マタイによる福音書4章1節から11節までを朗読。
4節「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。
これは、イエス様が荒野にあってサタンの試みにあわれた記事です。すぐ前の所には、イエス様がバプテスマのヨハネによって洗礼を受けた記事が記されています。その時、イエス様が水から上がられると天が開けて御霊がはとのようにイエス様に下った。その時に神様からの声が「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と聞こえた。この者は「神の子」であると、そして「心にかなう者」と言うのは、義なる者という意味です。イエス様は神様の御心にかなう正しい人であるという保障、御霊の証しをいただいたのです。これはイエス様だけが特別だった、というのではありません。イエス様は私たちの代表として、その恵みをいただいたのです。罪を悔い改めて、イエス様を信じ、救いにあずかる者は神様からこのように祝福されるのだと、ご自身を通して証ししたのです。私どもも今イエス様を信じて、罪を赦され、神の子供としていただいている。私たちに「あなたは神の子であるよ」と御霊は証ししてくださると聖書にあります。イエス様のうちに聖霊が宿って、神様の新しい力に満たされて、ここから公の救い主としての生涯、公生涯とよく言われますが、それが始まります。
4章1節に荒野に導かれ試みられた事が記されています。しかも「御霊によって」とあります。イエス様が荒野に導かれたのは神様の御心であったのです。「荒野」という所は、私どもにはよく分かりませんが、居心地のよい楽しい所でないことは確かだと思います。人も近づかないと言いますか、誰も寄りつかない場所でしょう。だから、イエス様が自分から好んで見物に出かけたわけではなく「御霊によって」というのですから、神様に導かれてそこへ連れて行かれたのです。それは「悪魔に試みられるためである」とあります。私たちは神の子になったのだから、試練など必要がないのではないと私どもは思いますが、そうではありません。だから、「洗礼を受けたけれども、以前とちっとも変わらない。いつも闘いがあり、サタンから誘惑されて負けます。私は救われてないのではないでしょうか」と失望される方がいますが、そうではない。ここで、イエス様も同じようにサタンの試みに遭っているのです。だから、ましてや私たちも同じような試練にあわないわけではない。しかし、幸いなことに、そのことは神様のご計画なのです。神様が恵もうとしてくださるから、そこへ導いていらっしゃる。決して、イエス様が神の子になったから、ひとついじめてやろうか、ちょっと新参者だから鍛えて可愛がってやろうか、というわけではない。いや、むしろそれよりも、神様はイエス様を通して、私たちにこのような祝福と恵みがあるのだと明らかにして下さる。またイエス様ご自身の信仰をこの荒野できちんと強めてくださる、育ててくださる。ですから、神様はあえてイエス様を荒野、厳しい環境の中へ置きまして、サタンを遣わしたのです。実はサタンも神様の手の中にあるのです。サタンが働くのは神様の手を越えてではありません。だから、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダ、「ユダの心にサタンがはいった」(ルカ 22:3)と記されていますが、それも神様が許したのです。そうであるなら、仕方がない、神様がなさるのだから、私たちはどうにもしようがないというわけではない。サタンに対して「NO!」、「駄目だ!」という自由を私たちは与えられている。サタンによってがんじがらめに縛られたわけではありません。
サタンはイエス様を「これしかない」という状況に置いたのではない。誘惑ですから、その誘惑に乗るのか乗らないのかは私たちの責任です。「『この誘惑は神から来たものだ』と言ってはならない」とヤコブの手紙にもありますが、誘惑に負けるとは罪を犯すことです。神様がなさるのだったら、私たちには選択の余地がない。私がこんなひどい事になったのは神様のせいですと言いたくなりますが、私がこのような悪い事をしたのは神様がさせたと言うわけにはいかないと聖書にあります。なぜならば、誘惑に負けるのはあなただからだ、とはっきりと記されています。神様の力を信じて、神様によりすがってサタンに打ち勝つことを求められている。神様はそのように闘うことを願っています。そして、そのための力を与えてくださる御方です。だから、誘惑に遭って失敗する、あるいは何かつまずくことがあったら、素直にへりくだって神様を求めて、そこから力を与えられて立つことが大切です。だから、サタンにやられないように、やられないようにとするのではなく、たとえサタンが来ても、神様は私を守ってくださる。「守ってくださる」とは、私たちに力を与えてサタンと闘うことができるようにしてくださる。踏み出さないことには駄目です。神様を信じてサタンに対して「NO!」と心を決める。「そんなことができるぐらいなら、もうとっくに私はサタンに勝っています」と言われるかもしれませんが、初めから負けるつもりになっているからいけないのです。自分に力がないことは知っています。知恵も力もありません。しかし、神様が「与える」と約束をしてくださっているから、その約束を信じて踏み出すのです。
旧約聖書を読みますと、イスラエルの歴史の中に、アマレク人であるとか、アンモン、モアブ、セイル山の人々であるとか、ペリシテ人、スリヤ人との戦いがありました。そのような時、指導者は「神様、私には力はありせん。どうぞ、私をこの戦いに勝たせてください」と祈ります。神様は祈りに答えて、まず「行け」と言われます。「出て行け」、「戦いに行け」と。「いや、力が与えられたら行きます」と言うのではなくて、神様は「空っぽでいいから出なさい」と。出たら瞬時に神様は力を与えて、敵に打ち勝たせてくださる。ここが非常に大切です。準備万端、準備が整ったら、きちんとそういうものがそろったら出よう、と思っている間は駄目です。信仰とはそこです。手の内に道具が全部そろって、力が与えられて、何もかも万端「よし、これで整ったから、さぁ、やりましょう」というのなら、それは信仰ではない。整っている、見える状態を信じただけのこと、持っている武器、手にある物を信じたから出掛けるわけでしょう。