いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(93)「生ける水」

2013年12月23日 | 聖書からのメッセージ

ヨハネによる福音書7章37節から44節までを朗読。

38節「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

37節には「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい』」とあります。この「祭の終りの大事な日」といわれているのは、7章2節に「仮庵(かりいお)の祭り」と記されている祭りのことです。これはイエス様の時代に多くの人々が、大切に守っていた祭りの一つであります。

福岡の町には、「山笠」という祭りがあります。博多の人たちは、お祭り騒ぎが好きですから、そのようなものを何百年と大切に伝統を守ってやっている。この祭りは、7月1日から最後の日が15日まで、その間、いろいろな行事があります。一番最後の大切な日は「追い山」と言われ、15日の早朝、5時くらいから始まると言いますから、ご苦労なことだと思います。町の中を下半身褌(ふんどし)一本で走り回るわけですから、考えてみたらこんな酔狂な話はない。

イエス様の時代でも、祭りは先祖代々大切なこととして守られていました。「仮庵の祭り」は収穫祭のことです。日本と違って、お米が主食ではなくて、小麦、大麦を食べますから、麦の収穫期です。日本でも「麦秋」という言葉があるように、麦の収穫期は初夏の頃です。イエス様が「仮庵の祭り」のときにエルサレムに来られました。多くの人々は、イエス様が人をあっと驚かせるようなことをするのではないかと期待していました。というのは、それまでにイエス様がいろいろな不思議な業をしているといううわさが国中に広まっていたのです。ユダヤの人々はローマという大国の圧制の下で搾取(さくしゅ)されていて、生活は苦しく、また、自分たちの国は属領と言いますか、占領されている。これほど屈辱的なことはない。その状態から、何とか助けてくれるものはないかと、革命家を期待していました。ですから、イエス様がきっとこのとき何かをと期待していました。

私どもも、何か新しいこと、普段と違うことをするときには、そのきっかけになる日を求めます。自分の誕生日をきっかけにあれをしようとか、あるいは結婚記念日から新しい事をしようと考えます。お店などを開店される方は大安であるとか、そのような日を選ぶ。記念になるような日を選んで、何かを始めようとします。そのように、多くの人々はこの仮庵の祭りで、イエス様はきっと何かをするのではないかと期待している。このときだけではなかったと思います。その前からも同じように祭りの度ごとに、ひょっとしたら今度は、いや、今回駄目だったから次のときにでもするのではないかと、期待感が高まっていたのです。ですから仮庵の祭りが近づいたとき、きっとイエス様が何かをするに違いないと。7章1節以下を読みますと、イエス様に何かしたらどうだと、周囲から促(うなが)す人たちもいました。しかし、イエス様は、わたしのときはまだきていない、と言って拒んでいました。

37節「祭の終りの大事な日に」、イエス様は祭りの中心地である神殿のある町、エルサレムにやって来られたのです。ところが、このときイエス様は、集まってきた人々に「立って、叫んで言われた」。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と。普段「かわく」と言う時、「のどが渇く」という風に使います。これから暑い夏を迎え、日照りの中、遠道を歩いたりしますと、のどが渇いた、どこか自動販売機がないかと探して水やなにか飲むものでのどを潤します。「かわく」という言葉は何かを求める思いがあります。このときイエス様は、のどが渇いている人は私のもとに来なさい、あなた方にミネラルウォーターをあげましょう、と言うのではないことは確かです。この「かわく」とは、のどが渇いているという意味ではなくて、私たちの心、魂にかわきを覚えることです。

それが「かわき」だと自覚しないかもしれませんが、日ごとの生活の中で、なんだかやる気がない、日々の生活で力がない。あるいは恐れや不安で、いつも落ち着かない思いで過ごしている。どんなことも何一つ喜べない、満足ができない。そのような状態は「かわいた」状態なのです。「え!それがかわいていることなのか。だったら私は大変かわいている」と思われるかもしれない。私たちの内に喜べない、感謝ができない。また希望がもてなくてシュンとしょぼくれてしまう。また自分の性情性格、いろいろなことを考えて、こんな私だから駄目だと思う。そのような心が「かわいた者」という意味です。生きていることに喜びがない。平安がない、あるいは心が冷ややかで何一つ感動を覚えることがない。また人のすること、主人や家族のすることなすことを見ると、何かいらいらしてしまって、腹立たしい思いがする。そういうのは、実は私たちの魂、心の問題なのです。

