いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(166)「主の御旨を喜ぶ」

2014年04月12日 | 聖書からのメッセージ

ローマ人への手紙5章1節から5節までを朗読。

 

 5節「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。

 

 3節には「患難をも喜んでいる」と語っています。私たちが喜ぶときは、どういうときでしょうか。物事が順調であるとき、幸せと感じるとき、あるいは事が思いどおりに願いどおりにかなうときでしょう。先日もある所にまいりましたら、そこに七夕が用意されていました。そこへ来る人々が自分の願い事を書いて、その笹に差すという趣向だったのです。私はどんなことを書いているのかなぁ、と見ておりましたら、いろいろな願い事が書いてあります。ああなりたい、こうなりたいと。その中に「すべて私の思いどおりになるように」とありました。私は、それを読んでこれはすべての人の願いだと思いました。何でも自分の思いどおりになってほしいという、その人は非常に率直な人だと思いますね。私たちも内心はそのように思っている。ただ、現実に、いろいろな体験をしてきましたから、そうはいくまいという疑いがありますから、ストレートにはそのようには言えません。しかし、すべての人はどんなことでも自分の思いどおりになってくれたら、それが幸いだと、そうしたら喜べる、うれしいと思う。

ところが、人生は、必ずしも思いどおりに事がいかない。私は最近思うのですが、人生思いどおりにいかない、自分の思いどおりでないことこそ、実は神様がいらっしゃって備えられたことなのだと思います。もし自分の計画どおり、思いどおりに事が運ぶのだったら、神様はいらっしゃらない。人間が中心で、自分が神様です。私が思いどおりに、したいようにできるのだったら、神様などいらないわけです。必要としない。自分の人生で、自分のものであるように見えますが、実は、そうではなくて、創造者、造り主でいらっしゃる神様が、一人一人に与えてくださる人生、この地上の旅路がある。それがどのような旅路であるか、私たちには分からないのです。詩篇の139篇に語られているように、神様がすべてをご存じで、私たちを母の胎に造り、まだ生まれもしない先から、私たちの生涯、よわいの日々が全部神様の書に記されている。だから、私たちがいつ病気になり、いつ交通事故に遭い、家族の悩みに遭うか、これは神様が全部ご承知の上のこと。神様は一つ一つを備えておられるのですが、私たちはどうもそれは納得がいかない。自分の願いとはちょっと違うと思いますから、悩み、苦しむのです。私たちのいちばんの問題はそれです。だから患難はできるだけ避けたい、試練は喜びとしたくない。そんなものは喜べるはずがないと思っています。

 

しかし、3節には「それだけではなく、患難をも喜んでいる」。この「それだけではなく」の「それ」とは、2節の「神の栄光にあずかる希望」のことです。やがて地上の生涯が終わるとき、私たちはすべて神様の御許(もと)に帰り、神様は報いてくださる。私たちを永遠の命の生涯に具体的に引き入れてくださる。よみがえってくださった主イエス・キリストと共に住む住まいへ移してくださる。そこで黙示録に記されているように、白い衣を与えられ、四六時中神を賛美する礼拝の民として、新しい神の都に私たちを住まわしてくださる。そして私たちの目から涙をぬぐい取って慰め、神様の慈愛の中に置いてくださるという約束。だから、私たちの希望は本来そこにあります。私どもは、すぐ目先のこと、今目の前の事柄がこうなってほしいとか、ああなってほしいという、そのようなことを期待し、それに望みを置いて生きています。一つ問題が解決すると、ああ、これでよかった。ところが、次なる問題がまた出てくる。また希望を失い失望する。だから、言うならばその日暮らしのようなものです。

 

