いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(206)「主の愛に生かされて」

2014年05月22日 | 聖書からのメッセージ
 エペソ人への手紙3章14節から21節までを朗読。

 17節「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」。
今朝は17節に「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活すること」、この事を教えられたいのであります。16節から19節の終わりまで「…と祈る」と記されているように、これは祈りです。祈りとは、心の願いでもあります。これはエペソの教会について聖徒パウロが祈っていると同時に、エペソの人々がこのような生活をしてほしいというパウロの願いでもあります。そうなるために、神様から力を与えられて、内なる人が強められ、達成できるようにと、神様の憐(あわ)れみを祈っているのです。このことは私たちに対する神様の願いでもあります。

殊に、17節に「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」とあります。イエス様の救いにあずかった恵みは何かと言いますと、内住の主、キリストが私たちに宿ってくださることです。イエス様は神の御子ですが、そのような御方が、あえてこの罪の人の世に下ってくださって、私たちと同じ弱い肉体を持って、悩みを知り、悲しみを、病を知り給う御方となってくださいました。そればかりでなく、罪を犯したことのない御方が罪人となって、十字架に処刑される。これはとんでもない事態です。イエス様にとって、ご自分が好き好んでというわけでは決してない。ゲツセマネの園で、「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ 26:39)と祈っています。しかし、父なる神様がイエス様に求められたことは、私たちの罪のあがないの供え物となって、十字架にご自身をささげることにほかなりませんでした。ですから、神様はイエス様のこの祈りを退けて、父なる神様の御心を全うしてくださった。それがあの十字架の事態です。イエス様は十字架にご自身をささげて、私たちの犠牲となってくださいました。本来私たちが死んでおわびをしなければならない大きな罪を犯していた。その罪とは「自分を神とする」ことです。「自分を神とする」などと言うと「私はそんなことは到底思いもしません」と反論します。しかし、「自分が正しい」「自分が絶対」と思ったとき、神になっているのです。「絶対許せん」とか「絶対、そんなことはない」と、気が付かないうちに「絶対」という言い方をする。「絶対」とは神様以外に言えないことです。絶対的なものはただ神様お一人ですから、私たちにはそのような絶対的なことは何もない。すべて相対的と言うか、相手があって自分ということですが、神様は絶対者です。それを私たちが取る、盗む。そして自分を絶対的なものとする。「私の思っているとおりでないと、絶対許せん」と言う。そのとき、私たちは己を神としている。造り主でいらっしゃる神様を忘れてしまう。そこに私たちの罪があるのです。その結果、私たちはいろいろなことに出会うのです。

