いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(204)「勝利の秘訣」

2014年05月20日 | 聖書からのメッセージ
 民数記14章4節から10節までを朗読。

 9節「ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。
 ご存じのように、イスラエルの民がモーセに導かれてカナンの地を目指して旅をしました。そのいよいよゴール間近になり、カデシ・バルネアという所まで来ました。ここはヨルダン川を隔てた、カナンの対岸にあたります。ですから、あとわずかヨルダン川を越えれば神様の約束の地カナンに入る所だったのです。彼らは初めて行く土地ですから、恐れと不安と、また期待と望みがあったと思います。神様はそこで試みています。十二部族のうちから一人ずつ代表を選んで、カナンの地を探りに行かせるのです。先遣(せんけん)隊ですね、いろいろな所を見てくるようにと。これは神様がモーセに命じたと記されています。それで彼らは出かけていきました。あちらこちらカナンの地を探って帰って来た。40日間見てきました。帰ってきまして、報告会をしたのです。

 13章25節から読みましょう。「四十日の後、彼らはその地を探り終って帰ってきた。26 そして、パランの荒野にあるカデシにいたモーセとアロン、およびイスラエルの人々の全会衆のもとに行って、彼らと全会衆とに復命し、その地のくだものを彼らに見せた。27 彼らはモーセに言った、『わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです』」。40日たちまして、12人は戻ってきました。イスラエルの人々が野営している所に帰り、すべての人々の前に「復命した」とあります。その報告をしました。最初の情報、ニュースは素晴らしい、「まことに乳と蜜の流れている地です」と。「乳と蜜の流れている地」とは一つの例えであり、そこにある川には乳があり蜜が流れているから、すくって飲んだら牛乳代わりになるという話ではありません。それほどに、土地が肥えていて、豊かで実り多いところだという意味です。だから、そこで得てきた果物を見せたとあります。その地の産物である果物や農作物だろうと思いますが、そのような物を携えて帰って来ました。「見てください、こんなものができるのですよ。こんなに素晴らしい土地ですよ」と言った。そのとき聞いていたみんなは、夢が膨らんだに違いない。期待が大きくなったに違いない。「おお、そうか。そういう所にわれわれは入っていくならば、これは楽しみだな」と思ったのです。ところが「しかし」と、28節に、残念なことにと、「その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。29 またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。最初のニュースが良かっただけに、後の知らせにがっくりしたと思います。人を喜ばせておいて、悲しませるような事態になったわけです。そこには強くて堅固な町々があり、城壁で囲まれ、強い民がそこに既に住んでいる。そのような所に自分たちが行ったら、簡単にやられてしまうに違いない。「アナクの子孫」とは、「巨人族」という意味だそうでありますが、そのような人々が住んでいる。そして「アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびと」といろいろな民族が群雄割拠(かっきょ)している。そういう所へ割り込んで行こうというのですから、並大抵のことではない。彼らはがっくり失望したのです。

30節に「そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、『わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます』」。12人の代表の中の一人がカレブという人です。このとき、「エー、そんな話は聞いてなかった、どうして!」とみんなの心が動揺したとき、カレブがみなをしずめて「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう」と言ったのです。神様が「カナンの地をあなたがたに与える」と約束してくださっていたのです。神様の約束を信じるのか、今見てきた現実、事態、事柄、見て来た人たちの報告を優先させるのか、実に厳しい選択を迫られる事態です。

これはモーセの時代ばかりではなく、私たちも絶えずその中に置かれます。神様は「恐れてはならない」「思い煩うな」「心を騒がすな」とおっしゃる。神様は「大丈夫だよ。死んだら天国があるのだから、安心して死になさい」とおっしゃっているのですが、私たちはすぐに恐れて「死んだらどうしようか」と。できるだけこの地上にしがみついて、ここにいるほうがいいのではないかと、目に見えるもの、条件、そのようなもので心が騒ぎます。そこにとらわれるのです。まさに、神様がモーセに与えられた試練とは、大変厳しい事態でもありました。これはのっぴきならない事態です。いったい神様の約束を信じるのか、それとも自分たちの体験したこと、見たこと聞いたことを信じるのか。二つに一つなのです。その中間といいますか、グレーゾーン、従うやら従わないやら、そのような所はないのです。ところが、ここでカレブだけは「さぁ、行きましょう」と言ったのです。「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。とカレブは言っています。では、その証拠、保障はどこにあるのでしょうか? 「勝つことができます」と言いながら、現実を見ると何も無いわけです。あるのはただ一つだけ、神様がそのようにおっしゃったから、神様が約束なさったのですから。これが絶えず選び取らなければならない信仰の道筋です。

