☆・☆・☆富貴屋倶楽部☆

高齢者の目から見た、身の回りの出来事を、
そこはかとなく書き連ねました。

高田和明 『三陸旅情』よ 再び

2021年10月29日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
※高田 和明『三陸旅情』


※高田和明 『三陸旅情』
1980年代の三陸鉄道開業を記念して
歌詞に沿線の名勝地を取り入れて再レコーディング。


●三陸海岸は、東北地方の太平洋側、青森県南東端から岩手県沿岸部を経て宮城県の牡鹿半島までの海岸の総称。
総延長600km余り。
日本有数のリアス式海岸で、観光および世界三大漁場「三陸沖」などでの漁業が主要産業となっている。
●震災前の三陸沿岸(読み込みにチョット時間がかかります)


DiamondsM37's channelを使用させていただいています。
(2011/04/14 にアップロード
今から1年7ヶ月ほど前、友人と三陸海岸を旅しその美しい景観を映像に収めました。2­011年3月11日の午後、この全てが一瞬にして消えてしまいました。)
とコメントが付記してあります。

●震災後も祭りを大切な事として再開し、復興への気力・団結を盛り上げています。



●本州で最も東に位置している重茂(オモエ)半島にある 魹ヶ埼(とどがさき)灯台
映画「喜びも悲しみも幾年月」のゆかりの灯台としても有名
 
●高田松原(たかたまつばら)
日本の岩手県陸前高田市高田町の海岸に設けられた江戸時代以来の防潮林であり、
白砂青松の景勝地であった。
2kmにわたって続く弓なりの砂浜に松林が形成されていた。
 その砂浜は、西進して広田湾(ひろたわん)で太平洋に注ぐ気仙川(けせんがわ)が形作ったものである。
背後には氷上山(ひかみさん、標高874m)が聳える。

 2枚の写真の上の写真は震災前。松原が景観をなし、海には多くの 養殖イカダ が浮かぶ。
       下の写真は震災後。7万本も植えられていた松原は消えた・・・。
 ●震災前に7万本あった松並木も  1本だけ奇跡的に残った松(震災直後で茂っていますが、枯れたので、復元)    
(復元された一本松・リアルに枯れた様子で復元)だけになりました。                                               
●東日本大震災被災地復興への願いを込めて、国内自動車メーカー14社が製作した10分の1サイズの「希望の一本松」
         
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◆ 岩手県『三陸旅情』よ 再び

2021年10月03日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震

●「三陸旅情」 (ビクター) 歌 高田 和明
             荒川利夫作詞・水島正和作曲・竜崎孝路編曲




高田和明 『三陸旅情』




 今は、震災の甚大さに、政府も後手後手でもどかしいですが、必ず「三陸旅情」の歌詞にある♪こんなきれいなふるさと持った♪と誇れる復興が実現できると確信します。

●三陸海岸(さんりくかいがん)は、東北地方の太平洋側、青森県南東端から岩手県沿岸部を経て宮城県の牡鹿半島までの海岸の総称。
総延長600km余り。
日本有数のリアス式海岸で、観光および世界三大漁場「三陸沖」などでの漁業が主要産業となっている。

●震災前の三陸沿岸(読み込みにチョット時間がかかります)


DiamondsM37's channelを使用させていただいています。
(2011/04/14 にアップロード
今から1年7ヶ月ほど前、友人と三陸海岸を旅しその美しい景観を映像に収めました。2­011年3月11日の午後、この全てが一瞬にして消えてしまいました。)
とコメントが付記してあります。

●震災後も祭りを大切な事として再開し、復興への気力・団結を盛り上げています。




●本州で最も東に位置している重茂半島(オモエハントウ)にあるトド(魚偏に毛)ヶ埼灯台
東経142度4分21秒・北緯39度32分48秒
映画「喜びも悲しみも幾年月」のゆかりの灯台としても有名
 

●高田松原(たかたまつばら)
日本の岩手県陸前高田市高田町の海岸に設けられた江戸時代以来の防潮林であり、
白砂青松の景勝地であった。
2kmにわたって続く弓なりの砂浜に松林が形成されていた。
 その砂浜は、西進して広田湾(ひろたわん)で太平洋に注ぐ気仙川(けせんがわ)が形作ったものである。
背後には氷上山(ひかみさん、標高874m)が聳える。