信仰は神様を信じて、空っぽのままで上を見上げて満たされるのを信じて踏み出すのです。だから、亡くなった父は「一歩踏み出したら、その後は神様がなさる」としばしば言っていました。最初の一歩を出すか出さないか、これが信仰です。その一歩を踏み出すとき、手の中に何もない、健康もない、お金もない、時間もない、知恵も力もない、才能もない、何もない。けれども、今私に求められている事がある。私には到底それはできない。できないからやめておく、というのなら、それはおしまい。でも、そこで信仰を持って、神は何でもできる、と信じて踏み出すとき、神様は力を与えて、それに打ち勝たせてくださる。サタンとの闘い、信仰の闘いもまさにそれです。だから、私たちはつい「弱くてできません」、「力があればよかったのですけれども、ないから仕方がありません」と引っ込んでしまう。それだと信仰に立って生きることができません。神様を信じて、神様の力を信じて、今はないけれども、神様は「よし」と言われるなら、必要な物を備えてくださるに違いない、と信じて踏み出すことです。
イエス様はここで「悪魔に試みられるためである」とあります。信仰の奥義と言いますか、そのようなものを味わうために神様はイエス様をここに置いているのです。2節「そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた」とあります。「四十日四十夜」、四十日間断食をして、飲まず食わずの、飲まなかったことはないと思いますけれども……。イスラムでは、ラマダンという断食の習慣がありますが、私は全く断食するのかなと思ったら、よく聞いてみるとそうではない。太陽が昇っている間は断食し、沈むと同時にみな食べるそうです。だから、その期間は朝と共に断食が始まるから、夜になると繁盛するそうです。イエス様はそういうわけではなかった。四十日間断食をなさって、空腹になられた。
3節に「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら』」。「もしあなたが神の子であるなら」という言葉は私たちに対するサタンの上手な近づき方です。言いかえると、「あなたがクリスチャンだったら」とか、「あなたが本当に救われているのだったら」と心に思わせる。一度や二度ならず、そのような思いを持つことがあります。信仰しているけれど、一向に状態は変わらない。一体どうなっているのだと、失望している。それはまさに「もしあなたが神の子であるなら」そうならないはずだと思う。まさにサタンの誘惑に負けているのです。「救われたのだから、このくらいの事はできるはず」とか、「○○年も信仰生活しているのにまだこの程度ですか」というような問い掛けは、「もしあなたが神の子であるなら」という言葉を言い換えたものです。私たちの生活の中にはいつもこの誘惑がきます。形を変えて。「神様がいるのだったら、どうしてこんなことになりますか?」と言うでしょう。思いがけない病気でもしたら、心の中にサタンがささやく。「あなたは、神様がいらっしゃると信じているのだったら、あなたのために神様はどうしてこんなことをなさるのでしょうかねぇ」と、上手にサタンは言ってきます。
このときもイエス様に「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。「そんなにおなかをすかしてひもじい思いをしなくてもいいじゃないですか」。これらの石、荒野には石は捨てるほどあるでしょうから、石が全部パンになったらもう何の心配もいらない、食べるに困らない。そう言われた。その時イエス様は「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。これは申命記8章の御言葉を引用されたのですが、そこを読んでおきたいと思います。
申命記8章3節から5節までを朗読。
3節後半「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」と記されています。これは8章1節から語られていることですが、40年間イスラエルの民が荒野できびいしい神様の試みに遭いました。その間、神様は毎朝マナを与えてくださいました。マナとは、どのようなものかよく分かりませんが、朝起きると一面に霜のように白い粉が降っている。それを集めるとパンができるのです。毎日、毎日、朝になるとそれを集めてパンを作って食べる、そのような旅路の生活です。水も神様が備えてくださるし、また肉が食べたいと言った時、うずらを送って彼らを養ってくださったのです。マナは毎日、毎日集めてきて食べなければいけない。怠けて翌日のために余分に取ったら腐ったというのです。ところが、安息日にはマナは降らないから、前の日に安息日のために二日分集めたが腐らなかったとあります。神様から与えられるパン、マナをもってイスラエルの民は養われて、40年の旅路を続けたのです。やがて、ヨルダン川を渡ってやっと定住して、そこではじめてその地の作物を収穫したときにマナは降らなくなったと記されています。だから、それまで彼らは神様の力によって養われている。3節に「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた」。なぜ、彼らを荒野に導かれたかと言うと、人間的な力ではどうにもならない中に置かれたときに、ただ神様だけが彼らの命を養い、彼らを持ち運んでおられる方であることを明らかにするためです。荒野ですから、すぐに食料を調達するわけにはいかない。あるいは作物を作る時間も場所もない。生活のために命を養うすべが何にもないのが荒野です。そのような所に彼らを追い込んで、どうしようもない中で、ただ神様にすがる以外にない。神様は彼らを天からのマナをもって日ごとに、日ごとに養われた事態。そのような体験を与えたのです。それによって、人が生きるのは自分の手で努力して稼いで食べる、肉体を養う糧だけで人が生きているのではないのだと、教えてくださった。それを悟らせるためであった。だから、3節に「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」。そのマナは、神様からの食べ物なのです。直接的に神様から与えられる糧であります。だから、人はそのような目に見える、労働の結果としてのパンを食べるが、目に見える生活がすべてではなくて、その背後に働く、神様の力によって生かされているものであることをここで明らかになさった。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」。そのために荒野に導かれた。
