ヘブル人への手紙10章32節から38節までを朗読。
38節「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
教会に来ると、「信仰」ということを言われます。あるいは「信じなさい」と言います。「何を信じればいいのだろう」「信仰とはなんだろうか」と考えさせられますが、今読みました37節に「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」と記されています。これは旧約聖書のハバクク書2章の言葉が引用されているのです。その所を読みますと、「この幻はなお定められたときを待ち、終わりをさして急いでいる」と記されています。幻が語られ、その幻が実現していくのだということです。
その幻とは神様が私たちに約束してくださった聖書のお言葉であります。創世記の初めから黙示録の終わりまでを通して、神様が語っていることの中心はたった一つです。それは私たちが神様の救いにあずかって、創世の初め、エデンの園にあった最初の人となること、言うならば救いとはそのことです。私たちを救ってくださる、救いのご計画がこの聖書に語られているのです。そもそも人の滅びと言いますか、呪われた者となったいちばん最初はどこにあったかと言えば、それはエデンの園の生活から離れてしまったことです。神様を離れて呪われた者となる、永遠の滅びに定められた人類。その人々をどのように救ってあげようかと、神様は初めからご計画を持っていたのです。長い人類の歴史、その最後に人は必ず終わる時が来る。天地創造のすべての始まりがあれば、その最後がある。その終わりの時に、すべてのものが裁かれ、天も地も焼け落ち、崩れ去ってしまう。神様の裁きの時が来るのです。人類をはじめ、この世界、宇宙、すべてのものの歴史が神様から始まって、神様に終わっていく。その間に人はどのような取り扱いを受けるかについて語られたのが聖書です。だから難しい言葉で「救済史」と言いますが、人の救われる道筋がこの聖書に書かれているのです。
そのような人類の歴史の中で、私たち一人一人はどのようにかかわるのかと考えてみたら、あまりにも漠然として、私と何の関係があるかと思いますね。私たちの人生は長くて80年か90年、それなのに人類の歴史、宇宙の歴史は何十億年か何百億年か知りませんが、とてつもなく長い時間にわたって神様のご計画がある。そのことと私たちとはいったい何の関係があるだろうか、と思いますね。
ところが、不思議ですが、神様の何十億年か何百億年か知りませんが、大きな長い救いの歴史が、実は私たち一人一人が生まれてから死ぬまでの歴史の中に凝縮されていると言えます。人生の始まりは、オギャーと生まれることです。生まれたときに「ハレルヤ!」と言って生まれた人はおりませんから、みな罪の中に生まれた者であります。その罪の中にある者が、様々な問題を通して神様の導きを得て、やがて主イエス・キリストに出会う。イエス様と共に生きる地上の生涯、波乱万丈いろいろなことがあって、だんだんとすべての肉なるものを失って、捨て去って、最後に肉体を脱ぎ捨てて、この地上の生涯を終わる。そのときに私たちの終末が来て、永遠の御国に、永遠のいのちの生涯へと移し変えられる。これが一人の人生。それをグーッと全人類の長い歴史に引き伸ばしていくと、これが聖書なのです。だから、聖書は大宇宙の森羅万象の始まりから、その終末までが語られている壮大な書であると同時に、実に小さな私の人生の始まりから終わりまでが語られていることでもあるのです。その中で私たちが何を希望とし、何をより所にしていくかと言うと、それは神様のお言葉、言うならば聖書に約束された一つ一つの約束が私たちの救いの道筋となり、またそれが光となり、私たちを救う力となってくる。これは全人類の救済史という枠組みの中ばかりでなく、私たちの日々の生活の中にも、その一つ一つの御言葉、神様の語られたお言葉が成就していくのです。
今、その大きな長い人類の救いのみわざ、摂理が着実に進んできています。今は終わりの時が近づいていると言われています。イエス・キリストがベツレヘムに生まれてくださった。それは人類の長い救いの中の一つの中心的な出来事であり、それがなくては救いのご計画が完成しないのです。神様はそのように人類の歴史の中に一つ一つ約束を成就しておられます。神様の御言葉、語られている事柄が着々と進んでいく。今もそうです。私たちの世の中を見ると混沌(こんとん)として「どこに神があるか」と、不正がはびこり、暴力が幅を利かせ、正しい者が正しい評価を受けない、不正が働いているこの世の中はいったい神様がいらっしゃるのかと思います。しかし、よく見ると、聖書に約束されたとおりのことが起こっている。神様を離れた者の姿が聖書に語られていますが、そのとおりの事が起こっているのであって、聖書を通して神様が語ったことと違うことが起こっているわけではない。神様を畏(おそ)れなければ人がどうなるか、聖書にはっきり記されています。そのとおりのことが今現実にあるのです。では、それを造り変えていくにはどうするか。そのような滅びから救われるにはどうするか。それも聖書に書いてある。人が知恵を働かせて、賢者や学者、知識人が集まって、一生懸命に知恵を振り絞って社会を変えようとか、世の中を改革しようとしますが、そんな方法によってできるとは聖書には書いていない。誠に今の世の中の現実を見ると聖書的な世界ですよ。聖書は、きれいな、世と掛け離れた、温室のような世界ではなく、聖書には様々なことが盛り込まれています。旧約聖書を読みますと、裏切りがあり、殺人があり、争いがあり、戦争があり、……。「先生、聖書はもっときれいな世界かと思ったら、何ですか、聖書は次から次へと人は殺すわ、裏切るわ、もう人間の悪が満ちているではないですか」と時に言われます。そのとおりですよ。と同時に、それに対する神様のはっきりした裁きと、悪に満ちた人をどのように救ってくださるか、その救いの道がどこにあるかも記されています。だから、近ごろしみじみと教えられますが、聖書は本当にすごいと。新聞やテレビで見るニュースや聞くおとずれを聖書の中で照らしてご覧なさい。誠にそのとおり、本当にこのような時代なのだ、こうなるべくしてなっているのだ、その原因がどこにあるかも聖書に語られている。そして、聖書に語られているお言葉に従って、救い主でいらっしゃるキリストが、私たちの所に来てくださった。イエス様に立ち返って、主の十字架のみ前に自分を死んだ者としてささげきっていくときに、今度は新しい者へと造り変えられるとあります。まさにそこにしかありません。人類の救いとはそこにしかありませんし、人類なんて偉そうなことを言わなくても、私たち一人一人の救いがそれに懸かっているのです。それなくしては、私たちの救いはありません。聖書のお言葉は決して一つとして無駄なことはないし、またどれ一つ神様の約束が行われないことはありません。世の中の生活は神様の約束が着実に具体化しつつある生活です。