 2枚の写真の上の写真は震災前。松原が景観をなし、海には多くの 養殖イカダ が浮かぶ。
       下の写真は震災後。7万本も植えられていた松原は消えた・・・。
 
●震災前に7万本あった松並木も      1本だけ奇跡的に残った松    (復元された一本松)だけになりました。
              
●東日本大震災被災地復興への願いを込めて、国内自動車メーカー14社が製作した10分の1サイズの「希望の一本松」
         

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◆ 驚きました! 岩手県陸前高田市 復興10年目の姿が 凄いです!

2021年09月25日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
岩手県陸前高田市 復興10年目の姿 Vol.1 ~まちづくりの軌跡をたどる~

 ユーチューブですので、画面を タップ あるいは クリック して ご覧下さい。
岩手県陸前高田市 復興10年目の姿 Vol.2 ~高田地区・今泉地区~


東日本大震災から10年・復興と課題/現地写真レポート(文・写真:山村武彦氏)

https://bo-sai.co.jp/10nen.html(クリックで上記の 筆者山村武彦氏の貴重な記事・写真が見れます)
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◆ 保存版写真集・「未来へ伝えたい 陸前高田」~おらぁやっぱりここがいい~のご紹介

2011年12月15日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震

           おらぁやっぱりこごがいい
           大津波で全部なぐなっても
           地震でぼっこっされでも
           やっぱこの街が好ぎだ
           やっぱこごに居だい
           こごぁ一番だ
           二度と同じけしぎぁ見れねぁども
           二度と同じ建物ぁただねぁべども
           おらどの目にぁしっかり焼ぎついでいる
           わっせるごどねぁ あの景色
           おらどの街
           やっぱりこごがいい

※この詩は出版元の「タクミ印刷有限会社」の 社長さんが
書かれたものです。
 岩手弁で書かれてるだけに、音読すると思いがより強く伝わります。
「タクミ印刷有限会社」タウンページ記載一冊1500円です。
被災前の街並み、写真集に・・・
※この写真集は、夫は出席できませんでしたが、予定していた還暦祝いを急遽、今回の大震災で命を落とされた「同級生を偲ぶ会」として開かれた「昭和41年度卒気仙中学校学年同窓会」から送ってきたものです。
※全96ページのA4判で、
◎最初の51ページは「思い出の陸前高田」で、
「おらどの目にぁしっかり焼ぎついでいる わっせるごどねぁあの景色   おらどの街」が、
・高田松原 ・古川沼 ・第一球場 ・氷上山からの眺望 ・広田湾 ・45号バイパス沿い
・高田町の街並 ・今泉 ・米崎町 ・小友町 ・広田の漁港 海水浴場
・高田高校 旧広田水産高校 ・今泉保育所 気仙小学校 気仙中学校
・高田小学校 小友小学校 広田中学校 小友中学校 ・陸前高田駅 竹駒駅 ・脇ノ沢駅 小友駅 ・行事イベント ・高田町うごく七夕 ・気仙町けんか七夕 ・高田町五年祭
・気仙町今泉五年祭 ・懐かしのイベント と
美しい写真で紹介されています。
◎次の見開きは「3月12日の朝」で
 地震と大津波が過ぎ去った翌朝の「変わり果てた街」のシルエット。
◎次の見開きは「2011.3.11 15:28」で
 必死に津波に耐える高田松原の松を超えて、気仙川を遡り建物をなぎ倒す津波
◎次の見開きは「津波」で
 分毎に街を襲う津波の猛威。
◎次の見開きは「2011.3.11 15:28:32」
 高田松原の松が・・・踏ん張って立っているのは4.5本・・・
 街を飲み込む津波。
◎次の見開きは「津波」で
 最大の津波が「異様な匂いと煙」を巻き起こしながら街を襲う。
 誰かがつぶやく「高田は終わりだ・・・・」
◎次の見開きは「2011.3.11 15:40:50」
 ・・・・・・・・・言葉もない・・・。
◎次の10ページは空撮での「被災後の陸前高田」
 一ヶ月半後の陸前高田の各地区・・・
◎次の8ページは「震災後の変わり果てた風景」
 いたる所に大量のガレキが・・・。
◎次の14ページは「被災前の風景」と「被災後の風景」
見比べて見ながら、ここに暮らしていた人々のことが思われました。
◎最後は「発刊にあたり」
 震災で このタクミ印刷有限会社も被災し、撮り続けてきた写真データも
 全て流出したものの、再開して3か月が過ぎた頃、W様が沢山の写真を
 持参してくれ、「被災前は当たり前だった様々な場所の写真を見て涙が
 溢れ」「この風景を歴史の中に残しておきたい・・・という思いが強くなり
 この写真集の製作がスタート」したのだそうです。
そして「これを機に私たちも気仙復興と、やっぱりここがいいと自慢できる街づくりを目指して微力ながら努力していきたいと思います。」と決意で締めくくってあります。
 この写真集に目を通す人達にも、気仙復興の決意がみなぎることと思います。 、

