いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(308)「主を賛美しよう」

2014年09月01日 | 聖書からのメッセージ
 「詩篇」22篇1節から11節までを朗読。

 3節「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです」。

 詩篇22篇は表題に「ダビデの歌」と記されています。しかも、ダビデが大変大きな悩みの中に置かれていたようであります。「わたしは虫であって、人ではない」と6節に語っています。それほど多くの人々からあざけられ、さげすまれ、そして、人として扱われていない自分である。非常に惨めな境遇の中にありました。しかし、彼が求めたのは神様の救いでした。1節に歌われているとおりです。「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」。これはイエス様の十字架の上での御言葉でもあります。イエス様はこの詩篇の言葉を通して神様に祈っておられたのです。

ダビデは「わが神、わが神、わたしはあなたを信頼しているのにいったいどうなったのですか、この状態は。今置かれているこの哀れむべき境遇、嘆きに満ちたこの状況をどう見ていらっしゃるのでしょうか」と、非常に絶望的な思いにかられています。こういうことは、ダビデのみならず私たちも日々味わうことであります。聞くこと見ること、どれ一つとして希望を与えてくれるものはない。それでいて自分一人が孤独な者となって、多くの人々から冷たくあしらわれる思いがする。しかも、お祈りをするけれどもなかなか手応えがない。

2節に「わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません」と、昼も夜も一生懸命に祈るのですが、もう一つ何だか神様は聞いているやら、聞いていないやら、どこにいるのか訳が分からない。続けて「しかし」と3節に語っています。「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかた」。神様がいらっしゃらないとか、神様が私を見捨てられたとは思わないのであります。思わないが、何か神様と遠く隔たった距離感といいますか、神様が間近にいてくださるという、「臨在」という言葉をよく使いますが、神様が私のすぐそばにいらっしゃることを感じる感覚が薄らいでくる。

そういうことは、恐らく皆さんもあると思います。日々祈りつつ、御言葉を味わって、魂を養われて生活していますと、間近に神様を感じるときがあります。「本当にここに主がいらっしゃる」と。状況がどうであれ、主に触れることがあります。ヤコブがお兄さんエサウとけんかして伯父さんのうちへ旅立ったときもそうです。独り寂しく荒野で野宿したとき、初めてそこで主の臨在に触れるのです「そうだ。神様は私と共におられるのだから大丈夫」と、その瞬間目が開けて、「これは天の門だ」(創世 28:17)と、喜びにあふれます。といって、現実の置かれた状況が瞬時に変わったわけではありません。同じ荒野で、孤独で眠った場所であることには変わりませんが、彼が変わるのです。神様がすぐそばにいらっしゃることを味わう。これは大きな力です。

私たちもそうです。ところが、どういうわけか生身の体といいますか、この世にあって肉を持って生きているので、どうしても見るところ聞くところの状況に振り回されて、「神様が共にいらっしゃる。神様がこのことも握っている」という信仰に立っているつもりが、だんだんと薄らいでいく。弱くなっていく。そして、隔靴掻痒(かっかそうよう)といいますか、神様が遠くになって実感できず、喜びとならなくなってしまう。そういう状態をここでダビデは歌っています。「しかし、イスラエルのさんびの上に座しておられる」と。神様はどこにいらっしゃるでしょうか。徹夜して熱心に祈って「神様、ああしてください。こうしてください」と、もちろん祈ることは幸いですが、徹夜してでもお祈りすれば神様がそばにいらっしゃることを実感できるのでしょうか。確かに、私どもは問題の中にあるとき、「神様、道を開いてやってください。このことについてこういう願いがありますから、神様、よろしく導いてください」と、切に祈ります。心を注ぎだします。聖書に「そうせよ」とありますから、そのとおりです。ところが、それでも、神様が答えてくださるという手応えが感じられない。そのときに私たちに欠けているもの、それは「さんび」です。3節に「さんびの上に座す」とあります。神様を褒めたたえること、感謝することです。そこに神様が臨在してくださる。「イスラエルのさんびの上に」とあります。イスラエルとは、神様にあがなわれた者たち、いま信仰によって私たちは主イエス・キリストの死をもってあがなわれた神の民・イスラエルであります。だから、私たちが賛美し、感謝し、主を褒めたたえることです。これが神様の臨在、神様がそこにいらっしゃることを味わう道筋です。と言うのは、イスラエルのさんびの上に神様は座してくださる御方。その御方は聖なる御方、聖(きよ)い御方でいらっしゃる。一生懸命、熱心にお祈りしたから、神様がそばにいらっしゃると言えるかというと、なかなかそれが言えない。だんだんと嘆きと言いますか、悔やみになってしまう。ますます神様が遠くに感じる、実感できない、魂に響いてこない。そのとき私たちは何をするかと? 賛美をする、感謝をするということです。実は、これが神様を間近に味わうと言いますか、神様に触れる道です。それがなければ、神様に近づくことができません。だから「イスラエルのさんびの上に座しておられる」のです。いつも感謝することを忘れず、主を褒めたたえるのです。