35節に「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」と。神様が私たちに約束してくださった事柄、それはたくさんありますね。聖書の中に「私たちを神の子とした」と、あるいは私たちに「まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)。生活のすべてはわたしが用意しているとおっしゃっています。約束していらっしゃる。その約束のお言葉、神様の御言葉を通して与えられる確信、それには必ず大きな報い、結果が伴うのです。その後の36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」と。「御旨を行う」とは、神様の約束のお言葉を信じて、確信して、その御言葉をしっかりと握って耐え忍んでいく。現実は、見えるところは、神様の約束がどうなっているか訳が分からないような状態です。しかし、それに惑わされないで、そういうものに心を奪われないで、神様のお言葉だけをしっかりと握って、望みを置き、確信を持って、約束のもの、その結果である神様の報いを望み見ていく、忍耐していく。これが実は信仰だというのです。与えられている約束のお言葉は決して反故になると言いますか、実行されないままで、空手形で終わることはない。確かにそのとおりだと思うのです。神様はいろいろな約束を与え、こうしたらこうなるよと約束してくださったことがたくさんあります。その約束のお言葉を信じるというのが信仰です。
だから38節に「わが義人は、信仰によって生きる」と。「信仰」、まさにこれが神様の約束のお言葉を信じていくことです。自分の目に見える状態や聞くおとずれ、あるいは自分の経験を確かなものと信じるのではなくて、神様のお言葉がこう言っているからと信じるのです。神様が私にこのことを約束してくださったからと信じていく。だから、よく皆さんが言われることですが、「家族の救い」を願って、何とかして「頑張って私が家族のために」と言いますが、私どもにはできません。しかし、聖書には約束されています。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と約束されているでしょう。だから「主イエスを信じる」こと、そしてまず自分自身が救われていること、これが大切です。「いや、私はすでに救われています」と言われるかもしれないが、よくよく考えてみたら「本当に自分は救われただろうか」と、心もとないところがあります。だから私どもが本当に信じきって、イエス様のものとなりきって、主のみ心にだけ従って歩んでいくならば、「あなたもあなたの家族も」と約束されています。必ず救いにあずかることができる。神様の約束です。それを信じることが大切です。それを信じていきますなら、たとえ結果を見ることがなくても、必ず具体化していきます。
昨日もある方とお話をしておりました。自分たちも老い先そう長くはない。それで「葬式のことを相談したい」と言って来られたのです。どのようなお葬式をしてほしいかといろいろお話をしました。そのご夫婦は結婚前からクリスチャンで、信仰を持って結婚をされました。ところが現実、今二人のお子さんがいて、それぞれに家庭をもっているのですが、一向に教会に来ようとしない。自分たちはどうも育て方が間違ったかな、と思っているようです。そのときに奥様が「私どもは信じて来ましたから、たとえ私どもがこの世からいなくなってからでも、神様はこの子供たちを救ってくださる。もう一度教会に立ち返らせてくださると信じています」と言われました。これは大切なことです。信じることが大切なのです。主が約束してくださった。その約束のお言葉を握って「大丈夫、今見える状態は神様のほうにそっぽを向いて、教会に足を向けようとしない。だから、あいつ等は駄目や」と信じるのか、それとも「聖書にこのように約束されているから私はそう信じてきたし、必ず神様は成し遂げてくださるに違いありませんから大丈夫です」と言うのか、どちらかです。どうも私たちは前者のほうのようですね。見ていると、あれは仕様もない、あれは度し難い、救い難い、これは駄目やと思っているでしょう。大間違いですよ。私たちが信じるべきは目の前の事態や事柄を信じるのではなくて、御言葉を、神様の約束を信じていくのです。私はその奥様に「そのとおりですよ」と。「お母さんが元気な間はちっとも教会に来なくて、それどころか『私はキリスト教徒とはかかわりたくありません』と言っておられた息子が、お母さんが召された後、しばらくして礼拝に来られるようになりました。そのような方もおられますから大丈夫ですよ」と言ったのです。私の目の黒いうちになんて、そんな勝手なことを言うから失望するのです。「大丈夫、お祈りして神様が必ずしてくださるから」と、自分が信じることが大切なのです。自分がしっかりと救いにあずかって、イエス様と共に生きて、喜び感謝してご覧なさい。必ず神様はその約束を成し遂げてくださいます。だから祈り続けて、神様に信頼していくこと、これが信仰でしょう。
38節の「わが義人は、信仰によって生きる」、神様が「よし」とおっしゃる、神様が正しい人と認めてくださるのは、まさにそのように神様の約束のお言葉を握って生きている人のことです。行いが立派だとか、親孝行であるとか、あるいは社会的に慈善家であるとか、あるいは何かいろいろなことに貢献しているから「義人」だというのではない。神様に喜ばれる正しい人とは、「信仰がなくては」(ヘブル書11:6a)と言われるでしょう。その信仰の始まりは、神様のお言葉を聞くこと、約束の御言葉にしっかりと立つことにほかなりません。
今は待降節、アドベントです。「アドベント」とは「待ち望む」ことでしょう。では、何を待ち望んだか。イエス様がお生まれになる前、多くのユダヤ人たちは、救い主が誕生なさることを旧約の預言者を通して知っていました。それがいつであるか分からない。しかし、必ず自分たちを救ってくださるお方が来られるのだと信じていた。それは旧約聖書に約束された神様のお言葉を信じていたからです。そして、待ち望んでおった。やがて具体化したのが、あのイエス様のご誕生です。だからイエス様がこの地上に遣わされなさったこの事態事柄は、約束されたお言葉の成就です。