 
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◆ 原発放射線廃棄物、廃棄・リサイクル の怖さ。

2011年11月02日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
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◆ リスボンは、256年前に15m.の津波を伴う「リスボン地震」から 立派に復興している! 

2011年10月07日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
    ・イラストはA・ゴッドベイ「世界史のなかの大災害と恐怖」より
三菱総合研究所理事長(前・東京大学総長)の小宮山宏氏の記事で「リスボン地震」を初めて知りました。
1755年に西ヨーロッパで発生した津波を伴う大地震で、ポルトガルのリスボンで大きな被害を出したことから「リスボン地震」と呼ばれるそうです。
●ウィキペディア『1755年リスボン地震』より一部引用しますと、
『11月1日はカトリックの祭日(諸聖人の日)であった。
当時の記録では、揺れは3分半続いたというものや、6分続いたというものもある。
リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、多くの建物(85%とも言われる)が崩れ落ちた。
生き残ったリスボン市民は港のドックなどの空き地に殺到したが、やがて海水が引いてゆき(引き波)、海に落ちた貨物や沈んでいた難破船が次々にあらわになった。
地震から約40分後、逆に津波(押し波)が押し寄せ、海水の水位はどんどん上がって港や市街地を飲み込み、テージョ川を遡った。
15mの津波はさらに2回市街地に押し寄せ、避難していた市民を飲み込んだ。
津波に飲まれなかった市街地では火の手が上がり、その後5日間にわたってリスボンを焼き尽くした。
当時リスボンは27万5千人の人口を数えたが、最大で9万人が死亡した。
リスボンの建物の85%は破壊され、宮殿や図書館、16世紀の独特のマヌエル様式の建築も失われた。
地震の揺れで壊れなかった建物や被害が少なかった建物も、火災で焼失した。
ヴァスコ・ダ・ガマら大航海時代初期の航海者たちが残した詳細な記録も王立文書館の建物と運命を共にした。
 津波が押し寄せる前、動物たちが高い土地へ逃げたという言い伝えがある。
これは震災に伴う動物の異常行動がヨーロッパで最初に記録されたものである。』
 とあります。
又、『これによりポルトガル経済は打撃を受け、海外植民地への依存度を増した。
ポルトガルでは国内の政治的緊張が高まるとともに、それまでの海外植民地拡大の勢いはそがれることとなった。』
 ともあります。
●しかし、復興に関して、今の日本の政治家達の、展望もない揚げ足取りの状況と大きく異なることがあります。
ウィキペディアによると、