ですから、イエス様が荒野に導かれた事態は、まさにその事を復習するためです。イスラエルの民が何によって生きてきたか、神の民として、神の子供として生きるために、私たちに必要なのは何か。イエス様はイスラエルの民の40年の旅路を短い40日間の断食、荒野での生活を通して、もう一度この御言葉に立ち返らせてくださったのです。だから、イエス様は申命記のあの御言葉を引用しているのです。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」。神様の言葉によって初めて人は生きるものである。人が生きるということは、肉体が健康であるとか、元気であるとか、脳が活性化していて物事の判断ができ、思考力があり、記憶力があるから人ではない。確かに肉体も必要かもしれませんが、それはやがて消えていきます。しかし、本当に生きるのは、神様の霊に生かされることです。つまり私たちは肉体だけの物質的な存在ではなくて、目に見えない霊的な生き物であるということです。その霊が生きていなければ、私たちは死んだものです。たとえ事情境遇が良くても、あるいは健康であっても、肉体的な不自由がなくても、その魂、霊が死んでおったらその人は生きているとはいえない。その霊は神様によって生かされる以外にない。創世記のはじめにあるように「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2:7)。神様の命の息を吹きいれられなければ人は生きることができない。
ヨハネによる福音書6章60節から63節までを朗読。
ここでイエス様が弟子たちに「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と言われた。すると多くの弟子たちが「イエス様はちょっと気が狂ったのではないだろうか、とんでもないことを言うな」と、「いったいイエス様の肉をどうやって食べ、イエス様の血をどうやって飲むのだ、ちょっとわけの分からないことを言い出して」と言って、みんなイエス様から離れて行ったと記されています。ところが、その時イエス様は、63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」と言われました。私たちが生きるのは何によるか。食べること、飲むこと、着ること、そのような肉につける力で人が生きているのではない。人が生きるのは、霊によるのです。神の霊、神様からの命の息吹を受けること、言うならば、イスラエルの民があの荒野で体験した天からのマナをいただかなければ人は生きることができないのです。63節に「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と。イエス様が私たちに語ってくださる言葉、イエス様のお言葉こそが「霊であり、また命」、私たちを生かす力あるものなのです。
ヨハネによる福音書6章32節から35節までを朗読。
ここでイエス様は、まず天からのパンはモーセによって与えられたのではないと語っています。先ほど申命記でお読みしたように、40年にわたって荒野の旅路を導いたのはモーセでした。モーセは指導者であり、彼らの責任者でもあったのです。だからといって、モーセがどんなに優れた人であり、どんなに立派な人であっても、イスラエルの民を養うことはできません。彼はあくまでも神様に仕える者であって、イスラエルの民の命を養ってくださったのはほかならない天にいます神様ではなかったかと。だから、イエス様は32節に「天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである」。イエス様のお父さん、言い換えると、天にいます父なる神様こそが真のパン、私たちの命の糧を与えてくださる御方でいらっしゃる。しかも33節に「神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。神様のパンは天から与えられる、神様から来るものである。神様から与えられるものは「命のパンである」。イエス様は神様から遣わされてこの世に来られた。だから、神から来るものが命を与える。「その命はわたしではないか」と、イエス様ははっきりご自身のことを証詞しています。だから「神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。そんな、天から下ってきたものはどこにいるか。目の前にいたのです。イエス様ご自身が。だから、皆が「そうですか。それではその命のパンを私たちもいただきたい」と言ったときに、「わたしこそが命のパンではないか」とイエス様が言われたのです。これは今も変わることのない事です。私たちに命を与えるものは、天から与えられるパン、すなわちイエス様を私たちがいただかなければ、食べなければ命にならない。
ヨハネによる福音書6章47節から51節までを朗読。
イエス様は素晴らしいことをここで語っています。荒野で神様からマナをもって養われた、先ほどお読みした記事があります。それは神様が養ってくださることの証明でした。ところが、それを食べた人たちは死んでしまったとあります。「それなら何の役にも立たないじゃないか。マナ、マナといっても結局死んだじゃないか。世のパンと同じではないか」と思われますが、実は、これはイエス様のことを証詞する事態なのです。荒野で神様が天からのマナを降らせて朝ごとに彼らを養ってくださった。そしてマナを食べました。しかし、そのマナはわれわれが普段食べるパンと同じような物ですから、やがてそれだけ食べている人は死んでしまったという事態です。しかし、実は、その天から下ってきてイスラエルの民を40年間養ったその養いと同じことが、これは限りがある例えであって、それは不完全なものであったのだが、今度はそのマナである御方、真(まこと)の命となる方が今、目の前にいるわたしではないかとイエス様が語っている。