いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(185)「神様に選ばれたあなた」

2014年05月01日 | 聖書からのメッセージ
 ヨハネによる福音書15章12節から17節までを朗読。
 
 16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。

 私どもは今神様を信じる者、イエス様の救いを受ける者としていただきました。こうなるために私たちは何をしたのだろうか、あるいは何があったのだろうかと考えてみると、それぞれ信仰に導かれる、イエス様の救いに導かれる具体的な動機、切っ掛けがありました。よく言われるように、悩みや苦しみ、困難にあってどうにも仕方なく、苦しいときの神頼み、ひとつ神様にすがってみようと思い、教会に初めて来た方もおられるでしょうし、また私のように生まれたときから牧師の家庭に育って仕方なしにキリスト教に結び付けられたということもあります。また、学生時代にキリスト教に出会って、そのまま腐れ縁が続いている方もおられるでしょう。いずれにしても、いろいろな形でイエス様の救いに導かれる具体的な道があって、一概にこれということはできません。しかし、ふと考えることは、やはり自分が選んだのだと思う。自分が求めてきたからこうなったと思うことがあります。
ところが、16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない」と、イエス様はおっしゃいます。私どもとしては、私が求めてきたのだ、私がこれに興味を持ったから教会に行ってみようと思った。あるいは、あの人が誘ってくれたとき、暇だったから、「うん」と返事をしてしまった。そして、気がついてみたら教会に来ていた。いずれにしても、「私が……」と思っています。ところが、神様のほうから言うなら、それは間違いだよ、というのです。私たちは自分でこの神様を「私の神」にしようと選んだつもりでいても、神様のほうはそうではなかった。「わたしがあなたがたを選んだのである」と。実は神様が私たち一人一人を選んでくださったと、語られています。そんなこととはつゆ知らず「え!いつ選ばれたことがあるだろうか」、私どもは思いますね。自分の過去を振り返ってみて、いつ神様が「あなたは選ばれましたよ」という当選証書のようなものを、抽選に当たりましたという、証書をもらったことはありません。確かに、具体的にそのように書かれたもの、個人個人に封書で当選証書が送られたわけではない。選ばれた何かの証明もありません。しかし、聖書を読みますと、明らかにそのことが語られています。