『 宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)は王室同様に地震を生きのびた。
彼は地震直後「さあ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる。
彼は、後年ポルトガルに君臨した時と同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建に取りかかった。
彼は消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理せよと軍隊に命令した。
教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。
廃墟の町に無秩序が広がるのを防ぐため、特に略奪を防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、30人以上の人々が処刑された。
軍隊は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。
 震災から間もなく、宰相と王は建築家や技師を雇い、1年以内にリスボンから廃墟は消え、至るところが建築現場になった。
王は新しいリスボンを、完璧に秩序だった街にすることにこだわった。
大きな広場と直線状の広い街路が新しいリスボンのモットーとなった。
今では「麗しのリスボン」という。
当時、こんな広い通りが本当に必要なのかと宰相に尋ねた者もいたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答えた(現在のリスボンの交通混雑は、彼の知恵が現実になったことを示している)。
 当時、宰相の指揮下で建てられた「ポンバル様式建築」
は、世界最初の耐震建築でもある。まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられた。
こうしてリスボンの新しいダウンタウン、通称「バイシャ・ポンバリーナ」(ポンバルの下町)が作られ、新興階級であるブルジョアジーが都市中心部に進出していった。
アルガルヴェ地方のスペイン国境付近にあるヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオなど、ポンバル侯爵のリスボン都市計画を応用して再建された都市はポルトガル各地にある。』
●復興で宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)が指揮した町並み「麗しのリスボン」の動画です。
2分頃から、直線の町筋・広場と、美しくて頑丈なボンバル様式の建物を見ることが出来ます。

             

●256年も前に、リスボンで成し得た事を、なんで日本は成し得ないのでしょう?
国会議員の方々、「烏合の衆」でない証拠に、与野党のシガラミを取り去り、「鳩首凝議」で、一日も早く復興の目途をつけて下さい。
被災者の方々の将来への不安・悩み・苦しみを取り除いてください。
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◆ 『光合成細菌』で放射能浄化!!!乳酸菌で免疫力アップ!

2011年09月14日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
★広島国際学院大学工学部ENG Life blogより「微生物による放射性物質の除去」★
★飯山一郎氏の『光合成細菌』で放射能浄化!★
読んでみて、放射能浄化方法や、こんな考え方、実践方法もあるんだ、と驚きました。
実行できる事は、試してみたいと思いましたし、乳酸菌は以前にも耳にしたことがあり、心がけて摂るようにしています。
何かを実践して、ストレスが軽減されることも アリ かなと、気は心ですが乳酸菌は摂り続けたいと思っています。
●飯山一郎氏の記事の一部をご紹介します。
1)◆2011/03/21(月) 平成の『関東軍』
栃木は,私の故郷(ふるさと)だ.
私は栃木で生まれ,栃木で育った.
実際に野ウサギを追い,小ブナどころか,鮎も,鱒も,シャケまで釣った鬼怒川…,
その鬼怒川と利根川の両側に茫々と広がる関東平野.…想い出深き関東平野.
今回,その関東平野が,放射能で汚染されてしまった.
農作物からも,地下水からも,放射能が検出されてしまった.
鬼怒川の伏流水,あのミネラルたっぷりの地下水が汚染されてしまった.
ショックだった.分かっていたことなのに,覚悟していたはずなのに…,
私は,茫然自失のあまり,寝こんでしまった.
爆睡8時間!
深い眠りは,疲れとストレスを吹き飛ばす.悩みも軽減する.
ヤル気が出てくる.実際に,猛然たる闘牛のような闘争心が湧出している.
私は闘う! 猪突のように猛進し,闘牛のように突き進む!

憎き敵は,放射能だ.私は,放射能と闘う!
放射能地獄に仏(ほとけ).不幸中の幸い.私には強力な武器がある.
放射能でさえエネルギー源として利用する『光合成細菌』という武器がある.
『光合成細菌』に活力(ビタミン・ミネラル・乳酸)を与える『乳酸菌』も大量にある.
この『乳酸菌』と『光合成細菌』のコンビが,放射能を無力化する!

約40億年前.地球上に生命が誕生した.その頃の地球は“地獄”だった.
地球の表面温度は200℃以上,原始大気に酸素はなく,硫化水素と炭酸ガスが
充満していた.
空からは,強烈な放射線と紫外線が降り注いでいて…,“地獄”だった.
この“地獄”のなかで,地球最初の原始生命体は,誕生したのだ.
そして…,
この原始生命体のエネルギー源は,なんと!放射線や紫外線だった.

放射線や紫外線をエネルギー源として摂取する原始生命体=微生物の子孫こそ,
私が,いま,可愛がって育てている大量の『光合成細菌』なのである.
この大量の『光合成細菌』を使って,私は,関東平野の放射能を浄化する!