そのとき彼らは、31節に「しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、『わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです』」。このときカレブの言葉に反対したのは一緒に行った仲間です。彼らは、直接的この現実を見てきていますから「カレブ、お前は何を見てきたのだ」という気持ちですね。そんな気軽なことを言っておられるか。行けばおれたちは勝つことなんかできない。彼らは強いのだからと。そして32節以下に「そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、『わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。33 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません』」。このとき、探ってきた人たちがその地を悪く言ったとあります。だから余計にこたえます。こちら側に残って留守番をしていた人たちは、直接見たわけではないから、聞いた話ですから、ひょっとしたらうまくいくのではないかな、という思いもあったでしょうが、見て来た人たちが「いや、そんなことはない。あそこは大変なところです」と言われたら、「それはもう無理だよ。それはできないよ」となっていきます。彼らは強いし、私たちは弱いのだから、勝てるわけはないとなります。民は彼らの言葉に動揺します。14章1節に「そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした」。悲しんだのです。エジプトの奴隷の生涯から救い出されて、これからやっと安心な生活が得られる。今までは定まる所なく流浪の民だったのです。カナンの地へ入れば乳と蜜の流れる豊かな地があって、自分たちの安住の地になる。安息が得られると思って来た。その土壇場になって違っていた。聞いた話とは違う。世間でもよく、もうけ話に乗ってみたら、とんでもない事態になって、身ぐるみはがされてしまったという話がありますけれども、彼らもまさにそういう失望の中にあったのです。2節以下に「またイスラエルの人々はみなモーセとアロンにむかってつぶやき、全会衆は彼らに言った、『ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。3 なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか』」。さも有りなん、と思いますね。「この荒野で死んでいたらよかった、そもそも神様は何のためにここへ連れてきた」と、ここで神様に対して文句を言う。私たちもそのような事態に会いますね。神様がそのように言われたからと、初めは信仰を持って歩んでいきます。しかし、聞いたことと見ることが裏腹で、いつになったら神様はこたえてくださるのかと不満がつのる。初めは他人事と思っていた事柄が、今度は子供になり、子供から自分に、とうとう自分の財布まで被害が及ぶと、途端に「何でこんなになった」と、「神様にお祈りをしていたのに、神様に信頼していたのに、神様は約束したはずなのにどうしてこんなになったのでしょうか」と、目の前の事柄、見える事柄、聞く事柄、そのようなものに心がとらわれて、神様を見失ってしまいます。これは誠に嘆かわしいといいますか、悲惨な事態であります。

そのときに彼らは、4節に「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。モーセもアロンも、自分たちの指導者はもう馘(くび)だ、「この人たちに頼っていてはいかん、早く別の指導者を立ててエジプトに戻ろうではないか」と言うのです。実にイスラエルの民というのは、ここを読みますと「何を、こいつらは!」とコツンと頭でもたたいてやりたいというか、あの四百数十年の奴隷の生涯から救い出され、しかも紅海を前にして、死ぬほかないような行き詰ったところから神様が道を開いてくださった。あの荒野の中で水を飲ませ、うずらやマナをもって養ってくださった神様、そこまでされていながらも土壇場になるとひっくり返る。これは彼らの忘恩と言いますか、神様に対して恩を知らない冷酷な態度かと思って憤りますが、あまり人のことは言えません。振り返ってみますと、どちらかというと私たちもそうです。私どももこれまでの生涯をズーッと振り返ると、どこに自分の力があったでしょうか。自分の計画や思いで今ここにあると言えるでしょうか。考えてみたら、イスラエルどころではない。死線を越えるような事態や事柄、あるいは失望落胆して立ち上がれなくて、消え去っていたかもしれない私たちが、今、今日こうして主のいつくしみと憐(あわ)れみのゆえに生かされて、ここに在らしめていただいていることは、誰の力、誰のご計画によるのでしょうか。よくよくそのことを考えたら、どれほど感謝しても足りません。でも、私たちはそのようなことをつゆ知らない、まるで無かったかのような大きな顔をしますが、まさにイスラエルの民も同じです。ですから、どうぞ、旧約聖書をお読みになるときに、イスラエルは自分だと思っていただきたい。イスラエルの民が失敗する姿はまさに私がそのとおりなのだも思うのです。