感謝するとは、物事を感謝する、「事情や事柄がこうなったから感謝です」とか、「こういうことをしてもらったから、こういう恵みにあったから感謝です」と事柄を感謝するのではなくて、それを備えてくださった主に、私を顧みてくださって、この恵みにあわせてくださった神様に感謝するのです。だから、神を褒めたたえること、これが大切です。そこのところがごっちゃになる。神様を褒めたたえているのやら、自分の願いがかなったこと、目の前の物事、状況だけを感謝しているのか。だから、感謝するとき「いったい、私は何を感謝しようとしているのか」、もう一度よく振り返っていただいたらいい。長年祈っていたことを神様が答えてくださって解決した。そして、思っていた以上に、願った以上の素晴らしい結果が目の前にある。だから「こんなになって良かった、良かった。感謝、感謝」と言うかぎりは、それは物事や状況を感謝している。世間でもそうです。「有難う」というのは、その事柄を喜ぶわけです。その状況であるとか、自分が願ったようなうれしい事態や事柄になったから、喜び、感謝すると言います。しかし、うれしい喜ぶべき事態になったこと、その背後に、こんな私のためにそれを備えてくださった御方、神様に感謝するのです。だから、神様を褒めたたえなければ本当の意味の感謝にはならない。何か素晴らしい恵みに出会って、事態や事柄が「良かった」というとき、「これは神様がこのように備えてくださったんですね」と神様を喜ぶ。神様に感謝している自分を認める。これが私たちのなすべき第一の事です。だから、「ピリピ人への手紙」に「何事も思ひ煩ふな、ただ、事ごとに祈りをなし、願をなし、感謝して汝らの求めをに告げよ」(4:6文語訳)とあるように、まず感謝して自分の願いを伝えなさい。

「まず感謝して」と言うと、何を感謝するかと?「何があったかな、感謝することは?」と言われる。「感謝することがあったら、是非お証詞してください」と言ったら、黙って下を向いてしまわれます。「何か、感謝することある?」「何かある?」と。神様が自分を今日ここに生かしてくださって、「我が今の如くなるは、の恩恵(めぐみ)に由るなり」(Ⅰコリント15:10文語訳)と。まさに神様の恵みであって、「私が今日ここにあることは、神様、あなたの恵みです。神様、あなたがしてくださったことです」と、神様を褒めたたえるのに、何か事柄を探そうとする。ここが、いつも神様の臨在から引き離されて、サタンに付け込まれる隙間です。だから、何があってもなくても感謝です。なぜならば、神様が許して生かしてくださっているからです。  

9節以下に「しかし、あなたはわたしを生れさせ、母のふところにわたしを安らかに守られた方です。10 わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました」と。言うならば、彼は今いろいろな悩みの中にあるけれども、苦しみの中に置かれているけれども、神様は私を生んでくださった。この地上に命を与えてくださった。母の懐に置いてくださった。そればかりか、この世に生まれ出てからズーッと、神様が今に至るまで、私を持ち運んでくださったと語っています。「あなたはわたしの神でいらせられました」と、神様を喜ぶ。神様を褒めたたえる。これは私たちのなすべき第一の事です。だから「感謝して汝らの求めをに告げよ」と。

 私は若いころ、よく父に「まずは感謝しなければ」と言われました。「何を感謝するか?」、感謝する事がない。あれも足らない、これも足らない、不足ばかりで感謝することは何があるかな?と納得がいきませんでした。今はそうは思いません。むしろ、今、今日こうしていること自体が、神様のくすしきみわざだと不思議に思われます。本来滅びて当然、無きに等しい者が、こうやって救いにあずからせていただいて、神様の一方的なご愛とあわれみを受ける者とされている。そのようなご愛を注いでくださる神様がいらっしゃること、そこに目を留めたら、感謝しなければおられない。神様を褒めたたえなければおられません。