私は,いま,闘いの準備を始めている.
私が愛する関東平野で,私がどんな闘いをするか?
毎日,暇を見つけては書いてゆく.これは,笑読ではなく熟読して欲しい.
熟読して,「よし,オレも手伝う!」と思うヒトは,是非 “隊員” になって欲しい.
『関東平野浄化作戦 光合成細菌活用部隊(軍)』.略称:『関東軍』の隊員だ.

2)◆2011/04/21(木) 免疫力:放射能を浄化する! 
いま,日本人にとって最も必要な情報は何か?
それは…,
放射能が降る街に住みながらも,一人一人がしぶとく生き残っていく生き方!
つまり,「放射能に勝つための生活情報=サバイバル技術」です.
できるなら,放射能が降りつづく街になど住みたくない!
こんな街から出ていきたい! 遠く西のほうに逃げていきたい!
しかし…,
放射能が降る街を去ることが出来ない….

関東平野にも,日本の首都・東京にも,濃密な放射能が降り注ぎ,舞い散る…,
こんな見たこともない,考えたこともない悪夢が現実になってしまった今…,
私たちは,いったい,どう生きていったらいいのか?

放射能にも負けずガンにも負けぬ丈夫な体をつくるには,どうしたらいいのか?
この答をさぐるために,先ず私たちは,ガンの発生機序を勉強してきました.
ガンの発生機序とは,正常細胞がガン細胞に変化する仕組みのことです.
放射線=電磁粒子(鉄砲玉)が,テロメア=遺伝子を破壊するからガンになる….
このテロメア破壊がガンの原因だということは,私達の“常識”になりました.
この“常識”がまだ分からないヒトは,このあたりに戻って,読みなおして下さい.
命にかかわる問題なんですから!

いよいよ本題に入ります.
ガンにならない方法.ガンになっても,ガンを消滅させる方法です.
結論から言います.
免疫力を高めればガンにはなりませんし,できてしまったガンも消滅します.
では,免疫力とは何か?
免疫力とは,元気で丈夫な白血球のことです.
とくにマクロファージと呼ばれる白血球が元気なら,ガンにはなりません.
じゃあ,マクロファージを元気にするためにはどうしたらいいか?
答を言います.
乳酸菌です.乳酸菌.
大切なことなので,2回言いました.   \( 乳酸菌だぞ!)/
●参考
★東京電力による福島第一原発ライブカメラ映像★
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◆ 東海・東南海・南海の三つの地震が発生したら、熊本も震度5!

2011年09月02日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
昨夜のNHKスペシャル(動画)巨大津波が都市を襲う~東海・東南海・南海地震~を見て、ぞ~っとしました。
遠くの事で、他人事のように思っていましたが、放送によると、広範囲で地震があり、熊本も震度5に襲われる事が分かりました。
熊本での最近というか私の記憶の範囲では、震度3までの記憶しかありません。
郡部で震度4というのがありましたが、それでも熊本市内は震度3(最近の表示でなら震度3強でしょうか)。過去に箪笥が揺れて、子供を抱き寄せて、トイレに逃げ込んだ記憶はあります。
民家での震度5強はどんなのかをユーチューブからさがしてみました。


 結構揺れてます!ガタガタという家が揺れる音に加えて、別室からでしょうか、物が割れる音が恐怖を増大します!
狭い我が家はどうしても、上に物を置いています。それらが崩れ落ちる危険があります。
●東海・東南海・南海の三つの地震が発生した場合の想定震源域と想定震度分布図(中央防災会議)

●東南海・南海地震二つの地震が発生した場合の想定震源域と想定震度分布図(中央防災会議)

●原発所在地と50キロ圏

 地震・津波による原発の事故が心配です。
避難先は沖縄か北海道?
お金持ちは日本脱出して海外へ・・・。
最近の報道で、「海外留学が増えた」というのも、わが子を前もって避難させてるからなのではと、思ったりしています。

地震国で、狭い日本、しかもいたる所活断層の恐怖。原発はもともと無理だったと思います。
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 乳児死亡