エペソ人への手紙1章3節から5節までを朗読。

これは何とも驚くべき事態ですが、神様は4節に「みまえにきよく傷のない者となるようにと」、私たちが神様の前に立って何一つとがめられない者にしてあげようというのです。自分を振り返ると、果たしてこのままで神様の前に立って、ふさわしい人間だろうかと考えてみていただきたい。そこそこいいところはある。あの人この人に比べれば、あの人ほどあんなに悪くはないと、比較相対的な意味で自分を是とする、自分を善しとすることがあります。あるいは、あの人に比べたら私はこういう点で劣っている、こういう点が私には欠けている。私はやはり駄目だなと、思うこともあります。だから、何と比べるかによって、自分がこれでいいかなと自分を肯定する、善しとする面もあれば、比べる相手によっては、これはとんでもない、私はもう太刀打ちできないと思うこともあります。ところが、そのように比べるものによって自分の評価が変わるという、相対的な評価ではなく、絶対者である神様の前に立ってどこもとがめられない自分だというのは難しい。皆さんも、正直なところそう思われるに違いない。どんなに周囲の人々から、あの人は仏さんのような人だと言われても、心の奥を探ったら、そうは言えない。やはり自分はできが悪いなぁ、と思いますよ。神様の前にきよく傷のない者となる。これは自分の力では到底できない。ところが、神様はそのことをよくご存じです。私たちは自分では神様の前には立てない、言うならば神様の目からご覧になって、すべてのものは永遠の滅びの中に投げ込まれて終わりになるべき存在である、そのような私たちを憐(あわ)れんでくださった。実は、神様が私たちを選んでくださった。何のためにか? 「きよく傷のない者」、神様の前に罪のない者として生きるように造り変えるためです。ここに「天地の造られる前から」、百年前、二千年前、何千年前というたぐいのものではない、もっとそれより前、「天地の造られる前」、まだ世界も宇宙もなかった、混沌(こんとん)とした、創世記のいちばん最初「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」という、それよりも前からです。既に神様は「キリストにあってわたしたちを選び」、神様のほうが私たちに目を留めてくださった。選んでくださったのです。そして5節に「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと」、しかも、後になって神のひとり子イエス様がこの地上に遣わされ、私たちをきよめるため、人々の罪のあがないとして、あの十字架に私たちの一切の罪を負うてくださった。神様ののろいを受けたのです。その事も既に私たちのためにご計画してくださった。そして、「主イエス・キリストによって神の子たる身分を授ける」、私たちを神の子供としてくださった。言い換えると、先ほどの「みまえにきよく傷のない者となる」とはこのことです。神の家族になること、神様と私たちが、アバ父よ、天のお父様と、神様と親子の関係になる。そのためには、私たちが神様に近づくことができるような者に変わらなければならない。神様と私たちと住んでいる世界は違いますから、神様の子供になる、神様の許(もと)に近づくためには、神様の求めている標準、神様のかたちに似た者に私たちが変わらなければならない。これは大変なことです。私たちは自分の力ではそれはできない。到底できません。けれども、神様は私たちをそういうものに造り変えるために、やがて生まれてくるであろう、この地上に命を得るであろう、私たち一人一人のために、神様の深いご計画によって、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちのあがないの供え物となして、罪を赦し、信じる私たちを神の子供としてくださる。この遠大な救いのご計画の中に私たちを取り込んでくださいました。そんなこととはつゆ知らないで生きていたのです。そして、自分勝手に、自分の思うがままに生きてきた私たちです。ところが、神様はちゃんと時と事を備えて、神様の所へ選び、引き出してくださった。私たちの好むと好まざるとにかかわらずです。神様がお前を選んだよと。なんだか至極迷惑な話と思われるかもしれませんが、これはとてつもない大きな恵みだというほかはありません。

ここに「神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」とあります。「御旨のよしとするところに従い」とは、これは分かりやすく言うと、神様がそれを喜びとしてくださった。私たちを神の子供にすることを神様は、うれしい、といって喜ばれたのです。

何かを選ぶときでも仕方なしに、「仕方がない。嫌やけれども選んどく」という選び方もあります。それともう一つは「うれしい、これが私のものになる」といって、喜ぶこともあります。どのような選ばれ方がいいでしょうか。「迷惑だけれども、仕方がない。あなたは行く所がないからうちにいなさい。もう厄介だな」という選ばれ方。そんなにして選ばれても肩身が狭い。「申し訳ない、私のような者が選ばれて、ご迷惑ですね」と言わなければなりません。ところが、「御旨のよしとするところに従い」と、「もう、お前を選んでわたしは万々歳、うれしくてたまらない。もう幸せの絶頂だ」と、神様はおっしゃってくださる。そんなにまで言われたら、こんな私でよかっただろうかと思います。私を選んでうれしいと言ってくださるが、それ程の値打ちがあるだろうかと気になります。5節に「御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」と、しかも「あらかじめ」、前もって予定してくださった。

これもまたうれしい話です。日本人は、「近くに来たら寄ってください」とよく言いますが、待っていてくれるなら行こうと思って、近くに来たから「近くに来ましたからお寄りします」と言ったら、「え!来られたのですか!ちょっと待っていてください」と大慌てされる。「ちょっと待ってください、入らないで」と、門が閉まったままです。そのうち、その辺をほうきでがさがさ掃く音がする。しばらく立っていましたら水をまく音がする。それで10分ぐらいたってから「お待たせしました、どうぞ」と、どうも居心地が悪い。入って行きますと、「先生、そこは見ないでください」「ここは見ないでください」と扉を閉めて「ここへどうぞ」と入れられる。一方、「待っていましたよ、どうぞ、どうぞ」と、すぐに「お茶です」とパッパッとやってくださる。そのように全部準備されて待たれているとき、うれしいですね。ところが、「お茶菓子はどこかな、あら困ったわ、こんなときに来られて」とそのように言われたら、落ち着かない。早くもう帰ろうかという気になる。