ルカによる福音書1章39節から45節までを朗読。
45節に「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」とあります。これはマリヤさんがガブリエルから告示されて、神様の前に、大能の手の下に自分を低くして「神にはなんでもできないことはありません」と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と、お言葉を信じたのです。「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう」と言われる神様のお言葉を「分かりました」と初めて信じて、その心が定まったとき、彼女は喜び、神様の御霊による喜びにあふれました。やがて体内に命が宿って、ある程度、何ヶ月経ったか知りませんけれども、エリサベツさんの所へ行ったのです。エリサベツさんは、ザカリヤという祭司の奥さんです。このザカリヤとエリサベツもそもそも子供がいませんでした。何とか子供が欲しいと願っていたのですが、与えられない。もう年老いていました。自分たちは二人きりだと思っていたときに、イエス様の受胎告知の6ヶ月ぐらい前ですが、ザカリヤさんが神殿で香をたく勤めをしていたときに、御使が来て「あなたに男の子が与えられる」と言う。ザカリヤさんはびっくりして「そんな馬鹿な」と言った拍子にとうとう「口がきけなくなった」と書いてあります。
そこも読んでおきたいと思います。同じルカによる福音書1章20節です。「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。ここに「時が来れば成就するわたしの言葉」とあります。神様の約束のお言葉が必ず成就する。ただ「時が来れば」と。私たちにはこの「時」がいつであるか、これは分からない。しかし、神様は必ず「その時」を備えていらっしゃる。神様は「終わりの時が来る」と言われます。終末の時が来る、天も地も焼け溶けてしまってすべてのものが失せ去ってしまう、消えてしまう時が来ると言われていますが、「その時」がいつであるかは分かりません。イエス様もそのようにおっしゃっています。「子もまた知らない」、「ただ父だけが知っておられる」(マタイ24:36)と。ところが、「その時」は神様の手の中にあって、必ず「その時」が来れば神様の約束は成就していく。だから、先ほど申し上げました家族の救いのことについても、神様の「時」があるのです。だから現実にそっぽを向いている姿を見て、いらいらカッカすることは何もないのです。「何でやろう、うちの子はあんなふうになって……」と思う必要はないのです。神様の「時」がある。だから安心して神様の手に委ねていく以外にない。またそれがベストであり、それ以外に方法がないのです。だからイエス様のご誕生にかかわるすべての人々に、まさに神様の約束の言葉が成就していくのだと繰り返し語っているのです。ザカリヤさんとエリサベツさんの夫婦にも神様は約束の言葉を与えてくださいました。やがて具体的に奥さんのエリサベツはみごもり、大変喜びました。「主は今わたしを心にかけてくださって、恥をそそいでくださいました」と言って喜びました。
そこへ今度はマリヤさんがやって来るのです。エリサベツさんは自分の経験がありますから大喜びをして「主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう」と、既にそのときエリサベツさんはマリヤさんのおなかに宿ったこの幼子こそが救い主であることを知っていたのです。それは何によって知ったか。聖書の約束のお言葉をエリサベツさんが信じたのです。その結果として45節に「主のお語りになったことが必ず成就する」、神様が語ってくださったお言葉、聖書の言葉が必ずそのとおりになるのだと言えたのです。これを信じるのが私たちの信仰です。人の言葉でも誰の言葉でもない、神様のお言葉です。ですから、毎日の生活でいろいろなことにあいますが、その中で常に、主は何と語っているか、聖書には何とあるか、主のみ心にかなうことが何であるかを求めていくこと。神様がおっしゃることと現実が大変違っていても、たとえそうであっても、たとえ現実がどうであっても、神様が約束してくださった約束を信じていく。神様はこのように約束してくださっていると御言葉をしっかりと握って堅く立つ。やがて「時が来れば成就する……」でしょう。「時が来れば」ですよ。ただその「時」を待てない。「だんだん年も取ってきたし、後何年残っているのか分からない。神様、何とか早く結論を出してもらわないと、私も安心して死ねません」と。何によって安心するか。自分が目で見て、手で触ってしようとするからでしょう。「見ないで信じる者は、さいわいである」(ヨハネ 20:29)。神様の約束を信じて、喜んで天に帰る。だからヘブル人への手紙に、「まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び」(11:13)と書いてあります。私たちもそのようになりたいと思います。願わくは「生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを」と、詩篇27篇にうたわれていますから、生きている間にその結果を見せてほしいとは思います。しかし、「時は神様の手の中に」でしょう。神様はどのようなことをしてくださるか分かりません。