これは旧約聖書自体がやがて来るべきイエス様の予表といいますか、一つのモデルなのです。そのモデルはあくまでもモデルですから、限界があるのです。そのことはヘブル人への手紙に祭司制の問題として取り上げていますね。祭司が立てられて神と人との間の取次ぎをしていた。しかし、その祭司制度はやがて来るべき真の大祭司であるイエス様を証詞するものであって、これは不完全なものであったことが記されています。それと同じで、神様が養ってくださった天からのマナは、確かにその当時イスラエルの民を養い、生かしたのですが、マナはあくまでも地に付けるものであるから、神様からの真の食べ物であるイエス様がやがて来ますよ、ということを予告するものです。予表と言いますか、あらかじめ私たちに見せてくださった予告編だったのです。だから、聖書をお読みになるとき、根本的なそのような枠組みがありますから、それをしっかりと踏まえて読んでください。ラザロが墓からイエス様の力によってよみがえった記事があります。そしてよみがえったラザロはどうなったか。やはり死んだのです。だったら、何のためによみがえったのだと思うかもしれませんが、それはあくまでもイエス様のよみがえりを、やがての時、本当にもう二度と死ぬことのないよみがえりをなさる御方が来られるのだと証詞するためなのです。だから、ラザロはあくまで人でありますから、たとえ肉体的によみがえっても、肉から生まれるものは肉であって、これは必ず滅びる。しかし、よみがえることは確かであって、それは、イエス様がよみがえってくださることによって、私たちがもう二度と滅びることがない永遠の命につながっていくのです。ラザロのようによみがえったけれども死んだという、そのような中途半端なよみがえりではなく、イエス様がしてくださるもっと完璧(かんぺき)な、これ以上のものはない完全無欠な救いの完成を私たちに証しするためであります。ですから、この時もイエス様はマナのことを引いて、荒野でマナを食べて……、49節以下に「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、天から下ってきたパン」、イエス様ですが、「イエス様を食べる人は、決して死ぬことはない」。51節に「わたしは天から下ってきた生きたパンである」と、これほど明確にはっきりとイエス様がご自分の身分、使命を明らかにしたところはないと思います。ここではっきりと「それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。イエス様は私たちにとって何であるかをはっきりと知っておきたいと思う。イエス様は私にとって欠くことのできない大切な命のパンであり、私たちの魂、霊の内なる人を養い強め、また新しく造り変える命に満ちあふれた力のあるパンです。だから、先ほどの63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」と言うのです。本当に人を生かすものは、天から下ってきた真の命のパンであるイエス様を私たちが食べることです。
イエス様を食べるとはどうすることかというのが、先ほどのマタイによる福音書4章4節に、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」。「神の口から出る一つ一つの言(ことば)」、すなわち、イエス様ご自身のことです。ここでイエス様はそのことをサタンの誘惑を通して証ししていらっしゃる。人が生きるのは何によって生きるのか。ただ、目に見える肉にあるパンを食べたものは、それはそれだけのことで死んでしまっておしまい。しかし、天から下ってきた生きる命のパンであるわたしを食べる者は決して死ぬことはない。誠にその通り。私たちはこのイエス様をしっかりと食べる者でありたいと思います。食べなければ駄目ですよ。眺めていたってそれではおなかがいっぱいにならないように、命につながりません。どんなごちそうでも、テレビで有名なお店に行ってレポーターがおいしそうに食べますが、それを眺めて「おいしそうだな」というだけでは、こちらはちっともおなかはふくらまない。こちらはお茶漬けを食べながら、テレビの向こうはステーキを食べている。そんなことをしたって何にもならないでしょう。イエス様もそうです。イエス様を眺めて、「イエス様ってああいう方か。こういう方か。こんなことをなさる、あんなことをなさる」「イエス様は波の上を歩いてまで近づいてくださる。へぇ、立派なお方だ」といって眺めているだけでは駄目です。イエス様を信じて、命である御方、私を生かしてくださる御方、このイエス様に結びついて、イエス様の御言葉を丸ままに信じて、私たちがそれを食べるのです。そして、イエス様と一つになりきっていくとき、ここに人は生きる者となる。
何が人を生かしているのか、私が今生かされているのは何によるのか。それはイエス様、あなたです、と心から神様だけを、イエス様だけを信頼していく者でありたいと思います。その時、私たちの喜びとするもの、私たちのよりどころとするもの、私たちの力は命でいらっしゃるイエス様から来る。イエス様を握って、信頼して、そしてその御方に自分を委ねていきたいと思います。4節「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」。「神の口から出る一つ一つの言(ことば)」、それは取りも直さず、イエス様ご自身、イエス様の御言葉を信じて、それに歩むことです。お言葉を握って立ち、一歩を踏み出していくとき、神様のほうが命を鮮やかに現してくださる。命ってどこにあるのかな、と思うかもしれませんが、一つでもいいから御言葉を握って、主がこうおっしゃるからと信じて、「従います」と踏み出そうではありませんか。その時、今まで気がつかなかった、知らなかった大きな心の喜び、望み、感謝があふれてくる。その命が輝くとき、私たちの事情、境遇がどうであれ、生きる喜びが心に満ちあふれてきます。それはイエス様によって生きる以外にありません。イエス様に信頼して、お言葉に従って踏み出していきたいと思います。それが、私たちがイエス様の命につながるただ一つの道だからです。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