神様が私たちを選んだのは「あらかじめ定めて下さった」。付け焼刃ではない。泥縄式でもない。仕方がない、この人は予定になかったけれども来てしまったから、まぁ、いいか。そのような形で選んだのではなくて、私たちのことを全部知り尽くして、頭の先から足の先まで、よい所も悪い所も一切合財全部知り尽くして、「前もって」この人をこの時にこの事を通してわたしの救いにあずからせようと、これが神様の選びです。そのように神様のほうが、私たちを愛するがゆえに選んでくださった。どうぞ、どういう思いで神様が私たちを救ってくださったのか、はっきり知っておきたいと思います。そうしないと、どこかで「え!神様は私のような者を救ってくださった、今ごろ神様は後悔しているのではないだろうか。私はお祈りもそこそこだし、礼拝も休みがち、神様は『しまった、あんな者を選ばなければよかった』と後悔するのではないかと……」。

私どもは選んだ結果がよかったためしがあまりない。買い物に行って「これはバーゲンで安い、買おう」と思って、持って帰って見たら「ここの裏がほつれていた」とか、ボタンが一つなかったで、それで後悔する。これは替えてもらおうと思って、行ってレシートを見せて、「どれでもいいから交換してください。もう仕方がない、これにしとこう」と買って帰る。選んだのはいいけれども色は違うし、形は……と、たんすの中にはそんなのがたくさんある。選んだけれども失敗したと、後悔する。夕食の買い物に行って、主婦の方々は必ず選びますね。きゅうり一本でも、たまねぎ一つでも裏をひっくり返して、これはいいとかこれは悪いとか、棚の奥から引っ張り出して賞味期限を見る。そうして帰って来てテーブルの上に並べる。フッとみると、りんごの下がちょっと腐っている。「しまった!見損なった」と悔やむ。選び損なったときの悔しさは、よく分かるでしょう。いつもやっているから。

神様が選んで悔しがっているとしたら、私どもは立つ瀬がない。今日も神様が悲しんでいる。「私を選んでしまって、神様は今ごろ嘆いていらっしゃる」と思うでしょう。ところが、そうではない。「あらかじめ」、前もって、「天地の造られる前から」、昨日今日選んだのではなくて、はるか昔から私たちのすべてを知り尽くして選んでくださった。だから、私は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」という。このお言葉の意味は大きな恵みです。なぜなら、私たちには一切責任がないのであります。私たちがどんな状態であっても、神様は「あなたを選んだ」。神様のほうが選んだのですから、私たちが小さく縮こまって「申し訳ない、こんな者が選ばれて申し訳ない。神様ご迷惑ですね。神様、申し訳ないですね」と言う必要はないのです。堂々として「神様、あなたが選んだのではないですか。私の強情なところもご存じです。私のこのけち臭い根性もご存じです。私が愛のない冷ややかな者であることもあなたはご存じです。そうして選んだのですからあなたの責任ですよ」と。「神様、あなたが選んだ以上、あなたが責任を持って、ちゃんとやってください」。神様を信頼する信仰とは、このようなことなのです。神様が選んでくださったから、それにふさわしい自分にならなければいけない。自分は言葉使いがちょっと悪い。特に主人や家族に対して私の言葉使いは横柄だから、これからは丁寧な言い方をしようとか、にこやかにいつも笑顔で、そうだ、いつも笑顔でなければいけないとか、自分を造り変えようと思っても、それはできません。皆さんが笑顔で帰ってご覧なさい。家族は「おかしいな、お母さんは……」と言われるに決まっている。それだったら、初めからあまり笑顔をしないほうがいいですね、いつものように……。なぜならば、私たちは自分の力で出来ない。でも、神様は私たちを選んでくださった責任者なのです。選びにふさわしい者に神様のほうが造り変えてくださる。ここに選びの素晴らしさがあるのです。「選んだけれども後はお前たちがちゃんと選ばれたものにふさわしい行いをせよ」と言われても、私たちはできやしない。できるのだったら、選ばれなくてもできます。神様は私たちを選んだ以上、必ずその選びにふさわしい者に造り変えてくださる。作り笑いをしなくても、黙っていても思わず知らず笑顔に変わるように神様はしてくださる。私たちの性情、性格一切のものを造り変えてくださる。これは神様のご目的だからです。