私は最近そのように思うのです。ご存じのように家内の両親が、義父はホスピスに入って、義母はその近くのケアハウスに移りました。先日、月曜日に義父のところへ行きました。すると不思議なことに、日曜日に院長先生が来てくれました。院長先生はなかなか熱心なクリスチャンです。義父に尋ねたそうです。「あなたは何かを信じているかね」と。すると義父は偉そうに「私は無宗教です」と、「信心なんかはいたしません」と言ったそうです。すると院長先生は「それはいかん!無宗教ほどいかんことはない!」と言った。私でも言えないことを言ってくれたのです。更に「もうすぐクリスマス、阿部さん、クリスマスとは何か知っているかね」と尋ねられた。「さぁ、クリスマスは赤い服を着たサンタかトナカイの話しか知りませんがね」と言った。「じゃ、教えてあげよう。クリスマスはね、主イエス・キリスト様の誕生日なんだよ」と言ったというのです。なかなか身内の者は言いにくい。ところが神様は素晴らしいことをしてくださる。そういう方のそばに置いてくださる。私が行きますと、お祈りしてあげるのですが、面と向かって「信じなさい」とはなかなか言いにくい。と言いますのは、「伝道者はふるさとにて尊ばれず」と、身内からは嫌われるのです。だからできるだけ他人にお願いしたい。他人様のほうがいいのです。殊勝にも義父は「こんなにお世話になっているし、義理でもちょっと聞かなければいけないかな」と思っているようです。いい具合に神様はしてくださいますね。これからどのようになるか楽しみにしておりますが、義母も「かめやま」という所に入れてもらいました。そうしましたら週に2回「やすらぎの会」という聖書のお話を聞く会で、希望者はそこへ参加してくださいと勧められました。「お宅は希望されますか」と家内が尋ねられたのです。家内は「はい、もうぜひぜひお願いします」と、そして義母に「こういう会があるからぜひ出てちょうだい」と言いましたら「それはいい話だから私も聞きたい」と言うでしょう。願ったりかなったりですよ。北九州に両親だけいたらどうなっていたかなと思うと、神様はすごいことをしてくださる。これからどのようにしてくださるかなと思って大いに期待しています。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。神様は必ずその約束を成就してくださる。それがどのような形でいつであるか、これは分からないのです。だから神様の手に自分を委ねる。自らを委ねないことには成就しない。
だから信仰とは、まさに45節に「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女」、これこそが信仰に立つ姿です。どうぞ、私たちはどのようなことがあっても、目に見える状態が何であっても、聖書にこのように約束してくださっている、神様がともにいてくださる。このことを信じていきたいと思います。
列王記上21章23,24節を朗読。
イスラエルのアハブ王様という悪名高い王様がいます。その奥さんがまた輪を掛けた悪妻です。イゼベルという、彼女は偶像、バアルの神だとかそういうものを信奉する人です。そのために、エホバの神、真(まこと)の神様に仕える者たち、あるいは信じる者たちを全部迫害したのです。それほど悪い人、ただアハブ王様は奥さんに引っ張られていた面はあります。というのは、彼は時々悔い改めるのです。その度に神様は「アハブの涙を見たからもうよかろう」と許してくれるのです。イゼベルはなかなかどうしてしたたかです。あるときアハブ王様が良い畑を見つけて「このブドウ畑が欲しい」と思ったのです。しかし、それはナボテという人の所有地だった。そのナボテに交渉して「この畑をお金を出すから譲ってくれ」と言ったら、ナボテが「いや、これは先祖代々うちのものですから譲るわけにはいきません」と。それでショックを受けて、アハブ王様は家に帰って寝室でふて寝していたのです。そこへ奥さんのイゼベルがやってきて「あなた、何しているの」と。「いや、悲しい。欲しいと思ったあの畑を売ってくれなかったナボテは悪いやつだ」と言った。するとイゼベルが「あなた、なんて馬鹿なことを言っているの。私が取ってあげます」と言って、イゼベルはある策略をもってナボテを殺してしまって、その畑を「あんたにあげるわ」と言ったのです。もうむちゃくちゃな奥さんですよ。それで神様は預言者エリヤを遣わして、神様の言葉を語らせた。それが23節以下「イゼベルについて、主はまた言われました、『犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう』と。アハブに属する者は、町で死ぬ者を犬が食い、野で死ぬ者を空の鳥が食うでしょう」と。実に悲惨な終わりを遂げるであろうと言われたのです。でもこのときはまだ何ともなかった。それから何年たったでしょうか、年月がたちまして……。
列王記下9章34節から読んでみましよう。
このとき既にアハブ王様は亡くなって、イゼベルは寡婦です。未亡人だったのです。ところが、イゼベルは自分の保身のために若手の次なる実力者に色目を使う。このときエヒウという人に何とか取り入ろうとしまして、厚化粧をしてエヒウに仕掛けるのです。実に上手にやるのです。しかし、このエヒウという人は律儀な人、一直線の人ですから、イゼベルを嫌ったのです。イゼベルがお城の窓から、やって来るエヒウに手を振っていた。それを見たエヒウは「誰かそこにいないか!」と、「その女を窓から投げ落とせ!」と言ったのです。すると、その声を聞いた部下が窓辺にいたイゼベルを塔の上から投げ落としたのです。イゼベルはそこに落ちて死んでしまう。死んだとき、彼らは彼女をそのままにして城の中に入って、「そういえばさっきのイゼベルはどうなったか」と思って行って見たら、
列王記下9章34節から37節までを朗読。
何年間か年月が経って、神様が約束した言葉を取り次いだ預言者エリヤはこの世にいませんでした。しかし、神様のお言葉は着実に「その時」を待っていたのです。何年経とうと、何十年経とうと、神様のお言葉はそのとおりに具体化していくのです。この旧約聖書の中にそのような記事がいくつもあります。神様のお言葉は決して捨てたものではない。いやそれどころか「この言(ことば)に命があった」(ヨハネ1:4)とあります。神様のお言葉を信じて主を待ち望んでいくときに具体化していく。逆に怖いですよ。このイゼベルのように神様ののろいを受けたら、早く何とかそこから悔い改めて立ち返らなければ神様ののろいが具体化します。
もう一度へブル人への手紙10章38節に「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。ですから、見えるところがどうであれ、何であれ、聞くおとずれがどうであれ、私たちの頼るべきところは、聖書の御言葉だけです。主がこのようにおっしゃっている。だから失望することはいらない。どんなことの中にも主が働いてくださる。神様の約束が今も着々と、その終わりのときを目指して進んでいる。「若し遅くあらば待つべし必ず臨むべし濡滞(とどこほ)りはせじ」(ハバクク2:3b文語訳)とあります。事態がどうあろうとも、一層悪くなるように見えようとも、大丈夫、神様は必ずこれに答えてくださる。このように約束してくださっているからと、信じて主の業、「その時」を待ち望んでいきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
