いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(556)「実を結ぶもの」

2016年03月09日 | 聖書からのメッセージ

 「ヨハネによる福音書」15章12節から17節までを朗読。

 

 16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。

 

 私たちは今イエス様を信じて、救われた身分としていただいております。イエス様の救いを自分で求めてきたと思いやすいのですが、実はそうではないと。これは度々お話ししているとおりで、神様はその時を定め、私たちを滅びの中から救い出して、神様の民、神の家族として選んであげよう、救ってあげようと決めてくださったのです。このことは「エペソ人への手紙」の1章に、「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」(1:5)と記されています。そんなこととはつゆ知らずに、私たちはこの世に生を受け、それぞれ与えられた地上の旅路を歩んでいたわけです。しかし、この地上の旅路は、悩み多く、波乱万丈、苦しみと悲しみに満ちた日々でありまして、自分の能力や努力でやり抜くことは到底不可能であります。耐えられない苦しみ、逃れられない様々な重荷の中でうめいている私たちであります。そういう試練を通して、思わず知らず、神様を求める者とされました。何とかして救いにあずかりたい、この苦しみから救ってくれるものはないだろうかと、いろいろな悩みがきっかけとなり、あるいは問題にぶつかって、行き詰って、救いを求めて神様の所へ来る。そのような事例がいちばん多いと思います。中には「いや、全くそんな事とは関係がない。自分は生まれながらに気が付いたら救いに引き込まれていた」という事もあるでしょう。実は私もそういう類(たぐい)の一人であり、自分で求めたわけではなかった。だから、若い頃は「どうしてこんな不幸な家に生まれたのだろうか」と、嘆いておったことがあります。しかし、今はそうは思わない。神様がいろいろなかたちで、いろんなきっかけを設けて、ご自分の所へ引き寄せてくださった、集めてくださったのです。ですから、自分はあの問題があったから、こういうきっかけがあって、こういう人が誘ってくれたから、このイエス様の救いにあずかったと言える人もいます。なるほど、見るところ、表向きはそのような形に見えますが、その裏には神様の用意周到なご計画があったのです。この日、この時、この者を救おうと、決めてくださったのです。ですから、自分で求めて来たようであって、実は神様のほうが私たちを選んで、目をとめてくださった。

 

だから、「なぜ私がイエス様を信じる者になったのだろうか」と考えてみたら、不思議としか言いようがない。世の中にはもっといろいろな人々が……、当然イエス様の救いにあずかっていいはずだと。いいはずって、何かそういうきっかけがあるはずだ、と思う人はいくらでもいます。よりによって、なぜ私が? クリスチャンホームに生まれ育ったからといっても、全員がそうなるというわけではない。その中の一人が選ばれるというのは、選ぶ人の目的があるからです。だから、神様から選ばれたということは大変うれしいことです。しかし、逆に選ばれることは、それに責任を伴うといいますか、求められる、期待されるところもあるのです。私どもは、そういういろいろなことがきっかけで神様を求めてまいります。そして祈り、慰めを受け、御言葉によって励まされて、いろいろな問題の中で具体的に解決が与えられる。あるいは、悩みから、重荷から解放されて喜ぶ。「本当にイエス様の救いにあずかって良かった。この信仰に導かれて私は幸いでした」と、そういう事情や事柄が思うように願うようになったことで喜びますが、これが神様の私たちを選んだ目的ではありません。それらはある意味で副産物、付録のようなものです。神様が私たちを選びなさったというのは、「お前は、苦しそうだから、ちょいと平安を与えてやろう」、「お前の悩みが大変だから、何とかわたしが救ってやろう」と、私たちを憐れんでくださった。それは確かにあるに違いない。その結果、具体的な生活上の問題、悲しいことやつらいことが解決され、その中を通り抜く力を与えられたのは、感謝の他はありませんし、大いに喜ぶべきことであります。しかし、それともう一つ、今度は選んだ神様側の意図といいますか、目的があるのです。実はこれが大切なことです。神様が私たちを選んでくださった。この16節にありますように、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」と。神様が私たちを選んでくださった。「多くの者の中から、どうして私に目を留めてくださったのだろうか? 」、「どうして私が選ばれたんだろうか? 」その理由は分かりません。あるのはただ一つです。神様が私を愛してくださった。「じゃ、私を愛してくださって、あの人、この人は愛していらっしゃらないのか」と言われても、そんなことは私たちには分かりませんが、神様はそういう人たちも愛していらっしゃる。全ての人を愛していらっしゃるのです。格別私たちを愛してくださったゆえに、ご自身の民として、私たちを救い出してくださった。イエス様の救いにあずかる者としてくださったのであります。