ヨハネによる福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。このお言葉は私どもにとって望みであり、力です、喜びです。「あなたがたがわたしを選んだのだよ」と、言われてご覧なさい。大変な責任を負わせられる。私が選び損なったかもしれないと、責任を負わせられます。ところがそうではなくて「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。神様があなたを選んで、神様のものにしてくださった。その後に「そして、あなたがたを立てた」とあります。しかも私たちを神様の子供として「みまえにきよく傷のない者となるように」と、ちゃんとその事のために立ててくださったという。置いてくださって、いのちを与えてくださっている。そして「それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」とあります。ここに「実をむすび」と、私たちが実を結ぶ者となるようにと神様のほうが責任を持って、造り変えるよと言われる。この「実」という言葉から15章の初めの所でぶどうの木の例えを思い出します。これは皆さんもよくご存じのことですが、父なる神様を農夫とし、またご自分をぶどうの木と例えて、私たちをぶどうの木に連なる枝としてくださった。ぶどうの枝が幹に連なっているとき、豊かに実を結ぶことができる。その幹から離れては何一つできないと語られています。だから選ばれた私たちが、選んでくださった父なる神様にしっかりと結びついていくこと、つながってさえおればいいのです。つながることを一生懸命に努めることが、私たちに与えられた使命です。

私たちは朝から晩までいろいろな業の中に生きています。家庭で、社会で、あるいは職場だとか、いろいろな場所に遣わされます。そこでいろいろなしなければならないこと、与えられた仕事や勤めがあります。そのような生活している一つ一つの事柄の中で、絶えず主イエス様に連なること、これが大切です。この世は神様を知らない世、神様を認めない、神様から離れた世界です。ところが、そのような中にあって、私たちは神に選ばれた者なのです。選ばれて主イエス・キリストに連なって生きる者とされた。だから、いつも私たちの心は、この世のことにあるのではなくて、イエス様と共にあることに努めていくのです。これが選ばれた者の使命です。世間では、世の中の仕来りや習慣、因果応報の法則や、あるいは損得利害という枠組みの中で生きています。世の中はそうですね。損をするとかしないとか、そういう損得勘定によって、あるいは、あの人にこんな世話になったから今度はそのお返しをこうしてやろうとかいう、そのような仕組みの中で私たちは生きている。朝起きて何かするときでもそうですけれども、何か事を考えるとき、何か判断しようとするとき、右にしようか左にしようかとするとき、必ず私どもは人はどうしているだろうかと、あの人はどうしているだろうか、この人はどうしているだろうかと、考える。親はどうしていただろうかと、そんなことまで考える。死んだ親のことまで考える。こんなときは私の母だったらこのように言うに違いない、するに違いないと。いよいよ分からないときには娘に電話をする。「こんな事を言われているけれどもどうしたらいい」などと、人に相談をする。

私たちが選ばれたのは、イエス様に連なるために選ばれた。イエス様に連なってさえいれば、実を結ぶ者へと神様が変えてくださる。イエス様に連なるとは、今申し上げましたように、いろいろなこの世のしなければならない事柄、右にするか左にするか、いろいろな事の中に置かれたとき、私たちが、イエス様ならどうなさるか?主は何とおっしゃるだろうか? そこに心を向けること、これが私たちのしなければならないただ一つのことです。イエス様、これはこうしようと思いますけれども、これでいいでしょうか。これは神様のみ心でしょうかと、絶えず自分自身に問いかけること。これが私たちの生活のすべてです。人がこうするから、あの人がこう言ったから、あるいはこうしたほうが自分に利益になるから、こうしたほうが得だからと、ついそのような次元で、そのような論理で物事を考えます。主は何と言われるだろうか、神様は、あるいはイエス様は私にこのことを通して何をさせようとしているのだろうか。これを求めなければ選ばれた者の使命を果たし得ません。ただそれだけです。実に簡単なことです。ところが、私どもはよくそれを忘れる。家族の人からちょっとした事を言われたら、カーッと腹が立って、売り言葉に買い言葉、そのときイエス様は跳ねのけられて、どこにいるのか分からなくなる。それでは私たちは選ばれている使命は果たせない。どんなときでも、主は何とおっしゃるだろうか。いつもイエス様を心に置いていく。だから「テモテへの第二の手紙」に言われているように「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(2:8)。会社に勤めていても、上司が何と言うだろうか、こうすることが会社にとって得だろうかどうだろうか、そのようなことを考えて仕事をしているから、とんでもない偽装行為とか何とか、平気で行われてしまう。その中の一人でも、社員の一人でも、神様はこのことを何とおっしゃるだろうか、イエス様はこのことを喜ばれるだろうかと、ちょっとでも考えてご覧なさい。おのずから、私たちの手の動き、足の動き、言葉が変わってきます。心のうちにイエス様を絶えず置かなければ、ぶどうの木でいらっしゃるイエス様につながっていくことができません。イエス様から離れてしまったら、私たちは実を結ぶことができないからです。