38節「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
教会に来ると、「信仰」ということを言われます。あるいは「信じなさい」と言います。「何を信じればいいのだろう」「信仰とはなんだろうか」と考えさせられますが、今読みました37節に「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」と記されています。これは旧約聖書のハバクク書2章の言葉が引用されているのです。その所を読みますと、「この幻はなお定められたときを待ち、終わりをさして急いでいる」と記されています。幻が語られ、その幻が実現していくのだということです。
その幻とは神様が私たちに約束してくださった聖書のお言葉であります。創世記の初めから黙示録の終わりまでを通して、神様が語っていることの中心はたった一つです。それは私たちが神様の救いにあずかって、創世の初め、エデンの園にあった最初の人となること、言うならば救いとはそのことです。私たちを救ってくださる、救いのご計画がこの聖書に語られているのです。そもそも人の滅びと言いますか、呪われた者となったいちばん最初はどこにあったかと言えば、それはエデンの園の生活から離れてしまったことです。神様を離れて呪われた者となる、永遠の滅びに定められた人類。その人々をどのように救ってあげようかと、神様は初めからご計画を持っていたのです。長い人類の歴史、その最後に人は必ず終わる時が来る。天地創造のすべての始まりがあれば、その最後がある。その終わりの時に、すべてのものが裁かれ、天も地も焼け落ち、崩れ去ってしまう。神様の裁きの時が来るのです。人類をはじめ、この世界、宇宙、すべてのものの歴史が神様から始まって、神様に終わっていく。その間に人はどのような取り扱いを受けるかについて語られたのが聖書です。だから難しい言葉で「救済史」と言いますが、人の救われる道筋がこの聖書に書かれているのです。
そのような人類の歴史の中で、私たち一人一人はどのようにかかわるのかと考えてみたら、あまりにも漠然として、私と何の関係があるかと思いますね。私たちの人生は長くて80年か90年、それなのに人類の歴史、宇宙の歴史は何十億年か何百億年か知りませんが、とてつもなく長い時間にわたって神様のご計画がある。そのことと私たちとはいったい何の関係があるだろうか、と思いますね。
ところが、不思議ですが、神様の何十億年か何百億年か知りませんが、大きな長い救いの歴史が、実は私たち一人一人が生まれてから死ぬまでの歴史の中に凝縮されていると言えます。人生の始まりは、オギャーと生まれることです。生まれたときに「ハレルヤ!」と言って生まれた人はおりませんから、みな罪の中に生まれた者であります。その罪の中にある者が、様々な問題を通して神様の導きを得て、やがて主イエス・キリストに出会う。イエス様と共に生きる地上の生涯、波乱万丈いろいろなことがあって、だんだんとすべての肉なるものを失って、捨て去って、最後に肉体を脱ぎ捨てて、この地上の生涯を終わる。そのときに私たちの終末が来て、永遠の御国に、永遠のいのちの生涯へと移し変えられる。これが一人の人生。それをグーッと全人類の長い歴史に引き伸ばしていくと、これが聖書なのです。だから、聖書は大宇宙の森羅万象の始まりから、その終末までが語られている壮大な書であると同時に、実に小さな私の人生の始まりから終わりまでが語られていることでもあるのです。その中で私たちが何を希望とし、何をより所にしていくかと言うと、それは神様のお言葉、言うならば聖書に約束された一つ一つの約束が私たちの救いの道筋となり、またそれが光となり、私たちを救う力となってくる。これは全人類の救済史という枠組みの中ばかりでなく、私たちの日々の生活の中にも、その一つ一つの御言葉、神様の語られたお言葉が成就していくのです。
今、その大きな長い人類の救いのみわざ、摂理が着実に進んできています。今は終わりの時が近づいていると言われています。イエス・キリストがベツレヘムに生まれてくださった。それは人類の長い救いの中の一つの中心的な出来事であり、それがなくては救いのご計画が完成しないのです。神様はそのように人類の歴史の中に一つ一つ約束を成就しておられます。神様の御言葉、語られている事柄が着々と進んでいく。今もそうです。私たちの世の中を見ると混沌(こんとん)として「どこに神があるか」と、不正がはびこり、暴力が幅を利かせ、正しい者が正しい評価を受けない、不正が働いているこの世の中はいったい神様がいらっしゃるのかと思います。しかし、よく見ると、聖書に約束されたとおりのことが起こっている。神様を離れた者の姿が聖書に語られていますが、そのとおりの事が起こっているのであって、聖書を通して神様が語ったことと違うことが起こっているわけではない。神様を畏(おそ)れなければ人がどうなるか、聖書にはっきり記されています。そのとおりのことが今現実にあるのです。では、それを造り変えていくにはどうするか。そのような滅びから救われるにはどうするか。それも聖書に書いてある。人が知恵を働かせて、賢者や学者、知識人が集まって、一生懸命に知恵を振り絞って社会を変えようとか、世の中を改革しようとしますが、そんな方法によってできるとは聖書には書いていない。誠に今の世の中の現実を見ると聖書的な世界ですよ。聖書は、きれいな、世と掛け離れた、温室のような世界ではなく、聖書には様々なことが盛り込まれています。旧約聖書を読みますと、裏切りがあり、殺人があり、争いがあり、戦争があり、……。「先生、聖書はもっときれいな世界かと思ったら、何ですか、聖書は次から次へと人は殺すわ、裏切るわ、もう人間の悪が満ちているではないですか」と時に言われます。そのとおりですよ。と同時に、それに対する神様のはっきりした裁きと、悪に満ちた人をどのように救ってくださるか、その救いの道がどこにあるかも記されています。だから、近ごろしみじみと教えられますが、聖書は本当にすごいと。新聞やテレビで見るニュースや聞くおとずれを聖書の中で照らしてご覧なさい。誠にそのとおり、本当にこのような時代なのだ、こうなるべくしてなっているのだ、その原因がどこにあるかも聖書に語られている。そして、聖書に語られているお言葉に従って、救い主でいらっしゃるキリストが、私たちの所に来てくださった。イエス様に立ち返って、主の十字架のみ前に自分を死んだ者としてささげきっていくときに、今度は新しい者へと造り変えられるとあります。まさにそこにしかありません。人類の救いとはそこにしかありませんし、人類なんて偉そうなことを言わなくても、私たち一人一人の救いがそれに懸かっているのです。それなくしては、私たちの救いはありません。聖書のお言葉は決して一つとして無駄なことはないし、またどれ一つ神様の約束が行われないことはありません。世の中の生活は神様の約束が着実に具体化しつつある生活です。