以前、知人で若い姉妹がいましたが、彼女はいつも不満なのです。何も望みがない。「若いのだからもっとはつらつとしたら」と言いますと、「だって何も楽しいことがない。望みが持てない」と言う。ある日、彼女がやって来まして、とてもニコニコして、ルンルンしているのです。「えらい元気があるね」と、「一つ希望ができた。来月の連休には神戸に出かけてショッピングをして、そしてホテルに泊まって、翌日は宝塚に行って自分の好きな宝塚歌劇の女優さんの舞台を見てくる」と。それでうれしくてニコニコしているのです。それまでは、うちへ来ても「つまんない、何かいいことはない?先生、何かいいことないの」と言う。「何もないよ。人生ってこういうものよ」、「た、い、く、つ」と。「それはそうだよ。人生は退屈なものだよ」とえらそうな事を言っていました。その計画が出来た後の彼女は、私の所に来るたび、うれしくてたまらない。こちらもついつられてうれしくなります。それまでしかめ面をして「ああ…」「あぁ…」とため息をついている。そんな人がそばに居てご覧なさい、こちらまで気がめいります。しかし、ニコニコしていると、元気になる。何を着て行こうか、何を持って行こうか、どこでどうしようか。綿密な計画を立てる。また、その計画がくるくる変わる。楽しんでいるのです。これをして、あれはやめておこう。こちらのほうがよさそうだ、あそこへ行こうか、ここに行こうか。そんな話に付き合わされるこちらもだいぶ閉口しましたが、やがて、出かける前の晩にやって来て、「先生、いよいよ明日から、楽しい!」「行っていらっしゃい」と励まして送り出す。一泊二日ぐらいで帰って来る。二、三日してやって来る。楽しかっただろうから、ご機嫌だろうと思いましたが、また前と同じでしょ気返っている。「どうしたの?この間の宝塚良かったでしょう? 」「別に…」と、「どうして? 楽しくなかったの? 」、「楽しかったけど、もう終わった」と。なるほど、それは過ぎたら終わる、終わったからもう楽しくないという。それからまた例のごとく「つまんない」「つまんない」と。私はいつも彼女のことを「行事追っかけ症候群」という病名をつけていました。常にイベントがないと明日が暮らせない。

 

皆さんもそのようなところがないでしょうか。カレンダーに「この日」、この日は一日朝から出かけるのだ。毎日毎日その日を指折り数えて、幼稚園の子供のようにそれを楽しみにし、それがある間は、だんだんとそれが近づくにつれて気持ちが高揚していって、何があっても、誰かから何を言われても、「あ、いいよ、いいよ」と言える。ところがその行事がいったん終わると次がない。そうなると、人の言葉から何からチカチカ心を刺す。それで不機嫌になる。毎日の生きる望みをどこに置いているか、これは、一目瞭然(りょうぜん)です。皆さんはいったい毎日をどこに望みを置いている。一週間、一ヶ月を、あるいは一年、何を望みとして生きているか。考えて見たら案外と気がつかないうちに「行事追っかけ症候群」になっている。そのような目先の、今日何をするから、あるいはこういうことがあるから楽しい、ただそれだけを、目に見える事情、境遇、事柄を楽しみに、それを望みとしている間、必ず失望するのです。事が終わったら詰まらない。失望する、望みがない。

 

ところが、私たちにはもっと素晴らしい望みが与えられている。それは、2節の終わりに「神の栄光にあずかる希望」とあります。神様の栄光、やがてこの地上の生涯が終わったとき、神様は私どもを御許に召してくださって、生涯の報いを与えてくださる。そこに生きる望みを置く。だから、今日、私たちが生きるのは、神様の報いを望んで生きるのです。誰かれのために生きているのではない。ですから、イエス様の救いにあずかって、私たちの生き方が変わるのです。生きる目的が変わる。私が自分のために生きるのではない、とコリント人への手紙にあります。自分のためにではなくて、私のために死んでよみがえった方のために生きる。常に私たちが望みとするのは、神様が今このことを喜んでくださる。イエス様が私と共にいて、今このことをさせてくださる。私にこんな事をさせてくださっているのだ。私は自分のためにしているのではない、自分のために生きているのではない。「主のために」、これが今私たちの生きる目的、そして、希望もそこにあるのです。私たちを生かしてくださるイエス様が、私たちの言葉と業のすべてを見ていてくださる。そして、記録してくださる。学生や生徒は定期試験を受けます。試験を受けると、必ずしもいい評価ばかりではない、時にしかられる。思いもかけないぐらい悪い成績を取ると先生から「お前は何しとる、勉強せんか」とカツンとやられる。だから、褒められるとは思わないから、結果はどうだろうかと不安になります。しかし、神様はこの地上の生涯を終わったときに、私たちに報いてくださる方です。しかも、その報いは私たちを懲らしめるためでも、罰するためでもない。