 

アブラハムの場合もそうであります。アブラハムもなぜ彼が選ばれなければならなかったのか? 余程他の人よりも優れた功績があり、神様にとって何か役立つ人物であったから選ばれたのかというと、そんなことは何もありません。その時代の人々とほとんど差がないというか、実にありふれた人物であります。だから、なぜ彼が選ばれてイスラエルの民の父祖とまで、信仰の父アブラハムとまで多くの人々に呼ばれるように変わったのか、それは神様の選びと召しでありまして、私たちには分かりません。しかし、選ばれたことは、うれしいことです。誰でもそうですけれども、何かに選ばれるということは、悪くはない。

 

よく観光地に行くと、お店の人が寄ってきて、「このくじを引いてください」と、何事かと?「無料ですから」と言うので、引くと「大当たりです」と言われて、「いや、当たったのだ」と喜んでいると、「これがもらえます」と見せてくれる。よく見ると、小さな文字で「ただし、これこれの物を買った人には……」と書いてある。条件付きで選ばれている。そのように選ぶ人には何か目的があるのです。その人を選んで、その人に何かさせたいという魂胆といいますか、裏がありますから、だから“タダより高い物はない”といいますが、時々、そういうのに引っ掛かります。「これは無料ですよ」と、しかも「あなただけに与えられる特典ですから」と言われると、他の人とは違うような感じがして、うれしくなります。選ばれるのは、確かにうれしいことであります。

 

だから16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない」と。自分が選んだのではなくて、神様が「わたしがあなたがたを選んだのである」と、神様のほうが私を選んでくださった。だから、「選んだ」のは、そこに目的があるのです、選んだ方の。そして、しかも選んだ以上、選んだ人の責任です。だから、よく言いますが、信仰に導かれて、イエス様の救いにあずかって喜んで感謝している時期があります。そのうちだんだんとその喜びにも慣れてきて、「こんなものか」と思い始める。やがて以前のように熱心な喜びが湧(わ)いてこない。そうすると、「どうも、信仰が足らない人間でありまして……」と、「何とかこの信仰を全うしたいと願っているのですけれども」と、だんだんと自分で頑張らねばならない、このたるんでしまった信仰は自分の責任だと。「私がもっと熱心であれば喜びが倍も三倍にもなって、救いの喜びをいつまでも味わうことができるのだろうが、どうも最近の自分を見ると、嘆いたり悲しんだり、身の回りのことに捕らわれて魂が死んだような状態、これはいかん、私が怠惰であるためである。私が怠けものやからこうなってしまった。神様の前に申し訳ありません」と言って、よく悔い改めなさいます。それはそれで悪くはありませんが、肝心なことが抜けているのです。それは何か? 選んだ御方がおられる。神様が私たちを選んで、ご自分の救いの中に取り込んでくださった。それは逆に言うと、神様が全ての責任を持ち給う御方です。私たちの信仰がなくならないように、それを育て、成長させてくださるのは、神様です。だから、「そうか。それじゃ、私は寝ていていいのか」というのではありません。なぜなら、選んだ御方の目的にかなうように私たちが努めていくことが、求められているのです。私たちが選ばれたこと、こうして救いにあずかったこと自体は、神様の側の責任です。その救いを全うしてくださるのも神様です。それに対して私たちはどうするか? 選んでくださった神様のご目的が何なのか? いま私は選ばれ、この救いにあずかっている。それは何のためなのか? 選んでくださった神様は私に何を求めていらっしゃるのか、そこをよくよく悟ること。そして、そのために与えられた全ての物を費(つい)やして、そして、実行して行くことが私たちの生きる目的、生かされている目的です。

 

15章1節以下に、皆さんもよくご存じの「ぶどうの木」のたとえが語られています。父なる神様が農夫、イエス様はまことのぶどうの木であると。そして、私たちはその枝であることが語られている。そして15章5節に、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」と。ここで私たちをぶどうの木の枝にたとえてくださいました。それは私たちがイエス様の救いにあずかることです。かつては、イエス様のことも知らない。神様とも縁がなく、滅びの道を歩んでいた私たちを、そこから救い出して、十字架のいさおしによってキリストにつながる者としてくださった。だから、イエス様の救いは、イエス様と共に生きる者となること、一蓮托生であります。イエス様と一つになることに他なりません。そのことが幹と枝という関係で語られています。だから、私たちはイエス様の本体である、ぶどうの木のイエス様につながっている枝です。枝は必ず実を結びます。その実を結ぶことが、実は神様が私たちを選んでくださったご目的です。私たちをして実を結ぶ者としてくださる。ぶどうの木につながる枝である私たちが、「実を結ぶ」とは、何を結ぶのでしょうか? リンゴは結ばないはずでしょう。みかんがなるわけではないでしょう。やはり、ぶどうの木はぶどうの実を結ぶものです。いうならば、本体であるまことのぶどうの木とその枝とは一つであります。そのぶどうの性質といいますか、ぶどうの木の持っている性質は、全て枝を通して実に受け継がれていきます。この実を結ぶ者となること、これが神様の私たちに願っていることであります。