35節に「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」と。神様が私たちに約束してくださった事柄、それはたくさんありますね。聖書の中に「私たちを神の子とした」と、あるいは私たちに「まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)。生活のすべてはわたしが用意しているとおっしゃっています。約束していらっしゃる。その約束のお言葉、神様の御言葉を通して与えられる確信、それには必ず大きな報い、結果が伴うのです。その後の36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」と。「御旨を行う」とは、神様の約束のお言葉を信じて、確信して、その御言葉をしっかりと握って耐え忍んでいく。現実は、見えるところは、神様の約束がどうなっているか訳が分からないような状態です。しかし、それに惑わされないで、そういうものに心を奪われないで、神様のお言葉だけをしっかりと握って、望みを置き、確信を持って、約束のもの、その結果である神様の報いを望み見ていく、忍耐していく。これが実は信仰だというのです。与えられている約束のお言葉は決して反故になると言いますか、実行されないままで、空手形で終わることはない。確かにそのとおりだと思うのです。神様はいろいろな約束を与え、こうしたらこうなるよと約束してくださったことがたくさんあります。その約束のお言葉を信じるというのが信仰です。
だから38節に「わが義人は、信仰によって生きる」と。「信仰」、まさにこれが神様の約束のお言葉を信じていくことです。自分の目に見える状態や聞くおとずれ、あるいは自分の経験を確かなものと信じるのではなくて、神様のお言葉がこう言っているからと信じるのです。神様が私にこのことを約束してくださったからと信じていく。だから、よく皆さんが言われることですが、「家族の救い」を願って、何とかして「頑張って私が家族のために」と言いますが、私どもにはできません。しかし、聖書には約束されています。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と約束されているでしょう。だから「主イエスを信じる」こと、そしてまず自分自身が救われていること、これが大切です。「いや、私はすでに救われています」と言われるかもしれないが、よくよく考えてみたら「本当に自分は救われただろうか」と、心もとないところがあります。だから私どもが本当に信じきって、イエス様のものとなりきって、主のみ心にだけ従って歩んでいくならば、「あなたもあなたの家族も」と約束されています。必ず救いにあずかることができる。神様の約束です。それを信じることが大切です。それを信じていきますなら、たとえ結果を見ることがなくても、必ず具体化していきます。
昨日もある方とお話をしておりました。自分たちも老い先そう長くはない。それで「葬式のことを相談したい」と言って来られたのです。どのようなお葬式をしてほしいかといろいろお話をしました。そのご夫婦は結婚前からクリスチャンで、信仰を持って結婚をされました。ところが現実、今二人のお子さんがいて、それぞれに家庭をもっているのですが、一向に教会に来ようとしない。自分たちはどうも育て方が間違ったかな、と思っているようです。そのときに奥様が「私どもは信じて来ましたから、たとえ私どもがこの世からいなくなってからでも、神様はこの子供たちを救ってくださる。もう一度教会に立ち返らせてくださると信じています」と言われました。これは大切なことです。信じることが大切なのです。主が約束してくださった。その約束のお言葉を握って「大丈夫、今見える状態は神様のほうにそっぽを向いて、教会に足を向けようとしない。だから、あいつ等は駄目や」と信じるのか、それとも「聖書にこのように約束されているから私はそう信じてきたし、必ず神様は成し遂げてくださるに違いありませんから大丈夫です」と言うのか、どちらかです。どうも私たちは前者のほうのようですね。見ていると、あれは仕様もない、あれは度し難い、救い難い、これは駄目やと思っているでしょう。大間違いですよ。私たちが信じるべきは目の前の事態や事柄を信じるのではなくて、御言葉を、神様の約束を信じていくのです。私はその奥様に「そのとおりですよ」と。「お母さんが元気な間はちっとも教会に来なくて、それどころか『私はキリスト教徒とはかかわりたくありません』と言っておられた息子が、お母さんが召された後、しばらくして礼拝に来られるようになりました。そのような方もおられますから大丈夫ですよ」と言ったのです。私の目の黒いうちになんて、そんな勝手なことを言うから失望するのです。「大丈夫、お祈りして神様が必ずしてくださるから」と、自分が信じることが大切なのです。自分がしっかりと救いにあずかって、イエス様と共に生きて、喜び感謝してご覧なさい。必ず神様はその約束を成し遂げてくださいます。だから祈り続けて、神様に信頼していくこと、これが信仰でしょう。
38節の「わが義人は、信仰によって生きる」、神様が「よし」とおっしゃる、神様が正しい人と認めてくださるのは、まさにそのように神様の約束のお言葉を握って生きている人のことです。行いが立派だとか、親孝行であるとか、あるいは社会的に慈善家であるとか、あるいは何かいろいろなことに貢献しているから「義人」だというのではない。神様に喜ばれる正しい人とは、「信仰がなくては」(ヘブル書11:6a)と言われるでしょう。その信仰の始まりは、神様のお言葉を聞くこと、約束の御言葉にしっかりと立つことにほかなりません。
今は待降節、アドベントです。「アドベント」とは「待ち望む」ことでしょう。では、何を待ち望んだか。イエス様がお生まれになる前、多くのユダヤ人たちは、救い主が誕生なさることを旧約の預言者を通して知っていました。それがいつであるか分からない。しかし、必ず自分たちを救ってくださるお方が来られるのだと信じていた。それは旧約聖書に約束された神様のお言葉を信じていたからです。そして、待ち望んでおった。やがて具体化したのが、あのイエス様のご誕生です。だからイエス様がこの地上に遣わされなさったこの事態事柄は、約束されたお言葉の成就です。
