのはどうすることか? それは御言葉を信じて、御言葉に自分の心を委ね、お言葉によって励ましを受け、力を受け、慰めを受け、そして望みを与えられることに他なりません。日々の生活の中で「目に見える問題や事柄が思うようになった。順調になった。私の願いがかなった、だから、安心」と言っている間は駄目です。そうではなくて「主がいま私にこの御言葉によって慰めてくださる、望みを与えてくださる、私の力はこのお言葉に立つ以外にない」と、そのお言葉を握って行くとき、御言葉がその人の大きな力になるのです。だから、私たちの避け所、より所をどこに置くか?

「マタイによる福音書」24章32節から36節までを朗読。

これはイエス様の所に弟子たちが「世の終わりのときどんな前兆が現れるか」を聞きに来ました。そのときにイエス様は、いろいろな天変地変が起こる。あるいは戦争のうわさを聞く。あるいは飢きんや様々な事が起こる。あるいはにせキリストが現れてくる。あるいは、人の心が冷えてしまって愛がなく、争いが絶えなくなる、と語っておられる。でも、これはまだ終わりではない。終りの始まりである、とおっしゃいました。ただ、終わりが必ず来ることは、間違いがない。それで32節に「いちじくの木」から、「その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」と前触れがあると言われます。私たちはいろいろな事によって前兆を知ります。今もそうです。季節はだんだんと春が本番になって来ます。木々を見、木の芽を見ます。また日中の日差しの明るさを見て「春が来た」と感じ、このところ気持ちの良い陽気が続くと「もう春だ。もう冬が過ぎたな」ということを感じ取る。そういうように今の時代がどういう時代であるか知りなさい、というのです。確かに周囲を見ますと「世も末だな」と思う。「年をとったからかな」と思いますが、若い人もそのように思っているところもありますから、大変な時代です。だからといって「恐れることはいらない。まだ終わりではない」とおっしゃいます。しかし、だから“終わり”がないわけではなくて、34節以下に「よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。35 天地は滅びるであろう」と。だから天も地も全てのものが滅び消え去ってしまう時が来る。その中で残るのは何か? 「しかしわたしの言葉は滅びることがない」。神様のお言葉、イエス様のお言葉は決して失われることがない。変わることのないお言葉です。だから、そのお言葉に私たちがしっかりと根差して行く。まさに「岩の上に家を建てる」、これが私たちの力です。より所です。神様のお言葉を信じて、しっかりとそこに立って行きたいと思います。それが私たちの避け所であり、命であり、また御言葉を通して私たちに神様は御霊によって力を与えて、喜び、慰め、望みを与えてくださるのです。

私たちがこの地上の生涯を歩んで行く中で、確かに思い掛けない突然の大震災であるとか、何か大きな事件や事故などに出会うばかりでなく、だんだんといろいろなものを失って行きます。また生活が変わって行きます。そういう中にあっても揺るがない、ぶれない一つの生き様を貫いて行く。その秘けつは何といっても御言葉、「神はわれらの避け所また力である」。この御方を力として行く以外にありません。

お祈り頂いています家内の母は、気も弱くなったのだと思いますが、まだリハビリ病棟に入院をしています。それなりに安定した時期に入って、私どもは喜んでいます。先日見舞いに行きましたら「もう寂しくてたまらない」と、それで何とか教会に行こうと思ってタクシーを呼んだ。タクシーに乗ったのだけど、運転手さんが「場所が分からない」と言って、連れていってくれなかった。「和義さんが来てくれたら、私をあなたの所へ連れて行ってくれんかね」と言われる。「教会の隅っこで良いから私を寝かせてほしい」と。私は本当に胸が詰まる思いがしました。「寂しい」「寂しい」と言うのです。そう言われても、対処できない。次の日にまた家内が行きましたときも、家内にも「寂しい」、「寂しい。帰りたい」と言っても、もう家はありません。本人は「家に帰りたい」と言うのです。涙を流されますから、こちらも何とかしてあげたいと思うけれども、現実的にそれはなかなか難しい。というのは、足が完全に動きませんから、そして左側は半身麻ひしていますから、トイレだとかいろいろなことは全部介護してもらわなければならない。しかも、全く動かないので、義母の様子を見ていると、車椅子に移すだけでも二人掛かりです。おむつの取り換えや、お風呂に入れるにしても、そこの施設では機械浴というのがありまして、車椅子に乗ったままカプセルの中にスーッと入れるのです。お湯がカプセルの中を循環するのです。いわゆる人間の洗濯機のようなものがある。私も見てびっくりしましたが、終わるとパッと水を抜いて開けてやるとさっぱり入浴が終る。なかなか良いですね。でも個人の家にはそんなものはありませんから、車に乗せること自体が大変な労力が掛ります。また、寂しいという意味が、人がいないで寂しいのとは違うのです。3人ほどの病室でしょっちゅう介護の人や看護師の方々が声をかけてくれる。そして「阿部さんどうね? どこか痛い所がある? 何ともないね? 」と四六時中人が出入りしてくれています。人の交わりという意味においては、むしろ個人の家にいたら置きっ放しになったりします。また病院でも一人部屋に押し込まれたらおしまいですが、今はいろいろな方々が声掛けをしてくれる。そして、下(しも)のお世話から食事にはちゃんと3度3度車椅子に乗せて食道まで連れて行ってくれる。そしておやつの時間にもちゃんと連れて行ってくれる。1日のスケジュールを見ていると、人恋しいという意味での寂しさはないと思うのです。でも、やはり寂しいのです。私はそのことを思い返してみると、やはり自分の心の力、自分が何に頼っているのか。そのよりどころが欠けてしまう。いうならば、心が空洞になるのです。その寂しさは、どんなに家族がそばにいても満たすことができない。神様がより所になり、力になっていただく以外にないのです。

