ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

2011年3月13日の記録:仙台市太白区長町

2018-01-15 12:01:13 | 東北被災地の歩み:仙台

3月13日 晴れ 仙台市内は日中暖かく過ごしやすい。


仙台市内の電気復旧は一部だけ。

まだ停電の地区があり、テレビやネットが使えない場所も多いようだ。

我が家は、昨夜の電気の復旧で炊飯器が使える。

ただし、車は燃料が乗り僅か。使えるのは一度きりだろう。

 

夫の実家が気になるので、おにぎりを作って持たせ、お湯とインスタント味噌汁もつけて、最後の燃料で車を出し、夫に様子を見に行かせた。



入ってくる情報は、被害情報が一番早くて多い。

だが、自宅で待機している人も多く、どこでどんな対応をしているか、生活に必要な情報が一番ありがたい。

本日の新聞も、生活情報関連が出ていて助かった。



充電場所も情報交換の場になっているが、張り紙も有効ではないかと思った。


人が集まりやすいのは、大型店やコンビニ、公衆電話。

だから、そうした所や店などに張り紙をして、給水場所、充電場所、病院などの生活関連の情報を提供すると良いのではないかと思った。



幸い被害が少なく、何とか生活している人にとって、備蓄の日用品が不足してきたらどうしたらよいか、被害の大きさを実感するたびに不安が増すだろう。


現地の無事だった人が、協力しあって復興に向かう力は大事。

そのために、こうした不安も少なくしたいものだ。



余震、今も続いているが、それでも世の中は動いている。

「まるげん」は、生鮮食品なので昨日売り切って今日は閉店。

品の入荷搬入が大変らしい。


あすと長町のヨークベニマルは、内部の破損が見える。

今日も閉店しており、望みをかけて来た人が十数名、あきらめて自動販売機のみを利用して帰る姿があった。


長町駅と太子堂駅の間では、地震の時に途中で止まった列車が、そのままそこにある。


2011年3月12日の記録:仙台市太白区長町

2018-01-15 11:28:00 | 東北被災地の歩み:仙台

 2011年3月12日 晴れ


日中、外に出て長町周辺を歩いてみる。

長町駅と太子堂駅の間で、貨物と4両客車の列車が停車。

駅は封鎖状態。

「あすと長町」の大通りを通った時、東の空に黒煙が、雲のようになって長くたなびいているのが見えた。


「たいはっくる」(長町駅前の太白区図書館・会議室・店舗などの複合施設)は、外壁のはがれや歩道の継ぎ目などが破損、少し段差が出来ている。
 

長町南付近も、歩道に起伏が出ていた。

長町付近で唯一、「まるげん」が営業し、青果を買う人の列が出来る。

数少ない公衆電話の前に、並ぶ人の姿もある。


 

新しい地区である「あすと長町」は、水道や道路も特に問題ない模様。

電気も12日の夜7:20頃に復旧した。


都市ガスや水道より、電気の復旧が一番早い。

うちはたまたま断水せず、助かった。



パソコンや携帯電話の充電はできたが、携帯電話はまだ繋がらない。

インターネットは使えた。

だが、節電のため、パソコン利用も短時間にし、使用を控える。




食料備蓄、カセットコンロ、ろくそく役立った。

電池の必要性を痛感。

 