 

「ルカによる福音書」13章6節から9節までを朗読。

 

ぶどう園の主人がいちじくの木をぶどう園の一角に植えておいたのです。いちじくの実が食べたいと思ったのでしょう。季節が来たらちゃんと実る。それでご主人も、実を収穫しに来たのであります。ところが、見つからなかった。それでぶどう園を管理する僕に、7節「わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない」。3年たっても全然実が実らない。「その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか」と。なるほど、いちじくの木は、結構茂りますから、恐らくこのご主人も土地がもったいないと思ったのです。その場所があれば、ぶどうの木をもう少し増やして収穫を得ることができるでしょうから、「こんな物は邪魔くさい」と思ったのです。「土地をむだにふさがせて置くのか」と。そのとき、この園丁が8節以下に、「ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやってみますから。9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」ととりなすのです。この園丁は自分がせっかく手入れをしてそこまでしたのに実らない。「切り倒してしまえ」と言われたら、まことにそのとおりで、「切り倒した方がいいに違いない」。けれども、「せっかくここまで来たのだから、もう後一年肥料をやってみるから、待ってください」と執り成しているのです。これはイエス様が語られたたとえです。

 

これは何を語っているのでしょうか? 私たちのことです。神様が「わたしがあなたがたを選んだ」と。いうならば、このご主人のぶどう園ではあるが、いちじくの木を植えようと選んだのであります。それは何のためか? 実を得るためです。その実はいちじくの実を得るのです。神様が私たちを選んで立ててくださった。言い換えると、まことのぶどうの木でいらっしゃるイエス様に連なった枝にしてくださった。だから、私たちがぶどうの実を実らせることを期待しているのです。「もう、三年たっても実が実っていない」、我が身を振り返ると、「五十年たっても実らない、これはどうなっているのか」と思う。実らない。それに対してご主人は「こんなのは切り倒してしまえ」と。神様は「わたしがあなたがたを選んだ」と、「それはあなたがたが行って実をむすび」とあります。私たちが実を結ぶことを期待して選んだのです。「実を結ばないのだったら切り倒してしまえ」、滅びだと。なぜならば、選ばれた者たちに大きな責任がある。なぜならば、選んでくださった御方のご目的にかなわない。いうならば、いちじくの木をあえて選んでぶどう園の一角に植えたご主人にとって、ぶどうではなくて、いちじくを実らせてほしいと願ったのです。だから、それを求めて三年もたった。ところが一向に実らない。「だったら、もう切り倒してしまえ」と。同じように、私たちにも神様が期待していらっしゃるところがある。私たちが幹なるイエス様に連なって実を結ぶことを期待していす。

 

「ヨハネによる福音書」15章5節に、「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。「実を豊かに」ですよ。ちょぼちょぼじゃない。あるかないか分からないような貧相な実ではない。豊かにあふれるばかりの実を結ぶと。その実とは何でしょうか? その後に「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」とあります。「何一つできない」という意味は、私たちが神様のご目的にかなうことができないという意味です。「何一つできない」、悪いことはできるのです、私たちは。神様から離れて好き勝手はできる。罪を犯すことは大いにできますが、イエス様に連ならなければできないことがある。それは何か? 神様の御心にかなう者となること、イエス様のご性質、ぶどうの木の枝はぶどうの幹と同じ性質のものです。そうでないと、その枝の先にはぶどうは実りません。別のものを接ぎ木したら性質が違ってしまう。本体はぶどうの幹でありながら、枝は別のものとなり、ちぐはぐなことになってしまいます。だから、枝であるかぎり私たちはその幹と同じ性質です。そのものです。

 