2011年04月17日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
放射能の恐怖 次々明るみに
原子炉閉鎖で乳児死亡率激減 米研究機関が発表
【ワシントン26日大軒護】放射線の健康に与える影響を調査している米研究機関は26日、原子炉の閉鎖により周辺に住む乳児の死亡率が激減したとの調査結果を発表した。
調査は免疫学や環境問題などを専門とする医師、大学教授などで組織する「レイディエイション・パブリック・ヘルス・プロジェクト」(RPHP)が、1987年から97年までに原子炉を閉鎖した全米7カ所の原子力発電所を対象に、半径80キロメートル以内の居住の生後1歳までの乳児死亡率を調べた。
調査は、原子炉閉鎖前の死亡率と、閉鎖2年後の死亡率を比較しているが、それによると、87年に閉鎖したワイオミング州のラクロッセ発電所では、15.3%の死亡率減少だった。最も減少率の大きかったのが、97年に閉鎖したミシガン州ビッグロック・ポイント発電所周辺で54.1%の減少だった。減少は、がん、白血病、異常出産など、放射線被害とみられる原因が取り除かれたことによるものとしている。
RPHPによると、85年から96年までの全米幼児の死亡率は、平均で6.4%減にとどまっており、「原子炉の影響が実証された」としている。
米国では2003年までに28基の原子炉が、米原子力規制委員会(NRC)へ免許更新申請する時期にきているというが、RPHPによると更新にあたっては周辺の環境問題は考慮されておらず、今後、この問題でNRCへの強い働きかけが必要としている。(東京新聞 2000/04/27)

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◆ 日本郵便って 凄い!震災地・避難所宛ての 手紙 はずーっと届けてくれてた!

2011年04月01日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
被災地への郵便事情は、郵パックは回復が遅れたけど、
避難所宛ての 手紙 は届けてくれてました!

郵パックや、宅急便は3月22日に被災地に届くようになりましたが、
手紙は、被災直後から、道路状況が可能な限り、避難所宛てでも届けてくれています!
日本って 凄い国だと、改めて感動しました。

 以下は 日本郵便 のサイトから。
●お知らせ

東北地方太平洋沖地震による郵便物の送達遅延等およびゆうパック等の引受けの停止について(3/13 17:00現在)
平成23年3月13日

3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震により、郵便物、ゆうパック等につきましては、以下により引受け停止等のお取扱いをさせていただいておりますが、本日、北海道あておよび北海道からの引受けにつきまして、一部サービスの提供が可能となりましたので、お知らせします。
ご利用のお客さまには大変ご迷惑をお掛けしますが、ご理解賜りますようよろしくお願いいたします。

郵便物の送達遅延等
青森県、岩手県、宮城県、福島県および茨城県の太平洋沿岸地域を中心に、車両通行制限、立入り禁止地域、当社施設の被災等により、配達ができない場合が下記配達困難地域内に生じております。
当社としては、このような地域にあっても、郵便が重要な通信手段であることから、避難所等が設けられたところには配達先を調査の上、配達に最大限の努力をいたしますが、引き受けた郵便物をやむを得ずお返しせざるを得ない場合がありますことにご理解を賜りますよう、よろしくお願いいたします。(赤字表記は当方でしたものです。原文は赤字ではありません。)

  ●☆知人の方の避難所が判明したら、励ましのお手紙を!
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◆ プルトニウム測定器?・・・簡易測定法など無い・・・

2011年03月30日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
↑プルト二ウム多重リサイクルPWR型炉の炉心概念 ↑
MOX燃料棒の周りを劣化ウランの燃料棒が取り囲んだシード・ブランケット集合体を採用することにより、核燃料としてプルトニウムを何度もリサイクルできる(多重リサイクル)炉心が実現。

プルトニウム測定器はまだ開発されていないそうです。
平成14年文部科学省の「環境試料中プルトニウム迅速分析法

をザーッと眺めると、迅速には読み終わることができないほど、複雑な過程でようやく数値がでるようです。

 《プルトニウムが発見されてから数年の間、その生物学的・物理的特性はほとんど知られていなかった。
そこで、合衆国政府およびその代理として活動する私的組織によって一連の放射線人体実験が行われた。
第二次世界大戦の間から戦後に渡り、マンハッタン計画やその他の核兵器研究プロジェクトに従事した科学者が、実験動物や人体へのプルトニウムの影響を調べる研究を行った。
 人体に関しては、末期患者あるいは高齢や慢性病のため余命10年未満の入院患者に対し、(典型的には)5µgのプルトニウムを含む溶液を注射することにより実施された。
この注射は、こうした患者のインフォームド・コンセント無しに行われた。
(私見 この考え方の延長上に、ジャップ・日本の広島・長崎への 原爆投下実験があるのでしょう。)》