16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり」、そうやって、イエス様に従ってした事柄、小さなことでも大きなことでも、「イエス様がこれを求めていらっしゃるからこれはこうしよう」、「このことはイエス様が喜ばないから私はやめておこう」と決めたことは私たちの実になり、神様が喜んでくださる。そうやってイエス様と絶えず交わり、イエス様に結びついて生きていると、おのずから顔つきが変わりますよ。立ち振る舞いが変わります。誠に神様の僕として神様のほうが責任を持って私たちを造り変えてくださる。

I先生が、この教会にも何度か来てくださったことがありますが、一つの失敗談を話してくださいました。あるとき先生は忙しく、いろいろな家庭集会を回って夜遅く帰って来た。帰って来たらおなかがすいていたのです。しかし、家族は食事が終わって何も残っていなかった。奥さんが「こんなに遅く、食べないで帰ってくるとは思わなかったから、何もないわよ」と言ったら、「帰ってくることぐらい分かっとるだろうが!おれは腹が減っているんだ!」と言ったら、奥さんが「でも、あなた、イエス様だったら何と言うかしら? 」と言われた。先生は「おれはイエス・キリストじゃない!○○だ!」と言ったそうです。それで奥さんは黙ってしまったと、失敗談としてお証詞してくださったのを忘れられません。時々私もそう思うことがある。「何がイエス・キリストだ!おれは榎本和義だ!」。だからイエスにはなれないと思います。

イエス様は私たちがイエス様に連なることを求めている。イエス様のようになれと言われてもなれない。けれどもイエス様と共に歩む、イエス様と共に生きることが、私たちのいのちです、私たちの生きることです。イエス様にならう者となる、そのようになりたいと思うけれども、先ずは足元の第一歩、一つ一つの事に、これは主のみ心なのだろうか、私が選ばれた目的、今生かされている使命は何か? イエス様に従うこと以外にないことを知っておきたい。だから「あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい」(1:10)と「ペテロの第二の手紙」に語られています。私たちが選ばれ、召されたその使命、それはただ一つだけです。どんなことにもイエス様を求めて、主のみ心はいかに、主が願っていることは何か? 絶えずそのことを求めていくこと、これがすべてです。時には、自分の願わないことを求められるに違いない。