感謝とは主を賛美し、褒めたたえることです。賛美すると、私たちの心に喜びがわいてくる。主の臨在がはっきりしてきます。そして、神様は私たちに力をあらわしてくださる。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(8:10)と、「ネヘミヤ記」にあるように神様を喜ぶのです。神様を喜ぶとは「神様が私のような者に目を留めてくださった。今に至るまでいろいろな中であったが、神様がこうして顧み導いてくださった」ことを「神様がしてくださった」と言い表す。誰の業でもない、あの人この人ではない。もちろん、私の努力でも熱心でもない。ただ一重に神様が私にこのような恵みを注いで、あわれんでくださった。そのことを覚えて、繰り返し主を賛美し、褒めたたえていく。ですから、旧約聖書を読んでいて気づかれると思いますが、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救い出されて、荒野の旅路をたどった記事が何度となく繰り返し語られます。度々そのことが取り上げられます。「あの時こうだった」「この時このようにされたではないか」「あの時こうではなかったか」と、繰り返し出てきます。それは、その度ごとに神様がすべてのことの根源であって、すべてのものを握って、今も導いてくださる御方。その御方がひとり子を賜うほどの限りない大きなご愛をもって、私たちを導いてくださっていると、イスラエルの民はそのことを繰り返し味わうのです。それを通して、神様を褒めたたえるのです。私どもはその意味においてどうでしょうか?私に対する神様のこれまでの恵みを、あわれんでくださった神様のご愛を覚えて、神様をどれほど褒めたたえ、賛美しているか?そのように問われると、案外少ない。案外どころではない、本当に乏しい。口をついて出るのは「ああしてください」「こうしてください」「これが足りません」「あれが足りません」と、そういうことばかりです。私どもが感謝、賛美すると、そこに主の臨在をあらわし、主がそこに来てくださる。

 「歴代志下」20章20節から22節までを朗読。

 これはヨシャパテ王のときのことであります。彼は素晴らしい王様で、神様を畏(おそ)れ敬う治世と言いますか、政治を行いました。それで、国中が大変恵まれた平安な時代を過ごしたのですが、あるときアンモン、モアブ、セイルという三つの部族が一緒になって戦いを挑んできました。そのとき彼はまったく立ち向かうことができない。小さなユダの国は戦う術(すべ)がなかったのです。彼は神様に祈りました。「我々はこの攻めてくる大軍にあたる力がない。ただあなたを仰ぎ望むのみです」と、神様に向かってお手上げになった。主を呼び求めました。それに対して、神様は神の人を通して、「大丈夫、これは主の戦いであるから勇気を出して進みなさい」と。そして「主があなたと共におられるのだから」と励ましてくれました。彼は20節にありますように、「彼らは朝早く起きてテコアの野に出て行った」と、広い野に出て行きまして、エルサレムの民、ユダの人々を集めました。そこで民に語ったのが、この20節の言葉です。「ユダの人々およびエルサレムの民よ、わたしに聞きなさい。あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう」。

私はこれを読んで、「これは王様の言うことではない」と思います。これは牧師か預言者の言葉のようです。ヨシャパテ王は、人を支配する権力者の王としてよりは、まさに神様に仕える人でした。彼の顔は民に向くより、神様のほうに向いていたのです。だから、集まった国民(くにたみ)に対して「おれを信用せよ」とか「この強い軍隊があるから大丈夫だ」とか励ましたのではなくて、「あなたがたの神、主を信じなさい」と。神様を信じなさいと勧めたのです。更に21節に「また民と相談して人々を任命し、聖なる飾りを着けて軍勢の前に進ませ」と、聖歌隊を作ったのです。神様を褒めたたえるために賛美をする合唱団を作った。彼らに歌わせる。「軍勢の前に進ませ」とありますように、軍隊の先頭に彼らを立たせるのです。今から戦いに行こうとするときに、楽器を持って歌を歌いながら行くなんて、無謀と言いますか、とんでもない話だと言えばそのとおりであります。ところが彼らは賛美するのです。「イスラエルのさんびの上に座していらっしゃるあなたは」と。賛美し、神様を褒めたたえるところに、主のわざ、主の力が現され、主の臨在がそこを覆ってくださる。だから、このとき彼らは賛美して、歌を歌って戦いに出て行きました。