4節「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。
これは、イエス様が荒野にあってサタンの試みにあわれた記事です。すぐ前の所には、イエス様がバプテスマのヨハネによって洗礼を受けた記事が記されています。その時、イエス様が水から上がられると天が開けて御霊がはとのようにイエス様に下った。その時に神様からの声が「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と聞こえた。この者は「神の子」であると、そして「心にかなう者」と言うのは、義なる者という意味です。イエス様は神様の御心にかなう正しい人であるという保障、御霊の証しをいただいたのです。これはイエス様だけが特別だった、というのではありません。イエス様は私たちの代表として、その恵みをいただいたのです。罪を悔い改めて、イエス様を信じ、救いにあずかる者は神様からこのように祝福されるのだと、ご自身を通して証ししたのです。私どもも今イエス様を信じて、罪を赦され、神の子供としていただいている。私たちに「あなたは神の子であるよ」と御霊は証ししてくださると聖書にあります。イエス様のうちに聖霊が宿って、神様の新しい力に満たされて、ここから公の救い主としての生涯、公生涯とよく言われますが、それが始まります。
4章1節に荒野に導かれ試みられた事が記されています。しかも「御霊によって」とあります。イエス様が荒野に導かれたのは神様の御心であったのです。「荒野」という所は、私どもにはよく分かりませんが、居心地のよい楽しい所でないことは確かだと思います。人も近づかないと言いますか、誰も寄りつかない場所でしょう。だから、イエス様が自分から好んで見物に出かけたわけではなく「御霊によって」というのですから、神様に導かれてそこへ連れて行かれたのです。それは「悪魔に試みられるためである」とあります。私たちは神の子になったのだから、試練など必要がないのではないと私どもは思いますが、そうではありません。だから、「洗礼を受けたけれども、以前とちっとも変わらない。いつも闘いがあり、サタンから誘惑されて負けます。私は救われてないのではないでしょうか」と失望される方がいますが、そうではない。ここで、イエス様も同じようにサタンの試みに遭っているのです。だから、ましてや私たちも同じような試練にあわないわけではない。しかし、幸いなことに、そのことは神様のご計画なのです。神様が恵もうとしてくださるから、そこへ導いていらっしゃる。決して、イエス様が神の子になったから、ひとついじめてやろうか、ちょっと新参者だから鍛えて可愛がってやろうか、というわけではない。いや、むしろそれよりも、神様はイエス様を通して、私たちにこのような祝福と恵みがあるのだと明らかにして下さる。またイエス様ご自身の信仰をこの荒野できちんと強めてくださる、育ててくださる。ですから、神様はあえてイエス様を荒野、厳しい環境の中へ置きまして、サタンを遣わしたのです。実はサタンも神様の手の中にあるのです。サタンが働くのは神様の手を越えてではありません。だから、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダ、「ユダの心にサタンがはいった」(ルカ 22:3)と記されていますが、それも神様が許したのです。そうであるなら、仕方がない、神様がなさるのだから、私たちはどうにもしようがないというわけではない。サタンに対して「NO!」、「駄目だ!」という自由を私たちは与えられている。サタンによってがんじがらめに縛られたわけではありません。
サタンはイエス様を「これしかない」という状況に置いたのではない。誘惑ですから、その誘惑に乗るのか乗らないのかは私たちの責任です。「『この誘惑は神から来たものだ』と言ってはならない」とヤコブの手紙にもありますが、誘惑に負けるとは罪を犯すことです。神様がなさるのだったら、私たちには選択の余地がない。私がこんなひどい事になったのは神様のせいですと言いたくなりますが、私がこのような悪い事をしたのは神様がさせたと言うわけにはいかないと聖書にあります。なぜならば、誘惑に負けるのはあなただからだ、とはっきりと記されています。神様の力を信じて、神様によりすがってサタンに打ち勝つことを求められている。神様はそのように闘うことを願っています。そして、そのための力を与えてくださる御方です。だから、誘惑に遭って失敗する、あるいは何かつまずくことがあったら、素直にへりくだって神様を求めて、そこから力を与えられて立つことが大切です。だから、サタンにやられないように、やられないようにとするのではなく、たとえサタンが来ても、神様は私を守ってくださる。「守ってくださる」とは、私たちに力を与えてサタンと闘うことができるようにしてくださる。踏み出さないことには駄目です。神様を信じてサタンに対して「NO!」と心を決める。「そんなことができるぐらいなら、もうとっくに私はサタンに勝っています」と言われるかもしれませんが、初めから負けるつもりになっているからいけないのです。自分に力がないことは知っています。知恵も力もありません。しかし、神様が「与える」と約束をしてくださっているから、その約束を信じて踏み出すのです。
旧約聖書を読みますと、イスラエルの歴史の中に、アマレク人であるとか、アンモン、モアブ、セイル山の人々であるとか、ペリシテ人、スリヤ人との戦いがありました。そのような時、指導者は「神様、私には力はありせん。どうぞ、私をこの戦いに勝たせてください」と祈ります。神様は祈りに答えて、まず「行け」と言われます。「出て行け」、「戦いに行け」と。「いや、力が与えられたら行きます」と言うのではなくて、神様は「空っぽでいいから出なさい」と。出たら瞬時に神様は力を与えて、敵に打ち勝たせてくださる。ここが非常に大切です。準備万端、準備が整ったら、きちんとそういうものがそろったら出よう、と思っている間は駄目です。信仰とはそこです。手の内に道具が全部そろって、力が与えられて、何もかも万端「よし、これで整ったから、さぁ、やりましょう」というのなら、それは信仰ではない。整っている、見える状態を信じただけのこと、持っている武器、手にある物を信じたから出掛けるわけでしょう。