 先日、衛星放送でしたかNHKのテレビを見ておりましたら、「写経」について解説をしていました。私もたまたまほかの事で待っているときでしたから「何を言うのかな」と見ておりました。仏教思想家の「ひろさちや」という人が解説をしておりました。般若心経のある一節を取り上げて、「苦しみ」とか「悩み」というのは一切無い、すべてが無であるという、そこを解説していました。その所で「苦しみ」とは何か?般若心経の「苦」という言葉の語源をたどっていくと、サンスクリット語だと思うのですが、それには自分の思いを遂げられないという意味があるそうです。自分の願ったように事がいかないことで人は苦しむ。世の中には自分の願ったようにできることと、できないことがあることを悟ることが大切だと。そうすると自分たちには苦はなくなるという説明です。自分にできることの範囲において、自分の思いを遂げるということは可能だ。しかし、この事は自分の思いを遂げることができないと悟るとき、苦しみはなくなる。私は聞きながら、「なるほど、そういうものかな」と思いました。ところが、それはそれでよく分かる話ですが、では、自分の思いを遂げられる事って、いったい何があるだろうかと思う。自分の生活の中で自分ができること、こうすれば私ができる、ああすればできると、確かにそのような領域はあります。例えば病気になったとき、風邪ぐらいだったら、どこかの売薬でも買ってきて飲んでおけばいいとか、寝ておけばいいとか、玉子酒でも飲んで一晩寝ておこうか、そうすれば治るに違いないと、自分の思いを遂げる。病気を治すことについて、ある程度それができる領域と、医者もお手上げという全く手が出ない領域とがある。そのときに「ここは自分の思いを遂げられない事なのだ」と悟れば苦がなくなると。ところが、実際にはそれを悟れない。それは説明としてはよく分かるのです。またもう一つ感じたのは、自分の思いを遂げられるから悩みがなくなるか? と言うと、そうはいかない。と言いますのは、皆さんもそうだと思いますが、自分がこうしたいと願っている、自分がこうなりたいと願っている。その思いどおりにすることで、人は大安心かと言うと、必ずしもそうはならない。自分がこうしたいと思ってそれを遂げたのだけれども、果たして、これでよかったのだろうかと、自分に対して責めてくるものがある。そこまでは般若心経は語っていないようで、ただ、自分の思うようにできることと、できないことがあるのだから、できないことはできないとしてあきらめなさい。できることはできたとして感謝しておけばいいではないか、何をそんなに苦しむことがあるのかと言われるけれども、本当の苦しみは、そのような出来る出来ないという、現れてきたことではなくて、もっと心の問題、魂の問題です。そこには絶対的な力を認める必要があります。その説明をよく聞いていますと、私もその道にはあまり詳しくないのですけれども、般若心経というお経には、絶対者、神様というのはない。だから、すべてが比較相対的なものです。では、いったい誰がすべての事を支配しているかとは一切触れられませんから、これはないものねだり、一つの限界なのだろうと思います。

ところが、本当の心の苦しみとか悩みは、できるとかできないとか、そこから生まれてくるものももちろんあります。しかし、もっと深い所で、自分自身の存在、私が生きているのは、これでよかったのだろうか、という悩みがある。自分の思いどおりにして、なるほどそれを遂げられたけれども、だからといって安心か? というと、安心にならない。「思いどおりにしてきたが、私はこれでよかったのだろうか」と、何かに対しての責任が問われている自分であることを感じるのです。そこをどうやって解決していくのか。どこにもありません。ただ、聖書だけです。私はその番組を見ながら、説明を聞きながら、私たちが受けているこの救いが、どんなに大きなものであるか、改めて感謝せざるをえません。また、多くの人々が何としてもこの救いにあずかっていただきたいと、切に願わざるを得ません。

私たちのそのような大きな罪のゆえに、神様の前に死んでおわびをすべき、生きていることすら許されない者を、ただ、神様が憐れんでくださった。神様のほうが一方的にご愛を注いでくださった。そして、ご自分のひとり子を私たちの罪のあがないの供え物として世に遣わしてくださった。なぜなら、私たちがこのような中途半端な、汚れた欠けだらけの出来損ないをささげたって、神様に赦されるはずがない。値打ちのないものをささげて「これでひとつよろしく」なんて、そんなのはとんでもない話です。私たちがささげることができないゆえにこそ、ご自分の罪なき全ききよい御方、聖なる御方でいらっしゃるご自身を罪人として、十字架にいけにえとしてささげてくださった。傷なき子羊、神の羔羊(こひつじ)として罪のあがないとなってくださいました。今、私たちは主のいさおしによって、そのご犠牲のゆえに罪を赦されて、神に義とされた。そればかりでなく、今度は、よみがえって、私たちの内に宿ってくださる、私たちと共に生きてくださる御方となっている。主は私たちの内に宿ることができるように、私たちを清めてくださった。神様は水も漏らさないように手はずを整え、私たちが御子と共に生きることができるように、主が私たちの内に宿ってくださることができるように、私たちの心と思いを清めようと、ご自身のひとり子を十字架につけ、罪を断罪してくださったのです。罪を糾弾(きゅうだん)して、のろいを取り除いて、私たちを清くして、神と共に生きることができる、そのような身分に造り変えてくださった。これは主の救いの恵みです。