 

だから、私たちが「主のために」という生き方をまず整えることです。イエス様がタラントのたとえ話をしていますね。主人が遠くへ出かけるときに、僕(しもべ)たちに1タラント、2タラント、5タラントをそれぞれに預けていきます。やがて時がきて、主人が帰ってくる。清算をします。5タラントを預かった人は5タラントを更にもうけて「ご主人様、喜んでください」と。主人は大変喜んで、「善なるかつ忠なる僕、あなたはこの小さな事にも忠実であった。主人と共に喜んでくれ」と言って褒めてくださった。2タラントを預かった人も出て行って2タラントをもうけた。主人は同じように喜んで祝福をしてくれた。ところが、1タラントを預かった人は、これを失ったら主人からしかられるから、と言って、土の中に埋めておった。やがて帰ってきたときに「その主人からあずかった1タラントです」と差し出す。そのときに「悪い怠惰な僕よ」と叱られる。1タラントを預かったのだから、預かったものをそのままそっくりお返ししたのに、どこがいけないのだ、と思います。しかし、そこには主人が1タラントを預けた意図といいますか、目的がある。主人の思いに従うこと、これが私たちに求められていること。私たちの主人は神様です。神様が、今日、私たちに命を与え、健康を与えてくださって、仕事を与えて、食べる糧を与えて、着る物を与え、住む場所を与えてくださっている。世界にはまだ食べることにも事欠き、また住む所もなく、困難の中にいる人々が沢山いますが、その中で、私たちが神様からの恵みをいただき、平安でおられるのはどうしてでしょうか。それは神様が私たちに求めていることがあるからです。自分の安心のため、自分の欲のため、自己本位な欲のためにではない。それでは、これから慈善事業にでも社会貢献するのかと。そうではなくて、今日与えてくださった健康、家庭や仕事、24時間という時間、これを主のものとして、主のために用いていく。これが生かしていくことです。今日の一日を神様の求めること、神様が願っていること、神様の御心に従って、私たちが生きていくことです。私のものだから私の好きなように、私がしたいように、私が望むように、という自己本位の、自分のわがままな思いで、時間を費やし、健康を用いているならば、あるいはまた、神様が託してくださったものとして、自分のものではなくて主のために、私のためによみがえった方のために生きる生涯であることを忘れているとすれば、預かったタラントを、1タラントをそのまま土の中に埋めている状態なのです。

 

だから、私たちはいつも主に喜ばれることが何であるか?だから、エペソ人への手紙にあるように「あなたがたは、主の御旨が何であるかを悟りなさい」と勧められている。「歩き方によく注意して」と言われます。私たちは誰のために生きているのか。今日の一日は誰のためにあるのか。私ではない、誰か家族のためでもない。私の健康、私に与えられたものは主が私に託してくださったものとして、「神様、どのように用いていきましょうか」、「神様、今日私は何をしたらいいでしょうか」、「神様、あなたが今日私に求めていらっしゃることは何でしょうか」と、絶えず主人の思いを知ることです。これが私たちのタラントを生かしていく秘けつです。そうやって、私たちが「主のために」となした業の一つとしてむなしくなることはない。誰も見てくれない、誰も私の苦労を知ってくれない、私のしたことに誰も評価してくれなくてもいいのです。主がご存じで、主のためにささげていく生涯。これが私たちの今生かされている生き方ではないでしょうか。ですから、日々の望みは、今日も主に喜んでいただける、今日も主が与えてくださったものを御心に従って十全に、十分にそれを生かして使うことができたかどうか、ここにあるのです。だから夜寝るとき、明日は私は何も楽しいことがない、もう希望がないなんて、そんなことはないのです。明日はどのように主をお喜ばせしようか、明日はどのように神様に従っていこうか。神様がもし明日も私に命を与えてくださったら、主よ、どのように私は生きたらいいでしょうか。主がせよとおっしゃる、主が望んでいらっしゃること、そこに望みを置いていく。それを主は願っている。そこが私たちの望みであり、生きがいでもあるのです。だから、この2節の後半にあります「神の栄光にあずかる希望」というのは、まさにそこです。毎日が希望に満ちた生き方でもあります。今日も主が喜んでくださる一日でありたい。それを喜びとし、それを望みとして生きることが「神の栄光にあずかる希望」であります。

