「コリント人への第二の手紙」5章1節から10節までを朗読。
1節「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている」。
昨日は福岡にある老人ホームの施設の『召天者追悼式』の御用を頼まれまして、そこへ伺(うかが)ったのであります。そのときに、係の方が前もって連絡してくれて、「先生、聖書の箇所はどこにしましょうか? 」と言われる。聖書の箇所はどこにするといって、集まっている人々はノンクリスチャンといいますか、教会などに行ったことのない方たちであります。しかも、もう年を取って、亡くなった人より以上に年を取っていますから、どこまで理解できるかそれは分かりませんが、御霊が働いてくださるかぎり、どんな状態であっても人の魂に届いてくださることを信じて、祈って与えられたのがこの御言葉だったのです。
「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている」。私たちはともすると、この地上に生きることが、生涯の全てであるかのように思っています。気が付かないうちにそういう思いになっています。わたしたちは聖書を通して神様のことを知り、また信じる者とされています。また、イエス様の十字架のあがないを信じて、救いにあずかった者、神の子、あるいは、神の民とされていると信じています。しかし、肉体を持って地上にありますから、つい目の前の日々の生活が全てで、それが何よりも大切な事であるように錯覚します。そのために、生活を営む、肉体を養うことに全精力を傾けます。時には、神様をそのために利用する事態にもなります。そうやって、物質的に生きることを務める。
私たちは物質的に生きることが全てではありません。そもそもこの地上に命を与えられたその瞬間から、死に向って進んでいるわけであります。どんな人も死を逃れることはできませんし、その終りは定まったことであります。ですから、「へブル人への手紙」に、「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように」(9:27)とあります。ところが、その死に対してどういう備えをするのか? あるいは、死をどのように受け入れて行こうとするのか? これは私たちの大切な人生の課題です。また、そのために生きているのであります。「死ぬために生きている」と言ったらいいと思います。今日の一日も私の死に向かっての一歩であり、また、自分が死をどのように受け入れ、どのようなものと信じているか? これが日々問われています。私たちはこの肉体が全てのように思いますけれども、しかし、それは必ず朽ちて行くといいますか、滅び去って行きます。
この1節に「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれる」とあります。「幕屋」とは、私たちの生活、直接的には身体でしょう。あるいは、それを取り巻く生活の一つ一つの事がこわれて行く、失われてしまいます。また、そのすぐ前4章にもありますが、「外なる人は滅びても」と16節にあります。私たちの外側といいますか、地上の幕屋は日々に朽ちて行く、失われるものであります。その後どうなるのか? その後に「神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家」とあります。神様が私たちに備えてくださった建物に移される。そのとき、大切な事柄は、私たちのこの肉体を持ったままで御国に帰るわけではないということです。「じゃ、いったい何が帰るのだろうか? 私の体がなくなったら消えておしまいや」と、私たちは思いますが、ところが、私たちは霊魂といいますか、魂が与えられている者であります。「え!そんなもの、私はいつもらったかしら」と思われるかもしれませんが、「創世記」に記されているように、人が初めて神様によって創られたとき、神のかたちに尊い者として創ってくださったばかりでなく、「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世 2:7)とあります。私たちに神様は霊といいますか、魂を与えておられる。
昨日も老人ホームに集まった方々に、まずはそのことをお話ししました。といいますのは、「魂なんて、どこにあるかしら? 」、「そんな霊魂なんてあるようなないような、そんなものは信じられん」と言われる方もおられると思いますが、確かに、私たちの肉体的な感覚、手で触ったり、目で見たり、そういうかたちでは魂を知ることはできません。私たちの目に見えるものではありません。「じゃ、ないのか? 」というと、見えないから存在しないのではありません。私たちの中に神様は、その魂を置いてくださっておられる。それはどうやったら分かるかと言われると、分からないと答えるほかありません。「じゃ、そんなものはあるともないとも言えんやないか」と言います。ところが、人は魂を信じるのです。多くの人々は、たとえ聖書の語っている神様のことを知らなくても、「人には魂がある」と信じています。どんなに否定してもそうはならないのです。
間もなく日本の国民的行事であるお盆が始まります。お盆はまさに霊魂のお祭りでありまして、先祖の霊が帰ってくるというわけでしょう。その霊は決して死ぬことはないわけであります。どこに行ったか分からないけれども、取りあえず、どこかに行っているのでしょう。それがお盆になると帰ってくるから、迎え火をたいて、ここがあなたの家ですよ、と分かりやすくしてやろうという話です。そして来られたらご馳走を食べさせるのに、故人が好きだった物を並べます。並べたからといって一皿なくなったとか、二皿なくなったとか、「今日は満腹しただろうか」と聞くわけにもいかない。そんなのは見えないわけであります。