だから、17節に「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」とあります。「信仰によって、キリストが」私たちの「心のうちに住んでくださる」。イエス様が、私たちと共にいてくださる。言うならば、それは神様が私と共にいてくださることです。「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」(イザヤ41:10)と言われる。神様が私たちと共にいてくださる。そして、共にいてくださるにふさわしく、私たちを清めてくださったと言われる。しかし、現実的な自分を見ると、果たしてそんな結果が現れているかどうか、よく分からない。いや、何だか自分はちっとも清められたような思いがしないかもしれない。私たちの現実の肉にあるこの世の生活は、なお罪にまみれているかもしれませんが、それは既に清められた最後の残っている部分であって、もはや、私たちにとって何の支配も力もないのです。それはやがて消えていくべきものであって、既に取り除かれたものなのです。だから、ある方が「今なお、罪を犯したり、とがを犯したりする、ああ、これはやっぱり十字架があまり役に立たなかった。清められていないのだ」と言ったのです。するとほかの方が「そうではなくて、今私たちたちがなお罪を犯したり、神様のみ心にかなわなかったりして、神様を悲しませるようなことをしているのは、それはサタンの残骸、トカゲのしっぽ」と言うのです。トカゲは死んでも、トカゲのしっぽはビリビリ動くでしょう。そのように、「サタンは十字架に脳天を打ち砕かれて、キリストが父なる神様ののろいを受けてくださってもう死んでしまった。私たちを罪から解放してくださった。しかし、なお死んでいるトカゲのしっぽのようなものがチラチラまだ私たちの中に残っているから、それに心を留めてはならない。それに惑わされてはならない」と言われたことを思い出します。

「先生、信仰に入って何年もたつけれども、相変わらず同じ所、同じようなことを繰り返しやっています。これでは救われませんね」と言う。そうではないのです。それはもう既に終わっているもの、死んだものがまだのたうっているだけのこと。やがてそれは完全に消え去って、地上の生涯が終わるとき、それら一切を脱ぎ捨てて全き者とせられて、栄光の姿に造り変えて、父なる神様の御国に住む者と変えてくださるのです。

17節に「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」、まず、キリストが私たちの心の内に住んでくださる。そして「あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより」とあります。これは、私たちの生きるエネルギーと言いますか、生きる動機が違ってくるということです。「キリストがあなたがたの心のうちに住み」という、この住んでくださるキリストと、その後の「愛に根ざし愛を基として」という、この「愛」とは同意語です、同じ意味の言葉です。キリストは同時に「愛」という言葉で置き換えることができます。また「愛」は「キリスト」に置き換えても間違いがない。だから、キリストが私たちの内に住んで、イエス様の十字架のご愛を私たちの生きる原動力、動機付けとして生きること、これが救いにあずかった者の生き方です。私たちは、イエス様を知らなかったときは、自分の欲と感情、情欲に動かされて生きていた者です。毎日、朝起きて何が今日一日のエネルギーになるのでしょうか。目覚めたときに「今日も生きるぞ!」というエネルギーはどこからくるのでしょうか。「今日はあれをしなければいけない、これをしなければいけない。あそこに行かなければいけない。この家族のためにあれをして、主人のために、また子供たちのために……、これをしなければいけないから、今日は元気で生きなければいけない」。「今日は天気がいい。ひとつ遊びに行こうか」とか、「寒いけれども、あそこへ行こう、ここへ行こう」、「今日は休みだからあそこへ行こう」と、それがエネルギーになって、朝起きるなり「今日はこれでひとつ生きるぞ!」と、その力をどこに得ているのでしょうか?イエス様の救いにあずかるまでは、そのような世の中の事柄、自分の損得・情欲によって生きているかもしれない。中には、仕方なしに生きているかもしれない。死ねないから、目が覚めて「今日も生きているわ。仕方ない。何をしようかしら。することはないけれども、取りあえずこれをしておくか」と、そのような生き方があるかもしれない。しかし、それでは私たちは何のために生きているのか、何によって生きているのか分らず、空しいことです。