信仰は神様を信じて、空っぽのままで上を見上げて満たされるのを信じて踏み出すのです。だから、亡くなった父は「一歩踏み出したら、その後は神様がなさる」としばしば言っていました。最初の一歩を出すか出さないか、これが信仰です。その一歩を踏み出すとき、手の中に何もない、健康もない、お金もない、時間もない、知恵も力もない、才能もない、何もない。けれども、今私に求められている事がある。私には到底それはできない。できないからやめておく、というのなら、それはおしまい。でも、そこで信仰を持って、神は何でもできる、と信じて踏み出すとき、神様は力を与えて、それに打ち勝たせてくださる。サタンとの闘い、信仰の闘いもまさにそれです。だから、私たちはつい「弱くてできません」、「力があればよかったのですけれども、ないから仕方がありません」と引っ込んでしまう。それだと信仰に立って生きることができません。神様を信じて、神様の力を信じて、今はないけれども、神様は「よし」と言われるなら、必要な物を備えてくださるに違いない、と信じて踏み出すことです。
イエス様はここで「悪魔に試みられるためである」とあります。信仰の奥義と言いますか、そのようなものを味わうために神様はイエス様をここに置いているのです。2節「そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた」とあります。「四十日四十夜」、四十日間断食をして、飲まず食わずの、飲まなかったことはないと思いますけれども……。イスラムでは、ラマダンという断食の習慣がありますが、私は全く断食するのかなと思ったら、よく聞いてみるとそうではない。太陽が昇っている間は断食し、沈むと同時にみな食べるそうです。だから、その期間は朝と共に断食が始まるから、夜になると繁盛するそうです。イエス様はそういうわけではなかった。四十日間断食をなさって、空腹になられた。
3節に「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら』」。「もしあなたが神の子であるなら」という言葉は私たちに対するサタンの上手な近づき方です。言いかえると、「あなたがクリスチャンだったら」とか、「あなたが本当に救われているのだったら」と心に思わせる。一度や二度ならず、そのような思いを持つことがあります。信仰しているけれど、一向に状態は変わらない。一体どうなっているのだと、失望している。それはまさに「もしあなたが神の子であるなら」そうならないはずだと思う。まさにサタンの誘惑に負けているのです。「救われたのだから、このくらいの事はできるはず」とか、「○○年も信仰生活しているのにまだこの程度ですか」というような問い掛けは、「もしあなたが神の子であるなら」という言葉を言い換えたものです。私たちの生活の中にはいつもこの誘惑がきます。形を変えて。「神様がいるのだったら、どうしてこんなことになりますか?」と言うでしょう。思いがけない病気でもしたら、心の中にサタンがささやく。「あなたは、神様がいらっしゃると信じているのだったら、あなたのために神様はどうしてこんなことをなさるのでしょうかねぇ」と、上手にサタンは言ってきます。
このときもイエス様に「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。「そんなにおなかをすかしてひもじい思いをしなくてもいいじゃないですか」。これらの石、荒野には石は捨てるほどあるでしょうから、石が全部パンになったらもう何の心配もいらない、食べるに困らない。そう言われた。その時イエス様は「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。これは申命記8章の御言葉を引用されたのですが、そこを読んでおきたいと思います。
申命記8章3節から5節までを朗読。
3節後半「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」と記されています。これは8章1節から語られていることですが、40年間イスラエルの民が荒野できびいしい神様の試みに遭いました。その間、神様は毎朝マナを与えてくださいました。マナとは、どのようなものかよく分かりませんが、朝起きると一面に霜のように白い粉が降っている。それを集めるとパンができるのです。毎日、毎日、朝になるとそれを集めてパンを作って食べる、そのような旅路の生活です。水も神様が備えてくださるし、また肉が食べたいと言った時、うずらを送って彼らを養ってくださったのです。マナは毎日、毎日集めてきて食べなければいけない。怠けて翌日のために余分に取ったら腐ったというのです。ところが、安息日にはマナは降らないから、前の日に安息日のために二日分集めたが腐らなかったとあります。神様から与えられるパン、マナをもってイスラエルの民は養われて、40年の旅路を続けたのです。やがて、ヨルダン川を渡ってやっと定住して、そこではじめてその地の作物を収穫したときにマナは降らなくなったと記されています。だから、それまで彼らは神様の力によって養われている。3節に「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた」。なぜ、彼らを荒野に導かれたかと言うと、人間的な力ではどうにもならない中に置かれたときに、ただ神様だけが彼らの命を養い、彼らを持ち運んでおられる方であることを明らかにするためです。荒野ですから、すぐに食料を調達するわけにはいかない。あるいは作物を作る時間も場所もない。生活のために命を養うすべが何にもないのが荒野です。そのような所に彼らを追い込んで、どうしようもない中で、ただ神様にすがる以外にない。神様は彼らを天からのマナをもって日ごとに、日ごとに養われた事態。そのような体験を与えたのです。それによって、人が生きるのは自分の手で努力して稼いで食べる、肉体を養う糧だけで人が生きているのではないのだと、教えてくださった。それを悟らせるためであった。だから、3節に「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」。そのマナは、神様からの食べ物なのです。直接的に神様から与えられる糧であります。だから、人はそのような目に見える、労働の結果としてのパンを食べるが、目に見える生活がすべてではなくて、その背後に働く、神様の力によって生かされているものであることをここで明らかになさった。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」。そのために荒野に導かれた。