私も子供の頃、夏になると母の実家がある五島列島に遊びに行きます。そうすると普段知らない習慣に出合う。殊にお盆の時期でありますから、普段は飾らないような提灯やいろいろの飾り物が仏壇に飾られる。しかもいろいろな食べ物が仏壇に並べられる。普段自分も食べた事のないような物が載っている。祖母に聞くのです。「これは誰が食べるのか」と。「これは仏様が食べる」、「仏さんって、誰? 」「いや、先祖の霊」、「先祖って誰? 」「ここにあるでしょう」と、ご位牌が幾つか並んでいる。「その人達が来るのか? 」と。「来る」と言う。私はそんな怖いこと、死んだ人が来るのかと思う。子供の頃は、興味津々(しんしん)ですから、並べられた物をじっくり見ていた。ところが二日たってもちっとも減らない。それでお盆が済むと、「ああ、これで終わった」と、取り下ろしますが、減ってないのです。数はちゃんとある。「さぁ、食べよう」と、今度は自分たちが食べる番になる。滑稽(こっけい)なようですが、実は人の心に魂があることを否定し難い。目に見えないもの、永遠に続くものがあることは、誰でも感じることです。だから、聖書には「これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(イザヤ11:2)とあります。私たちに永遠なるものを思う心、あるいは、不滅なるものに対するあこがれ、あるいは、何か畏敬の念を覚えさせる力、そういうものは、年端もいかない小さな子供ですらそれを持っています。
よくお話ししますみゆきちゃんは2歳半ですけれども、近頃は幽霊という言葉を覚えまして、「幽霊が怖い」と言う。それは私に抱っこしてもらいたいからですが、「怖い、怖い、幽霊が怖い、抱っこ」と言う。不思議なことに、幽霊が何たるかを分かっている。どこで習ってきたのか、「誰が教えたのかしら」と思いますが、少なくとも、私はそんなことを教えたつもりはない。人の心にはそういう目には見えない恐れるべきものがある。これは怖いという存在でもあると同時に、そうでないものもあることを誰しもが否定し得ないのです。普段はそんなことは縁のない生活をしています。常日頃は食べたり飲んだり、目の前の生活に追われていますから、そんなことはちっとも感じません。ところが、たとえ自覚しなくても、魂が心にあるのです。実は、私たちの体はその魂の入れ物、器です。この地上にあって、その魂に絶えず影響されながら人生を生きているのです。神様は魂を通して私たちにいろいろなことを仕掛けてくださるといいますか、働き掛けてくださる。それは神様の霊でもあります。「霊はこれを授けた神に帰る」(伝道 12:7)と約束されています。私たちの肉体が朽ち果てるとき、魂はそこから抜けて行く。だから、召された方が柩(ひつぎ)に納められている姿を見るとき、「もう魂は天に帰ったのだな」とつくづく思います。確かに生きていたときと同じような、表情や姿かたちにあまり変化はありませんが、大きな変化は命がないことです。命というのは、必ずしも心臓が鼓動しているから、あるいは脈があるから、あるいはしゃべられるから、あるいは動き回れるから命があるのではなく、魂が私たちの肉体が終わると同時に、瞬時に神様の御許(みもと)に引き上げられてしまう。ですから、残された肉体は抜け殻です。よくセミの抜け殻を目になさると思いますが、今までは土の中に何年と長く住んでいた幼虫がやがて木に登ってくる。そして、ある朝、時が来てパッと羽化して飛んで行きます。ちょうどそのように私たちもこの地上にあって生きてきた肉体が朽ち果てるとき、あなたでしかあり得ない、一つの大切な神様からの命、力、霊、これが神様の所へ帰って行くのです。「そんなの、お前見てきたのか」と言われると、私は見ておりません。「えらい、お前さんは見てきたようなウソをつくな」と言われそうですが、聖書に書いてあるのです。「霊はこれを授けた神に帰る」と。全ての人に神様の霊が与えられている。「いや、それは神様を信じない人にまであるのか」と、それはあるのです。「猿やゴリラやチンパンジーなど、あれは人間の先祖といわれているが、あれにも霊があるのか」と言われると、これらには霊はありません。いくら姿かたち外見が似ていようとも、肝心なのはそこです。だから、人のことを“万物の霊長”と言うでしょう。霊に生きるもの。だから、どんな未開の土地の人たちであろうと、聖書の言葉すらも知らない人たちにも霊はあります。神の霊が宿っている。だから、いわゆる神々を祀(まつ)る、まぁ、偶像であったりしますが、真の神様ではありませんが、それは自分たちが知らないからそういうものを祀ります。しかし、それとても人の魂の渇きです。
だから、私たちはそのことを常に自覚しておきたいと思います。自分の肉体を持って生きているこの生活だけが全てではなくて、私の内にある魂……、この魂は、聖書の言葉を読むとき、神様のことを心に思うとき、言葉に言えない心の安らぎ、あるいは、望み、力を感じ取るのです。魂が萎(な)えてくると力を失います。聖書に「内なる人」という言い方でもいわれています。私たちに宿っている魂が常に神様を求め続けるのです。神様とつながることによって初めてその魂は命、力を得る。だから、イエス様が「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」(ヨハネ 7:37)とおっしゃる。「かわく者」とは、私たちの魂が神様を慕い求めている状態。私たちの内にもその思いがあるのです。