6節以下に「このとき、その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、7 イスラエルの人々の全会衆に言った、『わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です』」。ここにカレブとヨシュアと12人のうち二人だけが、あまりの民の失望落胆、憤りを見て、これは大変な事になったと思ったのです。そして彼らは立ち上がって「その衣服を裂き」と、決然と、断固として心を定めてイスラエルの人々に「私たちの見て来た土地は素晴らしい所だ」と言ったのです。「非常に良い地です」と、そして8節に「もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です」。「主が良しとされるならば」と、「神様が『良し』とおっしゃるのでしたらどんなことでもできないことはない。その地を私たちに必ずくださる」。そして9節に「ただ、主にそむいてはなりません」、ただ神様にだけは背いてはいけないと、これがカレブとヨシュアがイスラエルの人々に求めた事です。

これは、私たちの生活でもそうですが、いろいろな物事に優先順位というのがあります。何をしておくべきなのか。私もよくその選択を間違えては後になってちぐはぐ、土壇場になってうろたえるのです。先にこちらの方をしておくべきだった。最近やっと少しそのコツが分かってきた。一日の事をするときでも、このように木曜会に来るときでも、朝起きてする事柄の順番をきちっと取らないとうまい具合に時間に間に合わない。あとが押し迫ってしまってバタバタするのです。そのようなときにいちばん最初にするべきことは何かといいますと、もちろん起きてお祈りをして主の許(もと)に出ます。そこでちゃんと教えられなければいけない。いちばん最後、出掛けようとするとき、出掛けるのに必要ないちばん最後のことを最初にするのです。ちゃんと着替える。身繕(みづくろ)いを先にするのです。これを遅くしたら、お茶を飲んだり朝食をしたり、パジャマのままでそんなことをしていると、「あ、あと五分」と大慌てになるのです。だから、皆さんもこれは良い話だと思います。木曜会に来るとか、礼拝に出て来るときに、朝起きてからバタバタするでしょう。「9時半には出なければいけない」と分かっていながら、パジャマか何かを着て、寒いからガウンでも引っかぶって、あれをし、これをし、「昨日、忘れたからあちらをして、こちらの片づけをして」としていると「あと10分」と思って、さぁ、着替えようと思ったら「何を着て行こうか?」、分からない。必ずバスを逃すのです。それで礼拝は10時からなのにもう10時半くらいになって駆け込んできてフッと鏡を見たら髪の毛が立っていて……。だから一番先に、出掛けるときの自分をまずイメージする。それを準備して着てしまう。それから、後ろから時間をさかのぼって事を始めていく。そうすると、気がついてみたら時間が余る。出かける準備についてと同様に、ほかのこともそうだと思いますが、大体いちばん後回しにしたいと思う事柄を最初にしたほうがいい。すぐ手近なところで「今これを」とパッと衝動的にやるから時間の配分を間違うし、事がうまくいかない。人生もそうです。毎日の生活の事柄も、死ぬときのことを準備しておけば、今生きていても安心ですが、死ぬときのことを忘れて、目の前の生きることばかりやっているから突然死がやってきたら「困った。どうしよう。着ていくものがないわ」となるのです。どうぞ、前もってきちっと、第一にすべきことを第一にしておけば、すべきことの基本といいますか、これは欠くことができないという大切なことをまず第一にしておけば、後はおのずから整っていく。

このときもそうなのです。「主にそむいてはなりません」。まずもって、神様を第一にしていく。これが彼らに一番大切なことだったのです。「乳と蜜の流れる」ような生活の良いこと、条件が整うこと、楽な生活ができることを望んだかもしれない。しかし、何を望むにしてもいちばん最初に求めるべきことは「主にそむいてはなりません」と、神様のお言葉を信じることでしょう。イスラエルの民に「カナンの地をあなたに与える」と神様が約束なさった。だから、あなたがたを導いてカナンの地、乳と蜜の流れる地、あなたがたの安息の地へ入れてあげようというのが、神様の約束です。そして、その約束に基づいて今このヨルダン川のほとりまで来ているわけです。さぁ、そこで何が大切か? 確かに聞くおとずれ、見える事柄はあるけれども、まず第一にすべきことは「主にそむいてはなりません」。私たちはいつもこのお言葉を心に、自分に向かって「主にそむいてはなりません」とささやいてください。今、主が私に求めていることは何だろう。「主にそむいてはなりません」、主が私に期待していらっしゃる、求めていらっしゃる、願っていらっしゃることはなんでしょうかと、そこにいつも心を向けていくことです。これを第一にすれば、次に何をすべきか、また神様はどのような事を導いてくださるかが見えてくるのです。今、私は神様に従っているだろうか、あるいは神様のお言葉から離れて主に背いているのではないだろうか。