 

そして3節に「それだけではなく」と、「それだけではなく、患難をも喜んでいる」。苦しいこと、つらいこと、試練と言われること、自分の思わない、願わない困難や悲しみや、そのような事態の中に置かれても喜ぶことができる。なぜなら「患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」。これは連鎖反応ですね。「患難は忍耐を生み」、苦しいことつらいことに遭うと、自分のわがままを抑えられます。また忍耐を教えられます。そして、「忍耐は錬達を生み」と、練達とは、「練られた品性」と新改訳聖書では訳されていますが、私たちの性情性格を清めてくださる。箴言には「神様は、金は炉において精錬され、私たちの心は試練を通して清められる」と語られています。私たちの心を清いものとし、不純物を取り除いて純粋なものとしてくださる。そのために困難や苦しみや悩みに遭って、その中を通るのです。そうすることによって、練達を、心と魂を清めていただく。やがてそのように私たちの性情性格が変えられていくとき、希望がわいてくる。これは素晴らしいですね。「患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を」「患・忍・錬・希」という頭だけを取ってよく言いますが、これは素晴らしい。しかし、患難に遭えば幸いかというと、現実を見ますと必ずしもそうなっていない。

 

悩み悲しみ、筆舌に尽くしがたい、言葉に言いがたい患難を通ってきた人は、よほど立派な品性かというと、そうではない。私は家内の両親が介護施設におりますが、あちらの老人ホーム、こちらの老人ホームに行きますと、長年の苦しみに耐え抜いてきた結果、「練られた品性」がどこにあるかな、と思うような、思わせるような世界があります。だから、誰でも苦しみに遭ったらよくなるかといいますと、そうはならない。苦しみに遭ったら、ひがみ根性、心がねじくれて、焼きざましの餅のごとく固くなって、はしにも棒にも掛からなくなるのが、現実の姿でしょう。ここに言われているように「患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」とこのようになれるならば、患難ほど幸いなことはないといえますが、周囲で見る現実はそうではない。患難は忍耐、練達はひがみを生み、かたくなさを生み出す。仕様もないというのは申し訳ないけれども、実に扱いにくい人間へと変わっていくでしょう。

 

聖書が何でこんな事を言っているのか。違うじゃないか、この聖書の言葉は理想論であって現実はこうではないぞ、と多くの人は思います。それはそうです。というのは、5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら」、ここが大切です。「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。今申し上げたように、患難を受けていよいよ人間が悪くなり、かたくなになり、頑固になり、手に負えなくなる。わがまま放題になっていくのは、なぜかというと、それは人間が生まれながらのままであるからです。罪の結果なのです。私たちが自分の罪を悔い改めて、どうにもならない仕様もない自分であるということを認めて、そのようなものを今日も命懸けで愛してくださった神様の御愛にとどまっていかない限り忍耐は希望につながらない。患難は希望につながってこない。5節の「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛が」、神様の御愛に満たされ、神様の御愛に感謝し、神様の御愛に感じて、いつも新鮮な喜びを持って生きる。十字架を見上げて、こんな者のために命を捨てて愛してくださったことを感謝する。私のために今日も主はご自分の血潮をもって「父よ、彼等を許し給え」と、執り成してくださっているゆえ、許され生かされているのだと、感謝して生きていれば、「患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望」へとつながっていく。神様が御愛の御手をもって、私を握ってくださっていると信じ、信頼して、神様の手に委ねていくとき、患難の中にあってもそれを喜ぶことができます。神様がへまなことをなさるはずがない。神様は今このような悩みに、このような病に、このような困難の中に置いているけれども、神様は私を見捨てたのではない。また私を懲らしめるためにしているのではない。神様は愛なる御方であることを徹底して信じることです。神様が、ひとり子を賜うほどの限りない御愛をもって愛してくださって、全てをご承知の上で、今このことの中に置いてくださっている。私にはこの事が何であるか分からない、これがどうしてなのか分からない。これからどうなるか分からない、しかし、はっきりしていることがある。それは「神は愛である」ことです。愛でいらっしゃる神様が、私を御手に握ってくださっている。そこにいつも心と思いを向けていくとき、失望することがない。どんな患難をも耐え忍んでいくことができる。苦しみにも耐えることができる。その苦しみを耐えている私たちは、ただに苦しい、苦しい、これは我慢我慢、仕方がないと言って、人を恨み、ねたみ、世をのろって、仕方がないと言いながら、苦虫をかみつぶしたようにみけんにしわを寄せて、暗い顔をしながら頑張る必要はない。神様の御愛の中にあって耐え忍んでいくことは、幸いな恵みです。なぜなら、そこで神様の御愛に触れることができるからです。時々、私どもは神様の御愛から離れるのです。神様の御愛を忘れる。そうすると、すべての事をつぶやくようになる、不満になる、耐えられなくなる、逃げ出したくなるのです。私たちにとっていちばん大切なことはいつも神様の愛に絶えず満たされることです。その御愛が欠けてくると、生きることがつらくなる。あるいは毎日が楽しくない、喜べない、感謝できなくなる。しかし、神様の御愛に目を留めていくとき、こんな者を主が命を懸けて愛してくださったのだと思うとき、目の前に何があっても苦になりません。どんなことも苦しいと思わない。神様の御愛にふれるからです。