1節にありますように、「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家」、今度は神様からの永遠の家、建物、これは永久的な物であります。「地上の幕屋」とか「幕屋」はテント、いわゆる仮住まいであります。ひと時のものであります。だから、それがこわれると、神様から頂く、神様が備えてくださった「天にある、人の手によらない永遠の家」。これが私たちの受ける報いです。パウロは「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」(ピリピ3:14)と告白しました。「神の賞与」とは何か?まさに、この永遠の住まいに私たちを住まわせていただく。これこそが目指すべき目標であり、他の個所ではそのことを「義の冠」(Ⅱテモテ4:8)と、あるいは「いのちの冠」(ヤコブ1:12)という表現で言いかえられています。いうならば、私たちを神様は永遠のいのちの生涯に取り込んでくださる。いま私たちは肉体という限りあるものの中に魂は閉じ込められた状態である。しかし、そのときが来ると、私たちの肉体は朽ちはて、私たちの霊は神様の所へ帰って行く。そして神様の約束してくださった御国に、人の手によらない、永遠の家に迎えてくださる。
「ヨハネによる福音書」14章1節から3節までを朗読。
2節に「わたしの父の家には、すまいがたくさんある」とあります。「わたしの父の家」、それは取りも直さず、神様の御許には「すまいがたくさんある」。豪華マンションです。このことをテーマにエルビス・プレスリーが歌った『天にあるマンション』という歌があるのです。歌詞も非常に福音的な歌詞です。「そこに帰って行く私の場所が備えられている」と歌っている。まさにこの記事そのものです。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」。イエス様が先に天にお帰りになったのは何のためか? 私たちのために場所を用意してくださる。
イエス様が天にあるマンション、私たちの住まいを備えてくださる。これが私たちの生きる目的、これは私たちの望みです。この地上にあっていろいろな心配や不安や、悩み、困難なこと、憤ること、いろいろなことがありますが、実は、そんなことはどうでもいいのです。私たちに大切なのは、永遠の御国の望みを持って生きていることです。「目の前のあれがこうなら……」、「明日こうなら来年はこうなるに違いない」と、そこで望みを得よう、何とかそこに安心を得ようとしますが、そうであるかぎりいつまでたっても永遠の御国を望むということはできません。この地上に元気であるこの時にこそ、しっかりと神様の力により頼んで、御言葉に養われ、いつも見えない御方を絶えず見つめて、その交わりの中にあって、パウロのように「上に召して下さる神の賞与」を目指して生きるなら、「いつまでもこの地上に生きておりたい」とは思わない。「いや、どうなろうと、こうなろうと、寝たきりになろうと一日でも長くおりたい。孫のために年金を残してやりたい」と、そういう話もありますが、私たちの目的は、早く主の御許に帰ることです。
「コリント人への第二の手紙」5章7節以下に「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている」と。どうでしょうか? 「願わしい」のです。「むしろ肉体から離れて主と共に住むことが」、“死んで”という意味ですよ。私たちが死んで、魂がその肉体を離れて「主と共に住む」、イエス様が備えてくださった父なる神様の住まい、天にある永遠の家に住むことが願わしい、是非早くそうなりたい。どうでしょうか? 皆さん、願われる方は?私たちは「この地上の生涯を離れて早く御国に帰らせていただきたい」と心から願います。そこに私たちのいのちの源でいらっしゃる主が私を待っていてくださる。8節後半以下に「むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである」。願うからといって、今日明日、すぐに死にたくても死ぬわけにはいきませんから、今なお肉体を持ってこの地上にあるならば、もはや肉に生きる者としてではなくて、神様の霊に生かされている者、霊のいのちによって生きている者であります。「肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となる」、神様が喜んでくださる者となって、この地上の旅路を歩む。
「ピリピ人への手紙」1章20節から24節までを朗読。
ここでパウロは、生きるにしても死ぬにしても、「わたしたちの身によって」、すなわち、私たちの生涯を通して「キリストがあがめられることである」。キリストに栄光を取っていただく。パウロは、何としても「キリストのうちに見いだすようになりたい」(ピリピ3:9)、「キリストを得る者となりたい」(ピリピ3:8)。 日々の生活のどんなことの中にも「ここにキリストがいます」と、見えるような、明らかになるような生き方を彼は切に願いました。それはこの地上の旅路が終わってキリストと共にあることの予行練習です。