ですから、イエス様が荒野に導かれた事態は、まさにその事を復習するためです。イスラエルの民が何によって生きてきたか、神の民として、神の子供として生きるために、私たちに必要なのは何か。イエス様はイスラエルの民の40年の旅路を短い40日間の断食、荒野での生活を通して、もう一度この御言葉に立ち返らせてくださったのです。だから、イエス様は申命記のあの御言葉を引用しているのです。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」。神様の言葉によって初めて人は生きるものである。人が生きるということは、肉体が健康であるとか、元気であるとか、脳が活性化していて物事の判断ができ、思考力があり、記憶力があるから人ではない。確かに肉体も必要かもしれませんが、それはやがて消えていきます。しかし、本当に生きるのは、神様の霊に生かされることです。つまり私たちは肉体だけの物質的な存在ではなくて、目に見えない霊的な生き物であるということです。その霊が生きていなければ、私たちは死んだものです。たとえ事情境遇が良くても、あるいは健康であっても、肉体的な不自由がなくても、その魂、霊が死んでおったらその人は生きているとはいえない。その霊は神様によって生かされる以外にない。創世記のはじめにあるように「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2:7)。神様の命の息を吹きいれられなければ人は生きることができない。
ヨハネによる福音書6章60節から63節までを朗読。
ここでイエス様が弟子たちに「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と言われた。すると多くの弟子たちが「イエス様はちょっと気が狂ったのではないだろうか、とんでもないことを言うな」と、「いったいイエス様の肉をどうやって食べ、イエス様の血をどうやって飲むのだ、ちょっとわけの分からないことを言い出して」と言って、みんなイエス様から離れて行ったと記されています。ところが、その時イエス様は、63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」と言われました。私たちが生きるのは何によるか。食べること、飲むこと、着ること、そのような肉につける力で人が生きているのではない。人が生きるのは、霊によるのです。神の霊、神様からの命の息吹を受けること、言うならば、イスラエルの民があの荒野で体験した天からのマナをいただかなければ人は生きることができないのです。63節に「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と。イエス様が私たちに語ってくださる言葉、イエス様のお言葉こそが「霊であり、また命」、私たちを生かす力あるものなのです。
ヨハネによる福音書6章32節から35節までを朗読。
ここでイエス様は、まず天からのパンはモーセによって与えられたのではないと語っています。先ほど申命記でお読みしたように、40年にわたって荒野の旅路を導いたのはモーセでした。モーセは指導者であり、彼らの責任者でもあったのです。だからといって、モーセがどんなに優れた人であり、どんなに立派な人であっても、イスラエルの民を養うことはできません。彼はあくまでも神様に仕える者であって、イスラエルの民の命を養ってくださったのはほかならない天にいます神様ではなかったかと。だから、イエス様は32節に「天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである」。イエス様のお父さん、言い換えると、天にいます父なる神様こそが真のパン、私たちの命の糧を与えてくださる御方でいらっしゃる。しかも33節に「神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。神様のパンは天から与えられる、神様から来るものである。神様から与えられるものは「命のパンである」。イエス様は神様から遣わされてこの世に来られた。だから、神から来るものが命を与える。「その命はわたしではないか」と、イエス様ははっきりご自身のことを証詞しています。だから「神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。そんな、天から下ってきたものはどこにいるか。目の前にいたのです。イエス様ご自身が。だから、皆が「そうですか。それではその命のパンを私たちもいただきたい」と言ったときに、「わたしこそが命のパンではないか」とイエス様が言われたのです。これは今も変わることのない事です。私たちに命を与えるものは、天から与えられるパン、すなわちイエス様を私たちがいただかなければ、食べなければ命にならない。
ヨハネによる福音書6章47節から51節までを朗読。
イエス様は素晴らしいことをここで語っています。荒野で神様からマナをもって養われた、先ほどお読みした記事があります。それは神様が養ってくださることの証明でした。ところが、それを食べた人たちは死んでしまったとあります。「それなら何の役にも立たないじゃないか。マナ、マナといっても結局死んだじゃないか。世のパンと同じではないか」と思われますが、実は、これはイエス様のことを証詞する事態なのです。荒野で神様が天からのマナを降らせて朝ごとに彼らを養ってくださった。そしてマナを食べました。しかし、そのマナはわれわれが普段食べるパンと同じような物ですから、やがてそれだけ食べている人は死んでしまったという事態です。しかし、実は、その天から下ってきてイスラエルの民を40年間養ったその養いと同じことが、これは限りがある例えであって、それは不完全なものであったのだが、今度はそのマナである御方、真(まこと)の命となる方が今、目の前にいるわたしではないかとイエス様が語っている。