ところが、私たちはそれを別のもので解消、解決しようとします。だから、時に買い物ばかりする方がいます。じっとしておれない、あちら、こちらに行って、お金のある限り買い物して、家の中はいらないものばかりたくさんある。よく言われるように、過食症というものがあります。食べても食べても満たされない。ところが、物理的にその食べたものは全部肉になる。食べたら何でも身につく。だからどんどん太る。けれども、まだ空腹を感じる。栄養が足らないから空腹というのではなくて、心がかわいているのです。そこが満たされないから、むやみと食べる。だから“ストレス食い”という言葉があります。とんでもない大きな病気を宣告されたり、家族の中に問題が起こったり、あるいはのっぴきならない大きな心配事があるときは、気がつかないうちに食べている。

ここでイエス様が「だれでもかわく者」といわれるのは、心がかわいている者、言い換えると、平安がない、喜べない、また安心がない。あるいは人を愛する愛がないと感じている人のことです。「かわく」と、人のすることなすことに目くじらが立つ、気になる。そしてつい言わなくてもいい、きついことをぽんぽん言ってしまう。自分でもそのことはわかる。言った後で、あんなことを言わなければよかった、今度は言うまいと思いながら、そう思うのは一瞬で、次にまたパッパと言ってしまう。私たちの心がかわいて、生活に余裕がない、ゆとりがない。それではゆとりをもって、温泉にでも行こうと出かけても、何円高いとか安いとかそればかり計算して、帰ってきたら気苦労ばかり、後の財布ばかりを見て、またストレス。私たちの心の問題が実は非常に大きいのです。ところが、私たちはそれに気がつかないで過ごしています。

イエス様は、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」と言われます。イエス様のところに来て飲みなさいと。38節に「わたしを信じる者は」とあります。イエス様を飲むと言うのは、イエス様を私の救い主と信じることです。私たちは今の自分に満足できません。もう少し自分の人生がこうだったら、親がこうだったら、社会がこうだったら、何とかもっと違った自分になっていたはずだという思いが、心の奥底にあります。そのような自分を変えたい、新しくなりたいと、どれほど思っているかわからない。今の自分ではない自分、もっと違った者となりたい。皆さん、良くそう思われるでしょう。一日が終わるとき、私の生まれつき口の悪いのはどうしてよくならないのかしら、と唇をぐっとつまんでみたら痛い。といって、次の日もまた同じことを言っている。自分の心がかわいているからです。自分が王様になっているとき、自己中心、わがまま、何もかもが不平不満で癪(しゃく)の種という心になっている自分、これをなんとか変えたいと誰でも思っている。ところが、それを変えられないから、いろいろなものに心を向けてそれを押し殺し、だましだまし生きているのが現実です。神様はそのような私たちを造り変えて、喜びにあふれ、望みにあふれ、平安があり、感謝に輝いた私たちに造り変えようとしているのです。そのためにイエス様を世に送ってくださいました。イエス様は私たち一人一人を根こそぎ、根底から造り変えて、今までの自分でない、全く新しくものに変えてくださるのです。イエス様は私を変えてくださる御方。この満たされない思いを、心を造り変えて、性情性格、生まれながらに、どうしても嫌だと思うものを取り除いて、根こそぎに造り変えて新しい者にしてくださる。そのために、十字架にまで死んで、私たち一人一人に愛をあかししてくださったのです。そのイエス様を信じることです。イエス様を信じるとは、自分を捨てることです。イエス様を私たちの心に迎え入れることが「わたしのところに来て飲む」ことです。

それはイエス様を私の主と信じること、私の神と信じることです。今まで自分が神であった、あるいは王様であった。私の生活、私の家庭に、イエス様が宿ってくださる。イエス様が私たちのところに来て罪をあがなう犠牲となってくださいました。その後、私たちの王となり主となるために天に帰られたのです。イエス様はこの地上に生き続けたのではない。イエス様は時代を超え、人種を超え、また地域を越えて、すべての人々の王となり、主となるためにあえて天にお帰りになられました。

39節に言われていますように「イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである」。御霊、神様の霊を私たちに注いでくださるために、父なる神様の御許(もと)に帰ったのです。御霊を注いでくださる約束が成就したのが、ペンテコステ、聖霊降臨の事柄でした。「使徒行伝」2章1節以下に記されているように、イエス様が天にお帰りになった後、弟子たちがエルサレムで祈って待っていたとき、五旬(じゅん)節の日、天から光と共に大きな音が鳴り響いて、突風のような音がした。そして、そこに集まった人々の上に神の霊が注がれた。神様の霊に満たされた弟子たちは、どうなったのか?ペテロやヨハネ達は御霊に満たされたとき、180度変わってしまった。性格も性情もいっさいのものが全く新しく造り変えられてしまった。