私たちも今この地上にあってキリストと共に生きることを努めていく、どんなことの中にも、主がここにおられ、主が導いておられることを信じて、主との交わり、祈りの中に日々歩んで行きますとき、やがて御国にあって主と共に生きる喜び、永遠のいのちの前味(まえあじ)といいますか、この地上にあって味見をさせていただけるのです。だから、この21節に「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と。だから、肉体を持ってこの地上に生きていることは、パウロにとってキリストそのものです。イエス様と一緒になって生きる。もしそれで肉体の死を迎えるならば、「益である」と、自分にとって望ましいと。だから23節に「わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」と。パウロは、この世を去って早くキリストと一つになる。永遠のいのちに加えられたい。そこで神様の「上に召して下さる神の賞与」(ピリピ 3:14)をいただきたい。 これが彼の望みであり、求めているものに他なりません。その後に「わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。24 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である」。自分の願いを言えばそうだけれども、神様がなおなすべき使命を与えておられるかぎり、わたしがとどまることが必要であるならば、それが主の御心であるならば、これはやむを得ない。そこに従わざるを得ない。これがパウロの告白であります。
私たちもこの肉体が失せ去って、神様の御許で主と共に住むことが願わしい。それが喜びであり、望みである。これが私たちの与えられている信仰でもあります。ただに地上にあることばかりでなくて、御国に帰る喜び、御国を確かなものとして喜ぶ人生。
「コリント人への第二の手紙」5章1節に、「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている」。当然知っているはずではないか、というのです。そのことを私たちが当然のこととして信じているのかどうか?それを私たちが求めている日々であるかどうか? これが日々問われなければならない。その後2節以下に「そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう」と。これは何だか難しい。「何を言っているのかな」と思われるかもしれませんが、いま地上にあっていろいろな悩みの中に置かれていますが、それは結局のところ、永遠の御国に帰る備えの時なのだ、ということです。この「上に着ようと切に望む」、ともすると、この悩みを早く脱ぎ捨てたい。「この苦しいこと、この弱い物を取り除いて、こういう悩みから解放されたい」と思います。しかし、それはいくらやっても消えません。「じゃ、どうするか」というと、幕屋の中で苦しみもだえている私たちが、御国を望み見ることによって、それを上から着るのです。永遠の御国の望みに励まされ、それによって新しくされるのです。
肉体を持って生きている日々の生活の中で、苦しみもだえ、また悲しみや憤りの中で過ごします。しかし、どんな中に置かれても常にいろいろな事柄を通して、主が共におられること、キリストと一つになることを努めていく。キリストを着る者となる。これが「上に着ようと切に望んでいる」事柄であります。そして4節に、もう一度言いかえられて、「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである」と。ところが、神様の霊の力によって、よみがえってくださったキリストと共に生きようと思いながら、現実の悩み苦しみ、様々な問題のゆえに、それがかき消されてしまう。そのことが「それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願う」、いわゆる、悩み苦しみのありのままの姿、私たちがそこでキリストに一つになるための苦しみであります。キリストを得ようとするための戦いでもあります。キリストを得ることによって、永遠のいのちの生涯にしっかり根差して、死ぬべき者、朽ち行くべき者はどうでも良くて、いのちにのまれてしまう。永遠のいのちの喜びのほうが圧倒的に私たちの内にあふれてくる。そして、今ある重荷や悲しみや苦しみは、小さな、小さなものとなってしまいます。
私たちがなおこの地上に命を与えられているのは、様々な悩み、苦しみの中に置かれますが、その中で日ごとに永遠の御国を思う思いに心が圧倒されて、目の前の小さな事柄、あれがこうした、誰がこうしたと、そんなことはどんどん小さくなる。今まで大きな山のように思えていたものが、本当に小さくなって、永遠の御国への思いのほうに私たちが取り込まれてしまう。それに包みこまれてしまうこと、これがいま生かされている目的でもあります。だから、パウロがそう言ったように、「目標を目ざして走り」と「キリストのうちに自分を見いだし、キリストを得る者となること」、それは永遠のいのちに輝く者と変えられ、イエス様をまさに現実のものとして、「今もここに主がおられます」と手触るように、目の当りに見るがごとく見上げて、御国を望む大いなる喜びと望みに圧倒されてしまいたいと願います。
これが1節「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている」ことです。このことをはっきりと知って、御国を目指して、明日御許に帰るとも悔いなし。常に主と共に歩んでいる自分でありたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。