その後に「またその地の民を恐れてはなりません」。そこにはいろいろな人が住んでいるに違いない。それはそのとおり、ところがそうだけれども、神様が「良し」とおっしゃるならば、神様が「行け」と言われるのでしたら、神様は決してへまな事をなさるはずがない。そこまで神様を信頼する、トコトン神様に自分を委ねていく。その大切なことをまず第一にすることです。そうすると、後の事は神様が万事万端やってくださる。そこにありますように「彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます」とあります。誰が取り除く、おれたちには力がないではないかと。そうです、神様がなさるから。では神様はどのようにしてくださるのか、ちゃんと予定表を出してください、神様、ちゃんと計画表を見せてくださいと、私どもは言いたいのですが、それは神様の中にあるのですから、神様を信頼することが大切です。だから「彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます」。どのように? 確かにそうですね。この後、40年ぐらい残念ながらイスラエルの民はカナンの地へ入られませんでした。40年たった後、ヨシュアに導かれた民がカナンに入ったとき、神様は誠に不思議なことをなさいました。エリコの城にぶち当たったときも、神様は神の軍勢の将を、神様の軍隊が彼らを守って、実にこっけいなほどの作戦をもって神様は彼らに力を与えて、一気にエリコの町をつぶしてしまわれた。

そのようなことが分かっていれば信じるのにと、神様は前もって言ってくれれば……と。ところが、信頼するとは、知らなくて信じるのです。事柄が分かったから信じるのは、相手を信頼したことにはなりません。その事柄を信じただけのことです。だから、事柄が何であれ、神様は愛である、主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。朝ごとに神様が、限りない愛をもって私たちを愛してくださる。神様が備えてくださることに、どのようなことも間違いはない。必ず神様は、私には分からないけれども、その方法や方策、あるいは道筋がどこにあるか分からないけれども、神様は必ずそのことをしてくださる、結果を与えてくださると、神様を信じていくことです。

だから、9節に「主がわたしたちと共におられますから」と、神様が私たちと一緒にいてくださって、共に行ってくださる、共にそこで戦ってくださる。その神様は必ず道を開き給う御方ですから、まず神様の前に「主にそむいてはなりません」。ところが10節に「ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした」。確かに彼らにとってみたら、のっぴきならない事態です。右にするか左にするか、そのとき、自分たちはひょっとしたら命を失うかもしれない。私たちは自分を捨てて掛からなければ、神様を信頼できません。イスラエルの民が自分たちの命を惜しんで、自分たちの今の状態をこれ以上悪くしないようにしがみついてしまうから、神様に信頼できない。私たちも同じではないでしょうか。今ある自分を変えたくない、今ある生活はこのままでおりたい、あるいは自分の持っているものは失いたくない、命は失いたくない。だから、できるだけ自分を持って、それでなおかつ神様に、という、それはできない。まず、自分を捨てて、神様がなさるのでしたらどんな事でも従いますと、白紙委任をしなければ駄目ですよ。私たちはいつも条件付きで神様にお願いする。「こうしてくださればいいけれども、こうしてくださらなければ、結構です」と、何か、そのような条件を付けて神様を信頼しようとするかぎり、私たちは力を得ることはできません。だから、私たちがすべきことは「主にそむいてはなりません」。

イザヤ書40章3節から5節までを朗読。

3節に「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」。ここに「荒野」「さばく」というのは、私たちの人生の中、日々の生活の中で誠に困難なこと、つらいこと、喜べないこと、感謝できない事態や事柄に出会います。まさにそこが荒野であり、砂漠なのです。そもそも「荒野」「さばく」という、ゴビ砂漠であるとか、あるいはサハラ砂漠とか、「荒野」という所は実際見たことはありませんが、恐らく草木も生えないごつごつした岩だらけの荒地であろうと思います。そのような所に人が来るわけがない。そのような所にハイウェーを造る人はいません。日本でも高速道路を造るとき、採算性、利用者がいるかどうか、まず需要を計ってこれなら大丈夫という所に高価な道を造りますが、荒野や砂漠にまっすぐな道を造るなんて、そんな馬鹿げたことをするはずがない、これが常識、人の考えです。ところが、神様がおっしゃるには、その「荒野」「さばく」にきちっと道を備えなさい。ただ、この道は何の道かと言うと、「主の道」、われわれの神のために「大路をまっすぐに」する。これは言い換えますと、道と言いましても、これは私たちの神様に対する姿勢、信仰のあり方です。まず第一に神様を畏れ敬う、この事をきちっと整えること、問題や悩み悲しみ苦しみに遭うときに、すぐその事柄や事態を早く何とか解決し、早くこの事に手を打たなければ事が終わらない。ひどくなるかもしれない、どのようになるか分からない。いろいろな思い煩いがワーッとわいてくる。そのときに何をするか。つい走り回って、あちらこちらにいろいろな人を訪ねたり、事をしようとするのではなくて「大路をまっすぐに」、主の道を備える。まず、私たちは神様を第一に「主にそむいてはなりません」。神様に従う道を、きちっと思いを整え、心を定めていくことです。