ルカによる福音書1章39節から45節までを朗読。
45節に「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」とあります。これはマリヤさんがガブリエルから告示されて、神様の前に、大能の手の下に自分を低くして「神にはなんでもできないことはありません」と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と、お言葉を信じたのです。「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう」と言われる神様のお言葉を「分かりました」と初めて信じて、その心が定まったとき、彼女は喜び、神様の御霊による喜びにあふれました。やがて体内に命が宿って、ある程度、何ヶ月経ったか知りませんけれども、エリサベツさんの所へ行ったのです。エリサベツさんは、ザカリヤという祭司の奥さんです。このザカリヤとエリサベツもそもそも子供がいませんでした。何とか子供が欲しいと願っていたのですが、与えられない。もう年老いていました。自分たちは二人きりだと思っていたときに、イエス様の受胎告知の6ヶ月ぐらい前ですが、ザカリヤさんが神殿で香をたく勤めをしていたときに、御使が来て「あなたに男の子が与えられる」と言う。ザカリヤさんはびっくりして「そんな馬鹿な」と言った拍子にとうとう「口がきけなくなった」と書いてあります。
そこも読んでおきたいと思います。同じルカによる福音書1章20節です。「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。ここに「時が来れば成就するわたしの言葉」とあります。神様の約束のお言葉が必ず成就する。ただ「時が来れば」と。私たちにはこの「時」がいつであるか、これは分からない。しかし、神様は必ず「その時」を備えていらっしゃる。神様は「終わりの時が来る」と言われます。終末の時が来る、天も地も焼け溶けてしまってすべてのものが失せ去ってしまう、消えてしまう時が来ると言われていますが、「その時」がいつであるかは分かりません。イエス様もそのようにおっしゃっています。「子もまた知らない」、「ただ父だけが知っておられる」(マタイ24:36)と。ところが、「その時」は神様の手の中にあって、必ず「その時」が来れば神様の約束は成就していく。だから、先ほど申し上げました家族の救いのことについても、神様の「時」があるのです。だから現実にそっぽを向いている姿を見て、いらいらカッカすることは何もないのです。「何でやろう、うちの子はあんなふうになって……」と思う必要はないのです。神様の「時」がある。だから安心して神様の手に委ねていく以外にない。またそれがベストであり、それ以外に方法がないのです。だからイエス様のご誕生にかかわるすべての人々に、まさに神様の約束の言葉が成就していくのだと繰り返し語っているのです。ザカリヤさんとエリサベツさんの夫婦にも神様は約束の言葉を与えてくださいました。やがて具体的に奥さんのエリサベツはみごもり、大変喜びました。「主は今わたしを心にかけてくださって、恥をそそいでくださいました」と言って喜びました。
そこへ今度はマリヤさんがやって来るのです。エリサベツさんは自分の経験がありますから大喜びをして「主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう」と、既にそのときエリサベツさんはマリヤさんのおなかに宿ったこの幼子こそが救い主であることを知っていたのです。それは何によって知ったか。聖書の約束のお言葉をエリサベツさんが信じたのです。その結果として45節に「主のお語りになったことが必ず成就する」、神様が語ってくださったお言葉、聖書の言葉が必ずそのとおりになるのだと言えたのです。これを信じるのが私たちの信仰です。人の言葉でも誰の言葉でもない、神様のお言葉です。ですから、毎日の生活でいろいろなことにあいますが、その中で常に、主は何と語っているか、聖書には何とあるか、主のみ心にかなうことが何であるかを求めていくこと。神様がおっしゃることと現実が大変違っていても、たとえそうであっても、たとえ現実がどうであっても、神様が約束してくださった約束を信じていく。神様はこのように約束してくださっていると御言葉をしっかりと握って堅く立つ。やがて「時が来れば成就する……」でしょう。「時が来れば」ですよ。ただその「時」を待てない。「だんだん年も取ってきたし、後何年残っているのか分からない。神様、何とか早く結論を出してもらわないと、私も安心して死ねません」と。何によって安心するか。自分が目で見て、手で触ってしようとするからでしょう。「見ないで信じる者は、さいわいである」(ヨハネ 20:29)。神様の約束を信じて、喜んで天に帰る。だからヘブル人への手紙に、「まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び」(11:13)と書いてあります。私たちもそのようになりたいと思います。願わくは「生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを」と、詩篇27篇にうたわれていますから、生きている間にその結果を見せてほしいとは思います。しかし、「時は神様の手の中に」でしょう。神様はどのようなことをしてくださるか分かりません。