21節に「聖なる飾りを着けて軍勢の前に進ませ、主に向かって歌をうたい、かつさんびさせ、『主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない』と言わせた」。「主に感謝せよ」と、神様を喜ぶ、神様を褒めたたえる。「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」、「神様はご慈愛豊かな御方、恵みに豊かな御方、愛に満ちた御方です」と歌ったのです。22節に「そして彼らが歌をうたい、さんびし始めた時、主は伏兵を設け、かのユダに攻めてきたアンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられたので、彼らは打ち敗られた」。「彼らが歌をうたい、さんびし始めた時」です。そこに主が臨在してくださった。そこに主が働いてくださった。「お祈りしても、いくらお祈りしても神様がどこにいるやら、聞いているやら聞いていないやら分からんな」とつぶやくとき、神様がどこにいらっしゃるか、「イスラエルのさんびの上に座しておられる」ことに心を向け、「そうだ、賛美しよう」と神様を褒めたたえる。泣きながらでも、どんな中であっても、そこで神様を褒めたたえるのです。そうすると、神様はご自分を私たちに、魂に「わたしが共にいるよ」と確信させてくださいます。ヤコブに現れてくださった神様は、今も変わることなく私たちにも「しっかりせよ、わたしであるよ」と、近づいてくださって、私たちを励まし、力づけてくださるのです。だから「『主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない』と言わせた。22 そして彼らが歌をうたい、さんびし始めた時」、今度は神様が主役であります。イスラエルのさんびと共にいらっしゃる神様は、そこにあって力を現し、わざを進めてくださる。だから、どんなことにも、まず神様を褒めたたえること、神様に感謝すること、主を喜ぶことを欠かしてはならないし、それが私たちの力です。私たちが更に主の臨在を確信し、主が私と共にいらっしゃるという確かなる信頼を勝ち得て、祈りますならば、私たちに神様ははっきりとご自身を証詞してくださる。御霊が、聖霊が私たちに神様がその祈りを聞いてくださることを、たとえいま目の前に事は見なくても、幻(まぼろし)として必ずそうなる、必ず私の願いに勝ることをしてくださると確信を持てるのです。ですから、私たちはどんなことの中にあっても、まず主を褒めたたえていくこと。

 エリコの町を攻略しようとしたときもそうです。ヨシュアは独りエリコの町を眺めて思案投げ首、「どうしようか」と思ったのです。そのとき向こうから主の軍勢の将(しょう)がやって来る。そして「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」と言われて、ヨシュアはそこでひれ伏して、「神様、何を僕に告げられますか」と尋ねた。そのとき神様が求められたのは、賛美することです。「エリコの町を毎日一日一回聖歌隊をもって賛美して回れ」と言うのです。そして「七日目には七回まわって大歓声をあげよ」と。時の声と言いますか、喜びの声、「勝利の声をあげよ」と言うのです。ただそれだけです。言われたように、賛美し、感謝し、主を褒め称えて、最後に「これは勝利だ」と、大勝利の歓声をあげたところが、文字どおりそのように、エリコの町の城壁は内側から崩壊していく。彼らはエリコの町を取りました。私たちの問題解決の最短の道筋はまさにここにあります。

 詩篇22篇3節に「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです」。主はどこにおられるか、あそこでもない、ここでもない。私たちの賛美、感謝するそのところに主が共にいてくださる。

 「詩篇」96編1節から4節までを朗読。

 1節に「新しい歌を主にむかってうたえ」と歌われています。絶えず新鮮な感謝と喜びを持って主を褒めたたえることです。その後に「全地よ、主にむかってうたえ」と。私たちの心を神様に向けて、主を褒めたたえ、感謝、賛美すること。また2節に「主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ」と。神様がどんな救いを、どんな恵みをもって、私たちをあしらってくださったか、そのことを喜び、感謝せよと。また3節には「もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ」。私たちを、神様のわざをあらわす者としてくださいましたが、私たちには何もできません。ただできるのは、神様を褒めたたえることだけです。感謝、賛美するには何もいりません。ただ心を主に向けて、「主よ、感謝します。主よ、あなたはこんな素晴らしい御方です」と「私をあの中から、この中から導き出して、今に至るまであなたは私の神でいらっしゃり、恵んでくださった、持ち運んでくださった御方です」と。このことを繰り返し味わい、それを語るのです。それが私たちの求められている大切なことの一つです。神様が私たちをこうやって生かしてくださるのは、まさにそのためにほかなりません。

 「詩篇」95篇1節から3節までを朗読。

 ここでも同じように「われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう」と。「喜ばしい声」ですよ。私たちの祈りはヒーヒー泣き声のような祈りばかりです。「われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう」と。ここにもう一度繰り返されている。私どもは喜ぼうではありませんか。感謝、賛美して、主を喜ぶ者となっていきたい。そうすると、そこに主が臨在してくださる。主が私たちと共にいて、私たちの力となってくださるからです。こんな素晴らしい恵みの中に私たちは置かれている。だから、この95篇96篇、その後の詩篇はまさに主を褒めたたえる詩篇になっています。是非お読みいただいたら、励まされます。良いにつけ悪いにつけ、それにかかわらず主を褒めたたえ、賛美することは主の臨在と共に生きる道筋です。神と共に歩む者となるためには、賛美、感謝し、主を褒めたたえること、これ以外にありません。

  ご一緒にお祈りをいたしましょう。

最新の画像もっと見る