イエス様が処刑されるときに十字架を恐れて逃げたペテロ、弱虫で裏切り者であったペテロに聖霊が注がれたとき、大胆にエルサレムの町に出て行って多くの人々に、あなた方が十字架にかけたイエス・キリストを神は死からよみがえらせてくださった。私たちはそのことの証人だと、恐れないで力強く語る者へと変わったのです。神の御霊が私たちに宿って、神様の手に自分を明け渡して握られるとき、想像しえない、考えられない、驚くべき者へと神様が造り変えてくださる。御霊が私たちに注がれた目的はこのためです。ですから、もっと変わりたい、こんな自分ではなく、愛にあふれた平安、喜び、感謝することができる人間になりたいと思われるならば、その道はただ一つだけです。主の手に自分を明け渡すと言いますか、空っぽになって、イエス様、どうぞ私を導いてください、主よ、あなたの聖霊を私に満たしてください、と求めることが何よりも幸いな道であり、ただ一つの道なのです。人が人を造り変えることはできません。

日本の宗教では、自力本願、禅宗という宗教がありますが、これは自分の力で自分を変えようとすることを目指しています。だから、いろいろな修行をします。厳しい寒い冬の日に滝に打たれたり、あるいはさまざまな困難な中に自分をあえて置いて、そこで自分を鍛える。あるいは壁の前に座禅を組んで何時間でもジーッとめい想にふける。そうすれば、人はきっと変わるだろうと願っているのです。

ある有名な禅宗のお坊さんの弟子が、自分は一生懸命にこんな修行をして、これだけのことをしました、だからもう自分は立派になったと、自負しているという話を老師といいますか、尊師の方が聞いたのです。それを聞くなり、ご自分が庭に下りていって、隅にあった瓦を持ってきて、それに水を掛けて一生懸命に石でこすり始めた。その若いお坊さんが「先生、一体何をしているのですか」「いや、この瓦を磨いて白い石にしようと思うのだ」と言いましたら、その若いお坊さんが「そんなばかな、瓦ですから黒い物は黒いですよ。白くなりませんよ」と言ったそうです。そのときに師匠の老師が「お前もこれと同じだ」と言われた。自分はいくら努力しても黒いものは黒くて変われないのだと知ることが悟りなのだ。簡単な言い方かもしれませんが、究極はそれです。あきらめではなくて悟りなのだ。悟ると、そこで居直って、今度は思いもかけないような力がわいてくると言うのです。

確かに、もっと自分は愛にあふれた優しい人間になろうと、そんなことをいくら努力してみても、自分では変わりようがない。どうしても自力では何一つ出来ません。そこには救いがない。私たちはこのように弱く無能な者で、何にも出来ない。自分の心ひとつ自分でどうにも出来ない。こんなことを言うまいと思いながら言ってしまう。もっとこの人を愛してあげたい、その人のために財を尽くし、労力を惜しまないでしようと思いながら、いつもどこかでこんなにしては勿体無い、あの人のためにそこまでするものかと、何か引っ張るものがありませんか。そのような自分が嫌らしいと思いながらも、変われない。どうしてでしょうか? 禅宗が言うように、そのようなものだから仕方がない、あきらめよう。私は私だ、と厚かましくなってしまう。それとも、イエス様が言われるように、なんとか変わりたいと渇いて求めるのか、これが大切な考えるべき事柄です。

今読みました38節に「わたしを信じる者は」、イエス様を信じて、イエス様に自分を懸ける。イエス様の手に自分をささげる。これが「いのち」に生きる大切な道です。そうしますと「聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。私たちの内に「生ける水」、すべてのものを潤し、喜ばせ、平安を与え、慰めを与え、望みを与えるいのちが内に満ちてきます。聖霊が私たちに宿るとき、そのような者に私たちを造り変えてくださる。二千年前にその事実が起こっているのです。それから後、二千年にわたる永い歴史を通して、神様の霊が多くの人々に注がれて、人が変っていきました。