よく皆さんニュースなどで聞かれると思いますが、「DNA」という物があります。これは体の組織、細胞の中のその人にしかあり得ないという、ひとつのたん白質のつながりでしょうけれども、情報があるのです。いろいろな犯罪現場で遺留品に付着しているDNAを調べると、その人物がそこにいたということが証明されるわけです。そのDNAというのは、どこにあるかというと、その人の体のどこにでもあるのです。爪(つめ)の先、髪の毛、唾(だ)液でもどこを取ってもそこにその人だという性質が必ず備わっている。だから、私たちが手を失って、「私の手はどこに行った」と、それはDNAを調べればこの人の物というのが分かる。だから、飛行機事故だとか、交通事故などで沢山の人が一気に亡くなる。そうすると、本人確認ということをしますけれども、そのときに見るだけでは判別が付かない、誰であるのか分からない。そういうときに調べるのが、まさにそのDNAです。その人の体の一部分、どこでもいいから取りさえすれば、DNAを調べてその人であるのかどうかということが判別できるのです。

 

それと同じように私たちとイエス様とが、幹が太かろうと、やせていようと、まことのぶどうの木であるイエス様につながった枝はイエス様のご性質がそこにあるのです。先っぽだろうと、真ん中だろうと、端っこだろうと、どこを取ってもこれはまさにイエス様そのもの。連なって行くという、枝となるということは、イエス様と同化してしまう。同じものに変わっていくこと、そして、イエス様からの力を得て、その実を実らせていく。その実というのは、「ガラテヤ人への手紙」に語られている「御霊の実」(5:22~愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、:23 柔和、自制であって)ということ、これはいちばん分かりやすいことでありますけれども、それはそのとおりに実を実らせるわけでありますけれども、もう一つ、そのことを別の形で言いますと、キリストの姿かたちに私たちが変わるということなのです。実となるということは、私たちがその枝となりきって、そしてキリストの性質、性格にふさわしい者となっていくことです。

 

だから、15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである」。「実をむすぶ」、これは私たちがキリストのご性質に造り替えられていく、ということであります。私たちがイエス様と全く同じものに造られることです。

 

「エペソ人への手紙」4章11節から13節までを朗読。

 

13節に「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり」とあります。「全き人となる」。「ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」。私たちがイエス様に連なって、枝となり、その枝が結ぶ実は、「全き人」となる。キリストの姿かたち、徳に至るまで……、これが選ばれ、召された目的であります。私たちは、今もなおこの現実の生活の中でいろいろなことに出会います。悩みも悲しみも苦しいこともあります。しかし、その試練といわれる事を通して、私たちがますますキリストの姿かたちに造り変えられていく。それは見た目では分かりません。外側から見て、「あの人はだいぶキリストらしくなってきた。あれは八割くらいだ」とか、それは分かりません。それぞれ一人一人の魂の状態、内なるものがキリストと一つになること。キリストのものとなりきっていくことです。ですから、私たちは悲しいことにも遭いますが、そのことを通してキリストと共にあることの喜びをますます味わい知るようになってほしい。また、苦しいつらい中に置かれても、そこでキリストと共にあることを喜び、そしてキリストから注がれる慰めと力を味わって輝いてほしい。そういう悩みや悲しみや苦しみに押し潰(つぶ)されて、“青菜に塩”のように縮(ちぢ)こまって、意気消沈してしまうのではなくて、その中でキリストのご性質にまで私たちが造り替えられる。私たちをして神様の栄光をあらわす器に変えてくださる。それが選ばれた目的です。ですから、13節に「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」と。更に15節に「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」。「キリストに達する」、私たちが成長してキリストの姿に造り替えられていく。これがまことのぶどうの木でいらっしゃる主に連なる。その実を結ぶために、私たちを神様がこの世から選び召してくださったのであります。だから、救われたからといって、悩みもない、悲しみもない、毎日がパラダイスだ、「何一つ心配なことがありません」ということではない。いや、むしろいろいろな悩みや悲しみ、苦しいことがありますが、その中を通して造り替えられ、キリストと一つとなっていく。そのために、信じる者、神様の子供として、いま召されているのです。

 

 「ヨハネによる福音書」15章16節に、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり」、その実とは「ガラテヤ人への手紙」に語られた「御霊の実」であり、その実が私たちの隅から隅にまで行き渡って、キリストと一つになる。神のご性質にあずかる者と変えられる。イエス様と同じ性質に私たちは変えられていく。そのために選ばれて召されているわけであります。

 