17節にはっきり語られています。「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」と。今、私たちが生きているのは自分が生きているのではない。パウロが「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり。最早(もはや)われ生くるにあらず」(ガラテヤ2:20)。では、誰が私を……?「キリスト我が内に在りて生くるなり」。イエス様が私の内に住んで、私を生かしてくださる。その意味は、この17節に「あなたがたが愛に根ざし愛を基として」、キリストが私の内にあって、私を生きる者としてくださっている。それは言い換えると、生きる動機付け、エネルギーはキリストの愛に感じる心、神様の大きな、ひとり子を賜うほどの大きなご愛に圧倒されて、そのご愛に後ろから背中を押されて生きている姿です。どうでしょうか、私どもは毎日キリストの愛に根ざし愛を基として、キリストが私の中に住んでくださる。そのキリストのために生かされている、あるいは、キリストの愛によって、こんな私が今日も愛されている。私のためにイエス様が命まで捨ててくださった。そして「生きよ」とおっしゃってくださる。私の命は私のものではない。もはやキリストのものとなっている。「さあ、今日一日は、主よ、あなたが喜ぶことは何でしょうか。主をお喜ばせする道はどこにあるでしょうか」と、そのための時間であり、そのための健康であり、そのための命であることをどれほど自覚して生きているでしょうか。仕方ない、死ぬわけにもいかんし、死ぬのも怖いしと、なんだか宙ぶらりんです。どっちつかずに一日が終わる。「今日も一日終わったか。取りあえず寝よう」と、朝起きたら「また今日も目が覚めたな。今日はもう何をするかな、することもないし、取りあえず生きとこう」と。そこには救いにあずかった生き方がない。生きる喜びが伝わってこない。皆さん、私たちがイエス様の救いによって生きる生き方が何であるかをしっかりと心にとどめておきたい。17節「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」とは、キリストのご愛が私たちの心にあふれていることです。イエス様のご愛が私を包んで圧倒的に押し迫ってくるから、「今日も主よ、あなたが私を愛して生きる者としてくださった」。と感動する。本来死んでいた者が今日も生かされているのですから、神様、何をしましょうか。神様、あなたのみ心に従いますと、全身全霊一切のものを主の御手にささげて、「愛に根ざし愛を基として」とあるように、イエス様のご愛にうながされ、励まされ、圧倒されて、押し出されて生きていくことです。そうするとき、どんな問題があろうと、どんな事が起ころうと、一切思い煩うこと、心配することは何もない。ただ、喜びがあふれるばかりです。主のご愛がやせ細ってくるから、私どもは心配になり、不安になり、苛立ったり、憤ったり、つぶやくのです。どうぞ、もう一度、何によって私は今日生きているのだろうか、何を私の喜びとして生きているだろうか。主のご愛に応えることができたことを、最大の喜びとして生きることができたら、その生涯は何と幸いなことでしょうか。自分の思いを遂げて「良かった。してやった」という生き方と、「今日も主よ、あなたのご愛に感謝しています。このような者を愛してくださいました。神様、あなたのためにこの事をさせていただいて、この上ない喜びです」という喜びと比べるならば、はるかに後者のほうが幸いと言えます。