聖アウグスティヌスという宗教家でもありますけれども、紀元4世紀頃の哲学者がいます。彼はクリスチャンの両親に育てられたのです。ところが、親から離れて、放とう三昧、好き勝手な人生を送っていました。ところが、モニカというアウグスティヌスのお母さんは大変信仰深い人で、一生懸命に息子のために祈ったのです。道を外してとんでもない生活をしたのですが、アウグスティヌスが青年のころ、ある日、自分の好き放題をして、遊び疲れて、自分の宿舎に歩いて帰っていました。夕暮れでした。そのとき子供たちが手まりをして遊んでいましだ。手まり歌を歌っていた。その前後はわからなかったのですが、彼の耳に一言だけ留まりました。「取りて読め、取りて読め」と。その前後どのようなフレーズで歌ができていたのか、彼はわからなかったのです。しかし、一瞬「取りて読め」、その幼子たちの歌っている歌の一節だけが、耳に入って心に留まった。彼は瞬時、天から落雷に打たれたように、ハッと悟った。それは幼少のころ、まだ覚えていないころから、母が読み聞かせてくれた、話してくれた聖書の言葉だったのです。もう一度、自分は聖書の言葉を聞きたい。彼はそこから一瞬にして心が変わった。今度は神様を求める、イエス様のところに帰ってきたのです。それまでは肉の楽しみ、放とう三昧で自分の好き勝手をして生きていた彼は、初めてイエス様の御愛に触れたのです。それから後、彼はキリスト教会の大人物となり、神学者となりました。『告白録』として自分の信仰告白を書いたものが残っています。彼を変えたのは、母の祈りに主が答えて、聖霊が注がれたからです。

今もよみがえってくださったイエス様は、信じる者に宿ってくださる。それは、私たちが、自分で生きるのではなく、今度は、イエス様の霊に生きる者に変わるのです。ですから、38節に「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。イエス様の霊に満たされるとき、私たちはもはやかわくことがない。ストレス食いはいらなくなります。またいろいろな必要の無いものを買わなくて済むようになります。神様がなさるとき、私たちの性格を変え、今まで冷たい人と言われて、友人がどんどん去って行って、独りぼっちになり、依怙地(いこじ)になって、ますます焼き冷ましのもちのようにかたくなになってしまう方がいますが、イエス様の霊に満たされると、どんどん人が集まってきます。また人を潤していくことができる。

先だって両親の記念誌を作り、多くの方々に差し上げました。両親が残した住所録を手掛かりに、私自身は直接存じませんが、差し上げたのです。ある方からお手紙をいただきました。その方は、母が入院した時、たまたま同室であったという女性。そのときしか母と面識がなかったのだそうです。しかし、このたび記念誌を送られて読んだときに、「自分はキリスト教のことは何にも知らないけれども、お母様は、この方はどこか違うと、あの病室で私は思っておりました。何か人を慰め励ましてくれるものがあって、私は常に惹(ひ)かれていた。そして、絶えずベッドの上で聖書を開いてご勉強をしておられました。それで看護婦さんに聞いてみたら、牧師先生の奥様だということを知って、むべなるかな、なるほどそのような御方かと思って、心ひそかにあこがれておりました。その方がこうしてお召されになられたことを聞いて、またその生涯の証しを読ませていただいて、私は涙なしには読めませんでした。本当に感謝でした。うれしかった。そしてその写真の中にお母様が、ご主人をなくされて柩(ひつぎ)をのぞき込んでいらっしゃる奥様の顔を見たときに、本当にこのお顔こそが、いのちにあふれた顔だ。それを知って私は大変うれしくて、厚かましくもこうした手紙を書かしていただきました」と喜んでくださっている。私は母を自慢するつもりはありませんが、そこに主の霊がとどまるとき、上よりの神様の霊に満たされていくとき、私たちは新しい者へと変わっていくことができる。どんな境遇に置かれても喜ぶことができる。どんな問題の中にあっても望みを持っていくことができる。また多くの人を慰める力を与え、愛にあふれて、多くの人々を励ますことができる者となります。

どうやったらそれを得ることができるのか。ただ一つです。38節「わたしを信じる者は」と言われます。イエス様を信じることです。そうするときに、「腹から生ける水が川となって流れ出る」、神様が私たちに与えようとしてくださる聖霊の豊かな働きです。私のような者は無理だろう。もうちょっとこうならんともらえんかしらと疑われる。そんなことはないのです。「求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」と、イエス様は約束してくださいました。神様、あなたの霊に私を満たしてください。私のわがままな思いではなくて、神様、あなたの霊に満たし、あなたのいのちに満たしてくださいと絶えず求める。そして、主が満たしてくださっていると確信して、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」と、はっきりと主が私を支えておられる告白しましょう。どんな中にでも、イエス様が私の主ですと、主を信じ続けていこうではありませんか。そのときに、神様は私たちを通して力を現し、恵みを注いで、主の御栄光を現してくださるのです。

38節に「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。この「生ける水」を神様からいただいて自分だけが潤されるのではなくて、更にもっと多くの人々にその喜びを分かちあい、神様の祝福と恵みに生きる者とならせていただきましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。







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