 

創世記29章15節から19節までを朗読。

 

これはヤコブがお兄さんエサウとケンカして、ラバンのうちに寄留しました。そこでおじさんの羊飼いとなって羊を飼う仕事をしていました。よく働いたのです。おじさんのラバンもただ働きをさせるのは良くないと思ったのでしょう。「お前に何か褒美をやろう」と、「何がいいか」と。ラバンには二人の娘さん、レアとラケルがいました。ヤコブは「それじゃ、せっかくくださるならば、妹のラケルを自分の奥さんにしてほしい」と、ラケルは美しかったとあります。するとラバンが「よし、それじゃ分かった。お前にその娘を嫁にやろう」と、他人にやるよりは遠縁ですから、甥(おい)っ子ですから、お前に結婚させようと言う。それから7年間、20節に「こうして、ヤコブは七年の間ラケルのために働いた」。その後に「彼女を愛したので、ただ数日のように思われた」。すごいですね、愛というのは。ヤコブはラケルを愛して、このラケルのためにと思ったから、7年間の重労働も「ただ数日のように」喜んで働く。皆さんも若いときには、この主人の……、この妻のためにと、愛によって数日だったのかもしれませんが、だんだんそれが薄らいで、今では数日が数年のごとく感じるようになった。なぜかと言うと、人間的な愛はそういうものです。ところが、神様の御愛に感じる生き方、これは変らない愛です。大切なのは神様の御愛のゆえに、今日の一日を、明日の一日を、「主のためとして」、主のものとなりきって生きるときに、「患難をも喜ぶことができる」。ヤコブは7年間の重労働もものともしない、数日のごとく過ごした。やがて満願成就して7年目に彼はラケルと結婚するはずでした。結婚式が終わって、翌朝起きてみたら自分の隣に寝ているのはお姉さんのレアだったのです。おじさんのラバンはなかなか巧妙な人ですね。だましてしまった。ヤコブはおじさんに文句を言ったのです。「どうして?」「いやいや、まぁ、そう言うな。お前に妹をやるからまずは、お姉さんを先に嫁にやらないと、後が困る」。最近日本でもそうですね。妹が先に行ったらお姉さんは行き遅れる、なんて事を言います。ラバンもそうだったのです。「まず、お姉さんと結婚してくれ。その代わり妹のために後7年働け」と言われた。30節に「ヤコブはまたラケルの所にはいった。彼はレアよりもラケルを愛して、更に七年ラバンに仕えた」と。彼はラケルのためにまた更に七年、愛のゆえにその重労働をいとわない。

 

私たちの生きる原動力、動機、これは神様の愛にあるのです。この御愛に根差していかないから、私たちは力を失い、不平不満、あるいは意気消沈といいますか、命を失う、元気を失ってしまう。

 