発見者は、グレン・セオドア・シーボーグ(Glenn Theodore Seaborg、1912年4月19日 - 1999年2月25日 )は、アメリカの化学者、物理学者。
ミシガン州イシュペミング生まれ。
加速器を用いて多くの新元素を発見したことで知られる。
アクチニウムに始まる元素を「アクチノイド系列」と命名し、
この系列に属する元素の大半、すなわちプルトニウム(原子番号94)、
アメリシウ(95)、キュリウム(96)、バークリウム(97)、カリホルニウム(98)、
アインスタイニウム(99)、フェルミウム(100)、メンデレビウム(101)、ノーベリウム(102)の発見に寄与した。

 その他にも、マンハッタン計画に参加し、原子爆弾に用いるプルトニウムの分離に関わった。
シーボーグはプルトニウムの元素記号を決める際、
冗談で元素記号として「糞」を意味する俗語"Poo"に通じる Pu の文字を選んだが、
特に問題にならずに周期表に採用されたとか。
以上ウィキペディアより。
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◆ 福島第一原発、廃炉へ。

2011年03月26日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
「第1原発」廃炉へ 安定化、厳しい状況

 東京電力の小森明生常務は18日、福島市で記者会見し、東日本大震災による原子力事故について県民に謝罪し、重大な事故を引き起こした福島第1原発(大熊、双葉町)の全原子炉6基の廃炉を検討する考えを明らかにした。
 小森常務は「原発事故と放射性物質の漏えいにより、県民にご迷惑をおかけしておわび申し上げる」と謝罪した。震災発生から1週間のあいだ、東電から明確な謝罪がなかった点については「原発を安定化させる対策を優先していた」と釈明した。
 第1原発の今後の安定化の見通しについては「原子炉を冷やすため全力を注ぐが、厳しい状況だ」との見方を示した。
(2011年3月19日 福島民友ニュース)
 


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◆ 気仙沼市の二人の義姉家族、危機一髪だったそうです。

2011年03月24日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
 夫の姉二人の家族は、あの気仙沼市に住んでいますので、
今回の地震・津波・火事と、連絡が取れないまま、心配でテレビに釘付けでしたが、
無事とわかりホッとしたのですが、義兄と従兄弟は、津波で危機一髪だったのだそうです。
 70代の義兄は、車に乗ったまま津波に追いつかれてしまったそうです。
津波に押し流されながらも、中に引き込まれなかった事が幸いしたようです。
車ごと屋根の上に押し上げられて乗っかったままの状態で流されて、助かったそうです。
 50代の従兄弟は、気仙沼の魚市場で津波の来襲を知り、車で家に逃げ帰ろうとしたそうです。
ところが、逃げる人たちでイッパイで思うように、車は進まない。
とっさに、車を乗り捨てて走ったそうです。
自宅の前は汽車の線路で一段高くなっている、そこへ飛び上がって迫る津波から逃れることができたし、自宅も津波から逃れることができたそうです。
コメント (2)
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◆ 地震と津波後の 岩手県陸前高田市気仙町福伏あたりの 空中写真です。

2011年03月21日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震
↓画面が見にくい時は最下段にあるスライダーを利用してご覧ください。↑














       ↓見にくい時は最下段のスライダーでスライドさせてください。
         

         