以前正野さんが、亡くなったお父さんの体が不自由になって入院しているときに訪問した証詞を『ぶどうの木』に書いています。だいぶ前のことです。正野さんが仕事の帰りにお父さんの所へ必ず寄られる。お父さんの場合は言葉が出なかったのですが、なんとか息子に訴えることがあった。いちばんこたえたのは、やはり「寂しい、家に帰りたい」でした。言葉にならない言葉でそのことを訴えるわけです。息子としてやはりつらかったのです。私はその気持ちがやっと分かりました。以前そのお証詞を読んだとき、「何とかならんものか」と思いました。しかし、それはそれぞれの家庭の事情もあります。また連れて帰ったから、それでその寂しさが消えるか、というと、それはありません。というのは、その人自身の心の自立の問題なのです。何を自分の力としているか、慰めとしているか、喜びとしているか。正野さんのお証詞の中でお父さんに自宅へ帰れない理由を説明する。家族はそれぞれ忙しいし、働きもあるし、仕事もあるから、つらいだろうけれども、お父さん、ここにいて。それよりも何よりもお父さんが信仰に立ってくださいと御言葉を通して語りますが、なかなかそれが通じないと語っておられる。

まさにそれが正論と言いますか、それしか道がないのです。御言葉に立つ。やがて皆さん、みな同じ道を通るのですから、他人事ではない。しっかり心に置いて、自分が一人になったときにあわてないように。そばに人を置くことはいくらでも出来ます。それは可能です。ヘルパーさんに来てもらって話し相手になってもらう。しかし、だからといって、人はそれで本当の寂しさを埋めることができない。そのためには、私たちが健康で元気がある今のときに自分の本当のより所をきちっと心に据えていかなければならない。私は義母の様子を見ながら、「汝の少(わか)き日に汝の造り主を記(おぼ)えよ」と(伝道 12:1文語訳)のみ言葉を思いました。まさにここです。いま私どもに求められていることは、本当に生きることが何であるか、自分のよって立つべきより所がどこにあるかをしっかりと心に据えて、自立した者になっていくことです。

 「詩篇」46篇1節以下に、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。2 このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中(まなか)に移るとも、われらは恐れない。3 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。4 一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ」といわれています。「一つの川」、これは聖霊のことでありますが、「その流れは神の都を喜ばせ」、そこに神の力が私たちの内に注がれて「いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる」。私たちが神様の力により頼んで感謝、賛美、望みに輝いて生きるとき、神様は喜んでくださる。主の栄光が輝く場と変わって行くのです。5節に「神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる」。神がその中におられるのである。神様が私たちの内に宿って私たちの力となり、神の霊が私たちの中に流れて行くとき、神の都が喜びに変わっていく。まさに天の都と私たちの心がペアになって、私たちが喜ぶことによって天にも喜びが輝いてくるのです。

 私はそのことにつけても思い出すのは、繰り返しよくお証詞しますように、柴田シカ姉のことです。彼女は寝たきりになって言葉も言えない、耳も聞こえない、目も見えない。そしてベッドに休んでおられました。しかし、心はいつも神様と直結している。讃美歌を歌う、513番の賛美を歌うと、それに合わせて唇が動くのです。それで「詩篇」の23篇を朗読すると、それも一言ひとことそらんじていますから、言葉が出てきます。私はその輝くような御顔を見ていて、本当に主の臨在に覆われる、主の霊に満たされることがどんな大きな恵みであるか分からない。寂しいとか、苦しいとか、つらいとか、嘆くことはひと言もないのです。そして賛美を歌い終わってなお唇が動いている。「柴田さん、讃美歌が聞こえますか? 」まだ頭の中で歌が聞こえている。「イエス様が共におられるのですね」と問うと、そのとき天に向かって「十字架」「十字架」と手ぶりで示す。その光景は忘れられません。

 どうか皆さん、召されるときそういう者でありたいと思うのです。「苦しい、生きておきたい。まだ死にたくない」と「寂しい、悲しい。あんたどこへ行くね? 」と子供にすがらなくてもいいのです。どうぞ、上を見上げて、主を見上げて、永遠のいのちに向かって輝いて行く者となりたい。その秘けつは、まさに神様をよりどころとし、神様に信頼して行く。1節に「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。どんなことがあっても「私には神様がついておられる。その御方が私に御言葉によって慰めを与え、力を与え、望みを与えてくださる」。御言葉との交わりを絶えず欠かしてはならない。それが命であり、力です。そこにいつもより所を見出して行く。これがいま私たちに求められていることではないでしょうか。

 どうぞ、私たちはやがてそういう終りのときが来ます。いろいろな問題の中に置かれますが、いつも神様にしっかりとより頼んで揺るがない自立した人となって行きたいと思います。

 ご一緒にお祈りしましょう。


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