ローマ人への手紙5章5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。どうぞ皆さん、いつも私たちが求めるべき事柄は何か?神様の御愛に感じる心を絶えず新鮮にリフレッシュしていくことが、私たちの欠くことのできないこと。神様の御愛を知るにはどうするのか。5節に「わたしたちに賜わっている聖霊によって」、神様の御霊によって初めて「神は愛である」と言えるのです。確かに、現実のいろいろな事柄を見ると、どこに神様の愛があるか、と思えるようなことがあります。しかし、御霊は私たちのうちに宿り、いろいろなことを教えてくださる。何を教えてくださるか。まず教えてくださるのは、私がどういう者であるか。私という者がどんな人間であるかを明らかにして、それに対して神様がどんな御思いをもって愛してくださっているかを教えてくださる。自分で一生懸命に勉強しても、神様の御愛は分からない。御霊が語ってくださる、私たちに神様の御愛を当てはめてくださる。

 

私も神様の御愛に触れたとき、何もかも、どんなものも怖くない。失っても惜しくない、そう思いました。それから今に至るまで、毎日、毎日主の御愛の中に置かれている恵みを感謝せざるを得ないのです。どんなことも苦痛にはならない。先ほどのヤコブのように、ラケルを愛したがゆえに七年がまるで三日のごとく思える。神様の御愛に絶えず潤される日々でありたいと思います。ですから、心に元気を失って、はぁーとため息をつくような時があったら、それは私たちが神様の御愛から離れている、あるいは神様の御愛が薄くなっていると思っていただいたらいい。そのときは何をするか。まず静まって、神様の霊に満たされることです。

 

ですから、最後に一つ読んでおきたいと思います。エペソ人への手紙3章16節から19節までを朗読。

 

これは祈りです。16節に「どうか父が」とあります。すべてのものの根源でいらっしゃる父、創造者でいらっしゃる父なる神様に祈る、というのが、この16節から19節の終わりまでです。何を祈っているか。「御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」とあります。私たちの内なる人、目に見える事情、境遇、事柄が良くなるのではなくて、私たちの魂、心が神様の力によって強められたものとなること。その力はどこからくるかといいますと、17節に「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」、私のために死んでよみがえった主は、今私と共にいらっしゃることを信じること。「信仰によって」とはその事です。約束された聖書の言葉を信じて「あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活する」。キリストの御愛、神様の御愛に、促(うなが)され、励まされ、導かれていくことです。主が、こんな者を今日も愛してくださって、このことを与えてくださった。この問題の中、この事柄の中に導いておられる。主の御愛を絶えず味わい知って生活をすることです。これが無ければ、私たちは力を失います。愛は力です。私たちの内なる人を強くしていくには、キリストの御愛、神の御愛です。それを私たちに注いでくださるキリスト、聖霊が信仰によって内に宿ってくださること。これが私たちに必要な大切な欠くことのできない事です。

 

ですから、私たちが希望を失い、別に問題があるわけじゃなし、いろいろなことがあるけれども、まぁ、別にそれほど大したことではないのだけれども、何でだろう、今日は元気がない。何かやる気がなくなってしまった。天気のせいかしら、あの人のせいかしらと。そうではないのです。実は私たちの魂がしおれかけている。もう一度命の水に触れることが必要。礼拝も集会も欠かさない。聖書を読み、お祈りもする。しかし、だんだんとそれが形だけのものとなって、心が消えていく。これは私たちの致命傷です。そのときに、素早く心を静めて、神様の光に照らされ、御言葉の霊に満たされて、自分を神様の御愛につないでいただくことです。神様の御愛に満たされていくとき、元気づいていくことができ、力を与えられます。

 

ですから、ローマ人への手紙5章5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。こんな者を愛してくださる神様の深い御愛を、心に信じて、「ああ、本当にありがとうございます。神様、今日もあなたの御愛の中におらしていただきます」と信じる。たとえ、苦しみにあっても、御愛のゆえに与えてくださっていると信じて揺るがない。神様が恵もうとしてくださることを徹底して信じていく。現実がどうであれ、主の御愛にのみ目を留めていこうではありませんか。見えるものによらず、見えないものに目を注ぎ、神様の御愛にしっかりつながっていくとき、何があっても動かされない力と望みを持って輝いていくことができます。失望に終わらない望みを持ち、患難をも喜んで生きるものとなりましょう。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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