 実家は 少し高台にあります。
 岩手テレビのホームページの被災・安否情報の名簿で岩手の実家の兄夫婦と長男の嫁(長男は出漁中で沖合いの船にいて無事)の無事をようやく確認できました。
避難してたのは、近くの月山神社の道場でした。
 これで、兄弟姉妹家族だけの無事は全て確認できました。
親戚の安否情報は、まだつかめていません。
名簿がネットでも見れるようになりましたので、順次閲覧していきます。
3月22日追記
携帯電話がつながる様になり、連絡が直接とれました。
あの、地震・津波・大火の気仙沼の姉二人の家も倒壊せず無事。出先の店舗は街中の為焼失。陸前高田気仙町の本家の家も高台の為無事。ただ、陸前高田市高田の3番目の兄の家は津波で破壊、兄嫁は実家に避難して無事。
携帯の情報では、食べ物がなくなってるそうで、カップめん 見たいなのが希望の品だとのこと。缶詰も缶きり同封で宅急便で送ります。
黒猫大和は動き出してるそうです。
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◆ 消防庁 冨岡隊長への妻よりのメール 、「日本の救世主に!」

2011年03月20日 | ▼平成二十三年東北地方太平洋沖地震

 今朝の消防庁の冨岡隊長方の会見に感動しました。
声を詰まらせながら、泣き出すのを必死に抑えながらの一言一言、重みがありました。
こんな熱い気持ちの上司だから、隊員方も、危険承知の作業を、臆することなくやり遂げることができたと思います。
奥様方も、後顧の憂い で作業に支障がでないように、励ましのメールを送っていらっしゃるんですね。

{ニュース >社会 >記事東日本大震災 被曝覚悟の350メートル 消防隊見送る妻「日本の救世主」
2011年3月20日(日)08:00

(産経新聞)
 見えない「敵」との戦いだった。福島第1原発事故で19日未明の放水活動を行った東京消防庁ハイパーレスキューの第1陣が19日夜に帰京。同庁で会見した。廃虚と化した原発内で被曝(ひばく)しながら、ホースを手作業で広げる決死の作業。隊長らは「無事にミッションは達成した」と胸を張る一方、「隊員の家族には心配をかけた」と涙で言葉を詰まらせた。

 ハイパーレスキューの冨岡豊彦総括隊長(47)が、福島第1原発に最初に足を踏み入れたのは18日午後5時ごろ。特殊災害対策車でどのように安全にミッションをこなせるかを探るのが目的だった。

 当初の東京電力側からの情報では、水をくみ上げる海側までは車で近づけるはずだったが、原発内はがれきで埋まり、進入はすぐに阻まれた。

 「ホースを手で広げるしかない」。午後7時半から始まった作戦会議。がれきを避け、海から放水車までホースを延ばすには被曝の危険が増す車外で作業を行うしかないという結論に達するまで4時間かかった。

 海水を1分間に約3トン送り出すホースは太くて重い。ホースの重さは50メートルで約100キロ。それをロープで引っ張り4人がかりで運ぶ。敷設は約350メートルで、足場は悪く、危険な作業だった。作戦の決行は高山幸夫総括隊長(54)ら約40人の隊員に委ねられた。

 「危険度を熟知する隊員の恐怖心は計り知れないが、拒否する者はいなかった」(東京消防庁の佐藤康雄警防部長)。だが、防護服の着用に普段の3倍以上の時間がかかるなど、緊張の色を隠せなかった。

 約20人が車外に出ての作業。車外作業者には、放射線量を測る隊員から危険度を知らせる声がかかった。「常にそばでバックアップしてくれる仲間がいたからこそ達成できた」と高山隊長。作業は約15分で完了し、屈折放水塔車は白煙を上げる3号機に向け、19日午前0時半、放水を開始。20分で約60トンを放水した。

 家族には心配をかけたという思いがある。冨岡隊長は任務に出る前、「必ず帰ってくるから安心しろ」と妻にメールを送った。妻からは「信じて待ってます」と短い返信があった。佐藤部長は妻に福島行きを伝えると、「日本の救世主になってください」と一言書かれたメールが送られてきたという。

 会見で、冨岡隊長は「国民の期待をある程度達成できた。充実感がある」と語る一方、作戦に従事した隊員について「家族には本当に申し訳ない。おわびを申し上げたい」と涙ぐんだ。

 高山隊長は「家に帰ったら家族と酒を飲みながら反省会をしたい」と笑い、佐藤部長は「恐怖心を克服し任務に当たってくれたことに敬服の念を抱いている」と隊員らをねぎらった。}
コメント (2)
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