これは旧約聖書自体がやがて来るべきイエス様の予表といいますか、一つのモデルなのです。そのモデルはあくまでもモデルですから、限界があるのです。そのことはヘブル人への手紙に祭司制の問題として取り上げていますね。祭司が立てられて神と人との間の取次ぎをしていた。しかし、その祭司制度はやがて来るべき真の大祭司であるイエス様を証詞するものであって、これは不完全なものであったことが記されています。それと同じで、神様が養ってくださった天からのマナは、確かにその当時イスラエルの民を養い、生かしたのですが、マナはあくまでも地に付けるものであるから、神様からの真の食べ物であるイエス様がやがて来ますよ、ということを予告するものです。予表と言いますか、あらかじめ私たちに見せてくださった予告編だったのです。だから、聖書をお読みになるとき、根本的なそのような枠組みがありますから、それをしっかりと踏まえて読んでください。ラザロが墓からイエス様の力によってよみがえった記事があります。そしてよみがえったラザロはどうなったか。やはり死んだのです。だったら、何のためによみがえったのだと思うかもしれませんが、それはあくまでもイエス様のよみがえりを、やがての時、本当にもう二度と死ぬことのないよみがえりをなさる御方が来られるのだと証詞するためなのです。だから、ラザロはあくまで人でありますから、たとえ肉体的によみがえっても、肉から生まれるものは肉であって、これは必ず滅びる。しかし、よみがえることは確かであって、それは、イエス様がよみがえってくださることによって、私たちがもう二度と滅びることがない永遠の命につながっていくのです。ラザロのようによみがえったけれども死んだという、そのような中途半端なよみがえりではなく、イエス様がしてくださるもっと完璧(かんぺき)な、これ以上のものはない完全無欠な救いの完成を私たちに証しするためであります。ですから、この時もイエス様はマナのことを引いて、荒野でマナを食べて……、49節以下に「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、天から下ってきたパン」、イエス様ですが、「イエス様を食べる人は、決して死ぬことはない」。51節に「わたしは天から下ってきた生きたパンである」と、これほど明確にはっきりとイエス様がご自分の身分、使命を明らかにしたところはないと思います。ここではっきりと「それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。イエス様は私たちにとって何であるかをはっきりと知っておきたいと思う。イエス様は私にとって欠くことのできない大切な命のパンであり、私たちの魂、霊の内なる人を養い強め、また新しく造り変える命に満ちあふれた力のあるパンです。だから、先ほどの63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」と言うのです。本当に人を生かすものは、天から下ってきた真の命のパンであるイエス様を私たちが食べることです。
イエス様を食べるとはどうすることかというのが、先ほどのマタイによる福音書4章4節に、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」。「神の口から出る一つ一つの言(ことば)」、すなわち、イエス様ご自身のことです。ここでイエス様はそのことをサタンの誘惑を通して証ししていらっしゃる。人が生きるのは何によって生きるのか。ただ、目に見える肉にあるパンを食べたものは、それはそれだけのことで死んでしまっておしまい。しかし、天から下ってきた生きる命のパンであるわたしを食べる者は決して死ぬことはない。誠にその通り。私たちはこのイエス様をしっかりと食べる者でありたいと思います。食べなければ駄目ですよ。眺めていたってそれではおなかがいっぱいにならないように、命につながりません。どんなごちそうでも、テレビで有名なお店に行ってレポーターがおいしそうに食べますが、それを眺めて「おいしそうだな」というだけでは、こちらはちっともおなかはふくらまない。こちらはお茶漬けを食べながら、テレビの向こうはステーキを食べている。そんなことをしたって何にもならないでしょう。イエス様もそうです。イエス様を眺めて、「イエス様ってああいう方か。こういう方か。こんなことをなさる、あんなことをなさる」「イエス様は波の上を歩いてまで近づいてくださる。へぇ、立派なお方だ」といって眺めているだけでは駄目です。イエス様を信じて、命である御方、私を生かしてくださる御方、このイエス様に結びついて、イエス様の御言葉を丸ままに信じて、私たちがそれを食べるのです。そして、イエス様と一つになりきっていくとき、ここに人は生きる者となる。
何が人を生かしているのか、私が今生かされているのは何によるのか。それはイエス様、あなたです、と心から神様だけを、イエス様だけを信頼していく者でありたいと思います。その時、私たちの喜びとするもの、私たちのよりどころとするもの、私たちの力は命でいらっしゃるイエス様から来る。イエス様を握って、信頼して、そしてその御方に自分を委ねていきたいと思います。4節「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」。「神の口から出る一つ一つの言(ことば)」、それは取りも直さず、イエス様ご自身、イエス様の御言葉を信じて、それに歩むことです。お言葉を握って立ち、一歩を踏み出していくとき、神様のほうが命を鮮やかに現してくださる。命ってどこにあるのかな、と思うかもしれませんが、一つでもいいから御言葉を握って、主がこうおっしゃるからと信じて、「従います」と踏み出そうではありませんか。その時、今まで気がつかなかった、知らなかった大きな心の喜び、望み、感謝があふれてくる。その命が輝くとき、私たちの事情、境遇がどうであれ、生きる喜びが心に満ちあふれてきます。それはイエス様によって生きる以外にありません。イエス様に信頼して、お言葉に従って踏み出していきたいと思います。それが、私たちがイエス様の命につながるただ一つの道だからです。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。