 その後にもう一ついわれていることは、「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」と。これは、私たちが求めるもの、どんなものでも何でもかんでも右から左に神様は「『はい』『はい』と何でもくださるのだ」と、読めばそう読めないことはありませんが、決してそんなことを言っているのではない。私たちがキリストと一体になる、キリストのように神の子供となりきったとき、どんなものも父なる神様から頂いたものに変わっていきます。いうならば、「父が与えて下さる」ものとなる。私たちが祈り求めるものは何でも父が与えてくださる。そのとき、病気も感謝ができるようになる。あるいは、悲しい出来事もそこで喜ぶことができるようになる。なぜなら「祈った結果、神様はこうして恵んでくださった。全てのものが主から出たことです」と、「神様が与えてくださったものです」と感謝ができるからです。

 

イエス様がそうでした。イエス様のこの地上でのご生涯は、父なる神様が与え給うところを何もかも感謝して受ける。十字架の死ですらもいとわないで、父なる神様の求め給うところに喜んでお従いなさいました。それは嫌々ながらでは決してない。イエス様はゲツセマネの園で祈りました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)と神様に、全面的に……。確かに「嫌なことだから、神様、これを取り除いてください」と、私たちも求めますが、しかし、祈った結果、与えられたことであるならば、それも祈りに応えられたことであります。

 

かつて、父がそういうことを言っていました。ある方が「先生、お祈りした結果、こういうことになってしまいました。神様はお祈りを聞いてくださらなかった」と。そのとき父は「そうじゃないでしょう。お祈りした結果がそれならば、それが神様のお答えだ。神様が応えてくださっているのになぜ受けられないのですか」と。私たちは往々にしてそういうことを言うのです。「こうして、ああして、この日には必ずこうなってもらわなければ困る。だから、神様、どうぞよろしく」と。ところが、そうはならなかった。「せっかく期待したのに外れてしまった。お祈りを聞いてくれませんでした」と。「祈った結果、そこに神様が『これでよろしい』とおっしゃった。あなたの祈りに答えてくださった」のです。

 

16節の後半に「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さる」。そう言えるようになるのです。私たちがまことのぶどうの木でいらっしゃるイエス様に連なって、豊かに実を結ぶ。そうなったとき、神様が私にしてくださることは全部私の祈りに答えられたことになる。それを感謝して受けられるようになる。もう一度自らの信仰の姿勢を整えて、「何のために私は今日も生かされているのだろうか」、この地上に命にあるかぎり、神様が求めてくださることがあるに違いない。それは事情や境遇、問題ではなくて、私自身がどのように神様の求め給うところに従い、造り替えられていくのか、そのために与えられた日々の業の中で、今日も主が選んで、私を立ててくださった。このことを常に自覚して、そこで何を求めるか。「全てのことは主が与えてくださった」と言えるように、私たち自身がキリストの満ち満ちた徳の高さにまで成長して行く。キリストの身丈に倣(なら)う者となっていきたいと思う。ぶどうの枝になり切って実を結びたいと思うのです。

 

「マルコによる福音書」にありますように、イエス様がエルサレムに行かれるとき、いちじくの木をのろわれた記事があります(11:12~)。まさに、見たところは生い茂って、たくさん実がありそうないちじくの木だったのですが、イエス様が行ってみたら実がなかった。そのとき「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。「弟子たちはこれを聞いていた」とあります。ところが、翌日同じ所を通るとき、そのいちじくの木が枯れていたのです。根元から枯れてしまったと。実がなかった。でも「いちじくの季節ではなかった」とあります。それはイスラエルの民が神の選びの民として、神様の御心にかなう者に造り替えられるべきところが、なるほど、繁栄し、豊かにはなった。見たところは生い茂って、はつらつとしているようだけれども、実は空っぽ、実のない姿、これはイスラエルの民だ。その民を神様は滅ぼしてしまわれると……。いま私たちは信仰によって、イスラエルの民、ヤコブの子孫とされています。生活は良くなったし、食べる物、着る物も豊かになって、見たところは葉っぱが生い茂って実がありそうです。ところが、中身が空っぽで実がない。何の実がないか。キリストがない。主がそこにいらっしゃらない。これは致命傷です。そうならないために、日々、私たちはいろいろなことの中に置かれますが、そこで真剣に主を求めて、主の御言葉によって思いを清められ、整えられて、キリストの身丈にまで「主が私と共におられます」と、感謝、賛美できる者になりたいと思います。

 

16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。どうぞ、この主の選びの目的にかなう者と、少しでも実を結ぶ者となりたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


3月8日 日々の聖言

2016年03月09日 | 日々の聖言

「神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、

いつくしもうとする者を、いつくしむ』。」ローマ9:15

 

 神様は絶対者であり、権威権力を自在にふりまわすことができます。神様のなさることに人は

一言も口を挟めないし、指一本触れることも出来ません。そのような方が私たちに心を向け、救

もっと見る