充電池、リモコンなどの電池を集めて使用。

ラジオや懐中電灯と、普段使うリモコンなどと使用電池が同じだと助かる。



歴史的な大地震を、経験してしまったのだとしみじみ思う。


明くる朝 黒煙の雲 忘られぬ:2011年3月12日の記録

2018-01-14 15:50:36 | 東北被災地の歩み:仙台

震災の夜は、あまりよく眠れなかった。

まだ暗い中、玄関からゴトリと音がして新聞が届いたのを知り、びっくりしつつもありがたかった。

そして、朝焼けの空を見て、その明るさがどれほど嬉しかったことか。


その日は、あちこち歩いて、町の様子を見て回った。

あすと長町を通りかかったとき、東の空に大きな黒煙が上がっていたのが見えた。


津波で破壊され、そのせいで大火災も起き、沿岸部の町は大切な物も大切な命も、たくさん失われた。


その黒煙が、まるで雲のようになって東の空にたなびいている。

切なかった。


あの日見た空は、生涯忘れられない。


2011年3月11日の記憶②

2018-01-14 15:42:44 | 東北被災地の歩み:仙台

ロウソクを灯してラジオを聴き、「大変なことが起こった、明日はどうなるか」という思いで過ごした夜。

小雪の舞う寒さで、重ね着して布団に包まる。


その日、連れ合いは仕事で名取市にいた。

閖上方向の道に出ると、逆走してくる車に出会い、その先が通行止めになっていることに気が付き、引き返したという。

津波が閖上を襲った後だった。


その頃こちらでは、連れ合いは帰ってこないかもしれないと思いながら、非常時の生活準備をしていた。

だが、予想外にも夕刻に帰ってきたのでびっくりした。

来るなり、すぐに厠へ急ぐ。

何しろ渋滞で、普通は車で30分で来られる道を、3時間かかって帰って来たという。


夕餉は昼の残り飯を使い、手早く、体の温まるものをと作ったのが雑炊だった。


夜、ラジオをずっと聴いていた。

津波や被害の大きさが繰り返し伝えられて気が滅入る。

あれこれ選局していたら、合間に音楽を流す放送局があった。ほっとした。


2011年3月11日の記憶①

2018-01-14 15:23:51 | 東北被災地の歩み:仙台

仙台駅から南へ進むと、長町駅、太子堂駅と続いている。

当時、太子堂駅のそばに住んでいた。

 

この地区は再開発地域で、周辺には空き地も多かったが、平坦で広い道路、新しいスーパーマーケットや移転再建した店が沿線にあり、大変便利であった。


3月に入ると、なぜかやたらと胸がざわつき、春だからとか、野球開幕が楽しみなせいだとか言っていた。

これが胸騒ぎというものだったとは、その時は思いもしなかった。

 

2011年3月11日も、普段と同じように一日が始まった。


晴れて暖かい午前中だったが、天気予報では午後に急転、寒くなるとの予報だった。

普段なら、思い立っても午後に買い物に行くが、何となくその日は午前中に済ませた。


掃除も洗濯も済ませ、昼からのんびりとしていた。

午後3時まであと十数分。

静かな住宅地の一軒、居間にいた自分の耳には、ブーンと妙な音が聞こえた。


トレーラーなど大型車の音が、屋内では低くブーンと伝わるが、そんな音だった。

近くで工事でも始まるのかと思いながら、窓の外を見た。

何もない。


すると、今度は背後から、台所に並ぶ瓶がカタカタと音を立てた。

あっと思った瞬間、ズシンと家中が鳴った。

いそいで居間の真ん中に座るが、地震だと気づいた時、今までにない揺れが来ていた。


起震車のような揺れ、それが現実に起こっている。

冷蔵庫と棚が、そのまま横にずれ動いていく。


長い。1分以上続くとは。

さすがに、不安や焦りを感じた。


ようやく揺れが弱まり、外を見ると周辺に火災はない。

家の中を確認する。電気とガスは止まったが、幸運にもこの地域は水道が使えた。

後で水も止まるかもしれないと、備蓄飲料水はあるが、一応、やかんと浴槽に水を溜めた。


収納の扉をそっと開けると、案の定、棚の本が扉側に寄っていて落ちてきた。直ぐに戻す。

食器棚では、扉を開けると一番軽い茶碗だけが隙間に落ちて割れていた。

片付けている最中に大きな余震で、「いつまで揺れるんだ」と思わず叫んだ。


さっさと片付け、明るいうちに必要な物を居間に運び込む。

余震の中で歌いながら、ラジオ、カセットコンロ、カンテラ、ろうそく、布団、防寒着などを用意。

非常時生活の準備をし、ひと息ついた。


お茶と菓子を口にする。これからどうなることか。頑張らねば。

この揺れ、津波、海側は大丈夫だろうか。

窓の外は、雪がちらつきはじめた。