そうすると、4節に「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる」。失望落胆の深い谷も埋められて平地となり、越えがたい、解決が不可能、絶望的に見える大きな問題も、それは神様の手によって崩されて、平らかな地に変わる。高低のある地もまっ平らな平地となると。それは神様がなさる。私たちがすることは何かと、「荒野」「さばく」にまず大路を備え、まっすぐな主の道を整えていくこと。先ほどのイスラエルの民に、「主にそむいてはなりません」と言われるのは、まさにそこなのです。彼らが今直面している問題はカナンに行くべきか、エジプトに戻るべきか、誠に困難な問題に立ち向かう。さぁ、どうするか、そのときまずすべきことは、「荒野に主の道を備え、さばくに」、希望のないように見える、カナンの地は巨人たちが住んでいて、自分たちはまるでイナゴのように見える。出て行ったって必ずやられてしまうに違いない。まさにそれは「荒野」の事態。あるいは「さばく」のような事態でしょう。しかし、その中にあって、主に道を、またわれわれの神のために「大路をまっすぐに」「主にそむいてはなりません」。ここで主を主とし、神を神として、神様の前に自分を低くしていくこと。これがまずすべき一番大切な基本です。それを整えさえすれば、そのあとに4節にありますように、山も谷も高低のある地も神様は、ことごとくそれをまっ平らにしてしまう。

何のためになさるのかと言うなら、5節に「こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る」。それは信頼する者を通して神様がご自分の栄光を現し、神が神たることを証詞するためでしょう。私たちがこうやって救いに召されたのもそのためです。私たちは小さく弱く取るに足らない者です。何一つどこを取っても良いところはありません。しかし、だからこそ神様は私たちをして、その弱い所に神様の力が現れて、神様の栄光を現す者と変わっていく。もし、イスラエルの民が力ある軍隊を従えて、あるいは彼らを援助する大国がバックに控えて、そして乗り込んで行ってカナンの地を平定するのでしたら、どこに神様の働く場所があるでしょうか。まさに、神様らしいことをなそうとしてくださるのです。そのためのイスラエル、そのための私たちです。だから、私たちがすべきことは主に道を備え、神のため大路をまっすぐに整えていくこと。これをまずすれば、後は神様の手に握られて導かれるところに従うと、決してへまなことにはならない、失敗することはないのです。

民数記14章9節に「ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます」。誠に神様は「恐れてはならない」とおっしゃいます。私たちは見えるところ、聞くところ、いろいろな事柄によって恐れを抱きますが、神様はわれらと共にいらっしゃる。「主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。私たちも大胆にこの神様に信頼しましょう。私には知恵も力もない、何もない。しかし、神様は問題を与えて、こんな者を通してご自身の栄光を現し、力を現そうとしてくださる。だからパウロは「自分の弱さを誇ろう」(Ⅱコリント 12:9)と言っています。なぜならば「弱い所にキリストの力が完全にあらわれるからだ」。神様は私たちのうちに宿って、ご自身の力を現して、神の栄光をお取りになるためです。もちろん、その結果、私たちもまた、大きな天来の喜びに満たされることができます。そのために私たちは絶えず「主にそむいてはなりません」と、神様にきちっと心を向けて、神様を信頼する姿勢を絶えず自分自身の内に点検して、それを第一にしていきさえすれば、後のことはきちんと神様のほうが手立てを取ってくださる。思いもかけない、考えもしない、神様でなければできない道筋を備えてくださる。

 どうぞ、「ただ、主にそむいてはなりません」と、このお言葉を心に抱いて、今、私は主に従っているだろうか、絶えず自分自身を点検して、もし主に背いているところがあるならば、そこを悔い改めて、信仰を整えて、死人を生かし、無から有を呼び出す神を信じたとアブラハムのような信仰に立ち、主に一切をささげていきたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。