私は最近そのように思うのです。ご存じのように家内の両親が、義父はホスピスに入って、義母はその近くのケアハウスに移りました。先日、月曜日に義父のところへ行きました。すると不思議なことに、日曜日に院長先生が来てくれました。院長先生はなかなか熱心なクリスチャンです。義父に尋ねたそうです。「あなたは何かを信じているかね」と。すると義父は偉そうに「私は無宗教です」と、「信心なんかはいたしません」と言ったそうです。すると院長先生は「それはいかん!無宗教ほどいかんことはない!」と言った。私でも言えないことを言ってくれたのです。更に「もうすぐクリスマス、阿部さん、クリスマスとは何か知っているかね」と尋ねられた。「さぁ、クリスマスは赤い服を着たサンタかトナカイの話しか知りませんがね」と言った。「じゃ、教えてあげよう。クリスマスはね、主イエス・キリスト様の誕生日なんだよ」と言ったというのです。なかなか身内の者は言いにくい。ところが神様は素晴らしいことをしてくださる。そういう方のそばに置いてくださる。私が行きますと、お祈りしてあげるのですが、面と向かって「信じなさい」とはなかなか言いにくい。と言いますのは、「伝道者はふるさとにて尊ばれず」と、身内からは嫌われるのです。だからできるだけ他人にお願いしたい。他人様のほうがいいのです。殊勝にも義父は「こんなにお世話になっているし、義理でもちょっと聞かなければいけないかな」と思っているようです。いい具合に神様はしてくださいますね。これからどのようになるか楽しみにしておりますが、義母も「かめやま」という所に入れてもらいました。そうしましたら週に2回「やすらぎの会」という聖書のお話を聞く会で、希望者はそこへ参加してくださいと勧められました。「お宅は希望されますか」と家内が尋ねられたのです。家内は「はい、もうぜひぜひお願いします」と、そして義母に「こういう会があるからぜひ出てちょうだい」と言いましたら「それはいい話だから私も聞きたい」と言うでしょう。願ったりかなったりですよ。北九州に両親だけいたらどうなっていたかなと思うと、神様はすごいことをしてくださる。これからどのようにしてくださるかなと思って大いに期待しています。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。神様は必ずその約束を成就してくださる。それがどのような形でいつであるか、これは分からないのです。だから神様の手に自分を委ねる。自らを委ねないことには成就しない。
だから信仰とは、まさに45節に「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女」、これこそが信仰に立つ姿です。どうぞ、私たちはどのようなことがあっても、目に見える状態が何であっても、聖書にこのように約束してくださっている、神様がともにいてくださる。このことを信じていきたいと思います。
列王記上21章23,24節を朗読。
イスラエルのアハブ王様という悪名高い王様がいます。その奥さんがまた輪を掛けた悪妻です。イゼベルという、彼女は偶像、バアルの神だとかそういうものを信奉する人です。そのために、エホバの神、真(まこと)の神様に仕える者たち、あるいは信じる者たちを全部迫害したのです。それほど悪い人、ただアハブ王様は奥さんに引っ張られていた面はあります。というのは、彼は時々悔い改めるのです。その度に神様は「アハブの涙を見たからもうよかろう」と許してくれるのです。イゼベルはなかなかどうしてしたたかです。あるときアハブ王様が良い畑を見つけて「このブドウ畑が欲しい」と思ったのです。しかし、それはナボテという人の所有地だった。そのナボテに交渉して「この畑をお金を出すから譲ってくれ」と言ったら、ナボテが「いや、これは先祖代々うちのものですから譲るわけにはいきません」と。それでショックを受けて、アハブ王様は家に帰って寝室でふて寝していたのです。そこへ奥さんのイゼベルがやってきて「あなた、何しているの」と。「いや、悲しい。欲しいと思ったあの畑を売ってくれなかったナボテは悪いやつだ」と言った。するとイゼベルが「あなた、なんて馬鹿なことを言っているの。私が取ってあげます」と言って、イゼベルはある策略をもってナボテを殺してしまって、その畑を「あんたにあげるわ」と言ったのです。もうむちゃくちゃな奥さんですよ。それで神様は預言者エリヤを遣わして、神様の言葉を語らせた。それが23節以下「イゼベルについて、主はまた言われました、『犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう』と。アハブに属する者は、町で死ぬ者を犬が食い、野で死ぬ者を空の鳥が食うでしょう」と。実に悲惨な終わりを遂げるであろうと言われたのです。でもこのときはまだ何ともなかった。それから何年たったでしょうか、年月がたちまして……。
列王記下9章34節から読んでみましよう。
このとき既にアハブ王様は亡くなって、イゼベルは寡婦です。未亡人だったのです。ところが、イゼベルは自分の保身のために若手の次なる実力者に色目を使う。このときエヒウという人に何とか取り入ろうとしまして、厚化粧をしてエヒウに仕掛けるのです。実に上手にやるのです。しかし、このエヒウという人は律儀な人、一直線の人ですから、イゼベルを嫌ったのです。イゼベルがお城の窓から、やって来るエヒウに手を振っていた。それを見たエヒウは「誰かそこにいないか!」と、「その女を窓から投げ落とせ!」と言ったのです。すると、その声を聞いた部下が窓辺にいたイゼベルを塔の上から投げ落としたのです。イゼベルはそこに落ちて死んでしまう。死んだとき、彼らは彼女をそのままにして城の中に入って、「そういえばさっきのイゼベルはどうなったか」と思って行って見たら、
列王記下9章34節から37節までを朗読。
何年間か年月が経って、神様が約束した言葉を取り次いだ預言者エリヤはこの世にいませんでした。しかし、神様のお言葉は着実に「その時」を待っていたのです。何年経とうと、何十年経とうと、神様のお言葉はそのとおりに具体化していくのです。この旧約聖書の中にそのような記事がいくつもあります。神様のお言葉は決して捨てたものではない。いやそれどころか「この言(ことば)に命があった」(ヨハネ1:4)とあります。神様のお言葉を信じて主を待ち望んでいくときに具体化していく。逆に怖いですよ。このイゼベルのように神様ののろいを受けたら、早く何とかそこから悔い改めて立ち返らなければ神様ののろいが具体化します。
もう一度へブル人への手紙10章38節に「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。ですから、見えるところがどうであれ、何であれ、聞くおとずれがどうであれ、私たちの頼るべきところは、聖書の御言葉だけです。主がこのようにおっしゃっている。だから失望することはいらない。どんなことの中にも主が働いてくださる。神様の約束が今も着々と、その終わりのときを目指して進んでいる。「若し遅くあらば待つべし必ず臨むべし濡滞(とどこほ)りはせじ」(ハバクク2:3b文語訳)とあります。事態がどうあろうとも、一層悪くなるように見えようとも、大丈夫、神様は必ずこれに答えてくださる。このように約束してくださっているからと、信じて主の業、「その時」を待ち望んでいきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。