何度もお話をしていますが、家内の母親が今度施設に入りまして、教会の近くに来たのです。近いから母も大変喜んで、もう86歳ですけれども、携帯電話を人生で初めて持たせたのです。まだ頭がはっきりしていまして、ちゃんと使うのです。そうすると家内が嫌がる。と言うのは、しょっちゅう掛かってくるから。この間から電話が掛かるたびに、家内が顔をしかめる。「また母からか」というような、それで取りたがらない。大抵私が取ると「お母さん……」、やはり娘と話がしたいのです。「お母さんだよ」と手渡す。嫌ーな顔をするのです。なぜかと言うと、子供のときから母親が非常に強い人で、娘だからと、命令と言いますか、おっかぶせるような言い方をされる。そうすると、長女はそういう所があるのでしょうね、母親が一言いうと、それにすぐに反応する。自分が嫌でも仕方なしにそうしてしまう自分が居る。長いこと離れていましたから、だいぶその母親の呪縛といいますか、呪いから抜けてきたところへ、また昔の悪夢がよみがえってくる。だから家内は電話のたびに「ああ……」となるわけです。しかも家内の携帯番号を知っていますから、わざわざ家内の所へ掛けてくる。だから取る。誰から掛かってきているか分かる。「あ、また母か」と。それも「もしもし!」と、えらいつんけんした言い方をする。私はそばで聞いていて、もっと優しくいえばいいのにと思う。昨日もそういって、今度は夫婦げんかになる。「もう少し優しく言ってやったらどうかね」「いや、だって母はこちらが優しく聞けば聞くほど付け上がって次から次へと要求される」と言う。いくら要求されてもできないことは「いや、せっかくだけどできません」と、優しく断ればいいのに、「できん!もう言わないで!」と。「そんなことを言わなくてもいいじゃない」と、昔からの親子とは難しいですね。娘さんがいたら気をつけて言われたらいい。だから、私が「そうではなくて、神様が母をここに置いてくださって、こういう道を備えてくださった。主に従うというのはここじゃないの」。私は神様が素晴らしいことをしてくださった、しめしめと思っているのです。今まで何度か家内に言ったのですが、今、母を横に置いてくださって神様が訓練して、造り変えようとしているのです。私は大いにやってくださいと、神様に祈っています。人が言ったって変わりようがない。でも、神様が「わたしがするよ」、「わたしが選んだのだ」。だから、私は心ひそかに「神様、あなたは素晴らしいご計画をもって家内を教育してくださる。私ができなかったことをやってくださる。感謝です」と祈っています。神様が造り変えようとしてくださる。

皆さんも、笑い事ではないですよ。今与えられていることの中で、神様が造り変えようとしてくださる。ここに「あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび」、実を結ばせようとしていろいろな問題の中で、私たちが幹であるイエス様に連なることをどれ程願っているか分からない。だから、早く降参して、お手上げになって、神様、イエス様、あなたから離れて私は何もできませんと言う者になっていただきたい。そうなると私たちは変わります。神様は私たちの内側も外側も全部をひっくるめて新しく造り変えて、新創造の業をしてくださる。なぜならば、私たちを通して神様の栄光、素晴らしさが証詞される、私たちを神様の広告塔にしてくださるから、恐れないで大胆に神様の手に自分を明け渡していきたい。

「わたしが選んだ」とおっしゃってくださる。だから何か不都合なことがあって、心配になって、自分が悩みを引き込んで、ああだ、こうだとグジュグジュ悩むでしょう。そのとき「何で私が悩んでいるのだろう。神様、あなたが私を選んだ責任者、何とかしてください」と祈ればいいのです。私はいつもそう思っている。前も言いましたが、私は福岡に遣わされてまいりました。二十数年前ですが、私が来たくて来たのではない。これははっきりしています。神様が私を遣わしたのです。だから、いろいろな問題があって行き詰る。教会のことや信徒の方々の問題を自分で抱き、抱え込んでしまう。そうすると、夜が眠れなかったりするときに、どうして私はこんな目に遭わなければいけないのだろうか、どうしてこんな……、と思っても、「神様、私はできません。あなたが勝手に私をここへ連れてきて、この中に置いたのですから、何とかしてください」と居直ることができる。そうすると安心して、あとは野となれ山となれ、神様、あなたのしたいようにしてください。私は何にもできません、お手上げですと言う。そうすると、神様のほうが「これは困った、こんなに言われたらじっとしてはおれない」と動きます。「自分がやります」、「私がします」と、自分で引っかぶって、自分が持ち運ぼうとするから、「そうか、やってくれ」とおっしゃるのです。「私はできません。神様、あなたが私を選んだのではないですか。私のことは全部ご承知のことでしょう。今私にこんな問題を与えられてどうしますか。神様、あなたがやってください。私はあなたに付いて行きます」、ただこれだけです。そのとき、神様は私たちの願うよりも、思うよりも勝った驚くべき結果を出してくださる。

神様の業を体験して、喜び感謝し、主を褒めたたえる者に私たちを造り変えてくださる。そのために「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。神様の選びの恵み、尊さを、私たちはいつもかみしめて生きる者でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。