コリント人への第一の手紙13章1節から3節までを朗読。

繰り返して「愛がなければ」とあります。「愛」という言葉を「キリスト」と言い換えてご覧なさい。全然間違いはありません。もしキリストがなければ私たちがどんなことをして、どんな良い事をして、どんな優れた事をし、どんなに人が喜ぶことをしようとも、そこにキリストがなければ、それはやかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。また、山を移すほどの強い信仰があっても、そこにキリストがなければ、言うならば、主のご愛に根ざしていないのだったら、それは何の意味もない。いや、そんなことはない。信仰というのはキリストを信じることではないですか、と言われるけれども、ただ、病気がなおりたいために信じる人もいるでしょう。自分の思いを遂げたいために、神様に厳しく交渉すると言いますか、強行に神様に談判をするという信仰の人もいるでしょう。そんな信仰ではなくて、私たちが「愛に根ざして」と、キリストに結びついて生きることです。これがなければ一切が無益であると。だから、朝起きて夜寝るまで、日常生活の一つ一つどんなことでも、そこに主の愛に根ざして、キリストと共に生きていく。主が「せよ」とおっしゃるから、させていただく。主がこんなものを愛してくださったから、その愛に応えて感謝をもって、この事をさせていただきます。炊事洗濯であろうと、何であろうと、そこに「愛がなければ」……。家族の方から「もう完璧なお母さん」と言われる人であっても、その業が主の愛に根ざしていなければ、それは無益であり、むなしい。どうぞ、もう一度自分自身を振り返って、愛がないとするなら、主のご愛をしっかり満たしていただく。御霊によって主が私と共にいることを感じる心、主のご愛に励まされて「主がこんなに愛してくださったから、この事もさせていただきたい。ここもこうさせていただきたい」と、その動機の中に主がすべてとなる。このような生き方が、救いにあずかった者の生き方であります。

だから、4節以下に「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。素晴らしい恵みのお言葉であります。この「愛」はキリストです。イエス様が私を愛してくださったという、「私のためにあのむごたらしい十字架の刑を忍んでくださった。その私が今日も主のために生きる者とされ、喜んで私もあなたのものとなります」と心を定める。これは私たちの生活、命の原点であります。そうしていくときに、神様の恵みに生きる幸いな生涯を全うすることができる。4節以下に記されていますことは、私たちに縁遠い、自分とは全く縁のない言葉かなと思います。しかし、キリストの愛に根ざし愛を基として生活していくとき、このような愛の実が私たちの内にも実っていくのです。決して失望することはありません。だからキリストを私たちの内に抱いてキリストの愛をしっかりと受け止めて、握って、ご愛に応答していくのです。どんな事でも、人のためにするのでも、誰のためにするのでも、自分のためでももちろんない。ただ、主のご愛に応えていくこと、これ以外にない。もし、それが欠けてくるならば、そこにほかの動機が潜んでくるならば、それは不純なものです。どうぞ、自らを点検して主のご愛をしっかりと受け止めて、主のご愛に応えていこうではありませんか。

エペソ人への手紙3章17節に「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」、心の内に主が住んでくださる。だから、絶えず主と交わりを持たなければこれを体験できません。どんなときにも、「主よ、主よ」と、イエス様に心を向けて祈りつつ、祈りつつ、一つ一つ主との交わり、愛の中に自分を置いていきたいと思います。「愛に根ざし愛を基として生活することにより」とあるように、「生活」ですよ。愛を観賞するのではない、眺めているのではないですよ。その愛で生活する、実際にその愛を信じて生きること。そして18節に「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ」、主のご愛がどんなに大きなものであるか、主がどんなに私を愛してくださったか、いよいよ深く知る。そのご愛の中に落ち込んでいく。これが私たちの生きている目的であります。主のご愛をいよいよ深く知って、主のご愛に応えて生きるとき、19節に「また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように」。神様の中にある栄光の富を私たちは受け継ぐ者とされていくのです。必要ならば、知恵も力も健康も、時間でも何でも、どんな事でも神様の中には無尽蔵にあふれるばかり、有り余るほどに満ちあふれています。それによって私たちを満たしてくださる。そうするとき、私たちに何も乏しいことがありません。

「まず神の国と神の義とを求めて」(マタイ6:33)とありますが、それは取りも直さず、キリストが私たちの内に信仰によって住んで、そのご愛に根ざして生きていくとき、キリストのご愛を知ると同時に、神に満ちている一切のもので私たちを満たしてくださる。「これらのものは、すべて添えて与えられる」、何も心配はいらないと言われる。だから「思い煩うな」と。どうぞ、主のご愛に密着して、主のご愛に応えて、絶えずそのご愛に励まされて、慰められ、望みを与えられていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。